アンドロイドの紫ノくんと、負け犬の俺

 
 授業中、俺はずっと上の空だった。
 話したことだって、二回しかない。でもたった二回の会話に、俺は心奪われてしまった。一度目は傘を貸してくれて、二度目は、二号館への道案内をしてくれた。優しい人だった。
 前田勇気。
 チラリとインスタを見て、俺はブロックした。彼女との幸せそうな写真をこれ以上見ていたら、涙が出そうだったから。
 三号館に向かう途中。その背を見かけて、幸せな気持ちになった。叶うことはない。でも先輩がフリーである、と言うことが俺の救いだった。
 前田先輩の背を見送ってから、教室に入ろう。
 そう思っていたら、俺の隣を女の人が駆けていく。
「勇気!」
 そう言って、長い髪の女の人はその腕に抱きついた。
 遠目からでもわかる。サラサラの髪、スカートは少し短くて、でもその細い脚が醜さをどこかへやっているようだった。
 そして前田先輩は嬉しそうに女の人に振り返って、手を繋ぐのだ。
 俺は、呆然とそれを見送った。
 そして、授業が始まって、いつもなら話に集中できるのに、俺はぼんやりと教授の話を聞いていた。
 当たり前か。
 だって先輩は、“普通“の男だ。俺とは違う。
 わかっているはずなのに、涙が出そうになる。
 恋は論証できないのに、存在だけは否定できない。
 見えないし、誰も確証に至るものを持っていないのに、その感情は確かに人間の中にあるのだ。
 俺は小さくため息をついて、今度こそタブレットでノートを開いて、板書を写し出した。
 もう二度と、恋はしない。そう決めて。
 
 一限が終わって、俺は二号館近くのカフェに走った。
 紫ノくんが到着の連絡をくれたからだ。
 そしてカフェの近くに着くと、俺は足を止めて、紫ノくんを探す。
 見つけて、俺は手を上げようとした。
 その手が、動きを止める。
 紫ノくんは女の子に声をかけられていた。おおかた、連絡先を教えて欲しいと願っているのだろう。その手にはスマホが握られている。
 でも紫ノくんは何の感情も浮かべていない顔で、首を横に振り続けている。口も効いていない。徹底して、避けている。
 もしかしたら、紫ノくんは内心困っているのかもしれない。俺は恐る恐る紫ノくんに近づいた。
 すると紫ノくんはすぐに気づいてくれて、小さく微笑んでこちらに手を振ってくれる。
 そして女子のことは無視して、俺の方に歩いてくる。
「あー、女の子は放置でオッケー?」
「うん、興味ない」
 その一言は女の子に聞こえたのだろう。女の子は悔しそうな、恥ずかしそうな顔でどこかに立ち去る。俺は、紫ノくんに女の子を指差して、無言で不愉快なことでもされたのかと聞けば、紫ノくんは首を横に振る。
「急に声かけられて、前から気になってた、連絡先教えて欲しいって言われて、俺は興味なかったからって首横に振ってた。日生くんが来てくれて良かった」
「あー、そうなら良いんだけどさ。いつも、あんな感じなの?」
「まあ、あるね」
「そっか」
 いつか、紫ノくんも女の子の恋人を持って、結婚して、子供を作るのだろうか。そんな普通の幸せな日々を送って、死んでいくのだろうか。
 でも俺みたいに、一人で死ぬよりはマシだ。紫ノくんに一人で死んでほしくはない。
 それなのに、紫ノくんには俺と一緒に、一人で死んで欲しいと願ってしまうのだ。
「日生くん?」
「ん?」
 俺はどうやらまたぼーっとしていたらしい、紫ノくんは少し屈んで、俺の顔に近づいてくる。
「俺と一緒にいるのに、考えごと?」
 その美麗な容姿が近づいてくる。無表情の美しい顔はいっそ恐怖を感じるくらいだ。俺は一瞬何も考えられなくて、口だけが勝手に動いた。
「ごめん」
「良いよ。でもあんまりぼんやりしないでね」
 そう言って、また紫ノくんはまた俺の手を取る。
 俺はギョッとするが、でも紫ノくんのこと拒絶したくなくて、そのままカフェに入った。
 席はすぐに見つかった。俺たちは荷物を下ろすと、貴重品だけ置いて、カウンターに注文をしにいく。
 少し待てば、俺が頼んだチョコレートケーキとアイスティーが出てくる。そしてコーヒーの香りが漂ってくるなと思ったら、紫ノくんはブラックコーヒーだけを頼んでいた。
「紫ノくんお腹空かないの?」
 俺はトレーを持って、席へと帰っていく。
 紫ノくんはコーヒー片手に頷いた。
「まだ空いていない。朝ごはん食べすぎた」
「そういえば紫ノくん、いっつもおかわりしてたもんね」
「うん。燃費悪いよ」
