放課後ワンカット

「紗季と同じ高校の制服……。もしかして、紗季のお友達かしら?」

その言葉を受け止めた瞬間、僕――和真は、息の吸い方を忘れた。

(紗季先輩のお母さん……?)

凛が、いつもの速度で一歩前に出た。
こういうときの凛は、迷いがない。迷いがないというより、迷っている暇を他人に与えない。

「はい。同じ高校です」

凛は丁寧に頭を下げた。声のトーンは、図書室のカウンターで使う丁寧だ。

「私たち、映画部の者で……紗季先輩のことを心配していて。あの……」

凛の言葉が途切れた。

桃が、かすれた声で言った。

「紗季先輩……いま、どこに……」

女性は、僕らの制服をもう一度見て、ほんの少しだけ安心したように頷いた。

「お見舞いに来てくれたのね。ありがとう」

言葉が見つからないまま、僕はただ頭を下げた。

女性は、静かに言った。

「……会ってあげて。紗季、きっと……いえ、分からないけど。会ってあげてほしい」

凛が目で僕に合図する。
行くよの合図。

僕は喉の奥で唾を飲み込み、頷いた。

病棟の廊下は、歩く音がやけに響く。
昼間のざわつきが薄くなった分、空調の音と機械の作動音が、空気の骨格みたいに目立つ。

紗季先輩のお母さんは、歩きながら名乗った。

「私、紗季の母です。……今さらだけど」

「いえ……」

凛がすぐに返す。

「案内してくださって、ありがとうございます」

桃は、黙ったままだった。
手をぎゅっと握っている。

僕は、廊下の白さに目が痛くなった。
白い壁、白い床、白い看板。
寄贈棚の白い背表紙と同じ種類の白。

(ここに先輩は……)

思考がそこに触れた瞬間、心臓が強く鳴った。

「ここです」

お母さんが立ち止まり、病室の前で深く息を吐いた。
ノックを一回。
返事はない。

ドアが静かに開く。

病室の中は、時間が遅かった。
テレビは消えている。窓の外は暗い。
薄いカーテンの向こうに、機械の小さな光がいくつも瞬いている。

ベッドの上に、紗季先輩がいた。

(……紗季先輩)

顔色は白い。
髪は短く整えられていて、寝顔は驚くほど静かだった。
眠っている、というより、眠りに固定されているように見えた。

管や線が、彼女の命をこの場所に繋ぎ止めている。
機械の一定の音が、呼吸の代わりみたいに響く。

桃が、一歩だけ前に出て、止まった。
声を出せない。
でも、目だけは泣きそうに揺れている。

凛が、僕の袖を小さく引いた。
落ち着いての合図。

紗季先輩のお母さんが、ベッド脇の椅子に手を置き、僕らに向き直った。
表情は穏やかにしようとしている。
でも、その穏やかさは、毎日練習してやっと作れた仮面みたいだった。

「紗季ね……」

お母さんは、言葉を慎重に選ぶように続けた。

「半年前、公民館の裏で……何かを撮っていたんです。ひとりで」

僕の背中が冷えた。
公民館の裏。芝生。焼け跡。

「撮っていた、って……」

僕は声が小さくなった。

「映画……ですか」

「そう」

お母さんは頷いた。

「コンクール用だって。誰にも言わないで、勝手にやって……。止めればよかったのに、って、今でも思う」

勝手に。

手紙の中の言葉が、胸に戻ってくる。

「作品のため」って言い訳をして、許可を取らずに、撮って、残してしまった。

お母さんは、淡々と続けた。淡々としないと、崩れるから。

「機材が、発火したんです。火事になって……」

そこで一度、息を詰まらせた。

「紗季が重症になって……それで、半年間。ずっと、意識が戻らないまま」

半年。

僕の足元がふわっと浮く。
半年。
噂が熟成されるのに十分な時間。
消えたと勝手に言われるのに十分な時間。

桃がかすれる声で言った。

「……先輩、ずっと、ここに……」

お母さんは小さく頷いた。

凛が、静かに聞いた。

「……火事のことは、学校には……」

「伝えました。でも」

お母さんは眉を寄せた。

「学校は配慮してくれたんだと思う。けれど……配慮の仕方が、難しいのよね」

その一言が、胸に刺さった。
見せない優しさは、時々、見ないで済ませるに変わってしまう。

お母さんは、僕らをまっすぐ見た。

「あなた達、映画部なんでしょう?」

僕が頷く。

「はい」

「……お願いがあるの」

お母さんは言った。

「紗季のこと、もうこれ以上、燃やさないでほしい」

燃やさないでほしい。
火事の話をした直後に出る燃やすは、比喩でもあり、現実でもあった。

僕は息を吸って、吐いた。

「……炎上して消えたって噂が……学校で」

お母さんの瞳が、揺れた。

「……そう」

そして、次の言葉が、僕の胃を冷たく掴んだ。

「事故の時の様子の動画が、なぜか拡散されているらしいの」

「……え」

桃が小さく声を漏らす。

凛が眉を寄せる。

「事故の……動画?」

お母さんはスマホを取り出し、手が少し震えるのを押さえるように両手で持った。

「見て。見たくないと思うけど……でも、あなた達には見てほしい」

画面が僕らに向けられる。

そこに映っていたのは、夕方の芝生だった。
遠目のズーム。手ブレ。
フェンスの外から撮っている角度。

次の瞬間、煙が上がる。
誰かが叫ぶ声が入っている。
そして――火。

火が、ひとつの人影に絡みつく。
人影が、よろける。
走る。
助けようとする誰かの影。
でもカメラは、助けない。
ただ、撮り続ける。

(……紗季先輩)

