夜、結衣は部屋の電気をつけたまま、ソファに座っていた。
テレビはつけていない。スマホも触らない。何か音が欲しいのに、どれも手に取る気になれなかった。
静かだった。
昼間の会議室より、駅のホームより、ずっと静かだった。
結衣は目を閉じる。いつもなら、そこに声があった。
「ちゃんとしなさい」
「迷惑をかけないで」
思い出そうとする。母の声。叱るときの少し高い調子。諭すように低くなる語尾。
けれど、何も聞こえない。
まるで、頭の中にあった音だけが、きれいに削り取られたみたいだった。
胸がざわつく。
怖い、と思う前に、まず困った。あの声がないと、何を基準に動けばいいのか分からない。
夕飯を食べるべきか、片付けるべきか、風呂に入るべきか。どうでもいいことなのに、選べない。
結衣はキッチンに立ち、コップを手に取ったまま動けなくなる。
水を飲むだけなのに、理由が見つからない。
静かすぎる頭。
その空白が、恐怖に変わるまで、時間はかからなかった。
そのとき、不意に言葉が浮かんだ。
――返却が開始されました
誰の声でもない。
感情も温度もない、ただの文字。
結衣はコップを落とした。割れる音が、やけに大きく響く。
心臓が跳ね上がり、ようやく呼吸が戻ってくる。
「やめて……」
声に出しても、返事はない。
母の声も、自分の声も、部屋の中で消えていく。
結衣は床にしゃがみ込む。耳を塞いでも、静けさは消えなかった。
静かであることが、こんなにも暴力的だなんて、知らなかった。
返却。
その言葉が、ようやく現実の重さを持って胸に落ちる。
これは冗談じゃない。
悪戯でも、錯覚でもない。
何かが、確かに始まっている。
結衣は震える指で、ポケットからあの白い紙を取り出した。
折り目のついた通知は、暗い部屋の中でもはっきり読めた。
返却が開始されました。
文字を見た瞬間、頭の奥がさらに静かになる。
そして結衣は初めて思った。
――私の人生が、消えていく。
テレビはつけていない。スマホも触らない。何か音が欲しいのに、どれも手に取る気になれなかった。
静かだった。
昼間の会議室より、駅のホームより、ずっと静かだった。
結衣は目を閉じる。いつもなら、そこに声があった。
「ちゃんとしなさい」
「迷惑をかけないで」
思い出そうとする。母の声。叱るときの少し高い調子。諭すように低くなる語尾。
けれど、何も聞こえない。
まるで、頭の中にあった音だけが、きれいに削り取られたみたいだった。
胸がざわつく。
怖い、と思う前に、まず困った。あの声がないと、何を基準に動けばいいのか分からない。
夕飯を食べるべきか、片付けるべきか、風呂に入るべきか。どうでもいいことなのに、選べない。
結衣はキッチンに立ち、コップを手に取ったまま動けなくなる。
水を飲むだけなのに、理由が見つからない。
静かすぎる頭。
その空白が、恐怖に変わるまで、時間はかからなかった。
そのとき、不意に言葉が浮かんだ。
――返却が開始されました
誰の声でもない。
感情も温度もない、ただの文字。
結衣はコップを落とした。割れる音が、やけに大きく響く。
心臓が跳ね上がり、ようやく呼吸が戻ってくる。
「やめて……」
声に出しても、返事はない。
母の声も、自分の声も、部屋の中で消えていく。
結衣は床にしゃがみ込む。耳を塞いでも、静けさは消えなかった。
静かであることが、こんなにも暴力的だなんて、知らなかった。
返却。
その言葉が、ようやく現実の重さを持って胸に落ちる。
これは冗談じゃない。
悪戯でも、錯覚でもない。
何かが、確かに始まっている。
結衣は震える指で、ポケットからあの白い紙を取り出した。
折り目のついた通知は、暗い部屋の中でもはっきり読めた。
返却が開始されました。
文字を見た瞬間、頭の奥がさらに静かになる。
そして結衣は初めて思った。
――私の人生が、消えていく。
