人生返却体験

 オフィスの自動ドアが開いた瞬間、結衣は一歩だけ立ち止まった。
 冷たい空気。キーボードの音。コーヒーの匂い。いつもと同じ朝のはずなのに、なぜか身体が「ここは違う」と告げている。

 歩き出すと、自分の席が妙に遠く感じた。
 数メートルのはずの通路が、やけに長い。
 一歩踏み出すたび、床がわずかに沈む気さえする。

 ――こんなに遠かったっけ。

 モニターが並ぶ島を抜け、ようやく自分の席にたどり着く。椅子を引く音が、耳に届くのが遅れた。
 音と動きが、ずれている。

 結衣は眉をひそめる。
 頭がぼんやりしているだけだ、と自分に言い聞かせた。

「おはようございます」

 誰かの声。
 反射的に顔を上げようとして、遅れる。
 名前を呼ばれるまで、それが自分に向けられた挨拶だと分からなかった。

「白石さん?」

 呼ばれて、やっと反応できた。

「あ、はい……おはようございます」

 声が、思ったより遅れて出た。
 同僚の表情が、一瞬だけ不自然に固まったように見えた気がして、結衣は慌てて笑う。

 パソコンを立ち上げる。
 起動音が鳴る。画面が光る。
 そのどれもが、ワンテンポ遅れて追いかけてくる。

 現実が、半拍ずつ遅れている。

 指を動かしても、文字が出るまでに間がある。
 マウスを動かすと、カーソルが少し遅れて滑る。
 自分の身体だけ、別の時間に置いていかれているみたいだった。

 周囲は普通に仕事をしている。
 電話に出る人、笑う人、急ぎ足で通り過ぎる人。

 誰も、ズレに気づいていない。

 結衣だけが、取り残されている。

 モニターの横に置いたメモ帳を開く。
 昨日書いたはずの文字が並んでいる。

「最終案 OK」
「方向性決定」

 その文字を見ても、胸が動かない。
 嬉しさも、達成感も、重さもない。

 あるはずの感情が、そこだけ空洞になっている。

 結衣は深く息を吸った。
 吐くのが遅れる。
 呼吸まで、半拍遅れている気がした。

 自分が今、何かを失っていることは分かる。
 けれど、それが何かが分からない。

 それが一番、怖かった。

 遠くで誰かが結衣の名前を呼ぶ。
 音が耳に届くまで、ほんの一瞬の空白。

 結衣は、その空白の中で思った。

 ――選択が、消えている。

 それも、静かに。
 誰にも気づかれないまま。