アンドロイドの紫ノくんと、負け犬の俺

 二人とも、授業が終わって、俺はいつもとは違う路線の電車に乗っていた。
 帰宅ラッシュと重なって、俺たちは窓際に追い詰められている。でも紫ノくんは僕の壁になるように立ってくれていた。
「紫ノくん、ごめんね」
 イヤホンの片耳を貸してくれて、一緒に音楽を聴きながら、俺は人に揉まれている紫ノくんに小声で謝った。紫ノくん、きっといつもなら端によって、自分の方に人が寄って来ないような位置に立っているのだろうな。でも俺がいるから、少しでも乗り心地がいいようにとスペースをくれているのだ。
 俺の右肩の上くらいの壁に手をついて、紫ノくんは意外にもきっちりと筋肉のついた腕で、自重を支えていた。
「別に、平気だよ」
「でも、人混み嫌いでしょ?」
「うん」
「だよね。降りたらスーパーでも寄って帰ろう。俺奢るよ。夕飯作るから」
「費用折半ならいいよ」
 紫ノくんの提案に、俺は頷いた。こうやって俺を守ろうとしてくれる紫ノくんに俺ができることがあるなら、してあげたかったのだ。
 そしてなんとか俺たちは電車を降りると、紫ノくんに案内してもらいながら、俺は知らない街を歩く。
「図書館、家から十分のところにあるんだ」
「ええ、紫ノくんめちゃくちゃ嬉しいんじゃない?」
「うん、嬉しい」
 それから紫ノくんは、裏路地を歩く猫に名前が七つあることなどを教えてくれた。ぶち、と紫ノくんは呼んでいるらしい。黒縁メガネをしているような模様があるから、というのが理由だそうだ。
「紫ノくんの実家からここまでどれくらいあるんだっけ」
「一時間くらい」
「遠くもなく、でも近いとも言えないね」
「電車で来れる距離だし、車で行けば、もうちょっと早いよ」
 そんなことを話しながら、俺たちはスーパーに辿り着いた。
「ここ、形が崩れてたり、賞味期限が近い商品を売ってる店なんだ。でも別に形が崩れてても味は一緒だし、消費期限を過ぎてるわけじゃないから、僕はここ、使ってる」
「へ〜、こんなとこあるんだ」
 店の外に並べられた野菜や果物は、よくみて見れば確かに形が崩れていたり、奇妙な育ち方をしているものもある。でも値札を見れば、俺は目を見開いた。
「五十円!?」
「ね、安いでしょ」
「うん、すごい安い。マジかあ、俺、ここに通おうかな……」
「僕と一緒に暮らす?」
「うん。……うん?」
 俺は紫ノくんを見た。紫ノくんはどこ吹く風でカゴを持って、中に入っていく。もしかして俺は、外堀から埋められようとしているのだろうか。
(いや、気持ちを強く持て、田手日生! お前は一人の男だ。染崎紫ノに人生を左右されるなんて、そんなこと、あってはならない!)
