梅雨の訪れと共に、じめじめとした嫌な空気もやってきた。
こういう、湿ってて時々冷たい風が吹く時期って苦手なんだよね……。
あと、洗濯物も乾かないし、パンがカビるのも早いし、冷蔵庫に入れてるのにジャムがカビたし。明日スーパーに行って小さめのジャムを買おう。この時期は大きめだと食べきれない。
バイトが終わった零時近く。エレベーターを下りて部屋に向かっていたら、フッと周囲が暗くなった。
「!?」
思わずビクッとしたけど、電球が切れただけだ。きっとそう。暗いといっても、外に面した廊下だ。都会だし、地元のように真っ暗じゃない。でも……繁華街みたいに明るくもなかった。
……大丈夫。薄暗いだけ。もうすぐ部屋に着くから、鍵を出そう。きっとこの範囲内なら、聖凪さんの悪いものを寄せ付けないパワーがきてるはず。
「っ……!」
鍵が鍵穴に入らない。ガチガチと何度も当たって、焦りが増した。
でもほら、大丈夫! 聖凪さんから貰ったピアスもあるし! それに俺、実際に何か見たこともないからっ……ない、から……ううっ、ないけど怖いものは怖いんだーーっ!
「聖凪さぁぁぁん!!」
やっと鍵が開いて、靴を脱ぎ捨てて電気のついてるリビングに駆け込んだ。そのまま聖凪さんに飛びつく。
「えっ、どうしたっ?」
帰るなり叫んで抱きついた俺に、さすがに聖凪さんもびっくりしたみたいだ。それでも俺の背中をトントンと撫でて、宥めようとしてくれる。本当に聖凪さん優しい……好きがすぎる……。
「エレベーターのとこのライトが急に切れてっ、暗くて怖くてっ……」
半分泣き声みたいになってる俺の言葉を、聖凪さんは、うんうんと言いながら聞いてくれる。本当にお兄ちゃんみたいだ。
聖凪さんは俺を宥め続けてくれて、やっと落ち着いた俺は、腕の力を緩めた。でもまだ離れられない。
「明日の朝、出がけに大家さんに伝えとくよ」
「お手数おかけします……ありがとうございます……」
本当は俺が言わなくちゃいけないのに、つい甘えてしまう。
「いきなり抱きついてすみません……」
「別にいいよ。怖くなくても抱きついてくれていいし」
「それはさすがに」
「犬っぽくて可愛いなって」
「犬!」
「体温もそれっぽいから癒される」
今度は聖凪さんから抱き締められて、心底驚いた。考えたら俺から恐怖のあまり飛びつくことはあっても、聖凪さんからされたことはない。……まあ、聖凪さんはいつも平常心だし、怖いものがあるとも思えないんだよな。
「聖凪さんの癒しになれるのでしたらどうぞ」
「相変わらず面白いよね」
嫌がらないんだ、と笑う。嫌どころか日々のご迷惑のお詫びになるのでしたら喜んで! という気持ちだ。それに俺もこうして抱き締められるのはホッとする。
でも離れるタイミングが分からなくて、俺はちょっとだけ身じろぎしてみた。
「あの、お風呂入って来ます」
……と言ったものの、リビングを出る勇気が出ない。さっき暗いところを通っただけなのに、極度の怖がりだからまだ無理だ。聖凪さんが俺を離しても、ジッとその場に座ったままになってしまう。
「着替え取りに部屋に行く? ついてくよ」
「すみません……」
聖凪さんに部屋の中までついて来て貰って、着替えを取り出した。そのまま脱衣所まで着いてきてくれる。
「一緒に入ろうか?」
「えっ! いえっ、大丈夫です!」
「そんな全力で否定しなくても、襲ったりしないって」
「え? あっ、いえっ、ご迷惑をかける心配をしてて……」
もう入ってるのに、二度もお風呂に入らせるのは申し訳ない。
「まったく意識されないのも悔しいな。襲っていい?」
「よくないです!」
グッと腰を抱き寄せられて、咄嗟に押し返した。その反応が正解だったみたいで、聖凪さんは満足そうに笑って俺を離した。
「冗談だよ。入っといで」
「聖凪さんが言うと、冗談に聞こえないんですよ……」
真顔で言うから、もう。
「じゃあ、すぐそこで動画観てるから。俺がいるから、大丈夫だよ」
そう言って俺の頭を撫でて、聖凪さんは脱衣所を出た。トン、と音がして、扉の外にいるのが分かる。
「……ありがとうございます」
どこまで親切で優しい人なんだろう。こんなにお世話になってて、俺はこれから先、聖凪さん無しで生きてくことが出来るんだろうか……。
◇◇◇
……いや、出来ない。
