飲み会で隣に座る先輩がずるい

14 先輩が嫌い
 新学期で前向きな空気に満ちた人込みを、縫っていく。
(僕、六月の時点で「ずるい」は憧れの裏返しだって、心の奥では気づいてたんだ……)
 三限終わりはサークルやバイトに移動する人が多い。校舎の出入口が渋滞して、足踏みしながら自嘲の息を吐く。
 好きにならないとか、何の意地を張ってたんだか。
(変なこと言ってなかったって叶斗先輩が言うから、油断した)
 いや。はじめての酒に潰れた僕の様子を訊いたとき、妙な間があった。
 もっと疑って、問い詰めればよかった。
 ……何て言って?
 叶斗先輩と話そうと思ってここまで来た。でも、話したくないかもしれない。
 屋外に出られたものの、小走りから歩きに速度が落ちる。
(だって、叶斗先輩は僕の気持ちを知った上で、「好きになられちゃう」って打ち明けてきたんだよな)
 それって、勘違いですよ応える気ありませんよっていう、遠回しのお断りじゃないか?
 恋心を知られていたという動揺が、叶わない痛みに塗り替わっていく。
(どうせ叶わないって、わかってただろ)
 だからただの先輩後輩でいたいと思った。
 叶斗先輩のほうは、夜の中庭で、僕が告白を憶えてないって確認したわけだ。
 その結果、平和が続いた。
(このまま僕が知らないふりすれば、傍から見ても仲の良い、今の関係性が壊れずに済む……)
 中庭の芝生のそばまで来て、足が竦む。
「あ、陽くん。ここだよ」
 なのに、叶斗先輩に見つかってしまう。
 何なら先に見つけていた。
 長距離ツーリングぶりの実物の叶斗先輩。
 こんな動揺の中でも、相変わらずきらきらして見える。秋色のスウェットシャツが似合っていて。優しい微笑みを浮かべていて。
 僕が動けないでいると、わざわざ立ち上がって歩み寄り、顔を覗き込んでくる。
「陽くん? ……ぐえ」
 その二の腕を拳ではたいた。まだ足りない。
「あのベンチ、懐かしいね」
 にもかかわらず、地雷を踏まれる。
 ここのところ僕の内側をループし続けていて、佐藤先輩に当て逃げみたいに揺さぶられた感情が、爆ぜる。
「……ぜんぶ知ってたんですか」
 一度あふれたら、止まらない。
 追及の言葉が口をつく。
「ぜんぶ知ってて、僕の隣であれこれ世話焼いて、揶揄って、僕のこと嗤ってたんですか?」
 声が掠れて、ひずむ。全力で走ってきたわけでもないのに呼吸が浅くなる。
 告白を聞いたのは、叶斗先輩だけじゃない。飲み会に居合わせたサークルメンバーもだ。その後の僕と先輩のやり取りを見て、どう思っていたんだろう。
(僕ひとり何にも知らないで、「親切にされてあげよう」とか……はずかしい)
 結局、勘違いしたのは事実だ。嗤われても仕方ない。
 ひどい、って責める気持ちはすぐしぼむ。
 むしろ委縮して、顔を上げられない。
「何の、話」
 叶斗先輩の声には、狼狽が感じられた。
 やっぱり知っていたらしい。
「……僕が、六月の飲み会で、先輩に告白したって。さっき佐藤先輩に聞きました」
 追及じゃなく、懺悔みたいになる。
 長距離ツーリングで玉砕した女子のように傷つきたくなかった。それもあって恋心を隠そうと努めたのも、無駄だった。
 レインコートを入れた紙袋を握り締める。
 喜ぶかなって、もふもふ加工シールで留めたの、ばかみたいだ。
 一方の叶斗先輩は、「ああ」と吐息めいた声を漏らした。
 ちらりと目を向ければ、寂しげな顔をしている。
 ――なんで?
「陽くんが俺を『嫌い』って言った話ね」
「……へ?」
 嫌い? それは告白の真逆ですが。
 混乱で眉間に皺が寄る。僕の気持ち、ばれてはいないのか?
「僕、嫌いって言ったんですか」
「うん」
「で、でも、変なこと言ってないって」
「俺を嫌いな男は別に変じゃないよ」
 先輩が淡々と教えてくれる。
 佐藤先輩、まぎらわしいことを……! 八つ当たりしたさで、頬が上気する。
 好きと言ったと思い込んで、叶斗先輩からすれば訳のわからない言葉をぶつけてしまった。
「ええ、と」
 嫌いじゃない、と訂正すべきか迷ううちに、先輩が口を開く。
「陽くん。お願いがあるんだけど」
「……ハイ」
 かしこまって返す。
 まだ、行き違いだったって安堵はできない。
 真実が明らかになったし、平和茶番は終わりって言われたら、了承するほかない。
 整っているゆえに遠く見える真顔を見上げて、待つ。何を言われてもちゃんと終わらせようと。
「そのまま、俺のこと嫌いでいて」
 ただ、この言い方は想定していなかった。
(え)
 嫌いでいて、とは。
 好きにならないで、って意味だ。
 理解と裏腹に、いい思い出が勝手に脳裏に再生される。
 一緒に見た景色、とっておきポテトの味、互いしか知らない気遣い、庇ってくれたこと、何でもないやり取り。
(そう言う割に、あなたを好きになるようなことばっかりしてくれやがりましたね?)
 とても処理しきれない。
 叶斗先輩といたら楽しい。
 叶斗先輩といたら、苦しい。
 叶斗先輩が好きだ。好きでいたらいけない。
(顔も中身も何もかもふつうなら、ふつうに恋愛したかった、なんて)
 胸をぎゅっと押さえる。余計なものがあふれ出ないように。
 叶斗先輩を好きにならなければ、こんな苦みを味わわずに済んだ。
「……頼まれなくても、先輩なんか嫌いです」
 改めて、告げた。
 石ころは星に届かない。手を伸ばしてもそれを思い知らされるだけ。
 四限の教職の授業が始まる。踵を返し、校舎に駆け込む。
 叶斗先輩の反応を確かめる勇気はなかった。


