アンドロイドの紫ノくんと、負け犬の俺


 その日も何事もなく授業が終わっていって、紫ノくんは俺の家で泊まることになった。
 いつも通り、カフェで待ち合わせをしている時だった。
 軒下でぼんやりとしていたら、ふと、女の子がこちらに近づいてくる。
 どうしたのだろうと、でもまだ話しかけられたわけでもないから、俺は素知らぬふりをした。すると、女の子が俺に声をかけてくる。
「あの、田手くん、だよね?」
「うん、そうだけど」
「あの、私、二年生の河辺です。……連絡先、聞いても良いですか」
「え?」
 俺は人生初めての体験に、思わず目を見開いた。紫ノくんの連絡先を聞かれると思ったからだ。だって、今までも紫ノくんの連絡先をしつこく聞いて来ようとする女子は居たけど、俺の連絡先を知りたいと言う人間が現れたのが初めてだった。
「申し訳ないけど、俺と連絡先交換しても、染崎くんの連絡先は教えないよ?」
 すると河辺さんが違う、と首を横に振るのだ。
「違うの、私は、田手くんと話したいの」
「……どこかで話したことある?」
「うん、一年生の頃、グループワークで」
「……ああ、思い出した。リーダーしてくれてたよね?」
 俺は河辺さんが初対面じゃない人間であることを思い出した。物静かな女の子で、押し付けられるように他の生徒からリーダーをさせられていたのだ。それが可哀想で、俺は資料作りやスライド作りを教えた記憶がある。
 それから、もう一年以上経っているが、この河辺さんは、その時の想いが過去にならなかった、と言うことなのだろうか。
「河辺さん」
「何?」
「俺ゲイだよ」
 だから、貴方のことは恋愛的な意味で好きになることも、興味を持つこともない。そう伝えたらきっと、嫌悪感と動揺、人としての体裁を保とうとする。そんな反応を返されると思っていた。
 でも河辺さんは瞬いただけで、頷いた。
「それでもいい。私、お友達になれるだけで嬉しいから」
「……ずっと、そう思い続けてきてくれたってこと?」
「うん。ずっと、あの時のお礼が言いたくて。私、押し付けられて、やっぱり私みたいな自分の言いたいことを言えない人間が損するなんてわかってるのに、変われなかった。でも田手くんが助けてくれて、その時気づいたの。優しい人は、たくさんいる訳じゃないんだって。大切にしないといけないんだって。私、田手くんの連絡先が知りたいんじゃなくて、……今言うね。田手くん、好きです。あの時、助けてもらってありがとうございました」
 頭を下げて、そして立ち去ろうとする河辺さんに、今度は俺が引き止めた。
「河辺さん、連絡先交換しよ」
「えっ!?」
「ごめん。河辺さんのことは恋愛的には見えない。でも、俺がゲイだって知って、何の動揺も見せずに頷いてくれた女の子と、友達になりたい。なってくれる?」
 今度は俺が真剣になる場面だった。
 俺はじっと、河辺さんに視線を向ける。
 河辺さんは驚いていたが、恐る恐るポケットからスマホを取り出してくれた。
「私で良ければ」
「本当? ありがとう」
 そして連絡先を交換して、俺は河辺さんとそこで別れた。
 すると計ったように、紫ノくんが現れた。
「行こう」
 手を差し出されて、俺は躊躇って、でも握り返した。
 そして電車に乗って、俺の家の最寄駅で降りて、母さんは居なかった。大方買い物にでも行っているのだろう。電動自転車がなかったから。
 紫ノくんはずっと黙って俺と手を繋いでいた。俺はどうしたのか聞こうと思って、でも思いつくのはさっきのことで。見られていたのかもしれないなと思った。
 俺が女の子と連絡先を交換して、その先に何があるのか。
 俺は女の子を好きになれない。そんなこと、知ってるくせに。
 俺は家の鍵を開けた。
 俺が先に入って、靴を脱ぐ。そして紫ノくんも靴を脱ぐと、買い物袋を置いて、俺の腕を引っ張った。
 そして、腕の中に抱きしめられる。
「さっきの女、誰」
「一年生の時、グループワークで一緒になった子だよ」
「日生くんことが好きなの?」
「らしいね」
 すると、紫ノくんは静かになって、俺を抱きしめる力が強くなる。
「紫ノくん、俺、男しか好きになれないよ」
「わかってる。でも日生くんに好意がむけられてるっていう時点で嫌なんだ。日生くんのことは俺がわかってたらいい」
 俺は紫ノくんの感情の重さに、ちょっと笑ってしまった。
 でもこんなこと言われたって、俺は紫ノくんを拒絶しようと思わない。
 反対に嬉しいくらいだ。
「大丈夫大丈夫、俺もう誰のことも好きにならないって言ったでしょ」
「僕のこと、好きでしょ」
「……ううん」
 俺は紫ノくんの腕の中、穏やかに首を横に振った。
 すると紫ノくんが俺を抱きしめる手を緩める。
「僕のこと、恋人にしてよ」
「……」
「ずっと待つからさ、人生の終わりに、俺が恋人だったって言って」
「待ちすぎだよ」
「そうかな。でもそれくらい、待てるよ」
 俺は、息をついた。
 だって、もう良いかなと思い始めているから。
 こんなにも想ってくれている。それに応えないのは、俺が逃げている証拠で。
 裏切られたって、紫ノくんにならもう良いかな。
 俺は玄関口、蒸し暑い部屋の中、少しの間抱きしめあっていた。
「紫ノくん」
「うん?」
「ちょっとだけ、考えさせてくれる?」
「待つよ、ずっと待つ」
「ありがとう。出来るだけ、待たせないようにするから」
