返却期限のある人生

 翌朝、結衣は何事もなかったように会社へ向かった。
 電車の中で吊り革を握りながら、昨日の封筒のことを考えないようにする。冗談だ。悪趣味な悪戯だ。そう思えば思うほど、白い紙の文字が頭の奥に浮かんでくる。

 会社に着くと、いつもの朝と同じように挨拶をして席に着いた。パソコンの電源を入れ、メールを確認する。未読の件名の中に、見覚えのある文字列があった。

 ――新規プロジェクト企画案(最終)

 胸が小さく跳ねる。
 それは、結衣が一週間かけて作ったはずの企画だった。

 ファイルを開く。
 画面に広がったのは、確かに自分が考えた構成だった。順番も、言葉の癖も、全部知っている。それなのに、右上に表示された作成者の名前が、結衣のものではなかった。

 小林。

 部下の名前だった。

「……え?」

 声にならない声が漏れる。
 マウスを動かし、プロパティを確認する。最終更新、三日前。結衣が徹夜で直した夜と同じ日付。けれど、そこに結衣の名前はどこにもない。

 胸の奥が、すっと冷える。
 思い出そうとする。最初のアイデアはどこから来た? なぜこの構成にした?
 何も出てこない。頭の中に、白い空間だけが広がっていく。

 打ち合わせが始まった。会議室のスクリーンに、あの企画案が映し出される。

「この企画、白石さんの提案でしたよね」

 上司の声が、やけに遠く聞こえた。
 結衣は口を開こうとして、止まった。

 選んだはずだった。
 考えたはずだった。
 なのに、どの瞬間も思い出せない。

「……」

 沈黙が落ちる。会議室の空気がわずかに揺れた。

「白石さん?」
 上司が不思議そうに首を傾げる。

 結衣は視線を下げた。ノートの上にペン先を置いたまま、何も書けない。自分の中から、何かが抜け落ちている感覚だけがはっきりしていた。

「あなたが選んだんでしょ?」

 その一言が、胸の奥に突き刺さる。
 否定したかった。違うと言いたかった。けれど、何を根拠に否定すればいいのか分からない。

「……そう、でしたっけ」

 ようやく出た声は、自分のものとは思えないほど薄かった。

 会議が進んでいく。結衣はただ座っているだけだった。誰かが決め、誰かが進め、結衣の知らないところで企画が完成していく。

 ――返却は順次行われます。

 白い紙の文字が、頭の奥でよみがえる。

 選択が、消えていく。
 結衣はそれを、はっきりと自覚した。

 仕事が終わって席に戻ったとき、モニターに映る自分の顔が、ひどく他人のように見えた。何も選んでいない人間の顔だった。

 結衣は手を握りしめる。
 このまま、全部消えてしまったら。

 その恐怖だけが、初めてはっきりと、自分の感情だと思えた。