 僕なんかに好かれたら、迷惑だ。だからこれでいい。
 なのにずっと胸が重苦しい。恋心が石になって圧迫しているかのようだ。
(どんだけ大きな石だよ)
 後期一発目のサークル飲み会は、もちろん不参加。
 御用達の居酒屋の前を通らないよう遠回りして、夜ごはんを買いにコンビニに寄る。
 大学正門からいちばん近く、一限前と二限後は混雑してるけど、十八時過ぎの今はそれほどじゃない。
 適当におにぎりを選ぶ。ホットスナックのポテトにトッピングする用のバニラアイスも買おうと、ふらふら店の奥へ進む。
「ショートケーキ、また発注したの」
 品出しするおばさま店員たちのおしゃべりが聞こえてきた。
「六月にケーキ買ってったイケメンくんが来たときのためよ。『このコンビニならショートケーキある』って期待されてるはず」
(それって……)
 六月、ショートケーキ、イケメン。
 叶斗先輩が思い浮かぶ。
 いや、ぜんぜん別人かもしれない。このコンビニを利用する学生は多い。
「ケーキならケーキ屋さんで買うでしょ」
「また来てほしいってこと! お友達おんぶしても涼しい顔で、ドラマ撮影中の俳優さんみたいだったんだから」
 間違いなく、叶斗先輩だ。
 おぶわれてた僕のほうは、店員さんに憶えられていないらしい。
 六月六日の夜。
 三年の先輩のサプライズじゃなく、叶斗先輩が個人的にケーキを用意してくれたんだ。
 誕生日が酔い潰れて終わりにならないように。
(……なんで?)
 数日前の会話を思い返す。
 自分が傷つきたくないあまり、「嫌い」って言って、叶斗先輩を傷つけてしまったんじゃないか。
 先輩は勘違いで好かれたくないだけで、嫌われたいわけじゃない。
 そもそも六月の時点で、「嫌い」と言っていた。
 なのに、その後も親切にしてくれた。「平和」だって、僕の隣に座った。
 今、僕のいない飲み会で、誰の隣に座っているんだろう――。
(いや。叶斗先輩は自分のことを好きにならない、都合のいい相手が欲しかっただけ)
 ふくれかけた焦燥は、溜め息にして吐き出す。
 叶斗先輩が僕なんかの一言に傷つくはずがない。
 「嫌いでいて」というのは、これからも都合のいい後輩でいてってこと。
 僕もそれを「嫌いです」って受け入れた。
 話はついている。そう言い聞かせ、会計する。
 肝心のポテトを買い忘れてしまった。


 翌週、三限と四限の間に教室移動していたら、「石田」と呼ばれた。
 佐藤先輩だ。
 先週みたいに偶然行き合ったんじゃなく、僕を待ち構えてたって感じ。素早く歩み寄ってくる。
「何かごめん。その、そこまで悩ませるつもりなかったっつうか。星川とも喧嘩させたいわけじゃなくてさ」
 神妙に謝られた。
 見れば廊下の一角に、サークルメンバーが数人いる。花村先輩は腕を組んで仁王立ちだ。
 きっと先週末の全体ツーリングで、僕の話題が出たに違いない。
 飲み会もツーリングも急に来なくなった。佐藤先輩が変なこと言ったせいで、叶斗先輩を避けてるんだ、って。
「いえ……」
 軽く笑い飛ばそうとするも、表情筋が思うように働いてくれない。
 嗤われるのもいやだけど。この気の遣われ方、逆に身の置き場がない。
 「嫌い」って言いながらイケメンに世話焼かれてるの、そりゃあ突っ込みたくなるだろう。
「叶斗、今日こそカラオケ付き合ってもらうかんな」
 そのイケメンの名が聞こえ、ぴくんと肩が跳ねた。
 廊下の角から、例の一軍グループとともに、叶斗先輩が現れる。一軍は声がでかい。
 佐藤先輩が「うお、本人」って顔をした。
 叶斗先輩はそうとも知らず、もしくは自分の話をされるのは慣れた様子で、ひらひら手を振ってくる。
 一週間ぶりだ。学部が違うとなかなか会わない。ちょうどいい。
「別に、かn……星川先輩と喧嘩も何もしてないですよ。ただのサークルの先輩後輩です!」
 しっかり笑顔をつくって、宣言した。
 叶斗先輩の唇が、「は」の形になる。
「はよ行こ」
 でも、友達の一人にがしりと肩を組まれ、声は掻き消された。
 すれ違い際、僕は視線で「ですよね?」って念押しする。
 叶斗先輩は口もとのほくろをむにっとさせるのみで、異議を唱えることなく歩み去った。
 これでいい。
 「嫌い」って前提で行動していれば、好きじゃなくなれると思う。
 後期の目標が決まった。
 思わせぶりな先輩を、嫌いでいること。



15 本当のハードル
 十月の三連休のサークルツーリングも、参加を見送った。
 佐藤先輩に「俺がいじめたって思われる」と泣きつかれたので、口実として家庭教師のバイトに加えて、休日保育補助バイトも入れた。
(佐藤先輩の好感度は守りましたから、彼女さんとお幸せに)
 自分の恋愛については、目的地から――根本から変更しないといけなさそうだけれど、しばらく考えたくない。
 日曜日。一限に出席するより早起きして、沿線の企業保育所へ出向く。
 夏休み中にも何度か単発で手伝った。
「おはようございます、よろしくお願いします」
「おはよう、男子が入ってくれて助かるよー」
 保育士さんに歓迎される。……体力も筋力もふつうの男子ですが。
 ともかくエプロンをつけ、早速、子どもたちの受け入れに取り掛かった。
 世間は連休でも、サービス業に就く親御さんは忙しい。次々子どもを預けにやってくる。
「あ、陽くん先生!」
「憶えててくれたの?」
 三歳クラスの男の子が、僕の顔を見るなり声を上げた。
 まだ「先生」じゃないけど、楽しい思い出になれてたみたいで、面映ゆい。今日も任せてくださいとばかりに、男の子と一緒に親御さんに手を振る。
「あとで、遊ぼうね」
 小さな小指に小指を絡め、約束した。
 ただ、各クラスの出席を取って、朝昼間の補食とおむつ替え、ヒーローごっこの敵役でエンドレスの死、昼ごはんの準備に片づけ――と、めまぐるしい。
(考えごとする暇もないのは、いいんだけど)
 並んでお昼寝する子どもたちを眺める。
(……ん?)
 朝声を掛けてくれた男の子が、隣の布団に寝る男の子と、がっしり手をつないでいた。
 深い意味はないかもしれない。
 でも、この時間が壊れませんようにって、ひそかに祈る。
 教育学部に進んだのは、したいこともできることも思いつかず、先生に憧れていた身として何となくだ。
 それが、授業で学んだりバイトで歳下の子と接したりするうち、学校に「ふつうじゃない恋愛」相談もできる先生がいたらいいよなって思い始めた。
(この子たちが大きくなる頃には、ふつうじゃなくなくなってるかも?)
 今も、そういう人もふつうにいるよって風潮ではある。だけどいざ行動するってなったら、相手が異性の場合より難易度が高い。
 まあ、僕に相談相手が務まるかはさておき。
 子どもたちが寝ている間に目の前の事務仕事を倒しにかかった。

