放課後ワンカット

凛はフェンスに手を置き、深く息を吸った。
そして、吐いた。

ふっと肩の力が抜ける。
背筋が、いつものきちんとから崩れる。
指先がフェンスを掴む。まるで、落ちないために。

「凛?」

僕が呼ぶと、凛は答えない。
代わりに、小さく首を振った。否定じゃない。何かを譲るみたいな動き。

次の瞬間。

凛が、ゆっくり振り返った。

その顔は、凛の顔なのに、凛じゃなかった。
目が泳いでいる。呼吸が浅い。口元が震えている。
いつも僕を刺すみたいにまっすぐ見てくる目が、今日は、僕の胸元あたりを恐る恐るなぞるだけだった。

(……誰だ)

喉が固まる。

僕は言った。声が裏返りそうになるのを必死で抑えながら。

「君は凜?いつもと違う……」

凛――いや、いつもと違う凛が、小さく頷いた。
頷き方が、控えめすぎて、痛い。

「……私も凜よ」

声は細い。風にさらわれそうな声。
それでも、言葉は言葉だった。

「びっくりした?……ごめんなさい」

「……謝らなくていい」

僕は反射で言ってしまって、すぐに自分に腹が立った。

(いいって何だよ。何がいいんだ。僕は今、何をどう受け止めればいいんだ)

凛は視線を落として、指をいじった。
制服の袖口を、くしゃっと握っている。
その仕草が、妙に子どもっぽく見える。

(この人――この凛は、怖がってる)

僕は、喉の奥の火を押し込めるみたいに息を吐いた。
そして、言うべきことを言う。

「……許可を獲れって?もしかして君に?」

凛の肩がぴくっと跳ねた。
それだけで、僕の胸が痛む。
質問が刃になった気がしたから。

けれど凛は、逃げなかった。
逃げられない、というより、逃げ方が分からないみたいに、そこに立っていた。

「……うん」

凛は小さく頷いた。

「紗季先輩は……久しぶりに、私が外側に出てきた時に……勝手に撮影したの」

「外側……?」

僕が言った言葉は、空気に落ちて、すぐに意味を持った。
凛は、その意味を当然のように扱う。

「表に出る、っていうか……」

凛は言い直そうとして、上手くできずに唇を噛んだ。

「……いつも和真が見てる凜、いるでしょ?きちんとしてて、強くて、言うことが刺さる凜」

「刺さるは余計だろ」

思わず言ってしまって、凛がほんの一瞬だけ困った顔をした。

僕は慌てて付け足す。

「……ごめん。今のは、場を軽くしたかっただけ」

凛は小さく首を振った。

「……いいの。刺さるの、ほんとだから」

(肯定するなよ)

笑えないのに、少しだけ救われる自分がいる。
この凛が、僕の言葉を受け取ってくれている。
それだけで、呼吸がしやすくなる。

凛は続けた。
言葉を探すみたいに、ところどころ途切れながら。

「私……撮られたくなかったのに」

凛の指が、さらに強く袖を握る。

「でも、先輩……カメラ構えて、止めなかった。……作品のためって顔してた」

(先輩……)

あの手紙の文字が、胸に浮かぶ。

「作品のため」って言い訳をして、許可を取らずに、撮って、残してしまった。

凛は、声が少しだけ震えた。

「それで……パニックになった」

凛は言った。

「頭が真っ白になって、息が苦しくなって……逃げようとしても、足が動かなくて。……なのに、レンズだけがこっちを見てた」

僕の喉が鳴った。

(レンズは目だ。しかも、逃げられない目だ)

凛は、風に煽られて目を細める。
涙じゃない。ただ、乾いた目の防御反応。

「紗季先輩も……ひどく動揺してた」

凛は言った。

「だって、先輩がいつも見ている凜は……きっと、そんな感じの子じゃないんでしょ?」

僕は答えに詰まる。
いつもの凛は、ここまでおどおどしない。
誰かの許可なんて待たないで、先に手続きを済ませてしまう。

「……うん」

僕はやっと頷いた。

「違う……違う、けど」

違うと言っていいのか分からない。
同じ顔で、同じ名前で、同じ制服で。
なのに、違う。

(いや、違わない。どっちも凛だ)