 俺たちは身体を二つに戻すと、冷蔵庫に買ったものを入れて、溶けているカップアイスを食べた。今の俺は、このアイスみたいなものだ。曖昧で、ドロドロして、いつまでも過去を恐れて、自分の心を掴み取れない。
 紫ノくんはくつろいだ様子でアイスを食べている。
 口をつけて、コーヒー味のアイスを食べる紫ノくんをぼんやり見ていたら、ふと、目の前に差し出された。
「ん」
「え、良いよ。大丈夫」
「美味しいよ」
 そう言われたら、俺は一口吸い上げて、バニラに満ちていた口の中にコーヒーの味を入れる。
 いつもより苦さが増しているような気がしたけど、美味しかった。
 そして俺たちは夕飯を作って、お風呂に入って。
 でもその日、俺たちは何故か、二人で風呂に入っていた。
 俺が風呂に入っていると、紫ノくんがさっさと服を脱いで、浴室の中に入ってきたのだ。
 二人で入ると狭い風呂の中、俺は紫ノくんの身体をできるだけ見ないようにしながら、浴槽に入っていた。
「なんで入ってくるの、紫ノくん」
「久しぶりに、一緒に入りたくなって」
「それ小学校の時の話でしょ」
「大丈夫、大きくなってもそんなに変わらないよ」
「変わるよ……」
 紫ノくんは変わらず、マイペースだ。
 そして俺に手を伸ばすと、濡れた髪に指が触れる。
 そしてその指は頬に伝って、目元を撫でる。
 その手は穏やかだったけど、確かに熱を孕んでいた。俺は何をされるんだと思って、静かにその手を甘受しながら少し、ドキドキしていた。
 紫ノくんに触れられながら、俺はまだ、やっぱり怖くて、のぼせる前に上がろうとする。
「じゃあ紫ノくん、俺先に上がるから」
「はーい」
 そして俺は自分の身体を洗うと、浴室を出た。
 でもその時点でわかる。フラフラする。
 俺は急いで冷蔵庫から冷えた水を取り出して飲んだ。でもそこで力尽きてしまって、俺は母さんに行って自室に戻る。
 そして、紫ノくんが部屋に戻ってきた。
 ついで、俺の状態に気付いたのだろう。足早に近づいてくる。
「のぼせた?」
「うん……」
「わかった。もうちょっと水飲もう。冷却シートとかある? それか氷枕」
「両方、ある」
「わかった」
 倒れる俺の頭を抱えて、紫ノくんは水を飲むと、俺の顔に近づいてくる。
 そして、唇が触れ合った。これが紫ノくんじゃなかったら、俺は叫び出して相手を殴っているところだっただろう。
 ファーストキスだった。でも、紫ノくんが相手で良かったのかもしれない。だって、こんなにも俺を愛してくれている人に唇を奪われるなんて、反対に幸運なことだ。
 少し温くなった水を何度も飲み干して、俺は一息ついた。
 そして俺の額に口付けると、勝手知ったる部屋の中、押し入れから布団を取り出して、小机とソファを片付けると、敷布団を引く。
 そして紫ノくんの視線の先を見た。時計があって、今は二十一時。
「ごめん、まさか、のぼせるとは思ってなくて……」
「いや、俺も悪戯してたから、悪いのは俺だよ。ごめんね」
「それは、俺のせいじゃないな……」
「うん」
 そう言って、紫ノくんは俺が完全に回復するまで、水を飲ませてくれたり、冷却シートを変えてくれたりした。
 甲斐甲斐しく世話を受けていたら、俺はいつの間にか眠っていたららしい。
 鴉の鳴き声が聞こえて、俺の意識は覚醒する。
 そして時計を見て、俺は飛び起きかけた。
 十二時四十分。講義に遅れたと思った。
 でもよくよく日付を見てみれば、土曜日で。俺は一息つく。
 すると俺が起きたことで目が覚めたのか、紫ノくんがあくびをしながら、伸びをする。
「おはよう、日生くん」
「おはよう、紫ノくん。昨日はありがとう」
「どういたしまして。もう大丈夫?」
「大丈夫」
 俺は外れかけの冷却シートを剥いで、二つ折りにする。
 そしてベッドの足元に置いてあった水を飲んだ。生ぬるい温度になっている。
 つけていた冷房はいつの間にか消えていた。紫ノくんがタイマーセットをしてくれたのだろうか。
 部屋の中は暑くもなく寒くもない。俺は起き上がって紫ノくんの身体を跨ぐと、テレビをつけた。今日の気温が知りたくて。
 すると間のいいことに、すぐに天気予報が見れる。
「今日は二五度……」
「寒くない?」
「昨日二十八度だったもんね。もう寒いのか暑いのかわかんないな」
 着る服に困るのだ。今日は半袖に、夜中、薄手のカーディガンでも羽織ればいいのだろうか。
「最低気温十五度だって」
「それってあったかいの?」
「冬並みだね」
「地球、もうおしまいなのかな……」
「最後は二人でいようね」
 紫ノくんが冗談っぽく、でもきっと本気で言っているのだろう。俺は頷いた。するとそれだけで紫ノくんは上機嫌になるものだから、こと俺のことになると、基準が緩くなっている気がする。俺だけにチョロいのだ。可愛いなと思う。
 ちゃんと考えると言った。
 言ったからには、ちゃんと考えないといけない。俺は朝ごはんのトーストを焼きながら、中でオレンジ色に光る色を眺めていた。

「河辺さん、おはよう」
「おはよう、田手くん。レポート提出した?」
 俺は眠気まなこを擦りながら、大きく欠伸した。今日は、紫ノくんと授業のコマは全く別だった。
 河辺さんはパソコンを開いて、俺の様子に察したのかもしれない。小さく微笑む。
「ギリギリに提出した感じ?」
「うん。三時まで起きてた」
「それは、きついね」
 俺は河辺さんの隣に座ると、同じようにパソコンを取り出した。
「河辺さんはさ」
「うん?」
「俺のこと好きって、言ってくれたじゃん?」