「せんせー! 遊ぼ」
「うん」
 午後のおやつを終え、ようやく男の子との約束を果たす。
「何して遊ぶ? ボール、折り紙、ブロック……」
 ぽかぽかと晴れた庭やカラフルなおもちゃを示す。夏休みに遊んだときは、紙飛行機づくりにはまっていた。
 でも男の子は、僕の膝を指差す。
「ねこさんごっこ」
 ……とは? 保育所は流行の変化が早い。
「こーして、こーして、こう」
 言われるまま木床に横座りする。
 僕の膝の上で、男の子が「よいしょ」と丸くなる。香箱座りする猫みたいに。
 子ども体温があったかくて、ほどよい重さ。後頭部の髪がぽわぽわしてる。
 たまらず、男の子を撫でた。
「もっとー!」
 猫さんごっこ、その名のとおりだったらしい。本腰を入れて撫でさせていただく。
 それだけなのに、男の子はきゃっきゃと喜んだ。
「こんなんでいいの?」
「陽くん、なでなで、じょーずだよ?」
 まっすぐな誉め言葉が響く。僕にも特技があったようだ。
 と思ったら、ぽこんと背中を叩かれた。
 立ち上がれないので首を捻ると、お昼寝のとき男の子と手をつないでいた子ではないか。
 つぶらな目に涙をいっぱい溜めて、「だめ……」と訴えてくる。
「え!? ごめんね」
 保育補助中に泣かれるのはめずらしくない。ただ、こんな切実な泣き方は経験がない。
 おろおろと謝る。僕と男の子が一対一で遊んでたの、いやだったかな。
 やっぱり、特別な仲良しではあるようだ。
「いっしょに、遊ぼ」
 膝の上の男の子は、悪びれずに誘った。
 誘われたほうの子は、逡巡したものの、泣きべそのまま僕の膝によじのぼってくる。
(待って。三歳でも二人同時は膝が限界……とも言ってられないな)
 ふたりにとって優しい世界の実現のため、脚がしびれるのもいとわず、両手で二人を撫で続けた。
「たのしい……」
「ぼくも!」
 二人は猫だんごのようにぴったり寄り添い、笑い合う。すっかり仲直りだ。
(素直で可愛いなあ。それに引きかえ僕は)
 二人の尊さに中てられ、自分をかえりみざるを得ない。相談に乗るどころか教えられている。
 叶斗先輩と一緒にいたくても、いられない。
 今の状況を招いたのは、佐藤先輩でも、叶斗先輩でもない。僕自身だ。
(叶斗先輩に気づかされたの、憧れてるってことだけじゃないな)
 叶斗先輩みたいに自信を持って行動したい。
 裏返せば、僕は自分に自信がない。
(そんな自分を守るために――あえて、手の届かない人を好んできたんだ)
 先生も、俳優も。絶対僕に振り向かない。何ならサークルの先輩たちも。
 ふわっと好きで、それ以上を望まなければ、すごく平和だ。
(酒の力を借りて変わろうとしたのに、結局傷つかないほう選んじゃった)
 自分の弱さを、本当のハードルを突きつけられる。
(でも、叶斗先輩は手が届かないから好きになったんじゃない)
 一軍イケメンではあるけれど、平和な片想いだって割り切れなかった。
 はじめて、ちゃんと好きになった人。
 それがわかったところで、叶斗先輩は「嫌いでいて」と言っているのだから、どうにもできない。
 「好き」とは言えない。
(傷つきたくなくて行動しないまま、失恋したんだ)
 こんなときに、叶斗先輩の体温を思い出してしまう。
 いっそ、本当に嫌いになりたい。

「陽くん先生、ばいばーい!」
「ばいばい……」
「ばいばい、またね」
 可愛い二人が、親御さんとともに仲睦まじく帰っていくのを、目を細めて見送る。
「石田くんも上がっていいよ。お疲れ様」
 辺りはとっぷり陽が暮れている。お迎えを待つ子も半数を切った。
「お疲れ様でした」
 ありがたくエプロンを外す。
 途端、バイト中は何とか抑え込んでいた感情が暴れ出しそうになる。
 急いで帰宅し、夜ごはんも食べずに愛車に跨った。
 空いている道を選んで、闇雲に走る。
「……嫌いだ。嫌い。嫌い」
 走りながら、暗示みたいに唱える。ヘルメットをしているから誰にも聞こえない。
「あんたなんか、嫌い」
 叶斗先輩なんか嫌い。嫌いになりたい。ほんとは好き。だから嫌い。
「あんたなんか、」
 僕なんか嫌い。傷つくのを怖れて何もできないとか、かっこ悪い。二.五軍以前の問題。誰もこんな人間を好きになるまい。
「嫌い……」
 何度目かに繰り返したとき、涙がこぼれて、自分でぎょっとした。
 失恋した今になって、後悔に襲われる。
 もっと何かできなかったか? って。自分の本心に早く向き合っていれば、って。
(もう遅いけど)
 自分が嫌い。ついでに、優しくない世界も嫌い。
 涙がとめどなくあふれてくる。止まるまで、バイクも止めないでおこう。
 走っても走っても近づけない星に向かって疾走する。
[陽くんどこいる?]
 間が悪く、LINEが来た。
 それも叶斗先輩からだ。
 動揺で車体がふらついてしまい、ハンドルを強く握り直す。
 今、あっちはサークルの部屋飲み中のはず。
(都合よく隣に座ってあげられません)
 返信しない。
 ただ、びっくりしたせいか、涙は止まった。
 近郊を一周して、アパートに戻る。眠れる気がしなくてコンビニへ行く。
 缶ビールとサワーを買い込んだ。
(さすがに桂花陳酒は置いてない、か)
 あの薫りを嗅げば安眠できそうだと思ったけれど、仕方ない。
 煌々と明るいコンビニ帰りだとよけい薄暗く感じる部屋の真ん中で、体育座りする。
 ローテーブルに買ったばかりの酒缶を並べ、独りで飲み始めた。
「ぷはぁ。……これちょっと濃くない? ほんとに7パーセントかな」
 何か腹に入れたほうがいいんだっけ。
 芋の菓子ストックボックスから、いくつかお気に入りを取り出す。
 さくさく、ごくん。ぽりり、ぐび。ぐびぐびぐび。
 隣にしゃべる相手がいないと、単に飲食物を消費するのみになる。味気ない。
 癒し動物動画でも流そうかと、スマホを引き寄せる。
「わ」
 今度は着信があった。
 発信者は――叶斗先輩。
()つこいなあ」
 とっくに陽ちゃんをお断りしてたくせに。一言言ってやろうと、応答ボタンを押す。
「なぁんですか、ひっく」
『……、泣いてる?』
 先輩が躊躇いがちに尋ねてきた。しゃっくりを勘違いされたか。
 黙って飲むとしゃっくりが止まらないらしい。
「陽ちゃん、泣いてないもん。せんぱいだって、ひっく、かんちがい!」
 ふん、とアルコールに染まった息を吐く。
 酒を飲む前は、全面的に陽ちゃんがかっこ悪いって思っていた。でもやっぱり、先輩も思わせぶりだって気持ちを消せない。
『……はは。泣いててくれてたら、可愛いけどね』
「陽ちゃんは、ひっ、可愛いんでしょ。せんぱいがそう言った」
『うん。俺、最初はね――』
 先輩はぐだぐだ弁明を始めたものの、電波のせいかよく聞き取れない。耳もとで切れ切れに響く先輩の声が心地いいだけになる。
『陽ちゃん? ……寝ちゃったか』
 ――くしゃみをして、はっと頭を上げたときには、スマホ画面は真っ暗になっていた。