翌週のある日、早速聖凪さん無しでは生きていけないことを実感した。いや、先週、廊下の電球が切れた時から分かっていた。なんなら地元にいた頃から知っていた。俺が怖いのは、幽霊だけじゃなかったんだ……。
「ひぃっ!!」
天を裂くような轟音を響かせて、雷が落ちた。多分、近くだ。
頭から布団をかぶって、イヤホンをして、ラテン系の明るい音楽を聴いているけど、雷の音とビリビリするような衝撃は消えない。
「ひっ……!」
次の雷が落ちた途端、煌々と付けていた部屋の明かりがすべて消えた。
「えっ……停電っ……?」
そっと布団から目元だけを出す。辺りは真っ暗だった。
その時、カタリ、と音がした。
「!?」
……違う、気がしただけだ。イヤホンをしてるから、小さな音は聞こえない。雷ほどの大きな音じゃないと聞こえないはずだ。
でも、何かが近づいて来る気がする。
……違う、何もいない。だって聖凪さんは、友達との飲み会で遅くなると言っていた。
聖凪さん……傘持って行ってるかな? こんな大雨だし、さすがにタクシー使うかな? 自然とそんな心配をしていると、ふわっ……と布団が持ち上がった。
「――ッ!!」
声にならない悲鳴を上げて、必死に布団を掴む。どうして布団が? 風なんて吹かない。そもそもが布団を持ち上げるほどの風って何だよ。
トン、と体に何かが当たる。いや、きっと気のせいだ。でもベッドのそばには何かが落ちてくるような棚もない。
「ひっ……」
思わず悲鳴を上げると、トントン、と動きが変わった。まるで、俺を宥めるような……宥める?
イヤホンを外して、そっと布団から目元だけを出す。辺りは暗いけど、白いライトが見えた。
「明良、俺だよ」
「っ……せな、さん……?」
「出ておいで」
持っていた光るものをベッド横のローテーブルに置いて、俺に向かって手を広げた。
「聖凪さんっ……」
たまらずに飛びついた。聖凪さんは俺を抱きとめて、ぎゅっと抱き締めてくれた。そしてまたトントンと背中を叩いてくれる。
「ブレーカーは落ちてないから、停電みたい。前にもあったけど、長くても一時間くらいで復旧したよ」
「そうなんですね……」
体温に触れて落ち着いた俺を、聖凪さんはベッドに座らせてくれた。聖凪さんもベッドの縁に座って、手を繋いでくれる。
ふと見ると、さっき聖凪さんが持っていた白いものは、懐中電灯だったらしい。そういえば、停電に備えて部屋とリビングと玄関に置いていると言っていた。停電が長引くとスマホのライトだけだと困るからと。
俺も貰って棚に置いてたのに、あまりの恐怖にそのことを忘れていた。復旧したら、ベッドの傍に置こう。……ベッドにいても布団に飛び込んでしまったから、枕の下に入れてた方がいいかもしれない。
飲み会のはずなのに、聖凪さんからはお酒のにおいがしない。もしかして、雨の予報だったから、いつでも帰れるように飲まないでいてくれたのかな……さすがに自意識過剰過ぎるかもしれないけど、そうじゃないかと思えた。
でも、ごめんなさいも、ありがとうも、聖凪さんに気を遣わせてしまう気がする。聖凪さんは、好きで世話を焼いてるからと言ってくれている。もしかしたら、ただ素直に頼った方がいいのかもしれない。だから、聖凪さんにぎゅっと抱きついた。
「こんなに暗いのに、聖凪さんがいると怖くないです」
「それは良かったよ」
聖凪さんは俺の頭を撫でて、嬉しそうな声を出した。
お兄さんがいるとは聞いてたけど、弟か妹が欲しかったのかな? それとも、前に言ってたみたいに犬かな? どっちにしろ、聖凪さんは可愛がるのが好きな性格みたいだ。もう一緒に住んで三ヶ月も経つのに、気づかなかった。
「母鳥に包まれる、雛みたい……」
抱きついてるとぽかぽかして温かくて、なんだかふわふわする。
母鳥……聖凪さんは、母鳥みたいだ。
だから雛の俺は、聖凪さんの後をついて回る。だって、聖凪さんのそばは、絶対的に安全な場所だから。聖凪さんがいないと駄目でも仕方ないんだ。
「せな、さん……」
どこか遠くで、小さく笑う声が聞こえる。髪を撫でられる感覚がして、おやすみ、と優しい声がした。
◇◇◇
「おはよう」
「ん……おはよう、ございま……んえっ!?」
目を開けたら、すぐ近くに聖凪さんの顔があった。
辺りは明るくて、朝が来たのだと分かる。寝起きからこんなにかっこいいってどういうこと?