 河辺さんは少し恥ずかしそうにしながらも、ちゃんと頷いてくれた。本当に、純粋な子だ。幸せになってほしいと心底から思う。
「俺ね、今、好きだって言われてる相手がいて。その相手が大切なんだ。でも、きっといつか、俺のことが嫌になる。好きじゃなくなる、そう思っちゃうんだよね」
「そっか。でも、未来のことは誰にもわからないよ」
 河辺さんは、はっきりとそう言う。一年生の頃のオドオドしてた河辺さんじゃなくて、はっきりと意見の言える子になっていた。
 俺はそれが嬉しくて、ちょっと笑ってしまう。
「? 私、なんか変なこと言っちゃったかな」
「ううん。だって、河辺さん、成長したなあって。俺にはっきり言ってくれてありがとう。そうだよね、未来のことなんて、誰にもわからない」
 でも俺は臆病者だから、一秒先に、紫ノくんの運命の人が現れるのを怯えているんだ。
 俺がぼんやりしていると、河辺さんの手が俺の肩に乗る。まるで、労わるみたいに。
「恋をしてるの?」
「……かも」
「相手は染崎くんだよね?」
「え、知ってるの?」
「高校一緒だったの」
「ええ、そうなんだ」
「うん。染崎くんは覚えてないと思うけどね。でも、染崎くん、バイだったんだ……」
「?」
「あ、いや、……染崎くん、高校生の頃学校で一番美人だっていう女の子付き合ってたの」
 俺の胸に、大きな穴が空いた。
 河辺さんは俺の顔色をすぐ察して、自分が失言したと思っただろう。何か言えることはないかと、目の前で探している様を、俺はぼんやり眺めていた。
「でも高校卒業したと同時に別れたって言ってたから。二人とも未練ない感じだったよ。噂で、男よけ女よけで付き合ってたって言われてたし」
 河辺さんの言葉が右から左と流れていく。
 そうか、紫ノくんは女の子も好きになれるんだ。
——俺だけじゃなかったんだ。
 俺は授業を受け終えると、紫ノくんからの連絡を無視して、大学を出た。
 そしてそのまま、俺は祖母の家へと逃げたのだ。
 駅のホームで、電話する。
「ばあちゃん、家行っていい? 泊まりたい」
「あら、来るの? 良いわよ、気をつけてね」
 ばあちゃんは気軽に頷いて、俺に何を食べたいか聞いてくるから、なんでも良いと言っておいた。ばあちゃんの作るご飯はみんな美味しいからと。
 俺は電車に乗り込むと、何度も乗り換えをして、二時間後に、他県にある祖母の家の最寄駅へと辿り着いだの。
 その頃には着信が山ほどあって、全部紫ノくん、そして一件は河辺さんからだった。余計な事を言ってしまった”と、染崎くんと離れて欲しくないと、そう言ったメッセージだった。俺は河辺さんには嘘をついて、大丈夫だと送った。気にすることはないと。
 紫ノくんのメッセージには祖母に突然呼び出されたと言っておいた。嘘だ。
 でも、本当のことを言う気分でもなかった。
 そして俺はスマホの電源を切ると、電車に乗り込んで、何度も乗り換えをしながら、田舎町に着く。
「らでん、らでん、ボタンを押して、扉をお開けください」
 俺は降りると、二十分歩いて、ばあちゃんの家に辿り着いた。
 ばあちゃんも、俺がゲイであることを知っている人間の一人だった。
「日生が幸せになれるなら、おばあちゃんは誰でも良いわ。幸せならいいの」
 そう言って幼い頃の俺を抱きしめてくれた。紫ノくんが消えて、孤独に喘ぐ俺に。きっとその時、ばあちゃんは気づいていただろう。俺が紫ノくんに友情以上の感情を抱いていることに。そしてそれを黙り続けてくれていた。
 インターホンを押すまでもなく、俺は門扉をあけて、鍵のかけられていない引き戸を引く。
「ばあちゃん!」
 そう大きな声で呼び掛ければ、奥から「はーい」と声が聞こえた。
 そして片手にはたきを持った割烹着のばあちゃんが笑ってくる。
「久しぶりねえ。大きくなった?」
「身長は相変わらずだよ、おばあちゃんがちっちゃくなったんじゃない?」
 俺がニヤリと笑って見せれば、おばあちゃんも微笑む。
「よく来たわね、上がっていきなさい。おばあちゃん、おじいちゃんの仏壇の掃除が終わったら行くから」
「はーい」
 俺はなんでもない顔で、靴を脱いで、居間へと歩いた。
 座卓が置かれていて、目の前には大きな液晶テレビがある。隣の部屋は縁側になっていて、じいちゃんは生きている間、ずっと縁側にロッキングチェアを置いて、庭の景色を眺めていた。
 俺は居間の座布団に座ると、あ、と立ち上がる。
 そして二人分のグラスにお茶を入れて、座卓に置いた。
 少しして、俺がテレビを見ていたら、ばあちゃんが居間に帰ってくる。
 そして手を洗っているから、俺は背後に声をかけた。
「ばあちゃん、お茶用意したから飲んで」
「はーい」
 そしてばあちゃんは一度割烹着を脱ぐと、テレビの真正面に座る。画面には夕方のニュース番組が流れていた。
「明日、真夏日ですって」
「嫌だなあ。ねえ、ばあちゃん。一週間くらい、この家に居て良い?」
「好きにしなさい。その代わり、いろいろ手伝ってね」
「わかった」
 俺はそれから、ばあちゃんと特に話すことはなかった。ばあちゃんは俺に何かがあったことを察しているのか、テレビを眺めては、たまに一人でつっこんでいる。
 夜になった頃だ。日が落ちるのがどんどん遅くなっている。十八時ごろ、外はまだ明るかった。
「ばあちゃん、今日の夕飯決まってる?」
「あんたが来たから、庭の茄子使って麻婆茄子にするわ。その他は、そうねえ、オクラの醤油あえとか良いかしら。冷奴に、お味噌汁。それでいい?」
「うん。十分。手伝うよ」
