放課後ワンカット

踏切に向かう道は、放課後のにおいがした。
制服の袖に残るチョークの粉、部室の埃、教室の熱が冷めていく匂い。

(……僕、ほんとに何してるんだ)

ポケットの奥で、穴あきしおりをそっと触る。
図書室の古い文庫本も、なぜかバッグの中にある。
借りたわけでもないのに持ち出してしまった罪悪感が、胃のあたりで小さく跳ねた。

(これ、図書委員に見つかったら普通に怒られるやつだ)

怒られ慣れてないわけじゃない。
むしろ、怒られるのは慣れてる。
ただ、怒られたあとに何も残らないのが嫌だ。編集みたいに「次に活かす」ってことができない。

踏切は、学校から十分ほどのところにある。
古い住宅街の端っこで、線路だけがきれいにまっすぐで――だから余計に、境界線みたいに見える。

白線。
ここから先に出るなの線。

僕は、指示通りその白線の外側に立った。
踏切の警報機はまだ鳴っていない。遮断機も上がったまま。
車が二台、無関心に通り過ぎる。自転車のベルが遠くで鳴って、犬が一度だけ吠えた。

(待て、って……何を)

誰かが来るのか。
何かが起きるのか。
それとも――僕が、何かを始めるのか。

僕はなんとなく、バッグから小型のカメラを取り出した。
映画部の備品。編集担当の僕が家でデータ整理するために、時々持ち帰っている。

(踏切を……撮れってこと?)

カメラを構える。ファインダーの中に踏切が収まる。
でも、収まっただけだ。
何をどう撮ればいいのか、まるで見えない。

(ダメだ。脳内に絵コンテがない)

編集は「切る」仕事だ。
撮影は「選ぶ」仕事だ。
僕は、選べない。怖いから。選んだ瞬間に責任が発生する。

「……和真?」

背後から名前を呼ばれて、僕の肩が跳ねた。
振り向くと、見慣れた顔がそこにいた。

「……凛?」

凛は同じクラスの図書委員で、いつも背筋がまっすぐで、教科書みたいに無駄がない。
帰宅途中らしく、肩に通学バッグをかけたまま、僕とカメラを交互に見た。

「何してんの、こんなところで。踏切、好きなの?」

「好きじゃない」

即答してしまった。
好きじゃない、って言い切ると、なんだか人生まで否定してる気分になる。

凛は眉を少しだけ上げる。

「じゃあ……撮影?映画部の?」

「……うん。いや、違う。うん、合ってる。たぶん」

自分でも何を言ってるのかわからない。
凛は「たぶんって何」と言いたげな顔をした。

凛は一歩近づいてきて、僕の手元のカメラを覗き込んだ。
覗き込む距離が近い。僕は反射的に一歩引いて、ちょうど白線の外側を守る形になった。

凛が目を細める。

「……白線、意識してる?」

(バレた)

「……してない」

「してる人の否定の仕方だね、それ」

凛の視線が、僕のバッグの口に落ちた。
そこから、古い文庫本の角が覗いている。

「その本……図書室のだよね」

僕の喉が鳴った。

「……ちが、う。たぶん」

「たぶんが多い日だね。もしかして、貸出処理してないのに持ち出した?」

「……」

「図書委員としては、見逃せない」

凛は淡々と言う。淡々としてるのに、逃げ道を塞ぐのが上手い。
僕は観念して、バッグから本を出した。

「……ごめん。ちょっと、事情があって」

「事情、聞かせて。言い訳は要らないから、事実だけ」

(取り調べだ……)

「……本の中に、変なページがあって」

「変なページ?」

僕は本を開いて、あの不自然なページを見せた。意味のない文字列。
さらにポケットから穴あきしおりを取り出して、そっと重ねる。

凛の視線が止まった。
穴の中の文字だけが、言葉になる。

「放課後、踏切。白線の外側で待て」

凛は、瞬きもしないでそれを読んだ。
読んでから、僕を見た。

「……で。今、待ってたわけ?」

「……うん」

「素直だね。意外」

「馬鹿にしてる?」

「半分は。半分は、興味」

凛は腕を組んで、踏切を見た。

「誰が仕掛けたのかは知らないけど……それで、踏切を撮ってたところ?」

僕は言葉に詰まった。

「……うん、でも……どう撮ったら?」

凛が少しだけ呆れた顔をした。

「映画部なのに?」

「僕、撮影担当じゃないんだよ。編集担当」

「編集担当でも、何を撮るか分からないと編集できないでしょ」

「……それは、そう」

刺さる。
凛の言うことは、だいたい刺さる。

僕はカメラを構え直した。
踏切の風景をフレームに入れる。
――入れた。
それで終わり。

「……で?」と凛が言う。

その「で?」の圧が、踏切の遮断機より強い。

「……えっと」

僕は喉の奥から言葉を引っ張り出そうとした。

「……立って」

「誰が?」

「……凛が」

「何のために?」

「……踏切の、絵になるから」

凛は一拍置いて、口角をほんの少しだけ上げた。

「絵になるからって、雑すぎない?」

(雑だよ!わかってるよ!)

