再会してから、俺は当たり前のように紫ノくんと一緒にいる時間が増えた。
被っている授業はほとんどないけど、あったら必ず隣に座って一緒に聴く。そして暇な時間は校内のカフェで時間を潰して、紫ノくんの家に泊まりにいく日が増えた。
紫ノくんの家に、俺のものがどんどん増えていく。申し訳なく思っていたら、紫ノくんは「同じ部屋で暮らしてるみたいで嬉しい」と、そう言ってくれた。俺はその言葉に、また心臓を高鳴らせる。
でも、無視した。俺は、もし紫ノくんに恋をしたって、いつまでたっても黙ったままだろう。
いや、もう恋に落ちているから、怖いのかもしれない。あれだけ愛を伝えられたら、幼いころの恋心に火がつくまでに、時間はかからなかった。
俺の父さんも母さんも、俺がゲイである事は知っている。そして最近、紫ノくんと再会したことも。
母さんも父さんも喜んでいた。
「変わらず、しっかりした男の子だよ、今一人暮らししてる。自分の意思がはっきりある感じは変わってない」
そう話せば、母はシチューをかき混ぜながら、ダイニングに座る俺に振り返る。
「今度家に連れてきなさいよ、あ、あと花苗ちゃんとも久しぶりに話したいわあ。紫ノくんに、お母さんの事お茶に誘っていいか聞いておいて」
「わかった」
「紫ノくんとは、まだ仲が良いのか」
父さんの質問に、俺は一ニもなく頷く。
「大学、一緒に授業受けたりするよ」
「そうか」
父さんはそれ以上何も言わなかったけど、母さんは俺の予想通り、簡単に言ってくる。
「あんた、紫ノくんと一生一緒にいた方が幸せなんじゃない?」
「あのさあ、紫ノくんに選ぶ権利、あると思わないの?」
「あら、紫ノくんはあんた一本だと思うけど」
「いや……」
否定できなくて、誤魔化した俺に母さんは見透かしたような視線を向けてくる。
「言ったでしょ。あんたは他の誰かに恋してた時より、紫ノくんのことが好きだった時の方が幸せそうだったって」
「うん。それは、そう」
俺がぎこちなく頷く。それで、何かあると察したらしい。母さんは黙った。
でも最後に、心に刺さる一言を投げてくる。
「まあ、あんたの自由だけどね。でも周囲から幸せに見える恋って、あんまりないのよ」
「……うん」
でも昔のように、無邪気に紫ノくんのそばにいることは出来ない。
大好きなのに。同じ好きになった瞬間、反発しあうのが恋だった。
俺は授業を終えると、いつも通り、カフェに向かう。その途中、俺はまたか、とその光景を見て、半ば駆け足で紫ノくんに近づく。
そこでは、やはり連絡先を聞かれている紫ノくんがいて。
紫ノくんは無表情で、身体を自分に近づけようとしてくる女子をひらりと躱していた。
そして俺に気づくと、ようやく口を開く。
「こういうの、嫌悪感しか湧かないから、二度と話しかけないで」
はっきりと女の子にそう言って、紫ノくんはもう興味を失ったと俺の元へ来る。
「あー……、おはよ、紫ノくん」
「おはよ、日生くん。お昼ご飯、今日は外で食べない? 良い定食屋さんがあるんだ」
「わかった、そこ行こ」
なんでもなかったかのように歩き出す紫ノくんに、俺はチラリと女の子がいた方向を見た。そこには、怒りを滲ませる女の子がいた。
何か、問題を起こされたりしませんように。
俺はそう願いながら、紫ノくんの背を追った。
定食屋さんは、大学から近かった。もしかしたら有名なお店なのかもしれない。店内に入ると、満席状態だった。
「こんにちは、席、もうないですか」
紫ノくんが女将らしき女性に声をかける。
「一席だけ空いてるよ! 奥の二人がけ!」
俺は奥を見た。確かに、一つテーブルが空いている。
「紫ノくん、いこ」
「うん」
俺たちは席に着くと荷物を置いて、メニューを見た。
店内には美味しそうな匂いが充満していて、呼吸をしているだけでお腹が空いてくる。
俺は結局、肉野菜炒めか、マグロたたき丼で悩んでいた。
「うーん……」
「俺、肉野菜にするから、マグロたたき丼、頼みなよ」