 連休明け、切り替えて授業に臨む。
 ひとり飲みすると、バイクを走らせるのの七割くらいすっきりする。大きな発見だ。
「陽くん」
 しかし教室前に、朝からさわやかな一軍イケメン――叶斗先輩が待機していて、たたらを踏んだ。
(この授業、教育学部の専門科目ですけど)
 想定外。とはいえ、すっきりしたぶん、落ち着いて振る舞える。
「自分の授業行ってください。誰かが席確保してくれてるんじゃないですか?」
 あからさまに「嫌い」な態度では角が立つ。「関係ない」ムーブを心掛けた。
「その目……」
 先輩のほうは、物言いたげに僕の顔を覗き込んでくる。
 ソロツーリング中に泣いたあと飲酒したせいか、がっつり瞼が腫れた。まだ残ってる?
 ばっと手で目もとを覆う。
「『嫌いでいて』って言いましたよね」
 小声で告げ、足早に教室に入った。
 恋人になれないなら、せめてふつうの先輩後輩でいたい。



16 先輩は大変
 うちの大学は、十一月に学祭が開催される。
(去年、愛季ちゃんの焼きそば店呼び込みが可愛くて、土橋は同じ大学受かるって決意したそうな)
 そのときの彼女がいかに溌剌として感動的だったか、飲み会で何回も聞かされた。
 それから一年、二人は恋人になって、順調。
 嬉しいような切ないような笑みを漏らし、アパートの布団で寝返りを打つ。
 幸いサークルは任意参加とのことで、僕は参加しないつもりだ。二.五軍には荷が重い。
(この間にバイクのメンテナンスしよ)
 ちょうど点検のタイミングでもある。
 日々の手入れに加え、消耗品の交換とか、各部位の動作確認をしっかり行ってこそ、安心して走れるってものだ。
 ネットで口コミのいい整備士さんを探す。
[おつ。佐藤先輩が、このURL高校とかの友達に広めてだとさー]
 その途中で、土橋からLINEが届いた。
 サークルの事務連絡か? いや、それならサークル外に広める必要はない。 
 首を傾げつつ、添付のURLをタップしてみる。
「はぁ゙!?」
 表示されたテキストと画像に、大声が出た。
<ミス&ミスターサークルコンテスト 予選開催中!
 学祭ステージに立つファイナリスト五名を選ぼう。投票はこちら>
<エントリー№9/社会学部三年 星川叶斗>
 叶斗先輩が、サークル代表としてミスターコンに駆り出されているではないか。
「先輩、誤解されたくないんでしょ。こんなの遊び人イメージが加速するだけですよ。なんで断らないんですか」
 布団から跳ね起き、画像に向かって言う。
 もちろん返答はない。
 黒髪を掻き混ぜ、土橋に[なんで]と送る。
[今年のミス&ミスターコンの副賞、旅行券があるんだよ。三十万円分]
 なるほど、旅行券。サークルツーリングの宿泊代に充てられる。
(楽しむはお休みで、本気の勝負に出たっぽい)
 ――でも。
 画面をスクロールして、ルールを確認する。
 Web投票は、うちの学生以外も一端末一回できる。投票期間は今日から一週間。
(まだ阻止できるよな?)
 叶斗先輩に辞退を勧めようと思った。
 顔が良過ぎる先輩の悩みを知っているのは、僕だけだから。

 ただ、次の日もその次の日も、叶斗先輩がつかまらない。
「星川先輩見ませんでした?」
「あれ、さっきまでいたのに」
「星川先輩ってこの授業取ってるよね」
「うん。でも急いで移動しちゃった。学食かな」
 学年も学部も違うし、後期は被っている授業もない。
(僕、避けられてたりとかする?)
 学食の長テーブルでひとり、頬杖を突く。
 叶斗先輩はいない。空振りの間に、投票期間半分過ぎてしまった。
 LINEのIDは交換しているのだから、[どこにいますか]ってメッセージを送ればいい。何なら通話でもいい。
(理屈では、そうなんだけど)
 やり取りは十月の連休で止まっていて(それもこっちの未読スルー)、連絡しにくい。
(もうちょっと学内探そ)
 浮かせた腰を、慌てて椅子に戻す。
(ふわわ)
 真横を一軍集団が通り過ぎて、圧に負けたのだ。
 叶斗先輩の友達とは別の男子たち。ミスターコンにエントリーしているらしく、
「まだ投票してない人お願いしま~す。御礼のファンサします!」
 って宣伝して回ってる。
 旅行券以外にもいろいろ副賞があって、白熱しているようだ。
(……叶斗先輩も案外、旅行券ゲットに積極的だったりして)
 集団の後ろ姿を眺めていて、ふと我に返る。
(ていうか、たとえ困ってても、好きでもない相手を助けないだろ。叶斗先輩じゃあるまいし)
 二.五軍のただの後輩が、あやうく出しゃばるところだった。
 嫌いでいないと。
 そそくさと三限の教室へ向かった。


