ツン、と鼻の奥が沁みる感覚がした。花緒は滲んで見える周囲の光景が灯りだけのせいではないと知る。目の前の景色が、もう手の届かない幼い頃の思い出と重なって、一筋の涙が頬を滑り落ちた。
贄姫の痣が現れるまでは、家族で町の縁日に出かける日もあった。まだ小さかった珊瑚と手を繋いで、ふたりでひとつのりんご飴を舐めたり、金魚すくいをして赤くて小さな金魚を持ち帰ったりした。なんの変哲もない、ありふれた家族の情景が、そこにあった。
(あのとき、珊瑚は一匹も金魚が掬えなくて、私のを分けたのよね)
金魚を受け取ったときの珊瑚の嬉しそうな笑顔を、今でも覚えている。夜の提灯に照らされて頬を赤くした珊瑚の喜ぶ姿を見て、自分の胸が熱くなるほどに嬉しかった。
(――小さな私は、ちゃんと幸せだった)
手を繋いだ自分と珊瑚の小さな背中が、目の前の常世の祭りの中を駆けていく。その幻は、花緒の失われた昔の日として消えていった。
自分はひとりになってしまった。もうあの時には戻れないのだ。
花緒は、滲んだ涙を指先で拭う。過去に別れを告げるように。自分が強がっているのはわかっていた。本当は泣き叫びたいほど怖いのだ。知らない場所で、ひとりで怖くて寂しくて。幼い日の温かい日々に、すがってしまいたくなるほどに。
知らないうちに唇を噛みしめていたのだろう。僅かに血の錆びついた味が口内に広がる。そんな花緒を、桜河が僅かに見やった。
「……大丈夫だ」
「黒蛇様……」
桜河は言葉少なであったが、それが花緒を励ましているのだろう。俺がついていると背中を押されたような気がした。
自分でも不思議だけれど、彼の言葉は自分に安心感を与えてくれる。心の奥の冷え切った部分をそっと温めてくれるかのように。彼が常世で共にいてくれるからだろうか。これから自分は、彼に喰われる運命なのに。
花緒は自分の心を落ち着けようと、胸もとに手を当てる。そのときふと、着物の合わせの裏に潜ませた和紙に気がついた。
(……そういえば、持ってきたんだった)
ひっそりと和紙を取り出す。中には、綺麗に包まれた一枚の桜の花びら。
花緒が自分の意思で現世から持ってきた唯一の物だった。
――常世まで一緒について来てくれてありがとう。
花緒は密かに花びらにお礼を伝える。
花緒が手のひらに乗せた花びらに見入っていると、桜河がそっと覗き込んだ。
「それは……」
桜河の窺う視線に気がつき、花緒は慌てて和紙を畳んだ。
「申し訳ございません」
「なぜ謝る?」
「私物を持ち込んでしまいましたので……」
生贄の身でありながら、桜河に許可なく勝手をしてしまった。桜河に捨てろと指示されたら素直に従うつもりだった。
けれども桜河は、意外な言葉を口にした。
「……それをどこで拾った?」
「え? あの、黒蛇様にお会いする前日、現世で私の部屋に舞い落ちて来たのです。もう梅雨も明けたというのに、不思議ですよね。でも、なんだかご縁を感じて……」
花緒はきょとんとして答える。
やはり勝手に持ち込んで桜河の気に障ってしまっただろうか。
桜河は、どこか気まずそうに視線を逸らした。
「そうか……」
「あの、申し訳ございません。もし許されなければ、すぐに捨ててまいります」
長らく染みついた虐げられる者としての振る舞い。主人の命には逆らうまいと、花緒は座面に頭をつける勢いで頭を下げる。
桜河は僅かに焦った様子で軽く首を振った。
「いや。それはおまえが持っていてくれ」
「……?」
桜河はそれきり黙り込んでしまう。この桜の花びらに、彼は見覚えがあるのだろうか。桜河の様子を見るに、これ以上聞いても何かを答えてはもらえないだろう。
(けれど、この花びらを持っていてもよいと許可をくださっただけでありがたいわ)
自分にとっては、現世からついて来てくれた友のように大切なものだったから。
花緒は和紙に包まれた桜の花びらをそっと手で包み込む。桜河は、花緒のその仕草を静かに見守っている。
(不思議な人……。とても恐ろしい方なはずなのに)
桜河は、花緒を不必要に怖がらせない。むしろ丁寧に扱ってくれているように思える。ただの贄なのだから、ぞんざいに扱ってもよいのだろうに。
花緒は、和紙を大切に胸もとにしまいながら、桜河に控えめに頭を下げる。