「良いわよ。ゆっくりしておきなさい。後で、おばあちゃんに何があったのか、話せるなら話してね」
「……うん」
 ばあちゃんが台所へ消えていく。
 ばあちゃんはいつも、俺が逃げ出してくると必ず受け入れてくれるのだ。
 中学生の頃「ホモ野郎」と罵倒された時、傷が大きすぎて、誰にも言えなくてばあちゃんの家に逃げ込んだ時も、ばあちゃんは何も言わず、そばにいてくれた。父さんと母さんには言えなかった。今となれば俺がゲイだって知ってるけど、それも、行ったのは高校生の頃だ。それまで、俺が女の子を好きになれないことを知っていたのは、ばあちゃんだけだった。
 俺は立ち上がって、ばあちゃんの邪魔にならないところに座ると、その料理姿を眺める。
 するとばあちゃんは手のひらを皿にして、麻婆茄子の味見をさせてくれた。
「美味しい」
「良かった」
 そう言って、俺は出来上がった料理をみんな座卓に置いていく。
「お味噌汁、いっぱい飲む?」
「うん」
 俺はばあちゃんの味噌汁が大好きだった。じゃがいもがゴロゴロ入っていて、味がよく染みているのだ。
 そして、準備が終わって、俺は座布団の上、正座をした。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
「ばあちゃん」
「うん?」
「染崎紫ノくんって覚えてる?」
「ああ、あの親友の子?」
「そう」
 俺は箸を取ると、まずお味噌汁に箸を入れる。じゃがいもを掴んで、口の中に入れると、予想通り熱くて、俺は口の中に空気を入れながら、噛み締めた。
 おばあちゃんは俺の方を見ながら、麻婆茄子に箸を伸ばしている。
「その子にさ、告白っていうか、ずっと好きだったって言われたんだよね」
「そう」
「でも、俺、今まで失恋しかしたことないし、それに、……紫ノくん、高校の頃、彼女が居たみたいで」
「うん」
 ばあちゃんの相槌は穏やかで、何もかも話してしまいそうだった。本当に、何もかも話しても、きっとばあちゃんは受け止めてくれるだろう。
「俺だけが好きだって言ってたのに」
 恨み言だった。
 俺は、紫ノくんの気持ちに応えた訳でもないのに、紫ノくんがもしかしたら恋をしていたのかもしれないと思うと、心が嫉妬に焼き切れるのだ。
 その女の子が良いなら、ずっとその子と付き合っていれば良かったじゃないか。別れたって、どうして別れたの。俺のことだけ、好きだったんじゃないの。
「嫉妬してるのね」
 はっきりと口にされると、俺は笑うことしかできなかった。
「そうだね、嫉妬してるんだと思う」
「はっきりそう言えば良いじゃない」
「嫉妬してるって?」
「そうよ。好きな子に嫉妬されて嫌がる男なんていないでしょう」
「面倒くさいって思われたらどうしたらいいの?」
「それくらいの器の男だったってことよ」
 その意見は尤もだなと思った。多分、紫ノくんは俺が嫉妬したと聞いたら、嬉しそうに笑って、俺を抱きしめてくるだろう。
 紫ノくんは、女の子とも恋愛ができる。
 良いんじゃないかと思った。紫ノくんの家族は、きっと紫ノくんが男に恋心を抱いているなんて思わないだろう。いつか、紫ノくんを理解してくれる誰かが現れると思っているはずだ。
 ずっとそばに居て欲しい。
 俺だってそう思ってる。でも、現実は優しくない。
 俺は、帰ったら紫ノくんの告白を、正式に断ろうと思った。
 それが、俺にとって一番良い選択肢だと思ったから。紫ノくんにとっての最善は考えなかった。きっと俺を忘れて、他の誰かを好きになってくれることを祈るしかできない。
 俺は夕飯を食べ終えると、お風呂に入って、ばあちゃんと布団を並べた。
「その紫ノくんって子は」
「?」
「本当にあんたに、言ったの? 好きな人が昔に出来て、その子と恋人同士になったって」
「……言ってないけど」
「じゃあ、あんたが臆病者なのね。ちゃんと、最後までやり切って、それでもダメなら離れなさい」
 俺の決意が揺らぐ。ばあちゃんの言っていることに対して、確かに、と思ったから。
 まだ俺は、紫ノくんから恋人がいて、その人に恋をしていたとは聞いていない。
 でも、聞く勇気が出ないのだ。本当は昔、一度恋をしたことがあったなんて言われたら、俺はまた、惨めな負け犬になる。
 でも、誰が恋愛をしようが自由だ。河辺さんも言っていた。カモフラージュだったと思う、と。
 そうなのかもしれない。
 一週間経ったら、覚悟を決めよう。
「ばあちゃん」
「ん?」
 布団に入って、天井を眺めながら、俺は言った。
「一週間経ったら、俺、ちゃんと勇気、出すよ」
「そうしなさい」
「うん」
 紫ノくんごめんね。
 ちょっと時間が欲しいんだ。
 だって紫ノくんは、俺以外も好きになれるでしょ? 女の子とだって恋ができる。
 俺は男としか恋愛ができなくて、それも、叶った事もない。
 俺は紫ノくんに見捨てられたら、死んじゃうから。
 だから、ちょっとだけ待って。



 俺はばあちゃんの家で、朝早くに起きて、家の掃除をして、庭にできた野菜を作って朝ごはんを作ってもらう、そして昼ごはんは俺とばあちゃんで買い物に行って、夜ご飯の材料と一緒に昼ごはんの材料も買うのだ。
 お昼ご飯、今日俺が作るのはしらす丼だ。
 手抜きだろうがなんだろうが、美味しければいい。俺はしらすをご飯の上に散らして、黄卵と鰹節、刻みネギと白胡麻と醤油を入れる。
 そしてどんぶりを両手にもつと、居間の座卓に置いた。
「ありがとう」
「うん、緑茶でいい?」
