そうこうするうちに授業が始まり、三日間は快適なまま終わった。そして、四日目。
うん……この授業、前の席で受けるべきだな……。
一番後ろに座ったことを後悔する。先生が黒板に書いた文字が小さくて、見づらかった。一緒に授業を受けた視力のいい大津君も、スマホのカメラで拡大していた。でも、そういう方法があると知れたのは大きな収穫だった。
授業が終わり、教科書をリュックにしまっていると、通常のざわめきに混ざって黄色い声がする。何だろうと思っていると、背後から聞き慣れた声がした。
「由井君、学食行こう」
「えっ、鴫野さんっ?」
通り過ぎる女子たちが、かっこいい、とざわつく。やっぱり鴫野さん目立つよなぁ。
そんな鴫野さんは、今日は一限のゼミだけだと言っていた。
「もしかして、終わるの待っててくれたんですか?」
「うん。由井君と一緒に食べたくて」
「えっ、嬉しいっ」
学部も違ってゼミの校舎は遠かったはずなのに、わざわざ迎えに来てくれたんだ。こういうのも仲良しな先輩後輩って感じがする。感動していると、鴫野さんの視線は俺の隣に向けられていた。
「あ。前に話してた、バスケ部の大津君です」
「ああ、君が。うちの由井君がお世話になってるそうで」
「いえ……」
大津君は気まずそうに返事をする。そういえば、噂のこと誤解したままだったよな。
「大津君も一緒に行かない?」
「由井、それはさすがに……」
そう言った瞬間、スマホが震えた。
「佐伯君と三根君が、一緒に食べようって」
メッセージ内容を声に出してから、ハッとした。鴫野さんはみんなと一緒は嫌かな……。
「俺も一緒に行っていい? 一度話してみたかったし」
「ぜひ!」
俺の心中を察してくれた言葉に、思わず大きく頷く。
そういえば、友達を一度連れておいでって言われていた。誘っても三人は噂を気にして来てくれないかもしれないし、今日誤解を解いてしまった方がいいよな。
大津君も連れて学食に向かう。キャンパス内にいくつかある中で、定食やがっつりしたメニューを扱う学食にいると連絡があった。まだ人もまばらな広い室内。その窓際に、二人の姿を見つけた。
「え、鴫野先輩……?」
「なんで?」
俺の隣にいる鴫野さんを見て、佐伯君と三根君は戸惑った顔をする。
「鴫野さんが、みんなと話してみたいって。それと前に言ってたあの噂、本当じゃなかったみたいだよ」
「え? まじ?」
「由井君、混む前に買ってからにしようか」
「あっ、そうですね。ちょっと待ってて!」
「その話すごい気になるんだけどっ……」
三根君の声を聞きながら、俺は椅子に荷物を置いて、鴫野さんの後をついて行った。
カレーと迷ったけど、今日はからあげ定食にした。鴫野さんはカツ丼だ。細身に見えるけど結構がっつり食べるんだよな。ちなみに大津君は牛丼とチャンポンで、どうりで逞しいはずだよと思ってしまう。俺もあれくらい食べたらああなれるかな?
