桜舞う4月。網戸越しに入ってくる暖かいそよ
風が、庭の桜の木を揺らしている。
目元を覆う重たい前髪が、ふわりと浮く。
薄茶色の瞳が、垣間見えた。
風にめくられた壁掛けカレンダーに目を向ける。
武骨な筆文字で記された「鹿島組」のロゴが、やたら目立っている。
赤ペンを手に取り、ロゴを消す。
そのまま、8の日付の下に書かれている“入学式”の文字を、丸で囲った。
——やっと、この日が来た。
6年振りの学校生活が、始まる。
この家と双子からの束の間の解放に、胸が躍る。
ほくそ笑む自分が、全身鏡に映る。
モカ色のブレザーに、ネイビーのチェック柄のスカート、胸元にはエンジ色のリボン。
県内では名の知れた「九南学院」の制服だ。
思ったよりも似合っている気がする。多分。
長い前髪がなければ、もっといいのに。
「長宮麗」と記された真新しいネームプレートを、ブレザーの胸ポケットに差し込んだ。
机の上にある写真を持ち上げる。
喫茶店を背景に撮った、親子3人の家族写真。
笑顔で映る麗と母の後ろに立つ父の顔は、黒く塗りつぶされている。
ざらりとした触感が指先から伝わる。
6年前、父は消えた。
——全部、壊れた。
私はあいつを許さない。
絶対に。
麗は目を閉じ、写真に向かって手を合わせた。
「お母さん、行ってきます」
ドンドン、ドンドン!
乱暴に部屋のドアが叩かれる。
——来た。朝から最悪。
麗の眉間に皺が寄る。
返事をする間もなくドアは勝手に開かれた。
「いつまで準備してんだよ」
制服姿の黒髪の男子が、不機嫌そうな顔でズカズカと部屋に入ってきた。
「ネクタイ」
放り投げてきた。
——私の仕事らしい。
「……ちっ。分かりました」
「おまえ、今舌打ちだろ!」
「いいえ、葵さま。気のせいでは?」
チンピラのように眉をしかめて睨みつけてくる。
麗は気にせず素早くネクタイを締め、最後の仕上げにキュッと締め付けた。
「て、てめえ!」
苦しそうに喉を押さえ、声を荒げる。
「……苦しいですか?」
緩めることはせず、掌を上に差し出した。
「何だよ」
葵は眉をしかめ、何もない掌に目を向けた。
「ネームプレートは?」
「は? あんなのつけんのかよ」
「つけないならいいですけど。時間もないですし、そろそろ行きましょう」
部屋を出て玄関に向かう。
「……待てよ。やれ」
麗の腕を掴んで振り向かせる。ブレザーのポケットから「鹿島葵」と記されたネームプレートを取り出した。
「あるなら初めから出してください。時間のムダです」
——毎回、これだ。
「おまえ、ほんっと生意気になったよな。うちに来た時はあんなに怯えてたくせに」
口の端っこを持ち上げて小馬鹿にした笑いを浮かべる。
こいつはほんっとに成長しない。
体だけ大きくなっても、中身は悪ガキのまま。永遠のクソガキめ。
内心の苛つきを表に出さず、麗はネームプレートを葵の胸ポケットに差し、踵を返した。
「無視すんな!」
聞こえなかったことにして、玄関に急ぐ。
「おはよう、麗ちゃん。制服似合うね。可愛い」
広々とした玄関土間に行くと、葵と同じ顔をした茶髪の男子が、笑顔で手を振ってきた。
——心にもないことを。
目だけ、笑っていない。
作り物めいた笑顔を見るたび、鳥肌が立つ。
「……晴くん、おはようございます」
会釈をすると、走ってきた葵に頭を叩かれた。
「いたっ!」
頭を押さえて非難の目を向けると、葵は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「あれ、アオがネクタイちゃんとしてる。麗ちゃんにやってもらったんでしょ。高校生にもなってやってもらうとか、ひくわ~」
ぷぷっと笑いながら口元を押さえる晴を、葵は睨みつけた。
「うるせえな、クソガキ。黙れ」
「ガキっていうけど、同い年じゃん」
「てめえは弟だろうが」
「双子の場合、それ成立しないと思うんだよね」
取るに足らないことで言い争う2人を尻目に、麗は玄関を開けて庭に出た。
はあ。疲れる。
早く学校に行って、2人から離れたい。
溜息交じりに表門を潜る。
門の前に停車している黒塗りの高級車に気づき、足を止めた。
——あの人だ。
全身に緊張が走る。
葵と晴が麗に追いつくと、後部座席の窓がゆっくり下ろされた。
「アオ、ハル。悪目立ちすんじゃねえぞ。次郎くんにも宜しくな」
葵と晴に似た端正な顔立ちの中年男性が、顔を出した。
「麗、学校でも2人の世話係だってこと忘れるな」
ドスのきいた低い声が、麗の胸をざわつかせる。
「……はい」
——逆らえない。
すぐに窓が閉まり、車は走り去って行った。
「クソ親父、うるせえよ」
「父さんは、麗ちゃんのこと “モノ”としかみてないよね。……かわいそうに」
晴が同情の眼差しを向けてくる。だが、目の奥は、愉快気に笑っている。
麗は地面を睨みつけながら、葵と晴の一歩後ろをついていった。
「麗ちゃん、変な顔で下ばかり見てたらつまらないよ。上を見て」
晴の声に顔を上げると、学校前の通りに桜が立ち並んでいる。
「入学式に桜が満開なんて珍しいよ」
朝日を受けて、薄い桃色の花弁がキラキラ輝く。
——眩しすぎて、目が痛い。
「ハルさまだ!」
「アオさまもいる!」
「ツイプリ揃ってると、最高!」
遠目から女子たちが、熱い視線を送っている。
何で“さま”づけ?