「そうね、煎れる?」
「ううん、冷蔵庫ので良い」
「じゃあばあちゃんの分も入れてくれる?」
「うん」
 俺は二つのグラスに緑茶を入れると、箸を二人分持って、ばあちゃんに渡した。
 テレビは着きっぱなしで、バライティ番組が流れている。
 最近、過去有名だったらしい司会者が亡くなったという、追悼の映像が流れていて、俺はそれを誰かも知らないのに眺めていた。
「美味しいわね。これ、ちょっと隠し味入れてるでしょ」
「うん。何入ってると思う?」
「ばあちゃんを試そうなんてね」
 そしてニヤリとした顔で隠し味を当てるから、俺は頷いた。さすがばあちゃんだ。
「何年料理してると思うの。わかってくるもんよ」
「俺はまだまだ未熟だってことだ」
 肩を竦める。
 するとばあちゃんは美味しそうにしらす丼を食べながら、俺に大学生活のことをぽつりぽつりと聞く。
「どうなの、将来に何になるかとか、考えたりするの?」
「うん、まだわかんないかな。でも、誰かの役に立てる仕事に就きたいなあ」
「いい心掛けね。ばあちゃん、感激しちゃうわ」
「じいちゃんにも、就職したら挨拶しないとな」
 また一口、スプーンを口に運ぶ。我ながら美味しくできたなと思った。
「さて、昼ごはん食べたら、蔵の中にあるお着物の虫干しも手伝ってもらうわよ」
「うわ、大変なやつだ」
 俺が嫌そうな顔をするのを見て、ばあちゃんは笑う。
「頑張ってもらいますからね」
「はーい」
 実際、俺は嫌だなんて思っていなかった。俺みたいな戦力がいないと、簡単にはできないことなのだろう。
 着物は、ばあちゃんの母さんから受け継いだものだった。
 ばあちゃんはお金持ちのお嬢様で、じいちゃんはその屋敷に雇われた庭師の弟子だったらしい。そこで恋に落ちて、十八の時に駆け落ちしたのだ。
 晩年、自分の母親の体調が悪いと使用人に聞かされて、ばあちゃんは会いに行ったらしかった。
 そこで昔のことを叱られて、大層な遺産は残せないから、と着物を受け継いだらしい。そこには、今となればとんでもない値段になる一枚もあるらしくて、俺はばあちゃんが心配だった。いつ強盗が現れるかもわからない。殺されたっておかしくないのに。
 でも俺はどうしてばあちゃんが家の鍵をかけないのか、その理由を知っているから、キツく言えないのだ。
 俺は夕飯を食べ終えてさっさと食器を洗うと、虫干しを手伝いに行く。
 蔵の中は整頓されて、じいちゃんが好きだった釣り道具も綺麗に揃えて置かれていた。
 俺はその中から一枚着物を取り出して、竿にかける。
「ばあちゃんこれ、一人でやってたの?」
「そうね、おじいちゃんが居た時は、二人でしてたわ」
「そっか」
 じいちゃんは、俺が小学生の頃、突然帰ってこなくなった。
 最初は行方不明だと警察が捜索したりしたけど、結局見つからなくて。
 空の棺でお葬式をして、ばあちゃんは一人になった。
 父さんは一緒に暮らそうと誘って、母さんも一人にはして置けないと言っていたけど、ばあちゃんは最後まで断り続けた。
「おじいちゃんが戻ってきた時に、この家がなかったら、どこへ帰ればいいのよ」
 そう言って、おばあちゃんは今日も家の鍵を開け放って生きている。
 ばあちゃんの想いは、ずっと変わらないのだ。
 着物と帯を出して、干してとやっていたら、意外と疲れるものだ。俺は最後、軽く汗をかきながら作業していた。
「終わりよ、お疲れ様。また日が沈んだら、今度は直して行くから、それも手伝ってね」
「人使い粗いよお」
「一週間も若い人間がいるのよ? フル活用しなきゃね」
 ばあちゃんは当たり前だという顔で、草履を脱いで、台所の方へ行く。
 そして戻ってくると、俺に丸いグラスを差し出した。
「梅ソーダよ。お疲れさま」
「わ、やったー!」
 俺は喜んで口に含む。ばあちゃんはちゃんとご褒美を用意してくれる、人使いの上手い人だった。
 美味しい。俺はすぐに飲み干してしまった。
「おかわりいる?」
「うん!」
「日生はずっと、梅ソーダが好きね」
「うん。ばあちゃんのは特別美味しい」
「じいちゃんも言ってたわ」
「そっか。やっぱり、血って繋がってるんだね」
 ばあちゃんはまるで、じいちゃんが生きているように言う。
 でも構わない。じいちゃんは生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。ばあちゃんがそう考えたいのなら、それで構わない。
 俺はそれを異常だなんて思わなかった。 ばあちゃんとオセロをして、夕方になれば俺たちはまた、着物と帯を片付ける。ばあちゃんに俺が一枚一枚着物を渡して、ばあちゃんはそれを折り畳んで、たとう紙で包んで箪笥に入れていく。
 終わる頃には、十八時半くらいになっていて、俺は一息ついた。
「ばあちゃん、夕飯どうする?」
「作り置きでもいい?」
「もちろん」
「じゃあ金平ごぼうと、切り干し大根と、ひじきがあるわ。それにしましょ」
「わかった」
 俺は座卓を拭いて、ばあちゃんが夕飯のおかずを温めている間にご飯をよそう。
「ばあちゃん結構食べる?」
「そうね、今日はいつもより多めに食べようかしら」
「ん」
 俺はばあちゃんの分を少し多めにすると、自分の分もよそった。
 そして座卓に持っていって、ばあちゃんと隣同士、座る。
「いただきます」
「いただきます」
 二人して手を合わせると、俺たちは箸を手に取った。
 そして一口金平ごぼうを口にすると、目を輝かせる。
「美味しい!」