 俺は呼吸を整えると、さっさと中に入っている紫ノくんの背を追った。
 店の中、並ぶ商品は確かに一見不良品に見えるけど、紫ノくんはいつもここで買い物していると言う。他の買い物客もみんな当たり前の顔で規格外の玉ねぎを取っていたり、伸び過ぎた大根を手にしている。
 俺は途中から、商品の形なんて気にしないで、必要な材料を買った。豚バラ炒めのもとも安かったから買った。今日は豚バラ大根だ。今日使うんだから、別に賞味期限が近ろうが困らない。
「良いとこだね、ここ。本当に家の近くに欲しい」
「じゃあ、俺と夕飯、時々食べてよ。材料費出すからさ、その代わり、作って」
「マジ? 良いよ。今日の俺の料理の腕前見て言って」
「わかった」
 そして俺たちは会計を終えると、二人で帰路に着く。
 階段を登って、坂道をのぼって。
 荷物はいつの間にか、紫ノくんが持っていた。俺は最初、手を伸ばしたけど、ひらりとかわされてしまう。
「紫ノくん、今度は俺に持たせてね」
「今度があるの?」
「え、あ」
 俺は肯定したら良いのか否定したら良いのかわからなくて、黙った。
 でも紫ノくんはそんな、曖昧模糊な俺を追い詰める。
「自分を好きだって言ってる男の家に簡単に来るなんて、日生くんってたまに考えてない時あるよね」
「いやだって、それは紫ノくんの家だから……!」
「わかってるよ。でもそれって俺のこと、意識してないってことだよ」
 俺は黙った。意識していないわけじゃない。でも、やっぱり安心感がある、というところはあって。今のこの瞬間指摘されるまで、俺は紫ノくんに襲われるなんて考えたこともなかったし、紫ノくんが男であることも、忘れていた。自分に性欲を抱く存在であることを。
 ……いや、抱いているのか? 俺とキスしたいとか思うのかな。
「紫ノくんはさ」
「うん」
 全然スマートに聞けない。紫ノくんは冷静に見えるのに。
「あー、えっと、あのー、キスしたいとか、思うの? 俺と」
「そうだね」
「そ、そっかぁ」
 なんでもないように頷かれて俺は坂道を登りながら、別の意味で顔を赤くしていた。
 どうして紫ノくんはこんなにも冷静に、自分の心のうちを明かせるのだろう。俺なんか、こんな質問されたらてんぱって誤魔化そうとするか、もじもじするか。どちらにせよ、ちゃんと答えられる自信はない。
 俺はどうにか紫ノくんの余裕を崩したくて、空いている手に手を伸ばしてみる。
 小指を握った。すると、俺が見上げていた背が振り返った。
 夕焼けに照らされて、その顔色はわからなかったけど、でも、多分。
 照れてる。
「僕のこと、試してるの?」
「いや、……昔は、手繋いだりするだけで幸せだったなって」
 すると紫ノくんは黙った。過去を振り返るように、紫ノくんの視線がどこか遠くを見る。俺の向こう側、戻れない過去。
「昔じゃなくて、今も幸せだから困る」
「え?」
「俺のこと、そういう目で見てないんでしょ? それなのに、俺の心は解放してくれないの? こうやって、手なんか握られてさ、好きな人に。思わせぶりって言われない?」
「ご、ごめんなさい……」
 確かにその通りだと思った。紫ノくんは最初から一貫として俺に好意を伝え続けてくれている。俺はそれを、一度断った。それなのに、意趣返しがしたくて、簡単に体に触れてしまった。それは、確かに罪だ。
 今度こそ嫌われるかもしれない。俺は立ち止まる紫ノくんの前で、小さくなった。まるで叱られた犬だ。
「でも」
「?」
「幸せだよ。まだ俺と、手繋いでくれるんだね」
 視線を上げたら、そこには優しく微笑む紫ノくんが居て、俺はどうしたら良いのかわからなくなった。
 もう傷つきたくない。でも、目の前には幸せにしたい人がいた。
 俺に何が出来る?
