放課後ワンカット

翌日の六限が終わって、教室が「帰る人」と「残る人」に分かれていく時間。
僕――和真の頭の中は、ずっと白だった。

(寄贈棚。背表紙、白。抜け)

白い背表紙なんて、図書室には山ほどある。
むしろ、白が多い。
白は正義みたいな顔して、棚で増殖している。

「和真」

教室の入り口で呼ばれて顔を上げると、凛がいた。
いつも通り背筋がまっすぐで、いつも通り無駄がない。

「行く?」

凛は短く言った。

「……行く」

僕も短く返す。

「桃は?」

僕が聞くと、凛は首を振った。

「今日は委員会。後で合流するって」

凛は一拍置いて付け足す。

「その方がいいかも。図書室で変なことする人数は少ない方がいい」

「変なことって言うなよ」

「変なことだよ」

凛は淡々と断言した。

「寄贈棚の本を抜けって指示、正常じゃない」

(正常じゃないのに、僕はちょっとワクワクしてる)

この自分の性格が、いちばん信用ならない。

図書室に入ると、ひんやりした紙の匂いが鼻をくすぐった。
静かで、誰も怒鳴らなくて、誰も僕に「結果」とか「解散」とか言わない。
この空間はそれだけで心地良い。

「寄贈棚、奥」

凛が小声で言って、僕はついていく。

寄贈棚は、図書室のいちばん奥。
古い本が多くて、背表紙の色も、タイトルの文字も、全体的に疲れている。
ここだけ時間が止まっているみたいだ。

凛が棚の前で立ち止まり、腕を組んだ。

「……白、多くない?」

凛が珍しく、ちょっと困った声を出した。

「でしょ」

僕は思わず即答した。

「白、多い。想像の三倍くらい白い」

「背表紙、白。抜け、って……ガチャじゃん」

凛がガチャなんて言うの、意外すぎて笑いそうになった。
危ない。ここで笑ったら、昨日の笑うなの余韻が殴ってくる。

「背表紙が白いだけじゃなくて、たぶん白すぎるんじゃない?」

僕は真面目な顔で言ってみる。

凛が「白すぎるとは」と眉を寄せる。
でも、否定はしない。

二人で棚を端から見ていく。
白い背表紙。薄い白。黄ばんだ白。汚れた白。
白にもグラデーションがあるって、図書室で学ぶとは思わなかった。

「……これ、違う」

凛が一冊の背表紙を指で弾いた。

「ここに白って書いてある。文字の白じゃない」

「それは紛らわしい」

僕は小声でツッコむ。

「ここ、ほら」

凛が別の本を抜きかけて止めた。

「白いけど、タイトルがある。普通」

「普通じゃない白を探す」

僕が言うと、凛が小さく頷く。

「普通じゃない白、嫌いじゃない言い方」

(嫌いじゃない、って褒めてるのか?)

そのとき、棚の中ほどに――妙にまっさらな背表紙が見えた。

タイトルなし。
文字なし。
ただ、白。
潔癖みたいに白い。

「……あれ」

僕が指差すと、凛も視線を向けて、短く息を吸った。

「それっぽい」

僕はそっと手を伸ばした。
指先が背表紙に触れた瞬間、紙なのに冷たく感じた。

(なんで)

自分でも分からない。

「抜くよ」

僕が言うと、凛は周囲を確認してから頷いた。

「どうぞ。丁寧に」

丁寧に、ゆっくり、本を抜く。

――ぱさ。

何かが落ちた。

僕と凛は同時に固まった。
床に落ちたのは、黒い、小さな四角。

「……SDカード?」

僕が言うと、凛が一瞬で拾い上げた。
拾う動きが速い。さすが図書委員。落下物対応がプロ。

凛がカードを指先で挟んだまま、僕を見る。
目が言っている。

(何これ)

僕も目で返す。

(僕も知らない)

「図書室でSDカードが出てくるの、治安が悪いね」

凛がぽつりと言った。

「言い方」

僕は苦笑しかけて、慌てて飲み込んだ。

(やばい、笑うところだった)

白い背表紙の本を開くと、内側に小さな紙のポケットが貼られていた。
その中に、SDカードが入っていたらしい。

「……これ、完全に隠してただろ」

僕は喉の奥で呟く。

凛が淡々と頷く。

「寄贈棚の本にSDカード隠す人、まあまあ信用できない」

「信用できないのに、僕らは追ってる」

「だから変なことだって言った」

凛はカードを僕に渡そうとして、途中で止めた。

「……確認したいけど」

「ここで見る?」

僕が言うと、凛は首を振った。

「図書室で上映会はアウト」

凛は即答した。

「それに、カードリーダーある?」

「……ない」

僕は正直に言う。

「じゃあ映画部」

凛は本を閉じ、しっかり抱えた。

「この本は貸出中。正規ルート。安心して持ち出せる」

「その安心、妙にありがたい」

僕が言うと、凛は少しだけ口元を緩めた。

「安心は大事。暴走しないために」

(僕のことだな、それ)

