放課後ワンカット

その朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
というより、眠っていなかった。

瞼を閉じるたび、あの動画の火が裏側に焼き付いて、勝手に再生される。
炎の中で紗季先輩の口が動く。音のない言葉が、字幕みたいに浮かぶ。

『りんにきょかをとれ』

(凛に、許可を取れ)

その一文が、僕の中でずっと点滅していた。
赤いRECランプみたいに。

(許可って、何の許可だよ)

答えがないのに、行動だけは決まっていた。
撮るなら、許可を取れ。
紗季先輩が、自分の過ちを言葉にしてまで残した警告だ。
それを無視して進んだら、僕も同じ刃を握ることになる。

同じ刃先で、誰かを切る。

(嫌だ)

制服を着ながら、僕は何度もスマホの画面を見た。
凛に送るメッセージを打っては消し、打っては消し。

「屋上に来て」

それだけ。理由を書こうとすると、言葉が全部軽くなる。
軽くなる言葉は、刃になりやすい。
だから最小にした。

送信。
既読がつくまでの数秒が、妙に長い。

――既読。

返事は短かった。

「分かった。始業前なら10分だけ」

(10分で、何を言える?10分で、許可が取れるのか)

でも、10分でもいい。
今の僕に必要なのは、時間じゃない。
逃げないことだ。

屋上への階段は、朝の匂いがした。
誰もいない廊下、窓から差し込む光、掃除のモップの湿った匂い。

屋上の扉は、いつもは鍵がかかっている。
今日は、点検の札がぶら下がっていて、半分だけ開いていた。
風が、隙間からヒュッと鳴く。

(入れってことかよ)

勝手にそう思ってしまう自分が、少し怖い。
でも僕は扉を押して、屋上に出た。

空が広い。
朝の青がまだ薄くて、風が冷たい。
フェンスが高くて、下を覗くと足がすくむ。

(ここに呼び出すの、正しいのか)

でも、ここは声が届きにくい。
教室みたいに誰かが聞き耳を立てる場所じゃない。
噂の火種が転がりにくい。

僕はフェンスから少し離れたところに立って、凛を待った。
手が、勝手にポケットの中で穴あきしおりを握りしめている。
紙の角が指に刺さって、痛い。
痛いのはいい。現実だ。

扉が開く音がした。

振り向くと、凛がいた。
髪はきちんと結ばれていて、顔はいつも通り落ち着いている。
だけど目の下が、ほんの少しだけ濃い。

(凛も、寝てない?)

「……おはよう」

凛が言う。声は小さい。

「おはよう」

僕も返す。
返したのに、次の言葉が出ない。
言葉の順番が、分からなくなる。

凛が腕を組んだ。

「で。用件は?」

僕は、息を吸った。
胸の中の火が、煙になって喉に上がってくる。

(言え。逃げるな)

僕は一歩、凛の方に近づいた。
近づきすぎると声が大きくなる。
だから、ちょうどいい距離で止まる。

そして言った。

「許可を取りに来た」

「何の?」

(そうだよな。そう言うよな)

僕は手のひらに汗が滲むのを感じながら、言葉を押し出した。

「わからない、でも紗季先輩が凜に許可を獲れって言っていた」

凛の眉がわずかに動いた。

「……紗季先輩が?」

凛は僕をじっと見た。
嘘を見抜く目じゃない。
言葉の重さを測る目。

僕はスマホを取り出して、動画の一場面を見せた。
炎の中で、口が動くところ。

「……これ」

僕は小さく言う。

「口、動いてた。読み取った」

凛は画面を見たまま、息を止めたみたいに動かなかった。
数秒後、ゆっくり息を吐く。

「……わからないなら許可を出せないよ」

(凛の正論は、いつも僕の逃げ道を塞ぐ)

僕は喉の奥で笑いそうになって、すぐに止めた。
笑える状況じゃない。

「……でも」

僕は必死に続ける。

「許可を取れって言われた。だから、取らないと進めない」

凛は淡々と返す。

「進むって何に?」

「映画に」

僕の口が勝手に答えた。

「文化祭。映画部。解散。……全部」

言いながら、胸が痛くなる。
僕は、紗季先輩のために動いているのか。
映画部を守りたいだけなのか。
自分が安心したいだけなのか。

全部、混ざっている。
混ざっているから、恥ずかしい。

凛は視線を上げて、風に髪を揺らしながら言った。

「許可って、便利な言葉じゃない。免罪符にしないで」

「……免罪符にしたいわけじゃない」

僕は言った。声が少し震えた。

「同じことを繰り返したくない」

凛の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
でも次の瞬間、また硬くなる。

「和真」

凛が言う。

「あなた、いま誰を疑ってる?」

その問いが鋭すぎて、僕は一瞬、息を止めた。

(疑ってる?)

でも、疑ってる。
「りん」は凛のことだと思った。
なら、紗季先輩が傷つけた「ある人」も凛なのかもしれない。
そうやって辻褄を合わせようとしている。

そして、その辻褄合わせが、また勝手な編集だと気づいている。

それでも、口から出てしまった。

「紗季先輩が傷つけたあの人って、凛なのか?」

凛は、即答しなかった。
風がフェンスに当たって、金属がかすかに鳴る。
遠くの校庭から、朝練の掛け声が聞こえる。
世界はいつも通りなのに、僕の頭だけが違う速度で回っている。

やがて凛は、静かに言った。

「私であって、私じゃないわ」

「……は?」

思わず声が漏れた。

「どういうことだ」

凛は僕を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
いつもの「説明する気はあるけど、簡単には言わない」顔。

「和真」

凛はゆっくり言う。

「あなた、「りん」って文字を見た瞬間、凛=私って決めたでしょ」

「……決めた。だって」

僕は言いかけて止まる。
だって、名前が同じだから。
だって、他に思いつかないから。
だって――。

その「だって」は、言い訳だ。
編集点を勝手に打つ癖だ。

凛は続けた。

「紗季先輩が言いたかったのは、あなたが考えている「凛」かもしれないし、「凛」じゃないかもしれない」

「余計分からない」

凛が、少しだけ口角を上げた。

「分からないって言えるのは、進歩」

「褒めるならもっと分かりやすく褒めて」

「それは許可しない」

凛が淡々と言って、僕は今度こそ笑いそうになった。

(最悪のタイミングで、凛は凛だ)

凛は風に前髪を押さえながら、言葉を選ぶ。

「私であって、私じゃないっていうのはね……」

言いかけて、凛は一度口を閉じた。
そして、こちらを見て言った。

「見せてあげるわ、来て」

「……え」

僕は間抜けな声を出した。

「どこに」

僕は、凛を見ながら、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
答えに近づく怖さと、答えが出る安心が、同じ速度で押し寄せていた。