 それにしては、紫ノくんの体系はスマートだ。
 腰が細くて、肩幅が広い。足も長くて、モデルみたいな体型だ。
(そりゃモテるわけだ)
 俺は自分を見下ろす。特に長いわけでもない足、細くもない腰、割れてない腹筋。
 平々凡々な身体。ちょっとだけ、紫ノくんと並んで歩くのが恥ずかしかった。
 俺はテーブルにトレーを置くと、荷物をよけて、椅子に座る。
「改めて、お久しぶり、紫ノくん」
「うん、改めて。お久しぶり、日生くん」
 お互い椅子に座りながら、頭を下げあう。
 まるでお見合いだ、でも俺たちの間に羞恥はなくて、ただ再会の喜びに満ちていた。
 顔を上げる。俺は自然と微笑んだ。それに、紫ノくんも小さく笑ってくれる。
 紫ノくんは、俺相手だと、表情で感情を伝えてくれる。俺が昔「紫ノくんの笑顔が好き」と言ってから、紫ノくんは嬉しい時は、俺に笑顔で知らせてくれるようになった。
「それにしても、ほんとに偶然。よく見つけてくれたよな、俺のこと。俺ちっとも気づかなかった、ごめんな、紫ノくん」
「良いよ。俺も、忘れられてるかもしれないって、臆病になって声かけられなかっただけだから」
「うわあ、覚えてて良かった。紫ノくんのこと、俺だって忘れたくなかったんだよ。でも成長して、まさかこんなピカピカの男の子になってると思わなくてさあ」
「ピカピカ?」
「うん、輝いてるよ。昔、ずっと前髪で目元隠してたけど、切ったんだね」
 俺が前髪を切るような仕草をしたら、紫ノくんは頷く。
「日生くんのこと、絶対見つけたくって」
「変わらず嬉しいこと言ってくれるよなあ、紫ノくん。見つけてくれて嬉しかったよ」
 俺は昔のように、無邪気に微笑んでいられているような気がした。歳をとるにつれ、笑顔にも現実が現れる。俺は負け犬だ、すぐ人を好きになって、そして破れて。傷ついて、どんどん臆病者になっていった。
 でも、紫ノくんの前ではそんなこと、忘れられる。誰かのことを純粋に好きになれた頃の自分を思い出させてくれるのだ。
 だって、俺の初恋は紫ノくんだったから。
(ま、一生言わないけどさ)
 紫ノくんにまで離れられたら、俺はどうにかなってしまうかもしれない。それくらい、俺は紫ノくんが好きだった。
 一緒にいられた間、俺は確かに報われていた。愛情を与えれば与えるほど、紫ノくんは確かに俺の好意に報いてくれたから。
 一緒にいようと理由を作らなかったって、紫ノくんとは一緒にいられた。なんだか寂しいと思う時は、大抵紫ノくんがいない時だった。
 今恋をしているかと聞かれればそうじゃないけど、大切なことに変わりはない。
「中学の時、何してたの。他に友達できた?」
「図書委員を三年間してた。友達はいらない」
「俺、中学の頃吹奏楽部にいたよ。トランペット吹いてた」
「友達は?」
「うーん、まあまあ?」
「ふーん」
 紫ノくんはつまらなさそうに呟く。
 そして、コーヒーを一口飲んで、ストローを口から離した。
「僕みたいに、日生くんのこと、大切にしてくれる人は現れた?」
 俺はその言葉に、なんと返事をすれば良いのか、わからなかった。
 俺のことを、大切にしてくれる人。
 日生くんくらい、俺を大切にしてくれる人。
 心底傷ついた時に、その傷を隠すんじゃなくて、ちゃんと傷ついたと言えて、そして、その心を癒そうとしてくれる人。
「……いない」
「そっか。俺もずっと、日生くんのことが好きだったよ」
「俺も、紫ノくんのことがずっと好きだよ。俺と死ぬまで友達で居てくれ」
 俺が笑いながらそう言えば、紫ノくんは笑うことなく、首を横に振る。
 笑顔が、心が、冷たくなって固まるのがわかった。
「あー、いや、一生は重すぎたよな、ごめん。紫ノくん」
「違う」
「違う?」
「ずっと一生、俺といてよ。日生くん」
 俺は目を瞬かせる。紫ノくんは昔から、たまに、俺を見透かしたような発言をするのだ。まるで、俺の好意に気づいてるみたいに。
 でも、そんな都合のいい話があるわけないから、俺はまた、へらりと笑う。
「大丈夫、ずっとそばにいるよ。結婚式だって、友人代表で読むし」
 すると紫ノくんは、悪戯な目になった。
「うん。でも、日生くんの席は俺の隣だよ」
「……え?」
「俺が新郎、日生くんは新婦ね。反対でもいいよ」
 そしてまた、涼しげな顔でコーヒーを飲む紫ノくんに、俺は理解が追いついていかなかった。
「え、っと……」
「日生くんは、ずっと僕と一緒に居たらいいよ。絶対、傷つけたりしないから」
「え、いや、でも、紫ノくん」
 ノンケだよね?