「ありがとう」
「いいなあ、俺もばあちゃんの腕にかなうまで、後どれくらいしたら良いんだろ」
「好きな人に、美味しいって言ってもらえるのが、一番の活力なるわよ」
 ばあちゃんの言葉に、俺は思い出した。
 じいちゃんもよく、ばあちゃんの料理を褒めていた。美味い美味いと言いながら、ご飯を食べていた。ばあちゃんはそれに何も言わなかったけど、嬉しそうだったのをよく覚えている。
「……ばあちゃん、じいちゃんも、ばあちゃんのご飯大好きだったね」
「そうね」
「ばあちゃん、もともと料理得意だったの?」
 みんな、じいちゃんの話はしたがらない。だから俺が、なんでもない風に言うのだ。だって、実の祖父の話をして何が悪いのだ。たとえじいちゃんがどこで死んでしまっていても、生きていても、ばあちゃんの中にじいちゃんは一生いるだろう。それを“言ってはいけない“物扱いされるのは、なんだか違うと思っていた。
「ばあちゃんは、もともと料理得意じゃなかったわ」
「そうなの?」
「いつも焦がしたり、煮すぎたり、甘すぎたり、固すぎたり。それでもおじいちゃん、怒らなかったの。私に料理を教えながら、不味いご飯を食べてね。今度一緒に作りましょうって言ってくれたのよ。いつもいつも、私の失敗作を笑顔で食べてね」
 ばあちゃんはどこか遠くを見ていた。
 きっと、じいちゃんを見ているのだろう。その横顔は、恋をしてた。
 ばあちゃんは死ぬまで、じいちゃんに恋をしているのだ。そしてきっと、じいちゃんもまだ、ばあちゃんに恋をしている。
 それを目の当たりにして、思い出すのはただ一人のこと。
「俺も、紫ノくんのために、ご飯作りたいな」
 いつも美味しいと、たくさん食べてくれる紫ノくんに、ご飯を作りたいと思った。
 そのためには、正直になって、ちゃんと、返事をしないといけない。
 一緒に生きようとするための勇気がいる。
 俺はまだ、境界線を越えられないでいる。
 伸ばされた手を掴めないでいる。負け犬になるのが、また惨めになるのが怖いから。
 俺は夕飯を食べ終えると、恐る恐るスマホの電源を入れた。
 すると、河辺さんの謝罪のメッセージと、怒涛の紫ノくんからの着信履歴が重なっていた。
「話聞いた。僕から事実を伝えられてないのに逃げないで、僕は君が好きなんだよ。何度も言ってるでしょ」
「帰ってきたら絶対逃さないから」
 そして最後に、寂しそうに一言、送られてきていた。
「バベルの塔、一緒に行くんでしょ」
 その文字をなぞれば、紫ノくんの切なさが伝わってくるようで、俺は眉を下げる。
 俺は苦笑いした。怖い。きっとどこかで捕まって、紫ノくんは俺に、どれだけ自分が愛しているか、語り聞かされて、もう二度と疑わないようにと刻み込まれるのだろう。
 でもそれくらいじゃないと、俺は理解できないのかも知れない。
 今までの恋に、俺は、自分は負け犬だと思って生きてきた。好きな人に好きになってもらえない、伝えられもしないまま、愛した人は別の人の手を取る。
 でも紫ノくんは違う。紫ノくんは俺に、ずっと誠実だった。それは何度だって思うことだ。俺が誰か、別の人間に恋している間だって、ずっと俺のことを好きでいてくれた。
 一途に俺を好きで居続けてくれていた。
 だから俺も、今度こそ誠実になろう。
 俺はスマホを充電すると、河辺さんにだけは返信を送った。明日帰る、心配はいらない、この事は紫ノくんに隠しておいてほしいと。
 すると、河辺さんは即返信をしてくれた。
「わかりました。気をつけてね」
 その返信を見て、俺は風呂に入って、ばあちゃんの隣で眠った。
 
 アラームの音がする。
 俺は起き上がると、横で眠るばあちゃんに一声かける。
「ばあちゃん」
「なあに」
 ばあちゃんは俺のかけたアラームで起きたらしい、布団から立ち上がると、さっさと片付けてしまう。
「俺、今日帰るよ」
「そう。じゃあ朝食だけ食べて行きなさい。電車の時間、わかってる?」
「うんわかってる。調べておいたから」
「何時?」
「後一時間三十五分」
 ばあちゃんは頷くと、顔を洗いに洗面に向かう。
 俺も同じように布団を片付けると、同じように洗面に向かった。
 顔を洗って歯を磨いて、俺はばあちゃんの焼いた鮭を食べて、少しゆっくりすると家を出た。
 ばあちゃんは駅まで送ってくれた。一緒に歩いて、二十分くらい。
「じゃあね、あんた、次は紫ノくんも連れてきなさい」
「はーい! じゃあね、ばあちゃん!」
 俺が車内から手を振ると、ばあちゃんも同じように、笑って手を振ってくれた。俺は見えなくなるまで手を振り返して、紫ノくんにメッセージを送る。
「今大学?」
「うん」
 返事が秒速で帰ってくる。それが俺を心配する心を表しているようで、ちょっと申し訳がなかった。紫ノくんはスマホを触るの、あまり好きじゃないはずだ。
「三限終わりには、大学着くと思う。いつものカフェで待ってて」
「俺の家に来て、そこで待ってる」
 その答えに、俺は大きく息を吸って、吐いて、返事をした。
「わかった」
 
 夕方ごろ、電車を降りて、俺は荷物を持ったまま、紫ノくんの家へと向かった。
「着いた」
 そう送って、インターホンを押した。
 間も無く、扉が開く。
「久しぶり」
 紫ノくんが、感情のわからない声で言う。
 俺はその態度につい緊張してしまって、頷くだけになってしまった。
「入って」
「お邪魔します」
 俺が部屋の中に入ると、紫ノくんはさっさと部屋に戻った。そしてベッドに腰掛けると、俺には座布団の上に座るように言う。
