人生返却体験

  結衣は席に戻ると、椅子に沈み込むように腰を下ろした。
 会議室の空気がまだ肺の奥に残っていて、深く息を吸おうとすると胸が詰まる。喉の奥に、乾いた痛みがあった。

 デスクの上は、いつもと同じだった。
 モニター、キーボード、ペン立て、マグカップ。
 配置も高さも、何一つ変わっていない。それなのに、どこか遠い。

 結衣は、メモ帳を開いた。
 ページいっぱいに、几帳面な文字が並んでいる。行間も、余白も、整いすぎているほど整っている。

 会議の要点。
 修正箇所。
 上司からの指示。

 すべてが、正しい。
 正しく、必要で、無駄がない。

 なのに、胸が動かない。

 その文字を追っても、「やりたい」という感覚がどこにも湧かない。
 「面白そう」「嫌だ」「もう少し考えたい」
 そんな感情が、最初から存在しなかったみたいに、思い出せない。

 残っているのは、やるべきことだけだった。

 ToDoリストを開く。
 チェックボックスが、規則正しく並んでいる。

 ☑ 企画修正
 ☑ 上司確認
 ☐ 次回案作成

 チェックの印は、きれいだった。
 丁寧で、迷いがなくて、感情の混ざる余地もない。

 結衣は、ペンを持ち上げる。
 次の□を塗りつぶそうとして、手が止まった。

 なぜ、これをやるのかが分からない。

 やらなければならないことは分かる。
 でも、やりたいかどうかが分からない。

 それが、ひどく怖かった。

 「……私、これで生きてたんだ」

 小さくつぶやいた声は、モニターの黒い画面に吸い込まれて消えた。

 思い返せば、いつからだろう。
 仕事を「選ぶ」ようになったのは。
 それとも、最初から選んでいなかったのだろうか。

 結衣の目の前にあるのは、記録だった。
 感情の抜け落ちた、行動の履歴。

 それは人生じゃない。
 誰かに正しさを証明するための証拠だった。

 胸の奥が、じわじわと冷えていく。
 自分の中から何かが抜け落ちていく感覚が、ようやく実感として形を持つ。

 選択が消えるということは、
 自分が生きていた証拠が消えることだった。

 結衣は、メモ帳を閉じた。
 その音が、今日いちばん大きく響いた。