「えっ、あのっ?」
「寝惚けてる。可愛い」
どんな少女漫画だよ……!
素でそんな台詞が出る男が、世の中にどれだけいるだろう。
「明良があのまま寝ちゃったから、俺も一緒に寝させて貰ったよ。途中で起きて、暗い中ひとりだったら泣くだろうし」
「泣きませんけどっ、ありがとうございますっ」
「素直でいいね」
ポンポンと俺の頭を撫でて、聖凪さんは起き上がった。
「俺、二限からだからもうすぐ出るけど、一人で平気?」
「はい。……聖凪さんを充電したので大丈夫です」
「充電式か。じゃあ、なくなる前にまた充電においで」
聖凪さんは楽しそうに笑って、もう一度俺の頭を撫でてから部屋を出て行った。
「……これって、普通のルームシェアの距離じゃないな?」
ルームシェアが初めての俺でも分かる。特に男同士なら、一緒のベッドで起きた朝に、こんなに優しいというか甘い雰囲気にはならない。そもそも相手が怖がっているからといって抱き締めてくれないだろうし、抱き合っても寝ないし、『寝惚けてる。可愛い』なんて言わない。
「聖凪さんの距離感ってどうなってるんだろ……」
先輩後輩の距離感でもない。俺が知らないだけで、他の後輩の頭もポンポンしてるのかな?
そう考えて、妙にモヤモヤした。聖凪さんが俺以外を撫でるのは、なんだか嫉妬しちゃうな……。嫉妬するくらい甘やかして貰ってるからだけど。
俺もベッドを下りて、顔を洗おうと洗面所に向かう。すると浴室からシャワーの音がした。
「聖凪さん、朝ごはん食べる時間ありますか? ちょっとしたものですけど作るので」
「いいの? 手間じゃなかったら、お願い」
返事を受けて、キッチンに向かう。俺を宥めてくれたせいで遅くなってしまったんだから、せめて朝ごはんくらいは作りたい。
二限からなら、ゆっくり食べても間に合うはず。でもできるだけサッと食べられる方がいいだろうし、少なすぎても足りないだろうし。
米は炊いてないからパンを焼いて、お湯を沸かしてる間に、卵を割る。
「玉子焼き、出汁巻きと甘いの、どっち派かな」
これって、目玉焼きに何をかけるのかと同じくらい派閥があると思っている。地域差もあるだろうし……少し考えて、どっちも作ろうと決めた。聖凪さんが食べない方を俺が食べればいい。
一種類目の卵をフライパンに流してすぐにお箸で素早く混ぜて、表面がまだ半熟くらいの時にくるくると巻いていく。その卵に弱火で中まで火が通るのを待っている間に、湧いたお湯に鶏ガラスープを入れて、塩コショウで味を調えた。味噌汁でも良かったけど、パンには味噌汁よりスープの方が合うよな。
最後に乾燥ワカメを入れて、溶き卵を細く流す。後は余熱で固まるから、火を止めた。
玉子焼きをフライパンから下ろして、キッチンペーパーでサッと拭いてから二種類目の卵を流した。同じように火が通るのを待っている間に、焼けた玉子焼きを包丁で切る。
「パンも焼けたし……バナナヨーグルト作ろうかな」