彼に喰われる運命は変わらずとても恐ろしい。けれども、一緒にいるうちに、恐怖よりも安らぎを感じる瞬間があることに、花緒は気づき始めていた。
贄姫の痣が現れるまでは、家族で町の縁日に出かける日もあった。まだ小さかった珊瑚と手を繋いで、ふたりでひとつのりんご飴を舐めたり、金魚すくいをして赤くて小さな金魚を持ち帰ったりした。なんの変哲もない、ありふれた家族の情景が、そこにあった。
(あのとき、珊瑚は一匹も金魚が掬えなくて、私のを分けたのよね)
金魚を受け取ったときの珊瑚の嬉しそうな笑顔を、今でも覚えている。夜の提灯に照らされて頬を赤くした珊瑚の喜ぶ姿を見て、自分の胸が熱くなるほどに嬉しかった。
(――小さな私は、ちゃんと幸せだった)
手を繋いだ自分と珊瑚の小さな背中が、目の前の常世の祭りの中を駆けていく。その幻は、花緒の失われた昔の日として消えていった。
自分はひとりになってしまった。もうあの時には戻れないのだ。
花緒は、滲んだ涙を指先で拭う。過去に別れを告げるように。自分が強がっているのはわかっていた。本当は泣き叫びたいほど怖いのだ。知らない場所で、ひとりで怖くて寂しくて。幼い日の温かい日々に、すがってしまいたくなるほどに。
知らないうちに唇を噛みしめていたのだろう。僅かに血の錆びついた味が口内に広がる。そんな花緒を、桜河が僅かに見やった。
「……大丈夫だ」
「黒蛇様……」
桜河は言葉少なであったが、それが花緒を励ましているのだろう。俺がついていると背中を押されたような気がした。
自分でも不思議だけれど、彼の言葉は自分に安心感を与えてくれる。心の奥の冷え切った部分をそっと温めてくれるかのように。彼が常世で共にいてくれるからだろうか。これから自分は、彼に喰われる運命なのに。
花緒は自分の心を落ち着けようと、胸もとに手を当てる。そのときふと、着物の合わせの裏に潜ませた和紙に気がついた。
(……そういえば、持ってきたんだった)
ひっそりと和紙を取り出す。中には、綺麗に包まれた一枚の桜の花びら。
花緒が自分の意思で現世から持ってきた唯一の物だった。
――常世まで一緒について来てくれてありがとう。
花緒は密かに花びらにお礼を伝える。
花緒が手のひらに乗せた花びらに見入っていると、桜河がそっと覗き込んだ。
「それは……」
桜河の窺う視線に気がつき、花緒は慌てて和紙を畳んだ。
「申し訳ございません」
「なぜ謝る?」
「私物を持ち込んでしまいましたので……」
生贄の身でありながら、桜河に許可なく勝手をしてしまった。桜河に捨てろと指示されたら素直に従うつもりだった。
けれども桜河は、意外な言葉を口にした。
「……それをどこで拾った?」
「え? あの、黒蛇様にお会いする前日、現世で私の部屋に舞い落ちて来たのです。もう梅雨も明けたというのに、不思議ですよね。でも、なんだかご縁を感じて……」
花緒はきょとんとして答える。
やはり勝手に持ち込んで桜河の気に障ってしまっただろうか。
桜河は、どこか気まずそうに視線を逸らした。
「そうか……」
「あの、申し訳ございません。もし許されなければ、すぐに捨ててまいります」
長らく染みついた虐げられる者としての振る舞い。主人の命には逆らうまいと、花緒は座面に頭をつける勢いで頭を下げる。
桜河は僅かに焦った様子で軽く首を振った。
「いや。それはおまえが持っていてくれ」
「……?」
桜河はそれきり黙り込んでしまう。この桜の花びらに、彼は見覚えがあるのだろうか。桜河の様子を見るに、これ以上聞いても何かを答えてはもらえないだろう。
(けれど、この花びらを持っていてもよいと許可をくださっただけでありがたいわ)
自分にとっては、現世からついて来てくれた友のように大切なものだったから。
花緒は和紙に包まれた桜の花びらをそっと手で包み込む。桜河は、花緒のその仕草を静かに見守っている。
(不思議な人……。とても恐ろしい方なはずなのに)
桜河は、花緒を不必要に怖がらせない。むしろ丁寧に扱ってくれているように思える。ただの贄なのだから、ぞんざいに扱ってもよいのだろうに。
花緒は、和紙を大切に胸もとにしまいながら、桜河に控えめに頭を下げる。
彼に喰われる運命は変わらずとても恐ろしい。けれども、一緒にいるうちに、恐怖よりも安らぎを感じる瞬間があることに、花緒は気づき始めていた。