 ミス&ミスターコンの本選(ファイナル)は、学祭当日。
 ただし予選も生配信イベントがあるという。
 web投票の中間結果では、叶斗先輩はエントリー二十名中三位に入っている。
 結局気にかかって、中庭に組まれた特設ステージまでこっそりイベントを見にきてしまった。
(石ころは人混みでモブ化できて助かる)
 ステージ上では、候補者が一人ずつPRしたり、何人かでトークやゲームをしたり。
 周りは応援にきた各サークルメンバーやファンがひしめき、活気がある。でも僕は気疲れした。
(エントリーしてる人たち、当たり前だけど一軍過ぎ……)
 陽キャな空気に中てられ、現場にいながらスマホで配信のほうを見る。
(ええ?)
 叶斗先輩に、「ハーレーに乘った王子様」ってキャッチコピーがついていた。
 「王子様」って呼んでるサークルメンバー、いませんが。白馬にかけてるんだろうけど、ハーレーの色だって白じゃない。
 先輩本人はどう思ってるんだか……。
 眉をひそめて顔を上げる。――見つけた。
 ステージ脇でPRの順番を待つ、叶斗先輩を。
 背が高くて革ジャンが映えまくり、候補者の中でも顔が整ってるのもあるけれど、ひとりだけ静謐な雰囲気をまとっているから目を惹く。
「星川さん! わたし投票しました~」
「本戦ではうちわつくろっかな」
 配信カメラのフレーム外は結構ゆるくて、順番待ちの候補者に直接声を掛けられる。案の定、叶斗先輩の周りに女子だかりができていた。
 先輩は微笑み、「押さないであげて」とぎゅうぎゅうな彼女たちを気遣う。
「続いてはエントリー№9番、星川くん!」
 学祭スタッフに呼ばれた。
 ステージ上に上がった叶斗先輩は、カメラ目線で自己紹介する。
「社会学部三年、星川叶斗先輩です。ツーリングサークルに所属してます」
 当たり障りのない内容だ。
 それでも顔が映ってればいい、って感じ。実際、現地に集まった女子たちは見惚れている。
 学祭スタッフとの質疑応答に移る。
 その、ふたつ目の質問だった。
「第二問! 好きな女の子のタイプは?」
「好きな……タイプ、は」
 それまでそつなく答えていたのに、急に詰まった。
 もったいぶっているのか。ファンの子たちは自分が当てはまるかどうか、耳を澄ませている。
 でも、先輩は口を開かない。
「結構こだわりあります?」
 インタビュアー役のスタッフが間をつなぐ。
 どうしたんですか。長距離ツーリングのときの男子恋バナ会は、機転をきかせたじゃないか。
 まるで「好きな女の子のタイプは?」って訊かれた、僕みたいだ。
 男なら女の子が好き、とは限らない。
 でも言われないとわからない。
 でもいつどこで誰に言うかは、また別の話で。
「……」
 何を言おうとしてる?
 もしくは、何を言いたくない?
 注目を浴びながら何か考える様子の先輩を見上げる。彼は僕じゃない。それに。
(僕には関係ない。ないんだけど)
 僕の目には、先輩が無理して笑ってるように見えた。
 顔が良過ぎて顔ばっかり見られ、中身までちゃんと見てくれる人がいない。優しさも打算と受け取られる――。
 居てもたってもいられず、駐輪場へ走った。
 最近はサークルの飲み会に参加していないから、バイクで通学している。
 校則では、構内はエンジンをかけず押して歩かないといけないけど、構うまい。
 何をしても目立たない二.五軍なのを利用して、中庭に乘りつける。
「叶斗先輩!」
 名を呼ぶや、先輩が切れ長の目を瞬かせた。
(あっ、癖で、呼び方……)
 訂正は後だ。らしくないことをして、脚が震えている。とにかく「行きましょう」と手招きする。
「やっと、会えた」
「ん?」
 叶斗先輩の口が動くけど、オフマイクなのとエンジン音とで聞き取れない。
 先輩は完熟の柿みたいにとろりと笑って、ステージから飛び降りる。
 スタッフの「あ、ちょっと!」って制止も聞かず、人混みを掻き分けて。一歩ずつ駆け寄ってくる。
 長い脚で軽々後部シートを跨いだのを確認して、発進した。

「……」
 攫うみたいに連れ出したものの、行き先は定まっていない。
 何を言えばいいかもわからず、気まずい。
 ぜんぶ僕の勘違いだったらどうしようって、今さら焦る。
「やっぱり陽ちゃんは、他の人と違うね」
 対する叶斗先輩は、ヘルメットごと頭を摺り寄せてきた。
 ゔわわ、事故る。
 ふらついた車体を腿で強く挟み、持ち直す。
(やっぱり違うって、どういう意味だ)
 空気が読めないとか?
 ふつうにコンテストに参加したいけど、何なら彼女つくる気になったけど、僕が引っ込みつかないだろうと気遣ってバイクに乗ってくれただけかもしれない。
 速やかに大学へUターンする準備をしつつ、背後の体温を窺う。
「この前の通話、どこまで憶えてる?」
 どこがどう違うかの説明をもらえると思いきや、質問された。
「通話しましたっけ?」
 大声で問い返す。
 この前って、いつだ? 最後に連絡したのはソロツーリング中。叶斗先輩からメッセージが届いたのをスルーした。以降、叶斗先輩とのトーク画面は開いていない。
「憶えてないんだ」
 寂しげに言われ、申し訳なくなる。
 僕だって、叶斗先輩とのいい思い出は憶えておきたいですけど。
 そう言えば、中庭で問い詰めたときも寂しげだった気が……。
「陽ちゃんがいない飲み会、めんどうだよ」
 先輩は拗ね声のまま続けた。愚痴の通話だったのかな。ひとまず耳を傾ける。
「五人から告白されるし」
「五人も!?」
 飲み会ごとに告白されてやいないか。もしや長距離ツーリング中、僕が女子の邪魔をしていた?
「ぜんぶ断ったけど」
「大変でしたね……」
 とりあえず労う。告白を断るのも気を遣うはずだ。未だ恋愛経験0の僕には想像でしかないが。
 これは、勘違いしない後輩として隣にいろ、って話か?
「誤解解くのもめんどうで、来るもの拒まずでずっと流されてきて、俺。ミスターコンもはいはいって、いつもみたく適当にできると思ったんよ。でもなんかうまくできなくて。てか、したくなくて」
 いや、違う。
 先輩も先輩なりに悩んでいる。ちょっと逃げたくて、そこに僕が都合よく現れたって話だ。たぶん。
「大丈夫です。これからもちゃんと嫌いでいますから」
 ――他の人と違って、ね。
 だから逃げたいときは、僕のところに逃げてきて構わない。
 先輩はそれきり口をつぐみ、僕の腹に回した手にきゅっと力を入れる。
 先輩の気持ちが少しでもすっきりすればと、しばらくバイクを走らせた。