 距離がある。当然だ。俺は紫ノくんを傷つけた。
 紫ノくんは静かに言った。
「俺に好きって言われるの、辛い?」
 俺は初めて、紫ノくんが俺への気持ちに不安定さを抱いている姿を見た。多分このまま俺が辛いと言えば、紫ノくんは俺の元から去っていくのだろう。
 でも、正直に言わないといけない。
 俺は、紫ノくんを真っ直ぐに見た。
「紫ノくんに、好きって言われるたび、俺、怖かったんだ」
「うん」
「だって俺、今まで一回だって好きだった人に、好きだって言ってもらえなかった。紫ノくんしかいなかったんだよ。俺を愛してくれた人は」
 紫ノくんは黙って俺の目を見ていた。その真意を見定めようとするみたいに。
「失ったら、おしまいだと思ってた」
 紫ノくんを失ったら、きっと俺は最後まで一人で静かに生きて、死んでいっていただろう。だって、紫ノくん以上に俺を愛してくれる人などいないだろうから。それがわかっていたから、尚更怖かったのだ。俺に一体なんの取り柄があると言うんだ。容姿も平凡、成績も、運動だって一番になる事はない。ただのゲイ。
 でも紫ノくんは、容姿も成績も輝かしいものだった。俺とは違う。ちょっと人に深く執着する節があるけれど、別にそれで暴力を振るうとか、恐怖支配をしてこようとする人でもなかった。
 ただずっと、愛を伝えてくれる。向けてくれる。
 一途に。
 俺は最初、紫ノくんのその態度が怖かった。もう五年以上、いや、それ以上だろうか、離れていた俺に、恋心を募らせてくれていたなんて。
 でも、そんな紫ノくんにも、恋をする機会があったのかと思うと、怖かった。もしかしたら、今向けられているこの感情も、刹那のものなんじゃないかと思って。
「紫ノくん」
 だから、聞こうと思った。現実を受け止めようと思った。紫ノくんはずっと、なんの感情も見せてくれない。
「何」
「彼女、いたの?」
「居たよ」
 俺の心が、透明な刃で傷つけられる。
 でも紫ノくんは、先ほどと変わらぬ表情で俺を見ていた。
「好きじゃなかったけどね」
「え?」
 俺が呆けた声を上げると、紫ノくんは淡々と言う。
「好きじゃなかったよ。当たり前でしょ、ストーカーが複数人いるから、ダミーで付き合ってくれって、必死に訴えかけられたから、協力しただけ。警察もほとんど助けてくれないって、その子が泣いたんだよ。見捨てられなくて」
「マジか……」
 付き合う理由としては重すぎるが、俺にとっては幸いな事だった。もし紫ノくんの恋の結果だと思うと、俺の心はズタズタになってしまうから。
 紫ノくんは足を組んで、興味のかけらもない事を話すように、淡々と話す。
「で、途中、本当に好きになったとか言われたけど断った。だから、地元からちょっと離れた今の大学選んだんだ。あの子がついてこれないくらいの成績の場所に」
「徹底してるね」
「当たり前でしょ。彼女が反対に付き纏いになりかけてたけどね」
「こわ……」
 俺が若干引いたような声を上げると、紫ノくんは平気そうに語る。
「ちゃんと、しっかり断ったらもう付き纏ってこなくなったよ」
「そうなんだ。……良かった」
「で、もう僕に離れてほしいんなら、ちゃんと言ってよ」
 紫ノくんの言葉に、俺の体は硬直する。そうだ、俺は、ここに自分の気持ちを伝えるために、やって来たのだ。
「紫ノくん」
「うん」
「俺と、付き合ってください」
 アンドロイドみたいに無機質だった、紫ノくんの表情が温かみを帯びて、驚愕に染まっていく。
 紫ノくんはアンドロイドじゃない、ちゃんと感情を持った人間なのだ。俺はそれを知っていたのに、まるで紫ノくんは俺がどれだけ振り返らなかったって、ずっと追いかけてきてくれる人だと思っていた。
 その中で、傷ついているとも知らないで。
 俺は、紫ノくんをずっと待たせていた、俺は紫ノくんを傷つけた。
 でも今からは、紫ノくんを幸せにしたいと思った。紫ノくんと幸せになりたいと思った。
 いつか、俺たちの心は移り変わるかも知れない。
 でも紫ノくんとなら、ずっと手を繋いで歩いていけるような気がしていた。
 もし衝突することがあるなら、話し合って、ずっと手を繋いで喧嘩をしよう。
 病める時は、もう嫌になる程そばにいて。
 健やかなる時は、二人で色んなところへ行きたいなと思った。
 富める時は二人で美味しいご飯を食べにいって、貧しい時は、二人して雑草を天ぷらにするのも悪くないかも知れない。
 二人でなら、なんだって乗り越えられる。
 紫ノくんは、自らの耳を疑うように、呆然としていた。だから俺はもう一度、紫ノくんに向けて言う。
「染崎紫ノさん、俺と、付き合ってくれませんか」
「……僕で良いの?」
 俺は笑う。
 ずっと、俺もそう思っていた。俺で良いのかなって。
 紫ノくんもそう思っていたんだ。
 俺は愛おしさのあまり、立ち上がって、紫ノくんにダイブした。
「紫ノくんがいい!」
 大きな声で叫ぶ。
 紫ノくんは俺を抱きしめた。強く強く。
「一生離さないからね」
「うん、俺も一生離さない」
 俺は、ちょっと顔を上げて、紫ノくんの唇を見た。
 それに、紫ノくんも気づいたらしい。目が伏せられる。
 俺は、紫ノくんの唇を奪った。
 後から聞いたら、やっぱり紫ノくんのファーストキスは俺だったらしい。そうじゃなかったら、怒っているところだった。

 それから俺は紫ノくんの家に転がり込んで、一緒に住むようになる。
