放課後ワンカット

商店街の入り口に立った瞬間、空気の温度が変わった気がした。
街灯が点き、シャッターの半分閉まった店先に、ネオンの光がじわじわ滲んでいく。

(ここで……笑うな、泣くな、息だけで)

ポケットの中の穴あきしおりが、紙の角で僕の指を軽く刺した。

「忘れるな」とでも言うみたいに。

「うわ、懐かしいこの感じ」

桃が商店街のアーケードを見上げて、声を弾ませた。

「放課後のデートスポットってやつ!」

「デートじゃない」

僕は反射で言ってしまい、すぐ後悔した。余計な反応は、余計な火種だ。

凛が、横から淡々と刺す。

「でも息だけでは、だいぶ恋愛映画っぽいね」

「……言い方」

「事実」

桃が「やば、二人とも今日刺し合ってる」と笑いかけて、ふっと口を押さえた。

「……あ、だめだ。笑うな、だもんね」

「そこ守れるの、えらい」

凛が褒めるような褒めないようなトーンで言う。

(僕も守れるのか?)

守る。見せない。拾わない。
そういうルールは、編集画面の中なら得意だ。
でも現実のルールは、目の前の人間の呼吸で崩れてしまう。

「……撮る前に確認」

僕はカメラを取り出し、みんなに向けた。

「撮影中、喋らない。声は入れない。息だけ」

桃が挙手する。

「質問。息って、音じゃないの?」

凛が即答する。

「言葉じゃない」

「なるほど!じゃあ、息はOK!」

桃は納得して、胸を張った。

「私、肺活量あるし」

「肺活量で勝負するな」

僕は言って、ほんの少しだけ笑いそうになった。

(危ない。笑うな)

凛が僕の手元を覗く。

「マイク、どうする?」

「内蔵は拾いすぎるから……」

僕は設定画面を開き、入力レベルを最低に落としてから、必要な帯域だけ拾うように調整した。

(……こんなこと、普段はやらない。でも今は、拾わないための技術が必要だ)

「技術者っぽい顔してる」

凛がぼそっと言う。

「編集担当です」

僕は小さく言い返す。

「今日は、編集担当の外仕事」

桃がスマホを取り出し、キラキラした目で言った。

「てかさ、ここ、映えるよ?アーケードのネオン、床に反射してるし。絶対――」

「どこにも上げない」

僕は言葉を被せた。自分でも驚くくらい早かった。

桃が目を丸くする。

「え、まだ撮ってもないのに?」

「まだだから」

僕は息を整えた。

「今は、作品のため。宣伝はあと」

凛が、僕を横目で見た。

「見せない優しさ、覚えてる」

「……うるさい」

でも、そのうるさいは少しだけ軽かった。

アーケードの中は、思ったより静かだった。
平日のこの時間は、買い物帰りの人がぽつぽつ。自転車がゆっくり通り過ぎ、店先のラジオが遠くで鳴っている。

(音、拾わない)

僕はカメラを構え、画角を落とした。
ネオンの看板は、直接撮らない。床に落ちた光だけを撮る。
水たまりがなくても、アスファルトが少し湿っていて、色が滲む。

「……手」

僕は小声で言いかけて、慌てて口を閉じた。

(音は拾わない、だろ)

凛がすぐに察して、紙を取り出した。
図書委員の癖なのか、いつも小さなメモ帳がある。

凛はペンで大きく書いた。

『手』

桃が「はいはい」と頷き、両手を胸の前でふわっと動かした。
まるで透明なガラスを撫でるみたいに。
ネオンの光が指先に乗って、指が色を持つ。

(……顔より、ずっといい)

僕はRECを押した。
赤いランプが点く。
みんなの呼吸が、少しだけ慎重になる。

桃が、息を吸って、ゆっくり吐いた。
白くはならない。まだそこまで寒くない。
でも、空気が揺れる。その存在だけが画面に残る。

凛が、穴あきしおりの二号機を折ってフレームにし、僕のレンズの前にそっとかざした。
穴越しに見るネオンは、丸い光の粒になる。
映画のボケ。レンズの魔法。
でもこれは紙の魔法だ。

(紙の勝ち……)

僕の頭の中で、凛の口癖が鳴る。
悔しいけど、今は同意しかできない。

「……カット」

僕は声に出さず、指で×を作った。

桃が、ぷっと吹きそうになって、肩を震わせる。
凛が桃の口元を指で指し、無言で笑うなと警告する。

桃は両頬を押さえ、必死に堪えた。

(ルールって、守ろうとすると面白くなるの、なんでだ?)