「いや、ちがう、そうじゃなくて――」

「じゃあ、どういうカットが欲しいの?」

凛は真面目な顔で聞いてくる。「引き?寄り?何を主役にする?踏切?人?音?」

「お、おと……?」

僕が言った瞬間、凛が小さく首を傾げた。

「踏切って、音が強いよね。ベルと遮断機と電車。音を主役にするなら、画は逆に静かな方がいい」

(この人、なんで急に撮影監督みたいなこと言うの)

「凛、映画詳しいの?」

「詳しくはない」

凛はさらっと言う。

「でも、図書委員だから。物語の見せ方は、少し考える」

僕はカメラを下ろして、息を吐いた。

(……僕より向いてるんじゃないか、映画部)

その瞬間、踏切のベルが鳴った。

カン、カン、カン――
あの規則正しい音が、空気の粒を揺らす。遮断機がゆっくり降り、道路の真ん中を塞ぐ。

凛が言った。

「今だね。撮るなら」

僕は慌ててRECボタンを押した。
赤いランプが点く。

(よし、撮ってる。撮ってるけど――)

「……えっと、」

僕は凛に声をかけようとして、言葉が詰まった。
踏切の前で、凛がどう立てばいい?
どこを見ればいい?
何をすればいい?
僕は、何を撮りたい?

頭の中が真っ白になり、口から出たのは、最悪の一言だった。

「……普通に、してて」

凛がこっちを見た。

「普通って、何」

「……自然体で」

「自然体って、何」

(助けて)

凛は一度だけ深く息を吸うと、諦めたように言った。

「分かった。じゃあ、私が勝手に動く。和真は撮るだけでいい」

「え」

凛は白線の外側にきちんと立ち、指先でスカートの裾を軽く押さえた。
その手が、妙に目に入る。
指先の動きが、踏切のベルより静かに、でも確かに意味を持っている気がした。

凛は遮断機を見たまま、ぼそっと言う。

「編集担当って、切るのは得意でも、始めるのが苦手なんだね」

「……うるさい」

「事実」

電車が通過する。
風が巻き起こる。
髪が少しだけ揺れて、凛の横顔が一瞬だけ――いや、僕は慌てて画角をずらした。
顔を撮るのが怖い。誰かの表情を記録するのが、怖い。

(……僕、何を恐れてるんだ)

RECを止めて、再生する。
画面には踏切。遮断機。道路。凛の肩がほんの少し映り込む。
映像としては、悪くない。けど――

「ただの記録だね」

凛が言った。容赦がない。

「映像じゃなくて、動画」

「……分かってる」

「分かってるなら、改善しよ」

凛は僕の手からカメラをひょいと取った。

「ちょ、勝手に――」

「貸して。今のは和真が悪い」

凛はファインダーを覗き、僕に言った。

「和真、白線の外側、ちゃんと守って」

「そこは守れてるよ!」

凛はカメラを構えたまま、小さく笑った。

「そこだけはね」

(くそ……)

凛は画角を下げた。
顔じゃない。足元。白線。遮断機の影。
境界だけを切り取る。

「……こういうのは?」

凛が小さく言う。

「越えちゃいけない線って、見てるだけで緊張するでしょ」

僕は思わず黙った。
確かに、画面の中の白線は、ただのペンキじゃない。
ルールの匂いがする。

凛がカメラを下ろした。

「で。次の指示は?踏切で待て、で終わり?」

僕ははっとして、本を開いた。

「……他にも、あるかもしれない」

ページをめくる。
次のページも、その次も、普通の文章。
けれど――数ページ先で、また「それ」が来た。

意味のない文字列。
短い行が並んだ、不自然なページ。

「またこれ」

僕の声が少しだけ上ずった。

凛が覗き込む。

「……同じ形式だね。しおり、重ねて」

僕は穴あきしおりを置いた。
手が、さっきより落ち着いている。
理由は分かってる。

(凛がいると、逃げられない)

穴の中の文字だけが浮かび上がる。

「撮るのは顔じゃない。手だけでいい」

凛が先に読んで、ふっと息を吐いた。

僕はその言葉を、何度も頭の中で反芻した。
顔じゃない。手。
それなら、僕にもできる気がした。
表情を撮るのは怖い。でも、手だけなら――。

その時、学校の噂が、脳裏をよぎる。
半年前のこと。
ある生徒が消えたって話。
その話は皆触れないようにしているのに、なぜか思い出して胸の奥が痛む。

凛が言った。

「試しに撮ってみる?」

凛は白線を指さした。「ほら。境界、あるし」

僕は少し迷ってから、カメラを構えた。
今度は、画角をぐっと下げる。
白線の外側。僕の手。
凛の手が、そこに入ってきても――顔は映らない。

「……じゃあ、えっと」

僕は喉を鳴らして、言葉を作った。「凛、手……出して」

凛が一瞬だけ目を丸くした。

「その言い方、雑」

「ごめん!監督の言い方知らない!」

凛は小さく笑って、指先をそっと画面の中に滑り込ませた。
僕の手が白線を越えようとする。
凛の手が、それを軽く止める。

――カン、カン、カン。

踏切のベルが、ちょうどいいタイミングで鳴った。
まるで、誰かが編集点を打ってくれたみたいに。