 朝起きて、まだ眠る紫ノくんの頬を撫でて、俺はベッドから出る。ベッドはセミダブルのまま、俺たちは狭い狭いベッドの中、抱きしめあって眠るのだ。暑くても寒くても。
 俺は、紫ノくんにお弁当を作ってあげるようになった。
 朝から作り置きのおかずを弁当に詰めて、そして卵焼きは毎日、必ず味を変えて作ってあげるのだ。塩だったり、醤油だったり、白だしだったり甘かったりと、バリエーション豊かになるように作っている。たまにニラとかも入れたりして。
 そして俺は自分の分も適当に詰めると、カフェではなく、学校の中庭にあるスペースで二人してご飯を食べるのだ。そこで課題をしたり、次行きたいデートの場所なんかを決めて。
「来週、バベルの塔だよ」
「再来月、とか言ってたのにね」
「ね。もうその再来月だ」
 夏の暑さは、鳴りを顰めたり、そう思えば灼熱を降らしてきたり、天気というものは人のこころより移ろいやすい。
 俺は弁当を食べながら、俺の二倍の量を食べている紫ノくんに聞くのだ。
「いつも思うんだけど、ちゃんと満腹になってる?」
「なってるよ」
「だったら良いんだけど」
「どうしたの」
「いや、お腹空いたって言って食堂で食べられてたら、負けた気分になるから」
「負けた?」
 不思議そうに首を傾げる紫ノくんに、俺は複雑な料理人心をあらわにするのだ。
「いや、だって、好きな人のお腹の中は、俺の料理でいっぱいでいて欲しいじゃん?」
 すると紫ノくんは目を瞬かせる。
「そう言うものなの?」
「うん、だって紫ノくんの胃袋、掴みたいじゃん」
「もう掴まれてるよ」
「ほんと?」
「ほんと」
 俺は紫ノくんの返事に機嫌をよくして、鼻歌を歌う。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
 紫ノくんは弁当をしまうと、パソコンを取り出す。俺も自分の弁当箱を片付けると、パソコンを取り出した。
「あ〜、明日小テストだ。勉強しとかないと」
 俺がぼやくと、紫ノくんは視線をあげて、なんの? と問いかけてくる。
「ドイツ語」
「残念、僕フランス語」
「わ〜!! 誰も頼れない」
 俺が頭を抱えれば、紫ノくんが言う。
「河辺さんは?」
「あ、河辺さん? え、どうなんだろ、ちょっと聞いてみようかな」
 以前まで、紫ノくんは俺が河辺さんに連絡なんて取ろうものなら、嫉妬で燃えていたんだろうけど、今は違う。
「日生くんは僕のものだから。平気、だって、日生くんは僕を裏切ったりしないから」
 紫ノくんの言葉に、俺は絶対、生涯をかけて証明しようと思った。紫ノくんに、一生分の愛を誓おうと思ったのだ。
「えっと、河辺さんドイツ語取ってる? と」
「……僕のこと、気にせず友達作ったって良いんだよ」
 俺はびっくりして、画面から視線をあげた。
「いや、でも俺は、別に最初から友達作る気できた訳じゃないし。人付き合いとか、そりゃ友達はいて悪いものじゃないけど、面倒だもん」
 友人の誘いをずっと断っていたら、関係も希薄なものになる。ただの友人と遊びに行くくらいなら、紫ノくんと一緒にいたい。
「でも、こうやって困った時、お互い利用できるでしょ」
「確かにね。紫ノくんはいるの? 上辺だけの友達」
「いない」
「うーん。それって今までもこれからも?」
「今までもこれからも。僕には日生くんがいれば良いよ」
「……俺も、紫ノくんしか要らないんだよね」
 照れ臭い、でもちゃんと言ってみる。歪んでいると言われたって俺たちはこれでいいのだ。
 見つめあって、照れ笑う。
「あの、ご機嫌なところ申し訳ないんだけど」
 河辺さんの声だった。
 俺たちの周囲に漂っていた甘い空気は霧散して、紫ノくんはさっさとパソコン画面に戻る。
 俺はなんでもないように、いや、もう既に見られてるから意味ないんだけど、河辺さんに笑顔を向けた。
「お疲れ様、河辺さん」
「お疲れ様、メッセージ読んだよ。私もドイツ語取ってるから、教えようか?」
「ほんと!? ありがとう」
 俺が笑えば、河辺さんは言った。
「最近の田手くん、本当に幸せそうだよね。上手く行ってるみたいで良かった」
「あはは、ご心配をおかけしました」
「ううん。私が失言しちゃって、学校休んでる時はヒヤヒヤしたけど、でもちゃんと、染崎くんとくっついたみたいで。……染崎くん、私、田手くんのこと好きだから、不幸せにしてると、私が横から出てくるよ」
「ちょ、河辺さ」
 俺が慌てれば、河辺さんは堂々と紫ノくんを見ていた。
 紫ノくんはパソコンから視線を上げると、河辺さんに不敵に笑って見せた。紫ノくんが誰かに、それも女の子に笑顔を見せることなんてほとんどない。それがたとえ、挑発的なものでも。
「お生憎様、日生くんは僕を選んでくれると思うよ」
 堂々としたその態度に、河辺さんは一瞬びっくりしたような顔をしたけど、こちらもこちらで、試すような笑顔を浮かべた。
「ずっとそう言っててね、染崎くん」
「もちろん」
 そして河辺さんは紫ノくんに向けていた視線を俺に戻す。
「教えて欲しいところってどこ?」
「明日のテスト範囲がここなんだけど……」
 俺が渡された資料を見せると、河辺さんは読み込みながら頷く。
「うん、私が教えられると思う。明日だよね? 私次の時間ないから、ここで教えようか?」
「え、いいの?」
「染崎くんが嫉妬しないならね」
「しないよ。ここでするならね」
「わかった。じゃあ、田手くん、テキスト出して」
「はーい」
 俺はパソコンを直して、テキストを出した。