 離れた手に、今度は紫ノくんの手が伸びる。
 俺の小指を握って、紫ノくんは歩き出す、それに釣られて、俺も坂道をのぼる足を動かした。
 
「ここだよ」
「うわ、ちゃんとしたマンションだ」
 二階の一番端の部屋だった。角部屋は広いというが、本当なのだろうか。
 紫ノくんが鍵を開ける。俺はその時、ようやく荷物を持った。やっぱり重い。これをなんの声も上げず平然と持っていた紫ノくんは、やっぱり昔のヒョロガリだった紫ノくんとは違うのだろう。
「どうぞ」
「あ、お邪魔しま〜す」
「手洗ってうがいして」
「うん」
 紫ノくんが先に入ると、明かりをつけてくれる。俺は洗面所に入って手を洗った。どうやらお風呂と別らしい。洗濯機が左側にある。右が風呂場だ。
 俺が玄関に置いた荷物はみんな部屋のほうに持って行かれたみたいで、俺は紫ノくんと入れ替わるように部屋に入った。
「わあ!」
 そこには“紫ノくん“の部屋があった。寝室になっている六畳くらいの部屋にベッドがあって、窓のある壁にくっついている。それ以外の壁には、本棚が置かれていた。そして小さなソファ、ローテーブル。
 キッチンのある部屋は畳床で、座卓と座布団が二枚置かれていた。どうして二枚あるのか。紫ノくんにはもしかしたら俺に言わないだけで友達がいるのかもしれない。それは紫ノくんの自由だった。
 でも、嫉妬してしまう。醜い自分が消えるように、捻り上げた。
「日生くん」
「! はい」
「作ってくれるんでしょ? キッチンの方に袋、置いてるよ」
「はーい」
 俺はなんでもない風を装って、さっさとキッチンに向かう。言われた通り、米櫃のそばにスーパーの袋があって、中身をキッチンに出していく。冷やさないといけない物もあるから、振り返って紫ノくんを見た。
 そこには、ワイシャツを脱いでタンクトップ一枚になっている紫ノくんがいた。
「わああ!?」
 俺が思わず叫んでしまうと、紫ノくんは目に見えて動揺した。
「な、何?」
「ご、ごめん。何でもない、冷蔵庫に必要なもの入れていい?」
「どうぞ」
 俺は気づかれぬように深呼吸した。同性の裸を見て、それがなんだ。俺は紫ノくんを性的な目なんかで見ていない。見てはいけない。だからこんなところで、勘違いしてはいけない。
 そう言い聞かせて、俺はなんとか、食材を調理していく。
 今日は豚バラ大根と、ほうれん草の煮浸し、卵焼きだ。一応、色合いに気をつけた結果がこれだった。
 その前に、と炊飯器から内釜を出して洗う。そしてお米をといて、俺は炊飯器の電源をつけた。
「三十分かあ」
 炊けるくらいの時間に、おかずもできているだろうか。
 それは俺の手腕が問われるなと思った。
 調理器具が揃っているかと周囲を確認して、包丁やまな板、ボウルを見つけると俺は、もう一度手を洗って、包丁を握った。
 二口コンロがあって良かったなと思う、俺はほうれん草をゆがいて、その間に大根をイチョウ切りにする。
「慣れてるね」
「うおっ」
 集中していたら、いつの間にか隣に紫ノくんが立っていた。少し布のよれた麻のシャツを着た紫ノくんは、何を着ていてもかっこいい。
「……メガネ」
「うん。コンタクト外してきた。嫌いだから」
「いつから目、悪くなったの」
「中学生の成長期の頃から」
「あー、目、悪くなるらしいね。急激に伸びると」
 それにしても。
 メガネもよく似合ってるなあ。
「似合ってるね、メガネ」
 素直に口にすれば、紫ノくんは目を瞬かせた。
「ずっとこれが良い?」
「ええ? 好きにしてくれたらいいよ。つけてもつけてなくてもかっこいいと思うよ」