僕はカメラを少しだけ横に振った。
閉まった店のシャッター。そこに反射するネオン。
その前を、凛の手が横切る。指先がシャッターの冷たさをなぞる。

凛は僕に視線を投げた。

「……?」という顔。

僕は小さく頷いた。

(そう、そのまま)

凛が息を吐いた。
短く、静かに。
声はない。なのに、何か言っているみたいに見えた。

(言葉が下手でも、伝わることがある。それなら、僕にもできるかもしれない)

次の撮影場所を探して、少し歩いた。
古い喫茶店の前に、ネオンのOPENが点滅している。
その光が、ガラスに二重に映っていて、そこだけ別の世界みたいだ。

桃が、ふいに足を止めた。

「……あ」

僕も足を止める。
桃の視線の先、同年代の男子が二人、スマホを覗き込みながら笑っていた。
聞こえてくる単語が、いやに耳に刺さる。

「……それ、紗季のやつ?」

「うん、これ。ヤバくね?切り抜きだけどさ」

桃の指先が、ぎゅっと握られる。
肩が、わずかに震えた。

(やめろ)

(今は泣くなだ)

僕は反射で桃に声をかけそうになって、飲み込んだ。
凛が一歩前に出て、桃の隣に立った。
そして、何も言わずにメモ帳を開き、短く書いて桃に見せた。

『見ない』

桃は唇を噛んだ。
桃の目が、少しだけ潤む。
泣くな。泣くな。
その葛藤が、痛いほど分かった。

(泣きたいのを止めるのって、泣くより苦しい)

僕はカメラを下げ、代わりにRECを押した。
画角は足元。
ネオンの反射。
桃の靴先が、わずかに揺れる。
その隣で、凛の靴が動かない。
凛の手が、桃の手にそっと触れて、握る。

――息。

桃が、大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。
声にならない息。
画面の中で、それだけが確かに鳴った気がした。

(これが、息だけで、か)

僕の胸が、痛いのに、変に落ち着く。
映像が、僕の代わりに言葉をやってくれている。

しばらくして、男子たちは飽きたみたいにスマホをしまい、どこかへ行った。
残ったのは、ネオンの点滅と、僕らの呼吸だけ。

桃が、小さく言った。

「……ごめん。撮影中なのに」

「撮影中だから、撮った」

僕は言った。自分でも意外なくらい、迷いなく。

「今のは……必要だった」

凛が、僕を見る。

「和真、今ちょっと監督だった」

「やめてくれ、照れる」

僕は言って、すぐに(照れるって何だよ)と自分にツッコんだ。

桃が鼻をすすりかけて、慌てて止める。

「……泣かない!泣かないって決めた!」

凛が淡々と返す。

「決めた顔が、もう泣いてる」

「言うな!」

桃が小声で抗議して、肩を震わせる。笑いそうになってる。
僕も危なかった。
笑うなが、今日いちばん難しい。

撮影がひと段落して、アーケードの端のベンチに座った。
ネオンの光が、僕らの膝の上に落ちる。
色が変わるたび、制服が別の制服みたいに見えた。

僕はカメラの映像を確認する。
踏切の白線。河川敷の夕焼け。商店街のネオン。
そして、手。手。手。
顔がなくても、ちゃんと人がいる。

(これ、つなげたら……映画になる)

不安は消えない。
でも、消えないままでも進めるくらいには、手応えがある。

「次の指示、探す?」

凛が言った。
僕はバッグから、例の文庫本を取り出す。

「持ってきてた」

「返却日はまだ先だからね」

凛はさらっと言う。

僕はページをめくり、不自然な文字列のページを探した。
指が覚えている。
来る。来る。――あった。

僕は穴あきしおりを重ねる。
ネオンの光で、穴がやけに黒く見える。
その黒の中に、言葉が並ぶ。

「図書室の寄贈棚。背表紙、白。抜け」

僕は声に出して読んだ。

凛がすぐに反応する。

「寄贈棚……図書室の奥の。古い本がまとめてあるところ」

桃が首を傾げる。

「背表紙『白』って、白い本ってこと?なんか呪いのアイテムみたい」

「呪いなら燃やして終わりだろ」

僕は言いながら、胸の奥が少しだけ熱くなる。

(図書室に、答えがある)

先輩たちが話してくれないなら、
顧問が「過去は過去だ」と言うなら、
僕は、紙の中の過去を辿る。

凛が本を閉じて、僕を見る。

「行くのは明日。図書室、もう閉まる」

「……うん」

僕は頷く。

「でも、明日行く」

桃が小さく笑って、でもすぐに口を押さえた。

「……あ、笑うなだった。もう終わった?」

「終わったことにしよう」

そう言って、僕はそっと、穴あきしおりを握り直した。