映画部の部室。
編集用PCにSDカードを差し込む瞬間、なぜか手汗がひどかった。

(落ち着け。これはただのデータだ)

データ。映像。ファイル。
僕の得意分野のはずなのに、怖い。

フォルダを開く。
入っているのは、一本だけ。

ファイル名は短い英数字。
意味があるのかないのか、分からない。

僕はクリックして再生した。

画面いっぱいに、芝生が広がった。

広い。
とにかく広い。
どこまでも平たい緑が続いて、その向こうに低いフェンス。
さらに向こうに、建物の屋根が見える。

人影はない。
顔もない。
手もない。
ただ、芝生。

「……え、これだけ?」

僕が思わず言うと、凛がすぐ横で画面を見たまま答えた。

「……これだけっぽい」

音は――ほとんどない。
風の気配はあるのに、音としては薄い。
音は拾うなが、ここでも守られているみたいだった。

僕は動画を一時停止して、画面の隅を凝視した。
フェンスの向こうに、白い看板みたいなものがちらっと見える。
画質が荒い。拡大するとノイズが増える。
でも、文字の形だけは――

「……公民館?」

僕の口から漏れた。

凛が、画面に顔を近づけた。

「……読めるね。たぶん公民館」

僕の記憶が、ぶわっと広がる。

(公民館の裏、芝生あった)

小さいころ、地域の夏祭りがそこでやっていた。
ヨーヨー釣りの水の冷たさ。
焼きとうもろこしの匂い。
舞台のスピーカーのハウリング。

「これ、公民館の裏手の芝生じゃない?」

僕が言うと、凛が短く頷いた。

「可能性高い。地形が似てる」

「でも……あそこ、今――」

言いかけたところで、部室のドアが開いた。
桃が、委員会帰りの顔で飛び込んできた。

「ごめん遅れた!で、例の白い本――」

桃は、僕らの顔と画面を見て、言葉を止めた。
画面の芝生を見て、眉を寄せる。

「……それ、公民館の裏?」

桃が言った。

僕と凛が同時に桃を見る。

「知ってるの?」

「知ってるよ」

桃は頷く。頷き方が、いつもより重い。

「てか、あそこ……半年前くらいから閉鎖されてるじゃん。立入禁止のやつ。知らない?」

胸の奥が、嫌な形で繋がった。
半年前。
紗季先輩が学校に来られなくなった時期。
映画部の映像が切り抜かれて拡散したらしい時期。

(偶然じゃない)

「……閉鎖、いつから?」

僕が聞くと、桃は少し考えてから言う。

「春くらい?急にフェンス増えて、張り紙いっぱいになってた」

桃は声を落とした。

「なんか……事故があったって聞いた」

事故。
その言葉の中身を、桃は言わない。
言えないというより、知らない顔だった。

凛が僕を見て言う。

「閉鎖されてる場所を指示してるってことは――」

「行けってことだ」

僕は、ほとんど反射で言った。

言ってから、背筋が寒くなる。

(行けってことだ、って……僕は誰に従ってる?)

でも、心はもう決めていた。
怖いのに、決めていた。

凛が、淡々と釘を刺す。

「勝手に入るのはダメ。閉鎖は閉鎖」

「分かってる」

僕は頷く。

「中に入らない。外から見るだけでもいい」

桃が不安そうに言う。

「外からでも、あそこ、雰囲気ちょっと……嫌だよ?」

「嫌だから行く」

僕は自分でも驚くくらい、まっすぐに言った。

「嫌なものを、噂のままにしたくない」

凛が一拍置いて、静かに言う。

「……今の、たぶん正しい」

「たぶんって言った」

僕が言うと、凛は小さく肩をすくめた。

「今日は特別」

桃が、僕の手元のカメラを見た。

「撮るの?」

僕は少し迷ってから答えた。

「……撮る。手だけか、芝生だけかは分からないけど」

凛が言う。

「音は拾わない?」

僕は頷いた。

「拾わない。声も、噂も、必要以上には」

見せない優しさを覚えろ。
あの言葉が、今はただの綺麗事じゃなく、具体的なルールとして胸に残っている。

画面の芝生は、相変わらず無人で、ただ広い。
その無人さが、逆に怖い。
でも、怖いからこそ――そこに何かが隠れている気がした。

僕はSDカードをそっと抜き、指先で挟んだ。
薄いプラスチック一枚が、急に現実の重さを持つ。

「……行ってみよう」

僕が言うと、桃が小さく息を吸って、凛が静かに頷いた。