“ツイプリ”って……、ツインズプリンスってこと?
ださっ。
「おい、ついてるぞ」
葵がふいに振り向いてきた。
「え? 何が…」
葵が麗の頭の上に手を伸ばしてくる。
「何、あの子」
「アオさまとどういう関係?」
女子たちの怪訝な視線が突き刺さる。
麗は咄嗟に身をかがめ、葵の手は空を切った。
「避けるなよ」
怒りと気恥ずかしさで顔をしかめて睨みつけてくる。
——避けるでしょ。
「ほら、ついてるよ」
晴が麗の頭についていた花びらをさっと取った。
——余計なことを……。
「何なの、あの地味女」
「ハルさまと近すぎ!」
「うらやま…‥じゃなくて、むかつく!」
嫉妬の視線が痛い。
何でこいつらのせいで、私が妬まれないといけないわけ?
理不尽すぎる。
「あ、ごめん。アオがとってあげたかったんだよね」
花びらを吹いて風に飛ばし、くすくすと口に手を当てて笑う。
「うるせえ。調子のってんじゃねえぞ」
晴の肩にグーパンをお見舞いしてから、葵はひとりで校庭を突っ切って行った。
「アハハ、アオって、いつまでたってもガキだよねえ」
「人のこと笑えないと思いますけど」
麗が冷たい眼差しを向けると、晴は顔を近づけ、耳元で囁いた。
「ぼくはアオよりずっとオトナだよ」
——近い。
何で、この人は……。
「離れてください」
一歩退いて、距離を取る。
「顔、赤いよ」
晴の手が頬に軽く触れる。
絶対、うそだ。
鳥肌が止まらないんだけど。
ちらりと周囲を見ると、女子たちの視線が一斉に集まっていた。
晴は女子たちに、人当たりの良い笑顔で手を振った。
「キャーッ!」
興奮した女子たちの黄色い声が、耳をつんざく。
「麗ちゃん、女の子たちに目をつけられちゃったね」
いたずらっぽい笑みに、背筋がぞわっとする。
わざと? ……こいつならやりかねない。
「それで?」
笑っていない瞳の奥を睨みつける。
「ハルさま!」
「制服ステキ!」
「プリンススマイル、最高!」
周囲の女子たちが、晴の周りに集まり出した。
麗は女子の群れから逃れ、溜息をつく。
みんな、あの笑顔に騙されてる。かわいそうに。
——私には関係ないけど。
厳かな雰囲気の中、入学式が始まった。
理事長が演台に立つと、新入生たちは一斉にざわめいた。
「理事長、イケオジすぎない?」
「俳優みたい。職業間違えてない?」
女子たちの囁きがあちこちから聞こえてくる。
誰かに、似てる気が……。
最前列で、葵と晴に挟まれて座っている麗は、理事長の顔と2人の顔を見比べ、首を捻った。
まさか、ね。
「入学、おめでとう」
凛とした低い声が、体育館内に響く。
マイクを持って演台の前に出る。
「長々と話しても、君たちの記憶には何も残らないだろう
しんと静まり返る生徒達を見回し、朗らかな笑みを浮かべた。
「私から一言だけ、君たちに贈ろう」
長い人差し指をぴんと立てる。
全員の視線が理事長に注がれる。
「ここで何を選ぶかで、人生が変わる。……後悔のない選択を」
それだけ言うと、マイクを戻して席に戻った。
本当に一言で終わってしまった。
でも。
場の空気は、完全に支配された。
「続きまして、新入生代表の挨拶。主席入学の長宮麗さん、お願いします」
固い表情で立ち上がろうとする麗の足を、葵が踏みつける。
「痛いっ。ちょっと!」
葵を睨みつけると、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「麗ちゃん、頑張ってね」
晴が目を細めて笑いかける。
なんだろう。……怖い。
演台の前に立ち、一礼をする。
100人を超える新入生の視線が注がれる。
カンペを取り出そうと、ブレザーのポケットに手を入れた。
あれ? ない? 何で?
