繋がる手を、引き裂きたい。
でもそんな資格、俺にはないから。
負け犬は、遠吠えすることさえ出来なかった。
大学二年生になった。
新入生を勧誘するサークルのチラシ配り、運動部の誘い文句に騒がしかった正門も、今となれば静かなもので、吹く風が徐々に熱を孕んでいく。若葉が揺れる、初夏のこと。
俺は満員電車を降りて、駅のホームを歩いていた。
大きな駅だ、降車する人間も多ければ、乗り込む人間の数も多い。
人の波に乗って改札口に向かえば、目の前の男のICカードを落ちる。
俺は反射的に拾ってしまった。
「どうぞ」
そう言って手渡せば、男は俺の方を見て、ICカードを手に取ると、俺の腕を掴む。
「一緒に来て」
「は?」
承諾も拒否も選べぬまま、俺は慌てて定期券で改札を抜けると、駅の壁際連れて行かれた。
「ちょっと待って、マジで何?」
俺と同じくらい、それか年上だろうか。俺の腕を突然取って、こんなとこにまで連れてくるくらいには可笑しい人だが、でも、多分悪い人ではないのだろうなと思った。
俺の腕を取る手が、優しい。だから、俺は逃げなかった。
男は立ち止まる。
そして俺の方を振り返った。
俺は思わず、呆然としてしまう。
男は黒髪に、柳眉。涼しげな目元の、イケメンというより美男子、という表現が正しいだろう。
掴まれた手に、思わず熱を覚える。
ダメだ、もう恋はしないと決めた。
「日生くん」
「……え?」
「日生くんでしょ、僕、染崎紫ノ」
「……えっ、紫ノくん!?」
一瞬フリーズした脳みそ。思い出すと、俺は飛び上がりそうになった。いや、実際少し飛び上がった。
染崎紫ノくん。俺の小学校時代の親友だった男だ。
俺は小学生を卒業してからは関東ではなく、地方で育ったから、連絡先もわからないまま、疎遠になっていった。でもまだ、年賀状は届く。いつかまた会いたいなと思いながら、年賀状を返していた。
そして、気づけば大学生になって、俺は地方から関東に戻って、進学したのだ。
また連絡したら、再会できるだろうか。そんな事を思いながら、俺は日々を過ごしていた。
それにしても、とんでもない偶然だ。
俺は手首を握る手を取って、握手する。
「久しぶり、紫ノくん! 俺だよ、日生だよ! わかる?」
「わかるから声、かけたんだよ。一緒の電車乗っててもなかなか気づいてくれないから」
「え、そうなの?」
「うん、もう十回以上おんなじ車両、乗ってるよ」
「ええ!?」
俺は心底驚いていた。だって、十回も同じ車両に乗っているということは、ちらりと顔が見える機会があって、紫ノくんは気づいたという事だろう。
つまり、薄情者は俺だったという話である。
俺は眉を下げて謝る。そして握手している手を離そうとしたら、今度は紫ノくんが手を握ってくる。俺は内心ドキッとしたけど、何も言わなかった。
「どこの大学、通ってるの」
「明城」
「僕も」
「マジかよ、なんで俺気づかなかったんだろう。学部は?」
「経済」
「あー、俺文学だわ」
それにしてもこんな美男子いるなら噂にもなりそうなのに、どうして紫ノくんの噂は聞かなかったのだろう。でも俺も噂を好むタイプではないし、そもそもサークルにも部活にも所属していないから、情報源がない。つまり、気づかなくて当然だ。大学には一千人単位で人がいるのだから。
「会計学専攻」
「俺、哲学専攻」
「いいね。楽しそう」
紫ノくんの頬が小さく綻ぶ。そうだ、思い出した。紫ノくんはその出来すぎた容姿を持ちながら、感情表現が希薄で、幼い頃学校の生徒、主に男子に「アンドロイド」なんて表現をされていた。
俺は紫ノくんにそう言って傷つけようとする男子が大嫌いだった。だって紫ノくんは優しくて、ちゃんと心のある男の子だったからだ。