 俺がそう付け足せば、紫ノくんは満更でもない顔をする。俺は小さく笑った。紫ノくんは、結構わかりやすい。そんなこと言うの、俺だけらしいけど、ちゃんと見てたらわかる。
 キッチンの左側には冷蔵庫があって、その上にレンジが置かれている。
 紫ノくんはそこらへんに立って、俺の邪魔にならないように、でも俺の料理姿は見たいらしい。じっとしていた。
 俺は湯がいていたほうれん草を冷水で冷やして、フライパンで大根を炒める。
「水、捨てといてもいい?」
「あ、ありがと。やけど気をつけて」
 そして紫ノくんはさっさと鍋に取っ手をつけて、お湯を流してくれた。俺は豚バラ大根の素を入れて、肉を切ってその中に入れる。そして肉に火が通って、大根に刺し箸をした。大丈夫。
 俺は豚バラ大根を皿に乗せると、フライパンをすぐ洗って、水を切る。
「紫ノくん」
「うん?」
「卵焼き、丸くてもいい? だし巻きなんだけど」
「気にしない」
「オッケー」
 卵を溶いて、白だしを入れて、味を整えると俺は卵液をフライパンに流した。
 その間に手早くほうれん草を切って、皿に持って醤油をかける。そしてカツオ節を散らして、完成。
「紫ノくん、ほうれん草と豚バラ完成したから、味見しておいて。多分大丈夫だと思うんだけど」
「わかった」
 紫ノくんは俺の言った通りに座卓に料理を運んでくれる。
 俺はなんとか卵焼きをフライ返しすると、無事にでき上がったそれを皿に乗せた。
 同時に、炊飯器が音を鳴らす。どうやら白米が炊き上がったらしい。
「紫ノくん、大盛りでいいよね?」
「うん」
「はーい」
 俺は食器棚から茶碗を探した。一つしかない。
 どうしようかと迷っていると、隣に紫ノくんが立つ。
「俺のご飯、その青いどんぶりに入れて」
「え?」
「いつもそれで食べてる。普通の茶碗じゃ間に合わない」
「そっか。わかった」
 本当に大食漢だ。俺は言われた通りどんぶりに米を盛って、自分の分はその茶碗に入れた。
 おかず、足りるだろうか。もっと大量に作ったほうがいいんじゃなかっただろうか。俺はドキドキした。
 そして二人して正座をして、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
 俺が先に言って、紫ノくんが続くように言った。
 紫ノくんは箸を手に取ると、一番に豚バラ大根に手を伸ばす。
 俺はなんと言われるかわからなくて、じっと感想を待った。
 紫ノくんの口に、俺の作った料理が入る。
 紫ノくんは無言でご飯をかき込んだ。俺にとっては手に汗握る光景だった。どうだ、どうなんだ。
「……美味しい」
「ほんと!?」
 俺は前のめりに聞く。紫ノくんはまた豚バラ大根を箸でつついて、頷いた。
「美味しいよ。自分で作ったのより美味しい」
「いや、それは褒めすぎだよ」
「褒めすぎてないよ」
 そうはっきり言ってくれるから。俺ははにかんだ。
「それは良かった」
 俺は自分の作った料理に手を伸ばして、確かに、味は大丈夫だなと確認する。調理中もするけど、やっぱり目の前に初めて自分の料理を食べてくれる人がいると、緊張するものだ。
「紫ノくん、中学生の頃、図書委員だったんだよね」
「うん」
「なんの仕事してたの?」
 緊張を誤魔化すため、話題を出したら、紫ノくんは必ず口の物を全部飲み込んでから話をする。上品だなと思った。俺、誰かとご飯食べてる時、ちゃんと口の中空にしてるかな。
「教室の図書の管理と図書室の本の貸し、返却受付とか、新刊何を入れるか司書の先生と相談したりしてた」
「え、すご、新刊にも口出せるの?」
「俺は司書の先生と仲良かったから、いつの間にか、口出してた」
「へえ……」