もう片方のポケット、スカートのポケットを探っても見つからない。
前方を見ると、晴が憐れみの表情で手を振っている。指の間に、見覚えのある紙が挟まっている。
……あのドS。
麗は項垂れ、マイクを手に取る。
キーーン。
不快な音が反響する。文句や不満の声がさざめく。
——けど、問題ない。
顔を上げる。
前髪の隙間から、全体を見回す。
ふうっと短く息を吐き、マイクに口を近づけた。
「新入生を代表して、ご挨拶申し上げます。創立60周年という意義深いこの年に、入学できたことを、大変嬉しく思います」
ひとりひとりに語りかけるよう、左右にゆっくり顔を動かす。下は一切見ない。
二言、三言と続けるうちに、ざわめきが徐々におさまっていく。
「すごいね。一字一句、同じだ」
カンペを見ながら、晴が目を見開いた。
「最後に一言……」
麗が口を閉じる。
静寂が訪れ、空調の音がやけに大きく聞こえる。
麗は一瞬、壇上の端に座る理事長に目を向け、すぐに前に向き直る。
笑顔を意識して、口角を上げた。
「私は、流されず、自分で考え、自分で選んでいきたいと思います。ありがとうございました」
マイクを置いて一礼する。
パラパラとまばらな拍手から、次第に大きなものへと変わっていった。
「……なんだよ、あれ。調子狂うな」
葵は無意識に呟いていた。
「さすが首席。最後の一言は、アドリブ?」
席に戻ると、晴が囁いてきた。
「さあ。どうでしょう」
晴の手からカンペを奪い取り、ポケットに押し込んだ。
「続きまして、在校生を代表して生徒会長の佐沖澪さんから挨拶をしてもらいます」
長い黒髪をなびかせ、壇上に上がる。胸元の紫紺色のリボンが揺れる。
「すっごい美人」
「顔小さくて、足細い! モデルみたい」
感嘆の声が広がる。
一礼して、柔らかい笑みを浮かべた。
誰もが息を呑む。
「うさんくさい。おまえと同類だろ」
葵が鼻で笑った。
「否定はできないかな」
ふふっと笑みをこぼす。
麗は怪訝そうに目を細め、澪を上げた。
凛とした姿勢で、アナウンサーのように聞き取りやすい声が耳に心地良い。
思わず聞き入ってしまう。
「——人は、環境によって変わります。だからこそ、正しい方向へ進むことが大切です。私たち生徒会が、皆さんをサポートします。これから、宜しくお願いしますね」
大きな拍手が起こる。
花がほころぶように、華やかに微笑む。
ほんの一瞬、澪と目が合う。
気のせい? …‥‥なんだろう。
嫌な感じがする。
「各クラスに移動してください」
誘導の声がかかる。
椅子を引く音が、一斉に響く。
人の流れに押されるように、歩き出した。
3組の教室の前で立ち止まり、葵と晴に声をかけた。
「じゃあ、私は3組だから、ここで」
だが、2人の姿はない。
さっきまでいたんだけど。まあ、いっか。これでようやく、2人と離れられる。
晴れ晴れした気持ちで教室に入った途端。
「キャーッ!」
女子たちの歓喜の叫びを浴びせられた。
「ツイプリと同じクラスとか、神!
「私、中学の時からファンです!」
「私も! ファンクラブも入ってるよ!」
女子たちは興奮気味に甲高い声で、盛り上がっている。
な、何で、あいつらが⁉
慌てて黒板に貼られている席順を見に行く。
教室の中央辺りに、自分の名前。
3組なのは、間違っていない。
一度気持ちを落ち着かせて、右端から順に見ていく。
1列目を見終えて、2列目にさしかかった時。
鹿島葵。
鹿島晴。
双子の名前が、縦に並んでいる。
どうして……。
あの時、何も言ってなかったのに。
入学前に通知が来た時のことが、よみがえってくる。
「それよこせ」
通知を葵に奪われ、晴も覗き込んできた。
「3組、か」
「へえ」
葵は顔をしかめ、晴は笑顔で、自分たちの通知をぐしゃっと握りつぶした。
あの後何も言わなかったから、同じクラスじゃないと思い込んでいた。
なのに、何で。
偶然にしてもできすぎてる。
——まさか。
葵と晴の父親の圧力?