「え? いや、そんな気遣わなくていいよ」
「いや、俺多分おかわりするから、別のメニューで。だから、気にしないでいいよ」
「え、いつも二人前食べてるの?」
俺はびっくりし過ぎて、思わず身を乗り出す。二人分、それもおかずまでつけて食べるなんて、胃がいくつあるんだと聞きたいくらいである。
「じゃ、注文するね」
「あ、うん」
紫ノくんが手を上げる。
「すいません!」
紫ノくんの大き声なんてまず聞く事がないから、俺は新鮮な気持ちだった。低い、男らしい声。あの女の子へかける声は冷徹だったけど、俺に向ける声は柔らかくて、いつだって優しい。
「はいよ! 兄ちゃん今日は何と何にするの」
店主が調理をしているのだろう。女将が伝票片手に俺たちの席にくる。何と何にするの。この台詞からして、多分本当にいつも二人前食べているのだろうなと思った。驚きもいいところだ。
「カレイの煮付け定食と、肉野菜炒め定食、あと、マグロたたき丼ひとつ」
「ん、ちょっと時間かかるよ」
「肉野菜炒め定食先に持ってきてもらって良いですか」
「はいよ」
女将が厨房の方へ戻っていく。俺は半唖然としながら、お冷を飲む紫ノくんを見た。
「本当に二人前なんて食べれるの?」
「いつも食べてる?」
「胃袋二つあるの?」
「多分」
頭の悪い会話だ。
「今週末、八月並みの暑さらしいよ」
「嘘でしょ」
「暇?」
「うん」
「授業終わったら、俺の部屋おいでよ。家からめちゃくちゃ大量にそうめん送られてきたんだ」
「わ、いいね。そうめん」
食堂で、別の食事の話をする。俺たちは食いしん坊がすぎる。
それにしても、紫ノくんは俺が二限が授業で、暇な時にこの食堂に来ているのだろうか。
「紫ノくん、ここ常連なの?」
「最近来るようになった。安くて美味いって、誰かが言ってたから」
「誰?」
「知らない。偶然後ろに座ってた男と女が話してた」
「そうなんだ」
男と女。多分紫ノくんはそれ以上何も覚えていないのだろう。紫ノくんは幼い頃から、人の名前も特徴も覚えない。興味がないと言っていた。日生くんが見えたら、それでいいと。
紫ノくんは、俺が好きなのだ。
でも時間が経って、心は忘れていく。どれだけ熱い気持ちでも、いつかは冷める。
でも、今となれば、もし紫ノくんに恋人がいたら、俺は徹底して逃げただろう。そんな姿を見たら、俺は惨めになるから。負け犬の自分をまた、再確認してしまうから。
「ね、紫ノくん」
「うん?」
「絵画とか、興味ある?」
「ある」
予想通りの返答だった。だから俺は、スマホでホームページを見せる。
「ブリューゲルのバベルの塔の絵画、日本に来るんだって。一緒に行かない?」
「行く」
「即答」
俺は笑った。紫ノくんは当たり前だという顔をしている。それがなんだか嬉しくて、俺は紫ノくんと一緒にスマホを覗き込んで、詳細を見た。
「再来月からか」
「うん、チケットもう取れるよ。取る?」
「休日は人が多そうだよね」
「そうだね、平日、休んでいく?」
「それもありだと思う」
俺たちは料理が運ばれてくるまで、再来月の予定を立てた。もうその頃には日差しはアスファルトを焼くほど、熱烈なものになっているだろう。
「はいお待ち!」
少しして、料理が運ばれてくると、俺のほうにマグロたたき丼が、紫ノくんの前には肉野菜炒め定食が置かれる。
「カレイの煮付けは、また呼んでくんな」
「はい」
俺はマグロの艶やかなこと、思わず感嘆してしまう。
「美味しそ〜!」
「食べよっか。いただきます」
「いただきます」
手を合わせると、俺は匙を手に取って、マグロとご飯を混ぜると、一口食べた。そして、目を見開く。
「美味しい?」
紫ノくんがどこか微笑ましそうに俺を見ている。俺は何度も頷いた。
「美味しい!」
「良かった。たくさん食べな」
「ありがとう」
俺は上機嫌で食べ進めていく、すると、紫ノくんが白ごはんの上、肉と野菜を捕まえて、俺の方に向けてきた。
「食べれる?」