バナナを小さく切って、ヨーグルトと混ぜるだけだ。そういえば、つい気になって買ってたチョコソースがあった。これをかけてみよう。
料理は、関東の大学を考え始めた高校入学の頃からやってるから、簡単なものだけどわりと手際よく出来るつもりだ。ただ自分用の料理ばかりだから、オシャレなのはレパートリーがないんだよね。
「え、すご。ホテルの朝食だ」
料理をテーブルに並べ終えたタイミングで、聖凪さんがシャワーから戻って来た。
「褒めすぎですよ。でもありがとうございます」
「いや、本当にすごいって。写真撮っていい?」
「いいですけど、なんか恥ずかしいです」
「恥ずかしがることないって。今度ロアたちに自慢しよう」
これで自慢になるのかな? と思ったけど、聖凪さんが楽しそうだからいっか。
「玉子焼き、出汁巻きと甘いのはどっちがいいですか?」
「え、二種類あるとか本当すごい。どっちも美味そう」
「じゃあ半分ずつにしましょうか」
まだ使っていないお箸で、お皿の上の玉子焼きを半分ずつ交換した。
「……美味すぎて泣きそう」
「お口に合って良かったです」
「大袈裟じゃなくて、美味い。うちは洋食中心で、こういう実家の味みたいなのなかったのに……なんか懐かしい味がしてホッとする」
玉子焼きを大事そうに食べてくれる。スープも味わうように飲んでくれた。
「ばあちゃんに教わった煮物とか肉じゃがも作れますけど、どっちか夜に作りましょうか? 俺、今日はバイトもないですし」
「まじで? いいの?」
「はい。両方でもいいんですけど味の感じが被っちゃうので、どっちがいいですか?」
「…………肉じゃが」
いっぱい悩んでから発する『肉じゃが』が可愛くて、なんだか胸がぎゅっとなった。
その晩。当然のように牛肉を使ったら、「豚肉じゃない……」と驚きと共に感動された。
もしかしたらこれも、人によっては目玉焼きに何をかけるか問題と同じ論争が起こるのかもしれない。そして俺も、肉じゃがに豚肉を使うという新たなレシピを獲得した。
こういう、湿ってて時々冷たい風が吹く時期って苦手なんだよね……。
あと、洗濯物も乾かないし、パンがカビるのも早いし、冷蔵庫に入れてるのにジャムがカビたし。明日スーパーに行って小さめのジャムを買おう。この時期は大きめだと食べきれない。
バイトが終わった零時近く。エレベーターを下りて部屋に向かっていたら、フッと周囲が暗くなった。
「!?」
思わずビクッとしたけど、電球が切れただけだ。きっとそう。暗いといっても、外に面した廊下だ。都会だし、地元のように真っ暗じゃない。でも……繁華街みたいに明るくもなかった。
……大丈夫。薄暗いだけ。もうすぐ部屋に着くから、鍵を出そう。きっとこの範囲内なら、聖凪さんの悪いものを寄せ付けないパワーがきてるはず。
「っ……!」
鍵が鍵穴に入らない。ガチガチと何度も当たって、焦りが増した。
でもほら、大丈夫! 聖凪さんから貰ったピアスもあるし! それに俺、実際に何か見たこともないからっ……ない、から……ううっ、ないけど怖いものは怖いんだーーっ!