 俺はうんうん頷きながらご飯を食べる。本を読む中学生の紫ノくんか。見て見たかったなと思った。
「中学生の時、トランペット吹いてたんでしょ? 高校は?」
「ああ、俺、高校の時生徒会入ってたんだ。だから、部活はしてない」
「そう。生徒会で何してたの?」
「うーん、行事の中心には結構立たされてたかな。体育祭、文化祭、他にも色々してたけど、校則の見直し、とか」
「そんなのできたんだ」
「うん」
 まあ、生徒会に入った理由といえば、生徒会の会計をしている先輩が好きだったからなのだが。不純な理由でも、仕事はちゃんとしていたから許して欲しい。
「好きな人でもいたの?」
 俺はご飯を吹き出しそうになった。
 すると紫ノくんは半目になって、俺を見る。
「やっぱり……」
「ち、いや、だって、ちゃんと仕事サボらなかったから許してよ」
「許さないよ。何僕以外の男好きになってるの?」
「う……」
 そうだ。だって紫ノくんはずっと僕のことが好きで、小学生の頃から今までずっと思い続けてくれていた。だけど俺はあっちにこっちに目移りばかり。失恋して落ち込んで帰るたび、母さんは呆れてため息をついていた。
「紫ノくんのことが好きだったんじゃないの? もう、あんた、小学生の頃が一番楽しそうだったわよ」
 そう言われて、俺は反論できなかった。紫ノくんに恋をしていたあの時が、俺は一番幸せだったから。
 俺が目を逸らしてほうれん草の煮浸しを食べていると、紫ノくんは囁く。
「再会できただけ、嬉しいんだけどね。僕、日生くんのことだけは、諦められないから」
「……。俺、そんな、紫ノくんにとって」
 大切な存在なのかな。俺みたいな男、他にも居るよ。紫ノくんのこと、ちゃんと理解して、愛してくれる人。
 そう言いかけて、俺が言うのは違うなと思った。だって、紫ノくんにとって、それが俺だったのだ。俺が苦しくて、自分の存在理由を放棄しようとしているだけ。
「大切だよ。日生くんが大切」
「うん」
「忘れないで。結局日生くんが他の男を選ぼうと、僕は君が好きだ。……忘れないで、ずっとじゃなくて良い。たまに、思い出して。俺のことを」
 逸らしていた視線を戻したら、そこには、誠実さがあった。
 紫ノくんの瞳。真っ直ぐな、透明な色をした、曲がらない芯。
 俺を、愛していると言うこと。
 忘れられないなと思った。この瞳を見て、恋に落ちない人がいるのなら、俺は聞いてみたい。
 どうしたら、繋ぎ止めたい手を、離そうとすることができますかと。

 ご飯を食べ終えて、俺は片付けをする。当然のように、紫ノくんは隣で俺の洗った皿を布巾で拭ってくれていた。
「誰かとご飯食べたの、久しぶり」
「そっか。美味しかった?」
「うん、また作りにきて」
「わかった。また暇な日、教えて」
「うん」
 会話は穏やかで、在りし日のことを思い出す。俺と紫ノくんは小学生の頃、たった二人だけで家庭科部をしていた。俺は料理が得意で、家庭科の時間、一人で調理を進めていた。他の生徒は俺が料理ができるとわかった瞬間、ふざけ始め、別の班に遊びに行ってしまったから。残ってくれたのは紫ノくんだけだった。
 その時、紫ノくん俺が一人だけで作った、昆布で出汁をとったみそ汁を、「美味しい」と、珍しく笑ったから。俺はそれから更に料理の腕を鍛えることにしたのだ。
「紫ノくん、覚えてる? 家庭科部の時のこと」
「覚えてるよ」
「あの時、紫ノくんが昆布から出汁とったお味噌汁、ずっと美味しい美味しいって飲んでくれたから、俺、もっと料理頑張ろうと思ったんだよ。ありがとう」
 少し照れくさいけど、ずっと言いたいことだった。俺が料理を今までし続けていたのも、紫ノくんの言葉があるからだ。