 生配信イベントを途中でぶっちぎったのもあってか、先輩は予選六位でファイナル進出をぎりぎり免れた。
 佐藤先輩たちは残念がってたそうだけど、僕はほっとする。
 ほっとしたことに、自嘲する。
(むしろ完璧に手の届かない人になってくれるほうがいいのに)
 本人に伝えた一言とは裏腹に、先輩を嫌いになれる日は、まだ遠そうだ。



17 恋の忘れ方
 十一月になった。
 五限ともなれば、教室の外はすっかり暗い。
(今月のサークルツーリング、どうしよっかな)
 街灯で見えにくい星を窓越しに眺めながら、物思いに耽る。
(……まただ)
 窓ガラスに、別の星――星は星でも星川先輩が像を結んだ。
 この間のミスターコン予選で駆け寄ってくる姿や、タンデム中の体温、こちらの顔を覗き込む眼差しが、繰り返し思い出される。
 その度に、胸がきゅっとする。
 この状態で、たとえ隊列の端と端でも先輩と過ごしたら、「好き」を断ち切れない。
(だって、頑張って行動しようとしてるの見ててくれて、世話焼かれるのはかっこ悪いだけじゃないって教えてくれて、僕にはない自信があって)
 それでいて、同じように悩んでいる。
 僕にできることがあったらしてあげたいって思ってしまう。
(いや別にないか、できること)
 ミスターコンは僕が勝手に連れ出した。
 叶斗先輩は僕が勘違いしないようにか、教室まで会いに来ないし、LINEもしないでくれている。その親切を受け取るくらいだ。
 一方で、そうやって叶斗先輩から逃げていたら、自分の弱さからも逃げたままで、変われない気もする。
 自分を変えて、「好き」を抑えず表現して、好きな人にも受け止めてほしい。
 でも、自分が傷つかないことばかり考えてきた僕なんか、誰も好きになってくれるはずがなくて。
 ていうか、好きになってほしい相手はたったひとりで。
 でも、その人を嫌いでいないといけなくて。
「ぬあ゙あ゙……!」
 恋愛、難し過ぎる。
 つい呻いて、「説明わかりにくいですか」って教授を困らせてしまった。


 土曜日。愛車のキーをつかんだ。
 気持ちを整理して、叶わなかった初恋をいい思い出に変えよう。そのためにソロツーリングに出ることにした。
 サークルツーリングじゃなくても、走ることはできる。
(どこ行こう。この時期でも割とあったかい海かな)
 ひとりなら気ままだ。中学生のときより遠くへ行ける。自由に走れば前向きになれる。
 ――と、思ったのに。
「あっ、みかん狩りです、って……」
「『一キロ先 もふり園』って何でしょう?」
 目に入った看板の文字を、誰にともなく報告してしまう。
 何を見ても、何を食べても、感想を共有しないと完成しない感じがする。
 間違いなく、叶斗先輩とのペアツーリングが楽しかったせいだ。長距離ツーリングでもほぼ同じグループだったし。
 これでは先輩が恋しくなって、逆効果。
「ああもう……、ずるいぞばかー!」
 自棄で海に向かって叫ぶ。
 ちっとも嫌いになれないどころか、好きにならずにいられない、ずるい男だ。
(星は遠いって、わかってたのに。地上からですらきらきらして見えるんだもんな)
 好きだー、と叫んで、恋心を吐き出して海の底に沈められたらよかったものの、それはできなかった。
 早々に帰って、次の手段に出る。
 二十歳になった今の僕はツーリングだけじゃない。酒によってすっきりもできる。
 ただし家飲みだとしゃっくりが止まらない。
 この機に、行きつけの店を開拓しよう。
(新しい出会いもあるかもしれない)
 次の「好き」を見つけたら、叶斗先輩への「好き」は過去になっていくはず。恋愛経験0の僕には推測でしかないが。
 サークルの先輩たちは、申し訳ないけれど「叶斗先輩のほうがかっこいい」と思ってしまう。
 もっと別の、僕が「この人!」って夢中になりそうな、自信のある男の人がいるのは。
(六本木とか!)

 ――三十分前の自分は、短絡的だった。
 ここ六本木は、少なくとも二.五軍大学生がひとりで歩く街じゃない。
 学生街とはまったく雰囲気が違い、親しみの欠片もない。来たばかりだが帰りたい。
(でも、進まなきゃ)
 大通りから路地に入ってみる。こちらにも店がある。
 コンクリート打ちっぱなしの外壁に、スリムなドア。白色の外灯がカクテルグラスのグラフィティアートを映し出している。
(バーなのかな)
 店そのものより、駐車場に停まっているハーレーに目が行き、足を止めた。
 しげしげ眺める。
 1000ccの大型。ガソリンタンクとタイヤの泥除けは赤。飾りじゃなく、乗り込まれている。
「きみ、バイク好きか」
「ふえっ!?」
 無人だと思っていた薄闇から声がして、肩が跳ねた。
 振り返れば、ものすごいイケおじいが店の壁に寄り掛かっている。
 髪はグレーに白まじりながら、ツートンデザインカラーみたいにお洒落だ。同じくグレーの口髭はワイルドにして上品。僕より背が高く、身体の線は引き締まっている。
 このバイクの持ち主だろうか。
「もしかして陽ちゃんかい?」
 陽、ちゃん……?
 柔和な笑顔を浮かべる男性を、まじまじ見つめる。
 小さい頃会ったことがあるわけでもない。僕の周りにこんなイケおじいはいない。
 とすると、今この呼び方をするのはただ一人――。
「じいちゃん、もう開店していいの」
 店の細いドアが開く。
 丈の長いバーエプロンがめちゃくちゃ似合う、アシスタントらしき青年が顔を出した。
 ていうか、叶斗先輩が。
「陽、ちゃん」
 よほど驚いたのか、いとけない片言になっている。
 何という偶然――いや。
 パーツが赤のハーレー。叶斗先輩はハーレーをじいちゃんと共有している。バイト先はじいちゃんのバー。イケおじい。「陽ちゃん」呼び。
(なんで本人が出てくるまで気づかなかった……!)
 引き返すチャンスはあった。もう手遅れだ。
 かと言って、ふつうの先輩後輩のように「ここでバイトしてたんですね」と笑ってみせることもできず、立ち尽くす。
(嫌いでいるって、こういうときどんな表情と言葉を選べばいい?)
 叶斗先輩も叶斗先輩で、ドアを開けた体勢のまま固まっている。
 そんな僕と先輩を、じいちゃんさんが見比べる。
「うちの場所、教えてなかったのか」
「うん」
「今日シフト入ってるのも?」
「うん」
「そりゃ、運命だ。寄ってもらえ」
 するりと僕の後ろに回り込み、背中を押してきた。「もちろん叶斗の奢りだよ」と片目を瞑りもする。
 運命、という響きに胸がとろけ、同時に軋む。
 ピンポイントでこの繁華街に踏み込み、この路地に入って。バイクに誘われるように、叶斗先輩が働く店に辿り着いた。
 新しく好きな人を探すはずが、結局叶斗先輩に行き着いてしまったわけだ。
(星は空に無数にある、のに)
 ドアの前で、先輩と相対する。一段と水分量の多い切れ長の瞳に、囚われる。
「陽くん、今日一人でお酒飲むつもりだったの」
「まあ……はい」
「俺の隣以外で飲むの禁止だよ」
「はい?」
 何ですかそれ、と返す前に、ぐっと腰を引き寄せられた。優しくないのに優しい手つきで。