炎の中で、紗季先輩の制服みたいな布が見えた。
燃える、という言葉が、意味を失うくらい、画面は生々しい。

桃が手で口を押さえた。
凛の瞳が硬くなる。
僕の喉が、変な音を立てた。

お母さんは画面の下を指でなぞった。
そこには、コメント欄のスクロール。

「草」

「マジで燃えてて草」

「これ本物?」

「炎上(物理)」

「やば」

一文字一文字が、刃だった。
刃先が丸まっていない。尖っている。楽しそうに。

「……削除依頼も出したの」

お母さんが、声を絞った。

「でも、消しても消しても……誰かが持っていて、また上げるの。切り抜かれて、また回るの」

切り抜き。
拡散。
戻せない。

僕の仕事の単語が、全部、罪の単語に変わっていく。

凛が、静かに言った。

「撮ったのは……誰なんですか」

お母さんは首を振った。

「分からない。……だから、お願い。映画部なら、映像を見て分かることがあるかもしれない」

「……この動画、データでもらえますか」

僕は、自分の声が震えているのを自覚しながら言った。

「……編集のことは、僕が一番分かる。僕、編集担当で」

凛が僕を見る。

お母さんは少し迷ってから、頷いた。

「ありがとう。……ここから送れるかしら。容量が大きくて」

「僕のスマホに、一度送ってください」

僕は言った。

「あとでPCに移します」

お母さんが操作を始め、数十秒の沈黙が生まれる。
その沈黙が、病室の機械音を余計に際立たせた。

ピロン、と僕のスマホが震えた。
動画ファイルが届いた通知。

(これが、炎上して消えたの正体)

炎上は比喩じゃなかった。
そして比喩より残酷だった。
燃えている本人の映像が、娯楽として流れている。

僕はスマホを握りしめた。
握りしめることで、画面の中の火を押し込められる気がしたから。

お母さんは最後に、僕らに向かって深く頭を下げた。

「来てくれて、ありがとう。紗季……きっと、嬉しいと思う」

(嬉しいのか?嬉しいって、何だ?)

答えは出ない。

病室を出るとき、僕はベッドの紗季先輩を見た。
眠っている顔。動かない指先。
それでも――何かが言いたい顔に見えた。
僕の都合かもしれない。
でも、映像を扱う人間は、都合で読み取ってしまう。

家に帰ってからも、手が落ち着かなかった。

夕飯の味がしない。
家族の声が遠い。
部室の解散宣告より、踏切のベルより、今日見た動画の火が、目の奥で燃え続ける。

僕は自室に籠もり、PCを立ち上げた。
動画ファイルを取り込む。
編集ソフトに読み込む。
タイムラインに、あの火の映像が置かれる。

(……これを編集するの?)

罪悪感が喉に張り付く。
でも、編集は刃だ。
刃を持ったまま、手を引っ込めたら、次に誰かが刺される。

僕は再生した。
画面の中で煙が上がり、火が出て、紗季先輩が燃える。
耐えられなくて一度停止した。
それでも、もう一度再生する。

「……ごめんなさい」

誰に向けた謝罪か分からないまま、僕は呟いた。

僕はフレームを進めた。
一コマずつ。
指先が機械的になる。
感情を殺して、仕事にする。編集のときの癖だ。

(この動画、撮ってる人……)

カメラの位置。揺れ方。ズーム。
撮影者は、助けるより先に撮っている。
それが許せない。
でも、そういう人がいるから、こういう動画が残る。

そのとき――画面の中央あたりで、紗季先輩が一瞬だけこちらを向いた。

炎の中で、顔の輪郭がぼやける。
けれど、口が――動いている。

(……え)

僕は息を止め、さらにスローにした。
拡大する。ノイズが増える。
それでも、口元の動きは確かに言葉だった。

(何て言ってる?)

音は入っている。でも、聞き取りたくない。
そもそも周囲の叫びで埋もれている。
だから、僕は読む。

唇の形。開き方。舌の位置。
何度も巻き戻して、指でタイムコードを押さえた。

「……り」
「ん」
「に」
「きょ……か」
「を」
「とれ」

僕の背中が、冷たくなる。

『りんにきょかをとれ』

(凛……?)

凛に許可を取れ。

手紙の中の「ある人」が、突然、輪郭を持ってしまった。
僕の頭の中で、あの台詞テープが再生される。

僕は、画面を見たまま動けなくなった。
PCのファンの音だけが、部屋に残る。
ここで初めて、僕は気づいた。

次の指示は、もう紙の中だけじゃない。
映像の中に、残されている。

(明日、凛に……話さないと)

僕は息を吸って、吐いた。
笑うでも泣くでもない。
ただ、生きるための息。

そして、画面の中の紗季先輩の口元を、もう一度見た。

『りんにきょかをとれ』

消えない字幕みたいに、そこにあった。