黒蛇様と契りの贄姫

 花緒が笑いかけると、桜河もまた穏やかに笑い返した。こうして自然に言葉を交わせるようになったのが、少しくすぐったかった。彼との距離が少しずつ縮まっていくようで、胸の奥が柔らかく温まる。

 小箱の中には、二十冊ほどの和綴じ本が平積みに収められていた。本の側面には題名が書かれており、どれも妖力に関するもののようだ。

 花緒が目を凝らしていると、足元に積まれた書物の山に気づかず――

「きゃっ……!」

 とっさに体勢を崩してよろめいた。すぐに桜河が腕を伸ばし、抱きとめようとする。だが勢いのまま二人ともバランスを失い、床に倒れこんだ。桜河は花緒の頭を庇うように手を添え、そのまま彼女の上に覆いかぶさる形になる。

 目を開けた先――息が触れ合いそうな距離に、桜河の端正な顔。

(え……)

 二人の視線がぶつかった瞬間、時が止まったように静かになる。胸の鼓動が、自分でも驚くほど激しく鳴っているのがわかる。桜河に聞こえてしまうのではないかと感じるくらいに。

 桜河は何かを言いかけたが、喉の奥で息を飲み、ただ花緒を見つめた。

 彼への想いを自覚している花緒にとって、この体勢は耐えられたものではない。

(どうしよう、どうしよう、どうしよう……!)

 桜河を押しのけるわけにはいかない。そうかといって、自力で逃れることもできない。ただただ恥ずかしくて、羞恥から顔を赤らめ、瞳が潤んでしまう。

「――っ」

 桜河の表情が苦悶に歪む。まるで何かを耐えているかのように。彼の金の瞳が近づいてくる。伸ばされた手が、そっと花緒の頬のあたりに向かう。

(お、桜河様、なにを……?)

 頭が真っ白になり、思わず花緒は息を詰める。頬も耳も熱くなり、体が固まる。心臓がもう限界だった。あまりにも恥ずかしくて、花緒は目を閉じる。

 彼と心の距離を近づけたい――許されるのなら。彼を受け入れたいと、花緒は桜河に身をゆだねる。そうして目を閉じた花緒が感じたのは、自分の目元にそっと触れる桜河の指先だった。

「……花緒、クマができているな。無理をするな」

 低く穏やかな声。彼の指が花緒の目元をかすめるように離れる。

(……あ、そういうこと……)

 安堵、恥ずかしさ、そしてほんの少しの残念が胸の内で入り混じる。桜河に腰を支えられて、起き上がる。まだ顔の熱は冷めそうにない。

 すぐ傍らにいる桜河の髪の隙間から、ほのかに赤らんだ耳が覗いていた。なんともいえない空気が流れる中、桜河は立ち上がって小箱に目を戻し、そこから二冊の和綴じ本を取り出す。

「ひ、ひとまずこの二冊から読んでみてはどうだろう。これらを終えたら、また新しいものを取りに来よう」

 桜河はいつもとおりの落ち着いた口調で言った――はずなのに、どこか声がわずかに掠れている。花緒も、平静を装いながら手を伸ばす。指先が本の表紙を撫でた瞬間、ほんの少し前に触れた桜河の指の感触が不意に蘇り、胸の奥がきゅっと鳴った。