 店は「Starry Bar(星明かりのバー)」といい、紺と銀を基調とした内装だ。
 コの字型のカウンターのみ、十五席ほど。十八時少し前なのもあってか、他に客はいない。
「ゆっくりしていくといい」
 じいちゃんさんに、奥のスツールへ通された。
 店員ふたりが白シャツに黒ベスト姿なのに対し、パーカージャケットの僕はどう見ても場違いな客なので、隠れられるのは助かる。
「何飲む?」
 バーテンダーモードの叶斗先輩が言う。
 居酒屋みたいなオーダー端末は当然ない。メニュー表もくれない。言えば何でもつくってくれるらしい。
(値段が怖いな)
 世話焼き先輩に奢らせはしない。僕でも知っている酒なら、そこまでお高くないとみる。
「じゃあ、桂花陳酒を」
 カウンターの内側に立つ先輩が動きを止める。
 高いか? つくれない?
「かしこまりました」
 かと思うと微笑みを浮かべ、金木犀の花がぎっしり浮かんだ瓶に手を伸ばした。
 蓋を開けたら、やっぱりやさしく甘い香りが漂う。
 グラスに氷とシロップ、ソーダを注ぐ手さばきを眺める。バイクに跨る姿に劣らず、様になる。店にも街にもなじんでいて……ずるい。
「はいどうぞ」
 普段に増して大人っぽく感じる先輩の顔は見ず、しゅわりと炭酸が弾けるグラスを持ち上げた。
「いただきます」
 飲みやすい。一方で、居酒屋で飲んだものより味に深みがあって。
「美味しい」
 しみじみ息を吐いた。
 先輩が得意げにする。きっと、僕の舌の好みに合わせてシロップとソーダを配分したのだろう。
 店内には三人しかおらず平和にする必要がないのに、僕につきっきりの親切な先輩を見上げる。
「あの」
「陽くん」
 ふたり同時に声を上げた。