 紫ノくんは俺の顔を見ると、横顔で小さく微笑んだ。
「良かった、ちゃんと言っておいて」
「紫ノくん、昔からはっきり態度にも言葉にも出すよね」
「うん、アンドロイドなんかじゃないからね」
「そうだね。紫ノくんは、紫ノくんだ」
 一つとして、機械なんかじゃない。人間の紛い物でもない。ただの、染崎紫ノくん。
「愛されてるね、僕」
「へ?」
「日生くんに、紫ノくんは人間だって言われたら、本当にそんな気がしたんだ。みんな僕のこと、おかしいって言う中で、俺もどんどんおかしくなってた。もしかしたら、俺は本当に欠落した人間なんじゃないかって」
「それは」
 俺が言いかけて、紫ノくんが首を横に振る。
「わかってる。でも、理解させてくれたのは、日生くんだよ」
「俺?」
「うん。僕、怖くて、父さんにも母さんにも、アンドロイドなんて呼ばれてるって、言えなかった。でも、そんな中で、日生くんだけが、言ってくれた。紫ノくんはアンドロイドなんかじゃないって」
 紫ノくんは最後の一枚を拭うと、水にさらされた俺の手を握った。
「だから、僕は日生くんだけは諦めきれないんだ」
 握られた手が、冷たくて、温かい。
「だから、最後まで、終わりが来るまで追わせてね。日生くんのこと」
 握られた手が離れていく。紫ノくんは台所にも置いてあるハンドソープで手を洗うと、脱衣所の方へ行った。
 俺は同じようにハンドソープで手を洗いながら、赤くなった頬をどうしたら冷ますことができるか、ずっと考えていた。
 そして、少ししたら、脱衣所の方から紫ノくんの声が響く。
「日生くん!」
「はーい」
 俺は足を向ける。するとそこには、浴槽を洗う紫ノくんがいた。
「今日、この時間だからもう泊まっていくといいよ。親が来た用に布団もあるから」
 お泊まり。俺は少しドキリとした。でも平然とした顔で頷く。大丈夫、襲われるわけもない。
「わかった。でもごめん、俺着替えとか持ってないよ」
「いいよ。平気なら、俺の貸す」
「うん、ありがとう」
「ん」
 それで会話が終わって、俺は脱衣所を離れると、手持ち無沙汰に紫ノくんの本棚を見る。漫画、小説、専門書、画集。なんでもある。
「……あ、」
 俺は一冊の本に手を伸ばす。ずっと、紫ノくんとしていた、間違え探しの本。「迷宮の扉」。
「懐かし〜……」
 気づいたら、ページを開いて、覚えていたり、全く忘れていたりする間違い探しの絵を見る。
「迷宮の扉?」
「! うん。覚えてる?」
「忘れたことないよ」
 紫ノくんはスラックスの捲っていた裾を戻しながら、こちらへ来る。
「あったんだ、本屋さんで」
「ううん、なかったから、中学生になってから父さんに言ってネットで買ってもらった」
「ああ、そうなんだ。懐かしいなあ」
 俺はそう言って、ラグの上に座ると、間違い探しを始める。紫ノくんも顔を寄せてきて、俺と同じように絵に集中し出した。
(近いなあ)
 緊張してるのは、俺だけなのだろうか。内心ドギマギしながら、俺は間違いを探す。
「椅子の裏」
「あ、ほんとだ。待って、雲の形もちょっと違う。え、迷宮の扉ってこんな難しかったっけ?」
「今やると、あんまり見つけられなかったりする。頭が硬くなってるんだろうね」
「マジかあ」
 お風呂がたまるまで、俺たちはずっと、迷宮の扉で間違い探しをしては、二人して些細な違いを見つけては喜び、答えを見て、そんなところに間違いがあったのかと驚く。
「難しいよ、紫ノくん。俺、小学生の頃に戻ったらこんなの簡単に見つけられるのかな」
「うーん、どうなんだろう」
 俺と紫ノくんは、いつの間にか、完全にくっついていた。