「! うん」
「じゃあ、口開けて」
「はーい」
俺は言われた通り口を開ける。すると、口の中に肉野菜炒めが入ってきた。
目を見開く。今度こそ、紫ノくんは小さく笑った。俺の反応が先程からツボに入るらしい。
俺は口の中のものがなくなると、すぐ言った。
「美味しい!」
「ふふ、良かったね」
紫ノくんは手の甲で口元を隠して頷く。穏やかな笑顔が浮かべられていて、俺はずっと、こんな時間が続けばいいのになと思った。友達以上恋人未満。でも、大学を卒業するまでに、選択はしないといけない。
ずっと、想ってくれていたのはわかっている。でもいつまで経ってもこのままではいけないのだ。
俺は紫ノくんの瞳の奥を見ていた。そこには、俺への愛情が見え隠れしていて、胸がときめく。恋する瞳だった。
今の俺は、いったいどんな色をしているのだろう。
銀の匙に、俺の顔が写る。
きっと、似たような色をしているのだろうなと思った。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした」
軽く頭を下げて、食堂を出る。
俺は満腹になったお腹を撫でた。
「あー、美味しかった」
「美味しかったね」
「また来よ」
「うん」
俺たちは二人とも、二限も三限もない。帰っても、自習しに大学に戻っても良かった。
「紫ノくん、家帰る?」
「日生くんは?」
「えー、どうしようかな。課題しに帰ってもいいんだけど。……あ!」
「?」
「うち、くる?」
俺がそう提案すると、紫ノくんの目が俄に見開かれる。
「行く」
「お、おお。じゃあ、行こっか」
「うん」
そう言って、紫ノくんは俺の手を取った。昔みたいに。
俺はそれ拒否できなくて、繋がれたまま、駅へと向かう。
「〇〇線の付近だよね?」
「うん」
ホームで待っている時、紫ノくんは機嫌良さそうに手を揺らしていた。俺はそれが可愛くて、微笑ましい気持ちになる。
「そんなに俺の家に来たいの? 何にもないよ?」
「日生くんの家、落ち着く。日生くんの優しい匂いがするから」
「匂い?」
「うん、温かい匂い」
「そっか」
俺はわからなかったけど、多分、紫ノくんが言うのならそうなのだろう。
紫ノくんは昔から、俺に抱きついては匂いを嗅いでいた。今やれば変態臭いけど、昔は甘えられているんだと思って、頭を撫でていたりしたな。
もう昔の話だけど。
電車に乗って、俺は最寄駅に着くと、紫ノくんと一緒に降り立つ。
「ここから十五分くらい」
「うん」
駅を出ると、俺は懐かしい道を歩き出す。
「ちょっと遠回りだけど。ここら辺が、俺たちの帰り道だったよね」
そう言うと、紫ノくんは周囲を見て、感慨深そうに頷いた。
「うん、ここ歩いていた」
「公園途中で通って、鉄棒したり、ブランコ乗ったりしてなかった?」
「してたね。楽しかった」
「紫ノくん、鉄棒苦手だったのにね」
俺が揶揄うように言えば、紫ノくんは少し不機嫌そうなフリをして、目を眇めた。俺は笑う。
「でも俺と練習して、前回るはできるようになったでしょ?」
「うん」
そんなことを話しながら、俺たちは歩く。
俺は家が見えてくると、指さした。
「あそこだよ」
「うん」
知っている、と頷く紫ノくんに、俺はそわそわし始める。部屋、ちゃんとしてたよな。母さん、多分紫ノくんが来たら、大喜びして構いたがるだろう。
俺は家の鍵を取り出すと、紫ノくんに「ちょっと待ってて」と玄関で待機するように伝える。紫ノくんは頷いて、静かにしていた。
「ただいま」
「おかえり」
「母さん、紫ノくん連れてきたよ」
「あら!」
母さんはソファから立ち上がると、さっさと俺の横を通って玄関に向かう。
「紫ノくーん!」
喜びの声をあげる母さんに、俺は苦笑いして、俺はキッチンで手を洗った。そしてグラスを三つ取って、お茶を入れる。
「また姿が見れて嬉しいわ、さ、座って」
「ありがとうございます」
「母さん、お茶入れといたよ」
「あら、ありがとう」