だから、僕の言葉はこうなるしかなかった。

「君は凛だ」

僕は言った。

「……ただ、僕が知らなかっただけだ」

凛は、その言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。
呼吸の仕方を、思い出したみたいに。

僕は、怖い質問を口にした。
でも、聞かないと進めない。

「……紗季先輩のあの人は、凛に許可を獲れって――」

僕は一度言葉を切り、目を逸らさないように努力して続けた。

「――君の時の、凛のこと、ってこと?」

凛は頷いた。
頷き方が、さっきより少しだけ確かになっている。

「うん。たぶん……」

凛が言いかけて、慌てて口を押さえた。

「……あ、ごめん。たぶんはダメだったね」

「今日はいい」

僕は即答した。

「たぶんでもいいから、教えて」

凛は、小さく微笑んだ。
本当に小さい。ネオンみたいに派手じゃない。朝の光みたいに薄い。

「……私、ずっと外側に出てなかったの」

凛は言う。

「出ると、怖いから。……誰かに見られるのも、撮られるのも、言葉を向けられるのも」

「……」

「でも、その日は……」

凛は言葉を詰まらせてから、絞り出す。

「うまく隠れられなかった。だから出てきた。……そこに、紗季先輩がいて」

(偶然じゃない。でも、意図でもない。最悪のタイミングだけが、綺麗に重なった)

僕は、頭の中で整理しようとして、すぐに諦めた。
整理の仕方を間違えたら、また誰かを切る。
今は、分類じゃなくて、受け止める。

それでも、思考が勝手にラベルを貼ろうとする。

(二重人格?)

その言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、僕は自分で自分を殴りたくなった。
僕は、ぎこちなく首を振った。

(違う。僕は診断したいんじゃない)

「……じゃあ」

僕は、ゆっくり言った。

「僕は、君に何の許可を取ればいい?」

凛は、少し考えてから、首をすくめた。

「……全部、って言ったら困る?」

「困る」

僕は正直に言ってしまって、すぐに言い直す。

「……でも、困りながらやる。逃げない」

凛は、風に肩をすぼめた。

「撮るなら、聞いて。……私が外側にいる時は、特に」

「分かった」

僕は頷く。

「勝手に撮らない。勝手に使わない。勝手にわかったつもりにならない」

凛はその言葉を聞いて、目を伏せた。
泣いているわけじゃない。
でも、今にも崩れそうな顔だった。

「……ありがとう」

凛が言った。

「それ、紗季先輩にも言ってほしかった」

胸の奥が、ずきんと痛んだ。
遅い。

意識のない先輩に、言葉は届かない。

凛は目を閉じた。
深く息を吸って――吐いた。

「……時間、使いすぎた」

凛――さっきまでの、おどおどした凛だった人とは別の、いつもの凛が、そう言った。
背筋は真っすぐで、目はまっすぐで、言葉は短い。

僕――和真は頷いた。頷くしかなかった。
頭の中に、整理するための棚がいくつも増えた気分だ。しかもラベルが全部「未分類」。

(……同じ顔で、同じ名前で、違う凛がいる)

「凛」

僕はようやく口を開く。声が思ったより掠れた。

「さっきの……」

さっきのが何を指しているのか、自分でも分かっていない。
おどおどした凛のことか。先輩のことか。許可のことか。
全部だ。

凛は一瞬だけ僕を見て、扉の方へ顎をしゃくった。

「続きは、後で」

(後で、って。後で何か話してくれるのか?)

そう思った瞬間、風が強く吹いた。
制服の襟が少しだけ持ち上がり、屋上の金網が細く鳴いた。

凛が歩き出す。
僕も半歩遅れてついていく。
足音が二つ、コンクリの上で軽く反響する。

そのときだった。

凛が、ぴたりと止まった。

止まり方が、違った。
普段の凛は止まるときでも姿勢が崩れない。ところが今の凛は、ほんのわずか肩が落ち、首の角度が変わった。
まるで誰かが、凛の中のスイッチを別の位置に切り替えたみたいに。

(……まさか)

僕の喉が勝手に鳴る。

凛がゆっくり振り返った。
目が――さっきの凛とも、いつもの凛とも違う。
まっすぐだけど、冷たい。刺すためのまっすぐさだ。

「凛?」

僕は反射で呼んだ。

凛は、口元だけで笑った。
笑っているのに、温度がない。

「ええ」

凛は言う。声は低く、硬い。

「ただし、いつもの凜じゃないわ」

背中に、ぞわっと寒気が走った。

(……三人目?)

次の瞬間、世界が近づいた。

凛が一歩、僕の懐に入ってくる。
制服の胸元を掴まれた――と思った瞬間、視界が横に流れた。

ガン。

背中が、フェンスに叩きつけられる。
金網の冷たさが、シャツ越しに皮膚へ刺さる。
肺の中の空気が、短く漏れた。

(痛い、強い、この人はまた別の凛なのか?)

思考が追いつかないまま、体だけが現実に反応する。
肩甲骨のあたりがじんと痺れて、フェンスの網目が背中に食い込む。
凛の手は、驚くほど力が強い。細い指なのに、逃げ道を作らない掴み方をしている。

「な、何を……」

声が情けなくなる。屋上の風のせいにしたい。

凛は僕の顔を覗き込む。
距離が近い。怖いくらい近い。
でも――これは甘さの近さじゃない。恐怖を示す近さだ。

「あなた」

凛が囁く。

「本当のことが知りたい?」