 座る俺の肩を抱くように、手を回して、体重かけてくる。それを逃すように、俺は紫ノくんにもたれかかる。
 男子にとっては、よくある距離感だ。でも、俺と紫ノくんにとっては、ちょっと意味深である。
 ふと、紫ノくんが時計を見る。
「風呂、たまってるか見にいくね」
「はーい」
 そう言って離れていった紫ノくんに、俺は一息つく。近い、いい匂いがする。どうして白檀の香りがするんだろう。嫌なわけじゃない。ただ、落ち着いてしまうのだ。くっついていると。
 この部屋も、俺の好みの香りだった。紫ノくんの香りがする。
(いやいや変態すぎる)
 俺は邪念を振り払うように首を横に振ると、迷宮の扉をローテーブルに置いた。
「お風呂たまってた」
 紫ノくんがチラリと顔を覗かせるから、俺は頷いた。
「お先どうぞ」
「何言ってるの。客人の方が先」
「ええ、良いよ。家主が先で」
「ダメ、入って」
「はーい」
 なんの意地の張り合いだ。俺は苦笑いして、立ち上がる。
「服、脱衣所に置いておくから」
「はい。ありがとう」
「ん」
「あ、待って。下着買いにくの忘れてた」
 俺は立ち止まって、コンビニに行こうかと振り返ってバッグから財布を取り出す。すると紫ノくんが首を横に振った。
「俺、新しい下着持ってるから、それ買い取ってくれたらいいよ。貰って、って言っても、それはちょっと気持ち悪いだろうし」
「良いの?」
「良いよ」
 そして俺は紫ノくんから下着を買い取ると、お風呂に向かった。
 脱衣所で服を脱いで、そこで、脱いだ服をどうしようか迷う。
 明日もこれで学校行くか? とりあえず隅に置いておけばいい。
 俺は畳んで自分の服を隅におくと、風呂に入った。
 
「は〜、さっぱりした。紫ノくんどうぞ」
「ちゃんと温まった?」
 紫ノくんはベッドの淵に背を預けて、本を読んでいた。新しく買ったのだろうか。そう言えば本屋で新人賞がどうだとか、積まれていた表紙を思い出す。
 さすが紫ノくん、やっぱり本の流行には敏感なのだなと思う。
 そんなことを思いながら、俺は紫ノくんに頷いた。
「ちゃんとあったまった。今ポカポカしてる」
「それは良かった。じゃあ、俺行ってくる」
「うん」
 俺はタオルで髪を拭いながら、眠気と戦っていた。
 でも、眠るなら先にドライヤーをしないといけない。
 俺は風呂場の方に声をかける。
「紫ノくん!」
「はい」
 すりガラス向こうから声が聞こえる。俺は、申し訳ないなと思った。紫ノくんが出てくるまで待っておけば良かった。
 でも呼びかけてしまったものはしょうがない。
「ドライヤー、ある?」
「あるよ、脱衣所の棚の一番上見て」
「あ、あった! ごめん、ありがとう」
「うん」
 風呂場から響いてくるその声に色気を感じてしまって、俺は自分の低俗さに辟易した。どうして、紫ノくんをそう言う目で見てしまうのだろう。
 落ち込みながら髪を乾かしていたら、紫ノくんがお湯から上がる音がする。まもなくシャワーの水音が聞こえてくるから、俺はまた、聞いてはいけない音を聞いてしまった気がするのだ。
 ドライヤーの音で、下心を振り払って、俺は部屋に戻った。
 迷宮の扉で暇つぶししていたら、ドライヤーの音がする。どうやら紫ノくんは髪の毛はすぐ乾かす派らしい。
 俺は紫ノくんの少し大きなサイズのパーカーと裾の余るスウェットを着ていた。紫ノくんもパーカーとか、スウェットとか履くんだ。さっきから、ちゃんとした服を着ている紫ノくんしか見ていなかったから、少し違和感がある。
 そして、横引きの扉を開ける音がして、扉が開いた。
 紫ノくんは半袖に薄いカーディガン、スウェットを履いている。
 そのプロポーションの良さは隠しきれてなくて、広告のモデルみたいだった。