おぼんからグラスを三つ、食卓に置いて、俺は勧められるまま座った紫ノくんの隣に腰を下ろす。
それから母さんはずっと紫ノくんに話しかけていた。俺たちと離れていた時、何があったかとか、悲しいことは起こらなかったかとか。
俺は麦茶を飲みながら、遠くからテレビを見ていた。お昼からのバライティー番組がそろそろ終わって、報道番組に変わる。
「あ、じゃあ今日の夕飯は日生に作ってもらうことにしましょ。紫ノくんも手伝ってあげて」
「ええ、母さん勝手に決めないでよ」
俺が文句を言うと、母さんは反対に眉を顰めた。
「いいじゃない、母さんの料理より、あんたのご飯食べれた方が紫ノくんも嬉しいわよ」
「僕は、お母さんのご飯も好きです」
「あら、ありがとう。でも本当は日生とご飯、作りたいでしょ?」
母さんが紫ノくんの顔を覗き込むような視線を向けた。
珍しい。俺は思う。紫ノくんは、俺の母さんに弱いらしい、
「……はい」
「じゃあ決まりね! 食材は、あると思うから。ちゃんと計算して使ってね、日生」
「はーい……」
そして俺は、紫ノくんと二人で夕飯を作った。夜には少し残業をした父さんも帰ってきて、紫ノくんの訪問に驚きながらも、嬉しそうにしていた。普段、あまり口を開くタイプではないけど、やっぱりお酒が入ると饒舌になるらしい。母さんが聞いたこととおんなじようなことをまた、紫ノくんに聞いていた。紫ノくんは酔っ払い相手にも嫌な顔せず、ずっと返事をし続けてくれていた。
俺は母さんの隣で皿洗いをしながら、珍しく父さんが大きな声を上げて笑っているのが聞こえる。
「父さん、嬉しそうだね」
「そうねえ。あんた以外に友達がいないって聞いてから、ずっと心配してたわ。引っ越しの時も」
「あー、それは俺も心配だった。紫ノくん、ほんとに人に興味ないから」
「今もそうなの?」
「うん、女の子に連絡先聞かれても無視したりしてる」
俺がそう答えると、母さんは驚くこともなく、予想通り、と言った顔をした。
「あんたのことしか好きじゃないもんね。もう責任とってあげたら? 綺麗な顔して、勉強もできて、一途。もう悪いとこないじゃない」
「付き合ったら、俺の携帯に位置情報アプリ入れてくるよ」
「我慢しなさい」
「我慢しなさい?」
そこは少し、躊躇って返事をしてくれても良かったのではないだろうか。でも俺の母さんは紫ノくんのことをもう一人の息子だと思っている節がある。俺も、紫ノくんのことを受け入れてくれている両親が好きだ。
でも、それとこれとは別だろう。
「俺みたいな男じゃダメだよ。いろんなところに移ろいでさ、ずっと俺のこと好きだった紫ノくんに顔向けできない」
「若い頃なんてそんなもんでしょ。運命の人は、出会った瞬間運命の人だとわからない時だってあるの」
母さんの言葉に、俺は黙った。運命の人は、出会った瞬間にわかるものではない。確かにそうだ。
「あとは母さんがしとくから、あんたはお風呂入ってきなさい。紫ノくんの分のパジャマもちゃんと貸してあげるのよ」
「あるかなあ」
「前、サイズ間違えたって言ってた上下セットのやつ、なかった?」
「あ、あったね。そうする」
俺は言われた通りシャワーを浴びて、リビングに戻る。すると続くように父さんがシャワーを浴びて、俺はその間に自分の部屋に客用布団を敷いていた。
(何かあった時のようにと思って、干してて良かったあ)
久しぶりだ。この家に紫ノくん泊まるのは。小学生の頃は、月に二、三回、この家に泊まっては俺と紫ノくんは遅くまで起きて、一枚の布団で、何でもない話を続けた。迷宮の扉を、母さんにバレないように月明かりを頼りに探したり、紫ノくんが持ってきた図鑑を読んだり。
「楽しかったなあ」
「何が?」
「うわっ」
振り返れば、紫ノくんが頭にタオルを乗せながら、俺の間違えて買った上下セットのスウェットを着ていた。
「暑くない?」
「夜は涼しいから平気」
「そっか。布団敷いといたよ」
「ありがとう。日生くん」
