人生返却体験

 会社を出ると、夜の空気が思ったより冷たかった。
 ビルの明かりが滲んで見える。目が疲れているのか、それとも現実が少しずつずれているのか、結衣には分からなかった。

 駅までの道は、毎日歩いているはずなのに、距離感が狂っていた。
 信号を渡るタイミングが半拍遅れ、人の流れにぶつかりそうになる。
 自分だけ、世界のテンポから外れている。

 電車に乗り、降りて、改札を抜ける。
 体は勝手に動く。
 考えなくても、帰り道は分かる。

 それが、余計に怖かった。

 帰宅途中、コンビニの明かりが目に入る。
 結衣は無意識に足を止めた。

 ――何か、食べないと。

 そう思った瞬間、頭の中が空白になる。

 何を食べたいか、分からない。

 お腹は空いている。
 胃が縮む感覚もある。
 なのに、選択肢が浮かばない。

 結衣はコンビニに入った。
 自動ドアが開く音が、やけに大きい。

 棚に並ぶ弁当、パン、総菜、スイーツ。
 色も形も、はっきりしているのに、どれも遠い。

 手を伸ばそうとして、止まる。

 どれが食べたいか、決められない。
 どれを選んでも、間違いな気がする。

 結衣は棚の前で立ち尽くした。
 時間だけが過ぎていく。

 後ろで、誰かが商品を取る。
 レジの音が鳴る。
 世界は普通に進んでいるのに、自分だけが止まっている。

 選べない。

 その事実が、じわじわと胸を締めつけた。

 今まで、選べていたはずだった。
 少なくとも、選んでいる「つもり」では生きてきた。

 でも、今は違う。

 どれも同じに見える。
 どれも、自分のものじゃない。

 結衣は棚から一歩下がった。
 足元がぐらつく。

 「……怖い」

 小さく声に出して、初めて気づいた。
 自分は、怖がっている。

 会議で黙ったときも、記憶が抜け落ちたときも、
 まだ現実感はなかった。

 でも、今は違う。

 食べたいものが選べない。
 それだけのことで、世界が壊れ始めている。

 選択がなければ、生きることすら続けられない。

 結衣は何も買わずに、コンビニを出た。
 冷たい夜風が、頬を打つ。

 スマホがポケットの中で重い。
 未返却の選択。
 残り時間。

 それらが、現実の重さを持って迫ってくる。

 結衣は歩き出す。
 足取りは、はっきりと震えていた。

 ――消える。

 このままでは、全部消える。

 初めて、はっきりとした恐怖が、胸の奥に根を張った。