人生返却体験

 スマホが、机の上で震えた。

 その振動は小さいのに、結衣の神経を正確に叩いた。
 ペンを置く音、キーボードの打鍵、空調の風音――すべてが一瞬だけ遠のく。

 嫌な予感が、背中をなぞる。
 それでも、無視できない。

 結衣はスマホを手に取った。
 画面に浮かんだ通知を見た瞬間、喉の奥がひりついた。

 【人生返却システム】
 未返却の選択:18件
 次の消失:11時間42分後

 数字が、動いている。
 秒が減っていく。
 現実の時間と、完全に同期している。

 冗談だとは思えなかった。
 冗談なら、こんなに正確である必要がない。

 指が震えながら、画面をスクロールする。

 ――あなたの人生は貸与品です。
 ――返却期限を過ぎています。
 ――未返却の選択は、順次消失処理が行われます。
 ――消失した選択は、復元できません。

 短い文の一つ一つが、胸に沈んでいく。

 貸与品。
 返却。
 消失処理。

 どれも、人生に使う言葉じゃない。

 結衣は目を閉じる。
 母の声が、はっきりと蘇る。

 「ちゃんとしなさい」
 「迷惑をかけないで」
 「普通に生きなさい」

 あれは、選択だったのか。
 それとも、命令だったのか。

 胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。

 18件。
 改めて見ると、少なすぎた。

 進学。
 就職。
 住む場所。
 付き合った人。
 別れた理由。
 言えなかった言葉。
 飲み込んだ感情。

 それだけで、もう18を超える気がするのに。

 結衣は気づく。
 自分の人生は、ほとんど選ばれていなかったのだと。

 選ばされたものを、選んだと思い込んでいただけ。

 スマホの画面が暗くなる。
 反射した自分の顔は、どこか他人みたいだった。

 返却しなければ、消える。
 返せば、どうなるのかは書いていない。

 それでも、理解できることは一つだけ。

 人生を返却しないと、選択は一つずつ消えていく。

 それは罰でも救済でもない。
 ただの、ルール。

 誰かが作り、誰かが決めた、逃げ場のない仕組み。

 結衣はゆっくり立ち上がった。
 足が床に触れる感覚が、少し薄い。

 残り時間は、11時間41分。

 カウントダウンは、もう始まっている。
 誰にも止められない速度で。