裏社会の権力者とはいえ、いち保護者なのに。
……いや、あり得る。
「麗ちゃん、ぼくたち同じクラスだね!」
わざとらしい大声で、晴に名前を呼ばれる。
おそるおそる振り返ると、クラスメイトの目線が一斉に集まった。
女子たちは訝しみ、男子たちは好奇心に溢れた目をしている。
「……人違いでは?」
苦しまぎれの言い逃れをするが、通用するはずがなかった。
「何言ってんの。ぼくが人違いなんてするわけないじゃん。一緒に住んでるのに」
教室中が一斉にざわめきだし、騒々しくなる。
「何それ、どういうこと?」
「モブ女のくせに、意味分かんないんだけど」
目を吊り上げた女子たちが、敵対の意思を込めてにらみつけてくる。
「同棲ってことか?」
「鹿島兄弟と? やらしいな」
男子たちはいやらしい目つきでまじまじと見つめてきた。
終わった……。始まってもいないのに。
でも、ここで俯いたら負けだ。
何も悪ことしてないのに。事情も知らないくせに、責める方が悪い。
麗は全員の視線を受け止め、睨み返した。
クラスメイトたちは怯み、ざわつきがおさまった。
———だが。
「おまえら、変な勘違いすんなよ。こいつは俺の下僕だ。手出すんじゃねえぞ」
唐突に麗の前に立ちはだかった葵が、クラスメイトを睨みつけた。
一瞬の間の後。
「えーっ‼」
悲鳴に近い驚きの声が響き渡り、蜂の巣をひっくり返したような大騒ぎとなった。
ありえない。
何でわざわざ言うわけ?
「本当に、終わった。私の高校生活……」
麗は膝の力が抜け、その場にしゃがみこんだ。
「くすくす。アオ、最高」
笑いを堪えている晴の肩に、葵が肘を乗せる。
「お前もあいつにちょっかい出すな」
唸るような、低く重い声。
「麗ちゃんは、ぼくのモノでもあるんだよ。2人の誕生日プレゼントにもらったってこと、忘れたの?」
晴は葵の肘をどかし、肩をすくめた。
力なく立ち上がった麗は、拳を握りしめた。
私は、誰のモノでもない。
その言葉は、ずっと言えないままだ。
葵が眉間の皺を深くして舌打ちをし、教室を出て行こうとする。
その時、校内放送が流れ、室内は少し落ち着きを取り戻した。
『呼び出しをします。1年3組の鹿島葵さん、鹿島晴さん、長宮麗さん。至急理事長室に行ってください』
心当たりが何もない。この2人のせいとしか考えられない。
入学早々、こいつらのせいで、高校生活めちゃくちゃだ。
——最悪。
……ほんとに、最悪。
戸惑うクラスメイトたちの視線から逃げるように、麗は葵と晴を連れて急いで教室を後にした。
重厚なダークブラウンの扉を見上げ、麗はふうと息を吐きだした。
ノックをしようとした時。
葵がドアを開けて、中に入って行ってしまった。
そのまま、革張りのソファに腰を下ろし、足を組んで座った。
麗は顔が青ざめていき、窓を背に座っている理事長に深々と頭を下げた。
「失礼な態度をとって申し訳ございません!」
私のせいじゃないのに、何で謝らないといけないの……。
「麗ちゃん、気にしなくていいんだよ」
「は?」
正気じゃない。
「次郎叔父さん、久しぶり~」
晴は理事長に向かって、親し気に手を振った。
叔父さんって、どういうこと?
「君が、麗さんだね。義兄さんから話は聞いてるよ」
葵と晴の父よりも年齢が若く見える。
おそらく、2人の母親の弟なのだろう。
うっすら似ていると思ったのは、気のせいではなかったようだ。
「で、呼び出しまでして何の用だよ」
葵は伸びをして完全にくつろいでいる。
「君たちには“ウラ風紀委員”をやってもらう」
何、それ。
「3人とも、やってくれるね」
これは問いかけではない。
命令だ。
拒否権などない。
けど。
「どうして私も、なんですか? 普通に、部活も委員会もやってみたいんですけど」
万が一にかけて、一応、抗ってみる。
「君には、2人の世話係としての責任があるじゃないか」
当然のように言われ、麗は愕然とした。
「自由に、なりたいかい?」
自由。
そんなもの、本当にあるの?
「選びなさい。ウラ風紀委員をやるか、入学を取り消して籠の中の鳥に逆戻りするか」
理事長は2本指を立てて、微笑む。
そんなの、ずるい。
惑わされるところだった。
理事長が自由を与えてくれるわけじゃないのに。
「選べないと、言ったら……?」
思わず口からついて出た。
「そうか。選ぶつもりはない、と」
理事長は笑顔であっさり頷いた。
え? ウラ風紀委員やらなくてもいいの?
「では、任命する」
「……はい?」
「理事長権限で、強制執行させてもらう」
——やっぱり。
「今日から君たちは、ウラ風紀委員だ」
逃げ場なんて、最初からなかった。
——選ばされたとしても、流されるつもりはない。