俺が、じいちゃんが亡くなって、家族の前では心配をかけたくなくて一人で公園で泣いていたら、ベンチに座る俺の隣に腰掛けて、ずっと背を撫でてくれた。それまで、何の交流もない、友達でもなかった俺に。
俺はその日から、紫ノくんを傷つける奴が居れば、すぐ追い払うようにした。これが俺にできる恩返しだと思ったから。
そして紫ノくんと学校が離れるとなった時に言ったのだ。
「紫ノくん、誰に何を言われようと、紫ノくんは優しくて、心ある人だよ。アンドロイドなんて言われたって、負けないで。俺が居るよ。ずっと、離れてても思ってる。紫ノくんは優しい人だって。俺が守りたいって思った人だって」
すると紫ノくんは初めて泣いた。俺も紫ノくんと離れるのが寂しくて、泣いた。
最後、抱きしめあって、俺たちは別れたのだ。
「それにしても紫ノくん、大きくなりすぎじゃない? 何センチあるの?」
「百八十」
「でか……。俺なんて百七十二しかないよ」
「たった八センチだよ」
俺たちは感動、と言ったらいいのかわからにないけど、再び出会って、駅から大学への道を一緒に歩くことになった。俺は紫ノくんに沢山聞きたいことがあったし、紫ノくんもそうらしい。
並んで歩く道は大学の関係者だろう。学生しかいなくて、人混みの中、二人並んで話しながら歩くには、人の通行が多すぎた。
すると紫ノくんは一瞬振り返って、俺の手を取る。
「はぐれないように、手、繋いどくね」
「あ、うん」
この歳で手を繋いで歩くなんて久しぶりのことで、俺は心臓がおかしくなっていることに気づいていた。脈拍が速くなっている、手汗が少し滲んでいた。バレませんように。そう祈りながら歩く。
すると大学について、俺は紫ノくんと手を繋ぎながら、敷地に入る。
見知らぬ視線が俺と紫ノくんの手元に向けられていることはわかっていた。
もしかしたら、俺と紫ノくんが付き合っているなんて噂を流されるかもしれない。そんなの、紫ノくんが可哀想だ。
「紫ノくん、手、繋いでたら見られるよ」
「別に、僕はどっちでもいいよ。……いや、日生くんがおかしく見られるか。手、離すよ」
「待って、俺は平気だよ」
離されそうになった手を俺は咄嗟に掴んだ。どうして、俺は紫ノくんに離して欲しくないと思ったのだろう。一つわかっているのは、寂しいという気持ちだった。
俺は、紫ノくんに手を離されるのが寂しかったのだ。ようやく再会できたのに、他の視線なんかに俺たちを邪魔して欲しくなかった。
俺がそう言うと、紫ノくんは俺の顔をじっと見た後、また歩き出す。
「紫ノくん、二限暇?」
「暇だよ。一限と三限が授業」
「わかった。じゃあ、二号館の近くのカフェでちょっと話さない?」
「うん。……あ」
「ん?」
思い出したように、紫ノくんがスマホを取り出す。
「連絡先、教えて」
「あ、そっか」
俺は出会えた衝撃に、何もかもを忘れていた。連絡先さえ交換していなかったら、何かあった時知らせることもできない。
俺はスマホを取り出すと、紫ノくんのIDを教えてもらって、スタンプを挨拶代わりに送ってみる。
するとお茶を飲んでいる犬のスタンプが返されてきて、俺は思わず笑った。
「紫ノくん、こう言うの好きなの?」
「面白い」
「そうだね」
俺は時計を見る。そろそろ時間だ。
「じゃ、俺行ってくるね、紫ノくん。また、二限で」
「うん、行ってらっしゃい」
俺は手を振ると、講義室のある三号棟へ向かった。
その途中で、俺は失恋したのだ。
でも俺はその後に、もっと大きな爆弾を落とされる。
――紫ノくんは最初から、俺を逃がす気がなかったのだ。