 そう質問しようとして、口をつぐんでしまう。
 だってこの質問は、自分がそうじゃないことを伝えることに他ならない。それでもし、紫ノくんに拒絶されたら? 頭では理解している。紫ノくんが俺を馬鹿にしたり、傷つけたりしないことは。
『ホモ野郎!』
 違う、紫ノくんはそんなこと言わない。
 それなのに、俺の手は僅かに震えていた。
「俺、日生くんのこと、そういう目で見てるよ」
 紫ノくんの言葉に、俺は勢いよく顔を上げた。
 その顔には、緊張なんてない。いつものマイペースな紫ノくんがいる。
 でも俺は気づいていた。紫ノくんの瞳が、不安に揺れていることに。どうしてわかるのか、本人に昔聞かれたことがあるけど、勘としか言いようがない。
「……、紫ノくんは、ゲイってこと?」
「うん、日生くん限定だけど」
「えっと、俺も、そうなんだけどさ。俺は、紫ノくん以外もそういう目で、見れるんだよね」
 そういうと、紫ノくんは眉を顰めた。俺は何か不快にしてしまったかと思って、謝ろうとしたけど、その前に紫ノくんが口を開く。
「じゃあ、恋敵はたくさんってわけだ」
「恋、敵」
「そうだよ、俺は日生くんにずっと恋してるんだもん」
 当たり前のことを言うみたいに、紫ノくんは言うから、俺はフリーズしてしまう。
 こいがたき。コイガタキ。
 え、恋敵?
 紫ノくんみたいなイケメンが? それも経済学部って、めちゃくちゃ頭良くなかったっけ。容姿端麗頭脳明晰、運動はちょっぴり苦手なことは知ってるけど、壊滅的と言うわけでもない。
 そんな優良物件が、俺を好きだと言っている。
 俺はまずアイスティーを飲んで、冷静になろうとした。うん、アイスティーの味がする。
 そしてチョコレートケーキを食べてみる。いつもの味がする。
 現実だ。
 俺は、白昼夢を見ているわけではないらしい。
「い、いつから俺のこと好きだったの?」
 俺の声は裏返っていた。動揺が隠せない。仕方ないだろう、幼い頃恋していた相手に、いまでも好きだと言われたのだ。初恋の記憶が蘇っていく。紫ノくんを好きだった俺が蘇ってくる。
 ダメだ、もう俺は誰にも恋しないと決めた。
 それなのに、あの時、二人でただ、公園のベンチで座っているだけで幸せだった時間を思い出してしまうのだ。
 木の葉の擦れる音を聞いて、なんでもないことを一言二言話して、俺たちは五年間、ずっと一緒にいた。
 紫ノくんは俺の動揺具合に何を感じているんだろう。また、アイスコーヒーを口にしている。紫ノくんも緊張しているのだろうか。
「小学生の頃から」
 窓の外を見ながらそう答えた友達に、俺は頭を抱えそうになる。両片思い、と言うやつだったのか。
 確かに俺が他の男子を褒めたりしたら、よく不機嫌にはなっていたけど、俺の隣を離れようとしなかったし、隣に誰がいても紫ノくんは割り込んできて、絶対、誰にも俺に触れさせようとしなかったけど。
 どれもこれも、紫ノくんの恋心の現れ、と言うわけだった。そう言うことだ。
 でも確かに俺も、紫ノくんが女子と少しでも話していたら、不機嫌になっていたな。それから、紫ノくんはあまり女子と話さなくなった。俺はそれに謝った。気にしなくていいと。でも、紫ノくんは首を横に振った。
『日生くんの方が大事』
 あれほど、自分を大切に扱ってくれた友達は、後にも今にも、紫ノくんしかいなかった。紫ノくんに恋をしていた時が、やっぱり一番幸せだったなと思い出した。
「……俺も、小学生の頃、紫ノくんのこと好きだったよ」