「日生くん?」
「わ」
 ぼんやりしていたら、目の前に紫ノくんが目線を合わせるように屈む。
「どうしたの」
「いや、紫ノくん、スタイル良いなあって」
「へえ。そんなこと考えた事ないかも」
「そりゃ、紫ノくんそういうの興味なさそうだもんね」
「うん」
 俺は迷宮の扉を閉じて、立ち上がった。
「予備の布団、どこにあるんだっけ?」
「出してくる。このローテーブルとソファ、移動させてくれない?」
「わかった」
 俺は言われた通り、小さなローテーブルを座卓の方に寄せて、小さなソファも運ぶ。
 すると紫ノくんは布団一式を持ってくると、空いたスペースに置いた。
 布団って、一式持つと結構な重量だと思うのだが、紫ノくんは平気そうだ。
「ありがとう、紫ノくん」
「良いよ。枕の高さ変わったら寝れないとかある?」
「ないと思う」
「良かった」
 紫ノくんはさっさと用意してしまうと、俺は何も手伝わないまま、寝床が用意された。
 俺はふと、時計を見る。
「え、もう二十二時?」
「うん、結構時間過ぎてるよ」
「うわあ、全く気づかなかった。紫ノくん、明日一限は?」
「ない」
「良かった。じゃあ、そろそろ寝る?」
 俺は布団の中に足を入れる。
 でも紫ノくんはベッドに座ると、俺の手を引っ張った。
 その力のまま流されてれば、紫ノくんの隣に俺が座る形になった。
「紫ノくん?」
「……今日、ようやく日生くんに声かけられたから。ちょっとだけ、時間ちょうだい」
「う、うん」
 どうしたと言うのだろう。すると、紫ノくんは俺の肩に頭を預ける。
 俺は肩を跳ねさせたけど、拒否はしなかった。
 シャンプーのいい香りがする。いや待て、変態もいいところだ。
 俺の脳内はすぐ騒がしくなって、心臓の音も大きくなる。緊張して、何も言えなかった。
「日生くん」
「うん?」
「日生くん」
「うん、どうしたの、紫ノくん」
「幸せ」
 俺は、紫ノくんのその一言に、胸の奥を溶かされていくようだった。
 何度も恋に敗れた。俺は、好きな人に好きとも言えない。一度だけ告白したことはあるけど、次の日、それが学校中にバレて、声の大きな奴らにずっと揶揄われ続けた。
 どうしてあの時、自分の気持ちを受け入れてもらえるものだと思ったのだろう。夢を見ていたのだと思う。
 でも、紫ノくんは俺が紫ノくんを好きだった気持ちを受け入れてくれた。自分もだと教えてくれた。
 紫ノくんにとっては、俺とこうしていられるだけで、幸せなのかもしれない。俺もそうだ、俺も幸せだった。
 でもまだ、怖いのだ。許してほしい、こんな臆病な俺を。
「紫ノくん」
 声が震えている。でも、ちゃんと、親友として生きていくためには、言っておかないといけないと言うことだ。
「紫ノくんに振り向けるかわからない。でも心は、紫ノくんが大事なんだ。だから、もし、紫ノくんが付き合っていられる時間だけいい。俺と、一緒に居てくれない?」
「当たり前」
 紫ノくんは間髪入れず頷く。俺はそれが、心底嬉しかった。そして紫ノくんの優しさに漬け込んでいる自覚もあった。ずっとずっと、待たせるわけにもいかない。紫ノくんには紫ノくんの人生があるのだから。
 そう考えていたら、紫ノくんは俺の頭の中を見透かしたように言った。
「待てるよ。一生待てる。日生くんの心が変わったって、俺は日生くんがずっと好きだよ」
 肩口から聞こえてくる愛の言葉に、俺は涙が出そうになる。紫ノくんの無償の優しさに、俺は幼いあの日、救われた。そして今もその深い愛情に、俺は救われている。
 俺は、そっと、紫ノくんの頭に自分の頭を乗せた。
 本気の恋をするなら、紫ノくんがいいと思った。