「ん?」
「髪の毛、乾かしてくれる?」
俺はまた、過去を思い出した。紫ノくんは小学生の頃、俺の家に泊まるたび、髪を乾かしてくれと俺に頼んできたのだ。今になればわかる。あれは、紫ノくんなりの甘え方だったのだろう。
ドライヤーを差し出されて、俺は笑う。忘れてなかったんだ。
「いいよ、ここ座って」
俺は敷布団の上に紫ノくんを座らせると、ドライヤーのコンセント差し込む。そして、紫ノくんの髪に触れる。
「ちょっと熱いですよ〜」
「うん」
そうして、俺は紫ノくんの髪を梳く。サラサラのクセのない髪は乾きやすくて、変わらず丸い頭が可愛い。
「はい、おしまい」
俺は紫ノくんの髪が根本から乾いたか確認すると、電源を落とした。そしてドライヤーを元に戻すため、部屋を出て脱衣所の棚に戻す。紫ノくんはまるで子供のように俺の背にくっついては、一緒に部屋に戻る。
そして、俺のベッドにダイブした。
「紫ノくん、ベッドで寝たいの?」
すると紫ノくんは俺の方に振り返って手招いてくる。何だろう。
俺がベッドに腰かけると、紫ノくんは俺の手を引いた。俺は最も簡単にベッドに推し倒されてしまう。
そしてその上に紫ノくんが覆い被さってくる。
「し、紫ノくん?」
そして紫ノくんは、俺の身体を抱きしめる。
俺はびっくり半分、緊張半分で何も言えなかった。
紫ノくんの匂いは、俺の家のシャンプーとボディソープだ。でもそれは紫ノくんが纏うと、また違う匂いになる。
「どしたの、紫ノくん」
百八十の男の身体は重い。俺の声は掠れていた。
「ね、日生くん」
「うん?」
「一緒に寝よ」
「……いいよ」
本当は拒否しないといけないのかもしれない。だって俺は紫ノくんの好意に頷こうとは思っていない。確かに、俺も紫ノくんと居れば幸せになれるということはわかっている。
でも失うのが怖いのだ。紫ノくんを失ったら、俺は今度こそ立ち直れないだろう。
俺たちは一枚の敷布団、二枚の上かけ、そして二つの枕で眠りについた。
紫ノくんの腕の中は、いつもより特別、暖かく感じられた。
俺たちは一限から一緒の電車に乗って大学に向かった。
紫ノくんの服は母さんが洗濯して干してくれたらしい。俺は紫ノくんの麻のシャツを着て、スキニーを履く。それだけで何かモデルの撮影なのかと思わせてくるから、紫ノくんの美男子っぷりはいつだって罪だ。
満員電車の中、俺は半ば紫ノくんに抱きしめられていた。電車の遅延が起きて、電車が来た瞬間、みんな人を押し込めるように乗車してきたのだ。
俺たちはその前の駅で乗車したからまだ電車の出入り口ではない方で居ることが出来るけど、開閉をする度大勢降りては乗ってくる。流石、朝の出勤登校ラッシュだ。
そして俺はもう隙間なんてないから、紫ノくんとくっついていた。
初夏も徐々に深まっていって今度はあの人殺すような日差しが地上に降り注ぐようになる。
でも紫ノくんの体温は不快になんてならない。落ち着く温かさだった。
「もうそろそろ」
囁くように言われて、俺は頷く。
「〇〇〜! 〇〇〜!」
大学の最寄駅で降りるのはやっぱり学生だらけで。窮屈な場所から抜け出せて、俺は大きく息を吐いた。
「大学二年目だけど、やっぱり慣れないなあ」
「夏だから、今度、臭いとかもあるでしょ」
「そうなんだよ。嫌なんだよね」
俺が愚痴れば、紫ノくんは頷いてくれる。やっぱり通勤に電車を使う人間なら誰だって思うだろう。
「今日暑くない?」
俺は半袖のシャツに風が通るように揺らしては、空を見た。太陽が翳ることなく輝いている。
「日差し強いね。今朝、ニュースで真夏日だって言ってたよ」
「まだ六月なのに!? え、世界ってそんなもんだっけ」
「後少しで七月だからね」
「でもまだ六月も始まったばっかりだよ?」
「地球温暖化?」
「地球温暖化かぁ……」
軽く汗をかきながら、俺たちは十分くらい歩く。
そして正門を通れば、二人とも、一度別れて、各々の授業に向かっていった。