「聖凪さぁぁぁん!!」
やっと鍵が開いて、靴を脱ぎ捨てて電気のついてるリビングに駆け込んだ。そのまま聖凪さんに飛びつく。
「えっ、どうしたっ?」
帰るなり叫んで抱きついた俺に、さすがに聖凪さんもびっくりしたみたいだ。それでも俺の背中をトントンと撫でて、宥めようとしてくれる。本当に聖凪さん優しい……好きがすぎる……。
「エレベーターのとこのライトが急に切れてっ、暗くて怖くてっ……」
半分泣き声みたいになってる俺の言葉を、聖凪さんは、うんうんと言いながら聞いてくれる。本当にお兄ちゃんみたいだ。
聖凪さんは俺を宥め続けてくれて、やっと落ち着いた俺は、腕の力を緩めた。でもまだ離れられない。
「明日の朝、出がけに大家さんに伝えとくよ」
「お手数おかけします……ありがとうございます……」
本当は俺が言わなくちゃいけないのに、つい甘えてしまう。
「いきなり抱きついてすみません……」
「別にいいよ。怖くなくても抱きついてくれていいし」
「それはさすがに」
「犬っぽくて可愛いなって」
「犬!」
「体温もそれっぽいから癒される」
今度は聖凪さんから抱き締められて、心底驚いた。考えたら俺から恐怖のあまり飛びつくことはあっても、聖凪さんからされたことはない。……まあ、聖凪さんはいつも平常心だし、怖いものがあるとも思えないんだよな。
「聖凪さんの癒しになれるのでしたらどうぞ」
「相変わらず面白いよね」
嫌がらないんだ、と笑う。嫌どころか日々のご迷惑のお詫びになるのでしたら喜んで! という気持ちだ。それに俺もこうして抱き締められるのはホッとする。
でも離れるタイミングが分からなくて、俺はちょっとだけ身じろぎしてみた。
「あの、お風呂入って来ます」
……と言ったものの、リビングを出る勇気が出ない。さっき暗いところを通っただけなのに、極度の怖がりだからまだ無理だ。聖凪さんが俺を離しても、ジッとその場に座ったままになってしまう。
「着替え取りに部屋に行く? ついてくよ」
「すみません……」
聖凪さんに部屋の中までついて来て貰って、着替えを取り出した。そのまま脱衣所まで着いてきてくれる。
「一緒に入ろうか?」
「えっ! いえっ、大丈夫です!」
「そんな全力で否定しなくても、襲ったりしないって」
「え? あっ、いえっ、ご迷惑をかける心配をしてて……」
もう入ってるのに、二度もお風呂に入らせるのは申し訳ない。
「まったく意識されないのも悔しいな。襲っていい?」
「よくないです!」
グッと腰を抱き寄せられて、咄嗟に押し返した。その反応が正解だったみたいで、聖凪さんは満足そうに笑って俺を離した。
「冗談だよ。入っといで」
「聖凪さんが言うと、冗談に聞こえないんですよ……」
真顔で言うから、もう。
「じゃあ、すぐそこで動画観てるから。俺がいるから、大丈夫だよ」
そう言って俺の頭を撫でて、聖凪さんは脱衣所を出た。トン、と音がして、扉の外にいるのが分かる。
「……ありがとうございます」
どこまで親切で優しい人なんだろう。こんなにお世話になってて、俺はこれから先、聖凪さん無しで生きてくことが出来るんだろうか……。
◇◇◇
……いや、出来ない。
翌週のある日、早速聖凪さん無しでは生きていけないことを実感した。いや、先週、廊下の電球が切れた時から分かっていた。なんなら地元にいた頃から知っていた。俺が怖いのは、幽霊だけじゃなかったんだ……。
「ひぃっ!!」
天を裂くような轟音を響かせて、雷が落ちた。多分、近くだ。
頭から布団をかぶって、イヤホンをして、ラテン系の明るい音楽を聴いているけど、雷の音とビリビリするような衝撃は消えない。
「ひっ……!」
次の雷が落ちた途端、煌々と付けていた部屋の明かりがすべて消えた。
「えっ……停電っ……?」
そっと布団から目元だけを出す。辺りは真っ暗だった。
その時、カタリ、と音がした。
「!?」
……違う、気がしただけだ。イヤホンをしてるから、小さな音は聞こえない。雷ほどの大きな音じゃないと聞こえないはずだ。
でも、何かが近づいて来る気がする。
……違う、何もいない。だって聖凪さんは、友達との飲み会で遅くなると言っていた。
聖凪さん……傘持って行ってるかな? こんな大雨だし、さすがにタクシー使うかな? 自然とそんな心配をしていると、ふわっ……と布団が持ち上がった。
「――ッ!!」
声にならない悲鳴を上げて、必死に布団を掴む。どうして布団が? 風なんて吹かない。そもそもが布団を持ち上げるほどの風って何だよ。
トン、と体に何かが当たる。いや、きっと気のせいだ。でもベッドのそばには何かが落ちてくるような棚もない。
「ひっ……」
思わず悲鳴を上げると、トントン、と動きが変わった。まるで、俺を宥めるような……宥める?
