返却期限のある人生

 ノートを棚に戻したとき、玄関の郵便受けが鳴った。
 金属がぶつかる乾いた音に、結衣は肩を震わせる。まだ昼間なのに、家の中がやけに静かで、その音だけが浮いて聞こえた。

 玄関に向かう途中、足音がやけに大きく感じられる。郵便受けを開けると、白い封筒が一通、他のチラシに紛れて落ちてきた。差出人の欄は空白。宛名だけが、母の字ではない、見慣れない活字で印刷されている。

 ――白石結衣様。

 妙に丁寧な文字だった。
 結衣はその場で封を切る。

 中に入っていたのは、薄い紙が数枚。
 一番上の紙に、太字でこう書かれていた。

 人生返却通知
 白石結衣様
 あなたの人生は貸与品です
 返却期限を過ぎています

 一瞬、意味が理解できなかった。
 次の瞬間、結衣は小さく笑った。乾いた、音だけの笑いだった。

「……何、これ」

 誰かの悪質な冗談だと思った。葬儀のあとで、心が弱っている人間に送りつけるには、あまりに趣味が悪い。結衣は紙を半分に折りかけて、ふと手を止めた。

 同封されていた、もう一枚の紙。
 表題は「人生目録」。

 箇条書きで、項目が並んでいる。

 ――進学
 ――就職
 ――恋愛
 ――我慢した日

 結衣は眉をひそめ、紙に目を落とした。
 次の瞬間、息が止まる。

 進学先。選んだ学部。内定を受けた会社。付き合った人の名前と別れた日付。
 書かれているのは、全部、結衣の人生だった。

 しかも、曖昧な記憶ではない。日付も、理由も、感情の有無まで、妙に正確だった。

 ――我慢した日:二〇一三年六月十七日
 ――理由:母の期待

 その行を見た瞬間、結衣の指先が冷たくなる。
 あの日、何を我慢したのか、思い出せない。ただ、胸の奥に重たい感触だけが残っている。

「……気持ち悪い」

 声に出した瞬間、家の中の空気が少し揺れた気がした。
 冗談だ。偶然だ。誰かが調べたんだ。そう言い聞かせても、目録から目が離れない。

 紙の下部に、小さな文字で一文が添えられていた。

 ――返却は順次行われます。

 結衣は紙を握りしめた。
 そのとき、胸の奥で、何かが確かに音を立てて動いた。

 笑えなくなっていた。

 白い封筒は、まるで最初からそこにあったみたいに、結衣の手の中で静かに重さを主張していた。