人生返却体験

 電車の窓に映る自分の顔が、少しだけ遅れて動いた気がした。
 結衣は瞬きをする。いつも通りの朝。いつも通りの通勤電車。吊り革の広告も、スマホを見下ろす人の群れも、昨日と何も変わらない。

 それなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残っている。

 今日の会議。
 内容を思い出そうとして、結衣は眉を寄せた。

 何の会議だっただろう。

 手帳を開く。
 自分の字で書かれた予定がそこにあった。

 「新規企画最終」

 文字ははっきりしている。
 何度も書き直した跡まである。ペン先に力を込めた記憶だけが、指に残っている気がした。

 なのに、その企画が何だったのか、思い出せない。

 空白。
 頭の中に、ぽっかりと穴が開いたような感覚。

 結衣はページをめくる。
 先週、先々週、その前の週。すべての予定がきれいに並んでいる。会議、提出、修正、確認。どれも見覚えのある言葉なのに、映像が浮かばない。

 まるで、他人のスケジュール帳を盗み見ているみたいだった。

 心臓が、少しだけ早く打つ。

 「選んだはずなのに……」

 声に出してみると、電車の音にかき消された。
 そのことが、妙に安心できなかった。自分の言葉が、自分に届かない。

 結衣は目を閉じる。
 企画を決めた夜のこと。上司の表情。チームの反応。
 思い出そうとするたび、指先から砂がこぼれるみたいに、記憶が落ちていく。

 思い出せないのに、焦りだけが増えていく。

 これは忘れ物じゃない。
 単なる記憶違いでもない。

 「決めた」という事実だけが残っていて、
 「なぜ決めたのか」が消えている。

 電車が減速し、駅に滑り込む。
 ドアが開く音で、結衣は我に返った。

 立ち上がる。
 体はちゃんと動く。足も、進む方向も分かっている。

 でも、何かが欠けている。

 結衣は人の流れに押されながら、改めて思った。

 ――私は、何を選んだんだっけ。

 答えは、どこにも浮かばなかった。