イヤホンを外して、そっと布団から目元だけを出す。辺りは暗いけど、白いライトが見えた。
「明良、俺だよ」
「っ……せな、さん……?」
「出ておいで」
持っていた光るものをベッド横のローテーブルに置いて、俺に向かって手を広げた。
「聖凪さんっ……」
たまらずに飛びついた。聖凪さんは俺を抱きとめて、ぎゅっと抱き締めてくれた。そしてまたトントンと背中を叩いてくれる。
「ブレーカーは落ちてないから、停電みたい。前にもあったけど、長くても一時間くらいで復旧したよ」
「そうなんですね……」
体温に触れて落ち着いた俺を、聖凪さんはベッドに座らせてくれた。聖凪さんもベッドの縁に座って、手を繋いでくれる。
ふと見ると、さっき聖凪さんが持っていた白いものは、懐中電灯だったらしい。そういえば、停電に備えて部屋とリビングと玄関に置いていると言っていた。停電が長引くとスマホのライトだけだと困るからと。
俺も貰って棚に置いてたのに、あまりの恐怖にそのことを忘れていた。復旧したら、ベッドの傍に置こう。……ベッドにいても布団に飛び込んでしまったから、枕の下に入れてた方がいいかもしれない。
飲み会のはずなのに、聖凪さんからはお酒のにおいがしない。もしかして、雨の予報だったから、いつでも帰れるように飲まないでいてくれたのかな……さすがに自意識過剰過ぎるかもしれないけど、そうじゃないかと思えた。
でも、ごめんなさいも、ありがとうも、聖凪さんに気を遣わせてしまう気がする。聖凪さんは、好きで世話を焼いてるからと言ってくれている。もしかしたら、ただ素直に頼った方がいいのかもしれない。だから、聖凪さんにぎゅっと抱きついた。
「こんなに暗いのに、聖凪さんがいると怖くないです」
「それは良かったよ」
聖凪さんは俺の頭を撫でて、嬉しそうな声を出した。
お兄さんがいるとは聞いてたけど、弟か妹が欲しかったのかな? それとも、前に言ってたみたいに犬かな? どっちにしろ、聖凪さんは可愛がるのが好きな性格みたいだ。もう一緒に住んで三ヶ月も経つのに、気づかなかった。
「母鳥に包まれる、雛みたい……」
抱きついてるとぽかぽかして温かくて、なんだかふわふわする。
母鳥……聖凪さんは、母鳥みたいだ。
だから雛の俺は、聖凪さんの後をついて回る。だって、聖凪さんのそばは、絶対的に安全な場所だから。聖凪さんがいないと駄目でも仕方ないんだ。
「せな、さん……」
どこか遠くで、小さく笑う声が聞こえる。髪を撫でられる感覚がして、おやすみ、と優しい声がした。
◇◇◇
「おはよう」
「ん……おはよう、ございま……んえっ!?」
目を開けたら、すぐ近くに聖凪さんの顔があった。
辺りは明るくて、朝が来たのだと分かる。寝起きからこんなにかっこいいってどういうこと?
「えっ、あのっ?」
「寝惚けてる。可愛い」
どんな少女漫画だよ……!
素でそんな台詞が出る男が、世の中にどれだけいるだろう。
「明良があのまま寝ちゃったから、俺も一緒に寝させて貰ったよ。途中で起きて、暗い中ひとりだったら泣くだろうし」
「泣きませんけどっ、ありがとうございますっ」
「素直でいいね」
ポンポンと俺の頭を撫でて、聖凪さんは起き上がった。
「俺、二限からだからもうすぐ出るけど、一人で平気?」
「はい。……聖凪さんを充電したので大丈夫です」
「充電式か。じゃあ、なくなる前にまた充電においで」
聖凪さんは楽しそうに笑って、もう一度俺の頭を撫でてから部屋を出て行った。
「……これって、普通のルームシェアの距離じゃないな?」
ルームシェアが初めての俺でも分かる。特に男同士なら、一緒のベッドで起きた朝に、こんなに優しいというか甘い雰囲気にはならない。そもそも相手が怖がっているからといって抱き締めてくれないだろうし、抱き合っても寝ないし、『寝惚けてる。可愛い』なんて言わない。
「聖凪さんの距離感ってどうなってるんだろ……」
先輩後輩の距離感でもない。俺が知らないだけで、他の後輩の頭もポンポンしてるのかな?