18 先輩はほろ苦い
「なんですか?」
「先どうぞ」
「先輩が一秒早かったです」
 ぎくしゃく譲り合う。
 僕が叶斗先輩と適切な距離を取ろうという建前で逃げ回っていたのもあって、ゆっくり話すのは久しぶりだ。夏休み前はどんなリズムで話してたっけ。
 桂花陳酒をもうひと口飲む。
 でも度数が低いのかアルコールっぽさがなく、酒の力も借りられそうにない。
「俺、君に話したい、てか確かめたいことがあって」
 そのうちに先輩のほうが切り出してきた。
 話したいこと。嫌いでいて、以外に何かあるとしたら――はっきりお断りか?
(僕が「好き」って言わないから、それもできずに困ってたのかも)
 僕の態度が変わった理由を考え、その可能性に……「好きになられちゃった」ことに気づいたのかもしれない。
 先回りすべきか。
 でも僕は、このまま遠ざかって気軽に話せない関係に戻ってしまいたくない。
(友達に、なりたい)
 友達と言われても、サークルの女子みたいに泣いたりしない。むしろ同性ならではの関係性に落ち着けるならありがたくすらある。
 そう自分に言い聞かせる。
「……はい」
 かろうじて相槌を打った。
 聞きたいことはたくさんある。
 なんで、「嫌い」と言った僕に親切にしてくれたかとか。なんで、ミスターコン予選のステージで黙り込んだのかとか。なんで、連絡をしてきたりしてこなかったりなのかとか。
 ただどれも、叶斗先輩の話次第だ。
「長距離ツーリングのあと、『嫌いでいて』って言ったじゃない? けど俺、」
「叶斗! おねーさんたちが飲みにきたよ~」
 恋の終わりを告げられる直前、他の客がやってきた。わかりやすく叶斗先輩目当ての美女三人組だ。
 じいちゃんさんが「いらっしゃい、お嬢さん方」と対応してくれたものの、いつまでもは転がしきれまい。
「僕に構わず、働いてください」
 先輩に本来のバイトに戻るよう促す。もともと邪魔する気はなかった。
「……」
 先輩は、黙って注文のカクテルをつくり始めた。
 作業中、お姉さま方が華やかにしゃべりかける。
(先輩って、あれくらい歳上が好みだったりするのかな。頼もしい先輩が甘えられるような)
 具体的な話は、無意識に避けていた。
 だいたい、先輩の恋愛対象は異性だ。その点でも可能性0。何も期待できない。
 存在感を完全に消し、ちびちび桂花陳酒を傾ける。
 シロップが上質なのか、飲みきってもふわふわしてこない。
(もう一杯頼むか)
 恋心を手放すのに、酒の力を借りたい。
 顔を上げたのを見計らい、じいちゃんさんが歩み寄ってきた。
「果物が好きと伺ったので、フルーティなカクテルをおつくりしましょうか?」
「お願い、します」
「これは、サービスの乾きものね」
 過ぎたもてなしに、こくこく頷くほかない。
 僕の好物をじいちゃんさんに知らせたのは、ほかでもない叶斗先輩だ。悪酔い防止に、厚切りのポテトチップスを盛ってくれたのも。
 久しぶりの親切は、嬉しくて、ほろ苦い。
 じいちゃんさんは、僕の前に置いたままの金木犀シロップの瓶を見て「ふむ」と口髭を撫でる。
 銀色の冷蔵庫からオレンジジュースのパックと瓶を二本取り出しがてら、
「孫に同性の友達ができて嬉しいよ。仲が良いなと思ったら疎遠になっていることが多くてね」
 と退屈させないようにか話してもくれた。
 たぶん叶斗先輩がモテ過ぎて、男友達に嫉妬されたりとかそういうやつだろう。大変だな。
 大学の一軍グループも、ここには連れてきていないみたいだ。いつ離れるかわからないから。
「叶斗先輩が、僕なんかとも仲良くしてくれるんですよ」
 シェイカーに氷と三種類の材料を入れて振るのを眺めつつ、応える。
 星に嫉妬なんてしようがない石ころだからそばにいられた、と再確認する。
 カフェならプリンを盛りつけそうな、口が広く浅いグラスに、ビタミンカラーのカクテルを注がれた。
「『シンデレラ』でございます」
 そんな名前のカクテルがあるらしい。灰かぶり。僕にぴったりだ。
「いただきます」
 こく、と喉に流し込む。
 柑橘系の香りがして、甘酸っぱい。
「叶斗には、それでも優しくし続けなさい、いつかわかってくれる人と出会えるって言ったんだ。酷かな。でも、人を信じなくなったり愛さなくなったりしてしまうのは、寂しいから」
 じいちゃんさんは作業台を整頓する傍ら、続けた。
 じいちゃんの教え。人生経験を基にした、深い教えだ。ただ、自分の望む「好き」が返ってこなくても「好き」を表すのは、簡単じゃない。
 改めて、叶斗先輩の行動力はすごいと思う。
(叶斗先輩の優しさや愛情深さをわかってくれる人、いてほしいな)
 誰でもいいわけじゃないって、そういう意味だったんだ。
 せめてと祈っていたら、「うちの孫を末永くよろしく」とささやかれた。
 力不足な僕は苦笑いしかできない。
 別の客が訪れ、また一人になった。
 カウンター端のディスプレイを見るともなく見やる。星や宇宙をモチーフにしたオブジェが置かれている。
(この星、石でできてる?)
 そのひとつに目を留めた。ごつごつした石の欠片を組み合わせたデザインだ。
 じいっと観察していたら、
「じいちゃんに見惚れてなかった?」
 と叶斗先輩が戻ってきた。
 女性三人組は、先ほど訪れた男性客と顔見知りのようで、そちらとおしゃべりしている。
「はい。叶斗先輩のじいちゃんさん、かっこいいですね」
 褒めたのに、先輩は口もとのほくろをむにっとさせる。なんで?
 かと思うと、エプロンのポケットから携帯ライトを取り出した。
 カチッ、と僕が見ていたオブジェを照らす。
「わ、石が光った!」
 どういう仕組みか、星のように反射した。小さく歓声を上げる。
「あ、星か」
「星も石だよ」
「え? そうなんですか」
 僕がこのオブジェに抱いた違和感を見透かすかのごとく、教えてくれる。
「厳密に言うと、石でできてる星と、ガスでできてる星がある」
「石と星は同じ……」
 地の石と空の星は、正反対だと思っていた。手が届かないし、隣に並べないと。
 でも、同じ部分もあるという。
 一軍の叶斗先輩も、二.五軍の僕と同じように悩む。
 僕の顔を覗き込んで微笑む先輩を見上げた。
「ちょっとげっそりしてません?」
 見たままを指摘すれば、先輩はぺちっと自分の顔に手を当てる。大人なお姉さま方に翻弄されるのも気苦労があるらしい。
「わかっててこのバイトしてるから大丈夫」
 さっき僕に向けていたのとは少し違う、完璧な笑顔になった。
 やっぱり叶斗先輩は、僕と同じじゃない。
 悩みに向き合って克服しようとしている――人前から逃げず親切であり続ける――に違いない。
「ていうか、今も彼女つくる気ない感じです?」
 努めて軽い調子で訊く。
 先輩がその中身を見てくれる人と出会えたら、その人が「先輩の好きな人」になったら。
 叶斗先輩は幸せで、僕も先輩を応援することで自分の恋を過去にできる。
 叶斗先輩はいつかの夜のように、じっと僕を見つめてきた。
「……彼女は、要らないかな」
 そう都合よくいかないか。
 まるで行き止まりの道に迷い込んだみたいだ。どこまで引き返せばいいだろう。
 バイクを飛ばしても、酒を飲んでも、胸の重みが消えない。
「叶斗。その男の子、友達?」
 会話が途切れた機に、お姉さまたちが朗らかに声を掛けてきた。
(ふわわ。僕は面白い話できません)
 身体を縮こまらせると同時に、叶斗先輩が僕とお姉さま方のちょうど間に立つ。
「違います」
 う、そんな断言する?
 友達にもなれないか。じゃあ何なんだろう。
「でも、仲良さげに話してたじゃない」
「話したいなら俺を通してくださいね」
「事務所のマネージャー?」
 あはは、と笑い声が起こる。とげとげしさはない。
(……このシチュエーション)
 前期、教室で先輩の一軍友達グループに話し掛けられそうになったときと、重なった。
 二.五軍なんかと仲が良いって思われたくないんじゃなく。僕が委縮しているのを察して、守ってくれたんだ。
 意外と着やせする、温かくて頼もしい先輩の背中を見つめる。
 嬉しいより、苦しい。
 気持ちを自覚する前みたいに、無邪気に親切を受け取れない。
(もう、無理だ)
 叶斗先輩の悩みを知るのは自分だけだから、できることがあったらしてあげたい、なんて。
 僕は、叶斗先輩の悩みを解消してあげられない。どうにも好きになってしまったから。
「星川先輩」
 酸味の効いたシンデレラを、飲み干す。
「僕、平和は保証しますって見得切りましたよね。先輩に世話焼かれるのは楽しくて、ずっと都合のいい後輩でいたかったです。けど、」
 自分の弱さに向き合って、自分が傷ついてもすべきことは。
 表面だけの先輩後輩関係を維持することじゃない。
 告白でもない。
 そもそも叶斗先輩の思うような後輩じゃないって、白状することだ。
「苦しいから、もう続けられません。ごめんなさい」
 細く絞り出す。
 この一言をもって、いちばん遠い相手との、可能性0の恋を、終わらせた。
 始まってもいないのに終わりっていうのも変だけど。これ以上迷惑はかけない。
 やっと、機会を逃さず行動できた。
「ごちそうさまでした」
 所持金をすべて置き、流れるように立ち上がる。
「陽くん、俺やだよ、」
「ごめんなさい」
 いきなり平和を失う形になった叶斗先輩が追いかけてくるも、重ねて念を押す。
 星の光を最後に目に焼きつけ、店を出た。