 紫ノくんの動きが止まる。テーブルにコーヒーを置こうとして、そこで止まっている。俺はコーヒーのグラスを紫ノくんの手から取ると、ソーサーの上に戻した。
「好き、“だった“?」
「うん。もう俺、誰にも恋しないって決めたんだ。紫ノくんにも」
「それは、困る」
「ごめん、諦めて。友達として居させて」
 沈黙が落ちる。俺は、気まずくて、机に視線を落とした。
「友達としては居られない。だって俺は、好きだから、日生くんのことが。だから日生くんの傍に虫が現れたら払い落とすし、僕のものだって言い続けるよ」
「いや、うん、もう俺は誰も好きにならないし、紫ノくんのことも一生好きにならないけど、それでも良いんなら、好きにやってくれていいよ。気にいらないなって思ったら、払い落としてもらっても」
「じゃあ、今の友達の連絡先、全部消して」
「こわ」
 俺は正直に言った。紫ノくんはこんな男の子だっただろうか。もっと物静かで、そっと触れたら葉が閉じるような、そんな繊細な、おじぎ草みたいな男の子だったのに。
 こんな過激なことを言う男になって居たとは。時間の流れというものは恐ろしい。
「じゃあ、紫ノくんも友達の連絡先、全部消してくれるの?」
「それで、日生くんが手に入るなら」
「マジか……」
 俺はどうしようかと天を仰ぐ。紫ノくんの愛情が重い。どこがアンドロイドなんだ。こんなアンドロイド居たら、人を恋に落として落として、とんでもないことになるぞ。
「返事は待てる。でもその間、他の男を好きになったら、絶対もう離さないから」
 なんでもないような顔で言って、紫ノくんはコーヒーを飲み終えると、どこからかパソコンを取り出した。レポートでもするのだろうか。
「紫ノくん、俺以外にも男はいるし、女の子もいるよ」
「いらない」
「そっか……」
 一刀両断、という言葉が似合う。
 俺はアイスティーをちまちま飲みながら、これからどうしようか考えていた。負け犬の俺である、すぐ恋に落ちて、失恋してを繰り返してきた。そんな俺に、両思いの男が現れてしまう。運命とは数奇なものだ。
 それもその男は小学生の頃からずっと一途に俺を想ってきてくれた、俺も好きだった、男の子。
 “愛している“なんて、一生目にすることはないと思っていた。でも目の前には、俺のことを「愛して生きてきた」男がいて。
 それは、どうしても魅力的だった。傷ついてばかりの心を癒してくれる。
 だけどそれは、俺が勝手に幸せになるだけで、紫ノくんを幸せにできるかと言われれば、わからない。
 ずっと好きだ。でも好きという感情だけで幸せになれるなら、俺みたいな負け犬はできない。それがこの世の現実だった。
 俺は紫ノくんがさっさとレポートを書き上げていく中で、チョコレートケーキを一口、紫ノくんに差し出す。すると当たり前のように紫ノくんは口を開けた。間接キスというやつだ。気づいたのは、紫ノくんがケーキを食んだ瞬間だったけど。
 紫ノくんは、これが毒でも、食べてくれるのだろうな。俺は確信に近いものを感じていた。
「美味しい?」
「うん」
「良かった……」
「ね、授業終わったら、うち来る?」
「え! 行きたい!」
 思わず大きな声が出て、俺は周囲の目を誤魔化すように口元に手を当てた。
「ごめん、久しぶりだからテンション上がっちゃって。実家? 一人暮らし?」
「一人暮らし」
「そっか。俺実家暮らしなんだよね。あの家に戻ってきたからさ。また誘うよ」
「うん」
 俺はその時、何も考えていなかった。
 自分のことを好きだという男の家に行く時は、警戒しておかないといけないということを。