そう考えて、妙にモヤモヤした。聖凪さんが俺以外を撫でるのは、なんだか嫉妬しちゃうな……。嫉妬するくらい甘やかして貰ってるからだけど。
俺もベッドを下りて、顔を洗おうと洗面所に向かう。すると浴室からシャワーの音がした。
「聖凪さん、朝ごはん食べる時間ありますか? ちょっとしたものですけど作るので」
「いいの? 手間じゃなかったら、お願い」
返事を受けて、キッチンに向かう。俺を宥めてくれたせいで遅くなってしまったんだから、せめて朝ごはんくらいは作りたい。
二限からなら、ゆっくり食べても間に合うはず。でもできるだけサッと食べられる方がいいだろうし、少なすぎても足りないだろうし。
米は炊いてないからパンを焼いて、お湯を沸かしてる間に、卵を割る。
「玉子焼き、出汁巻きと甘いの、どっち派かな」
これって、目玉焼きに何をかけるのかと同じくらい派閥があると思っている。地域差もあるだろうし……少し考えて、どっちも作ろうと決めた。聖凪さんが食べない方を俺が食べればいい。
一種類目の卵をフライパンに流してすぐにお箸で素早く混ぜて、表面がまだ半熟くらいの時にくるくると巻いていく。その卵に弱火で中まで火が通るのを待っている間に、湧いたお湯に鶏ガラスープを入れて、塩コショウで味を調えた。味噌汁でも良かったけど、パンには味噌汁よりスープの方が合うよな。
最後に乾燥ワカメを入れて、溶き卵を細く流す。後は余熱で固まるから、火を止めた。
玉子焼きをフライパンから下ろして、キッチンペーパーでサッと拭いてから二種類目の卵を流した。同じように火が通るのを待っている間に、焼けた玉子焼きを包丁で切る。
「パンも焼けたし……バナナヨーグルト作ろうかな」
バナナを小さく切って、ヨーグルトと混ぜるだけだ。そういえば、つい気になって買ってたチョコソースがあった。これをかけてみよう。
料理は、関東の大学を考え始めた高校入学の頃からやってるから、簡単なものだけどわりと手際よく出来るつもりだ。ただ自分用の料理ばかりだから、オシャレなのはレパートリーがないんだよね。
「え、すご。ホテルの朝食だ」
料理をテーブルに並べ終えたタイミングで、聖凪さんがシャワーから戻って来た。
「褒めすぎですよ。でもありがとうございます」
「いや、本当にすごいって。写真撮っていい?」
「いいですけど、なんか恥ずかしいです」
「恥ずかしがることないって。今度ロアたちに自慢しよう」
これで自慢になるのかな? と思ったけど、聖凪さんが楽しそうだからいっか。
「玉子焼き、出汁巻きと甘いのはどっちがいいですか?」
「え、二種類あるとか本当すごい。どっちも美味そう」
「じゃあ半分ずつにしましょうか」
まだ使っていないお箸で、お皿の上の玉子焼きを半分ずつ交換した。
「……美味すぎて泣きそう」
「お口に合って良かったです」
「大袈裟じゃなくて、美味い。うちは洋食中心で、こういう実家の味みたいなのなかったのに……なんか懐かしい味がしてホッとする」
玉子焼きを大事そうに食べてくれる。スープも味わうように飲んでくれた。
「ばあちゃんに教わった煮物とか肉じゃがも作れますけど、どっちか夜に作りましょうか? 俺、今日はバイトもないですし」
「まじで? いいの?」
「はい。両方でもいいんですけど味の感じが被っちゃうので、どっちがいいですか?」
「…………肉じゃが」
いっぱい悩んでから発する『肉じゃが』が可愛くて、なんだか胸がぎゅっとなった。
その晩。当然のように牛肉を使ったら、「豚肉じゃない……」と驚きと共に感動された。
もしかしたらこれも、人によっては目玉焼きに何をかけるか問題と同じ論争が起こるのかもしれない。そして俺も、肉じゃがに豚肉を使うという新たなレシピを獲得した。

