人生返却体験

 結衣は、母の部屋の前で立ち止まった。
 ドアノブに手をかけるまで、少し時間がかかる。

 開けると、空気が変わった。

 きれいだった。
 驚くほど、整っている。

 ベッドのシーツに皺はなく、棚の上に埃もない。
 カーテンはきっちり閉じられ、床には何も落ちていない。
 まるで、まだ母がそこに住んでいるみたいだった。

 結衣は、ゆっくり一歩踏み出す。

 母の人生が、部屋そのものになって残っていた。

 棚の一段目に、家計簿が並んでいる。
 年ごと、月ごと、色分けされた背表紙。
 ページを開くと、細かい数字と丸い字。

 食費、光熱費、結衣の学費。
 無駄な出費には、赤い線。

 ――迷わない人生。

 そんな言葉が浮かぶ。

 机の引き出しには、手帳。
 予定がびっしり詰まっている。

 通院、買い物、親戚の電話。
 空白の日は、ほとんどない。

 結衣は、ページをめくる手を止めた。
 自分の名前があった。

 「結衣 進路相談」
 「結衣 模試結果確認」
 「結衣 面談」

 母の人生の中心に、いつも自分がいた。

 胸の奥が、少し痛む。

 さらに奥の棚に、薄いファイルがあった。
 表紙には、鉛筆で書かれた文字。

 結衣の進路メモ

 幼稚園、小学校、中学校、高校。
 どの時期に、何をすべきか。
 どんな性格であるべきか。

 「協調性」
 「我慢強さ」
 「迷惑をかけない」

 結衣は、静かにファイルを閉じた。

 最後に見つけたのは、ノートだった。
 少し古くて、角が丸くなっている。

 表紙に書かれていた文字。

 良い娘でいるための心得

 喉が、きゅっと締まった。

 ページをめくると、母の字が並んでいる。

 「感情を出しすぎない」
 「人に合わせる」
 「我慢は美徳」
 「普通が一番」

 それは、結衣の人生そのものだった。

 結衣は、ノートを閉じて、膝の上に置いた。
 手が、わずかに震えている。

 母は、結衣の人生を支配していた。
 そう思っていた。

 でも、違う。

 母もまた、誰かの人生を生きていたのだ。

 誰かに教えられ、誰かに求められ、
 「良い娘」であることを疑わずに。

 その人生を、結衣に渡しただけ。

 結衣は、初めて母を憎まずに思い出した。
 そして、初めて、母の人生を哀れんだ。

 整いすぎた部屋の真ん中で、結衣は静かに立ち尽くす。

 返却するべきものが、
 ここに、すべて揃っている気がした。