「あのさ、さっきの続き……」
半分くらい食べたところで、三根君が痺れを切らしたようにそう言った。俺が口を開く前に、鴫野さんが答えてくれる。
「俺、男は恋愛対象外。噂は、当時付き合ってた彼女が言いふらしてたらしい。卒業の時に本人から言われたから本当だと思う」
「え、待って鴫野さん、それは俺も聞いてないです」
「言ってなかった?」
「聞いてないです」
思い返せば、俺が勝手にこうだろうと予想して、勝手に今の鴫野さんを知ってればいいよなって自己完結した。男が恋愛対象外だとは聞いたけど、彼女さんのせいとか聞いてない。もしかしたら俺が自己完結したから、鴫野さんもそれ以上話しづらかったのかもしれない。
「食い散らかしてたんじゃなくて、先輩の彼女さんが振られた腹いせにって悪評を広めたということですか?」
佐伯君がズバッと言った。
「いや、俺が振られた側。それなのに復縁を迫らずに、すぐに別の子から告白されて付き合ったから、プライドが許さなかったって」
「その彼女、えぐ……鴫野先輩、普通に被害者じゃないっすか」
「まあそうなるのかな」
「そうなるのかなって……」
「高校の頃は噂とかどうでも良かったけど、今は由井君が困るといけないからこうして訂正してる」
鴫野さんはそう言って、大きなカツを一口で食べた。
みんなと話したいと言ったのも、俺のため……? どうしよう、それってものすごく嬉しい。
「……由井のこと、狙ってるとかじゃないですよね?」
「狙っていいなら狙うけど?」
その言葉で、全員の視線が俺に向く。からあげで口がいっぱいの時に限って話題を振られるのは困る。
「まあ……由井が変な女に引っかかるよりは……」
「鴫野先輩が彼氏なら、変な男も避けられるだろうし……」
「由井のこの、保護しなきゃ、みたいな雰囲気なんなんだろうな……」
別に俺、保護動物じゃないけど。ゴクンとからあげを飲み込んで、話す前にウーロン茶で口の中を流す。
「こういう行儀のいいところも好きだな」
「鴫野さんが言うと冗談に聞こえないです。みんな困惑してるじゃないですか」
三人とも本気にして、反応に困っている。
「冗談? 先輩、本気トーンじゃなかった?」
「本気だったらどうする?」
「だから、鴫野さんが言うと冗談に聞こえないんですって」
三人ともますます困惑した顔をしてる。そんな三人を見て、鴫野さんは「からかい甲斐がある」と笑った。
「えー……先輩の印象、一八〇度変わったんだけど……」
「先輩って笑うんだ……」
「クズ男のイメージだったけど違うじゃん……」
「噂を鵜呑みにしすぎだろ」
散々な言われようにも怒ることなく、また笑い飛ばす。みんなはやっと安心したらしくて、表情から緊張の色が消えた。
「じゃあ、裏の筋と繋がってて、怪しいバイトしてたって噂も嘘ですか?」
「なんだそれ。ファミレスの裏方だよ」
「裏しか合ってない」
ドッと笑いが起きる。本当に高校時代の噂、むちゃくちゃだったんだな。
「今もファミレスですか?」
「今は、動画編集してる」
え、知らなかった……。だから家でパソコン開いてる時が多かったんだ。
「有名配信者の動画とか?」
「依頼主が誰かは言えない」
「守秘義務しっかりしてるーっ」
「当たり前だろ」
素っ気ない返答をして、残りのカツ丼を食べ終える。こういうギャップに女の子は弱いんだろうな……って思う俺も、相当かっこいいなって思ってるけど。
「じゃあ、呪われたみたいな生首を持って歩いてたって噂は?」
「ああ、それは本当」
呪われた……何……?
「長くて乱れた黒髪を振り回してたんですよね?」
「別に、振り回してはない」
長くて乱れた、黒髪……?
「由井君」
「……えっ、あっ、はいっ」
「怖い話嫌いなのに、ごめん」
「いえっ、大丈夫ですっ」
やっぱり怖い話なんだっ。ぶるっと震えたら、鴫野さんが背中を撫でてくれる。
「本物じゃなくて、前に話した父親がアマゾンで遭難した時に、助けてくれた部族からお土産にって貰ったやつだよ。髪に見えたのは木の繊維を細く裂いて乾かしたもので、首は木彫り」
「あ……お父さんの……そうだったんですね……」
良かった……いや、良かったって、冷静に考えたら鴫野さんが本物の生首を持ち歩くわけないんだけど。
「どうやって知ったのか、突然ゼミ室に現れて渡されたんだ。大きい鞄を持ってなかったから、仕方なく手持ちで帰ったんだよ。それは実家に置いてきたから、部屋にはないよ」
「そうなんですね」
ホッとすると、背中をトントンと叩いて手は離れていった。木彫りだと分かればもう怖くない。でも、首と間違うくらいの木彫り、ちょっと見てみたかった気もする。でもそれで夜に寝られなくなったら困るから、やっぱり見たいって言うのはやめよう。
「待って。先輩の親父さん、アマゾンで遭難したって?」
「企業の倉庫とかじゃなくて、本物の密林のアマゾンですか?」
「袋、購買で売ってますよっ」
三人がそれぞれに言う。最後の佐伯君だけちょっと違った。
「そっか。購買で買えば良かった」
鴫野さんもそっちを拾って、ビニール袋なら入ったかな、と真剣な顔をした。
みんなと鴫野さんはすっかり打ち解けて、連絡先の交換までしていた。お兄ちゃんみたいな鴫野さんが、みんなを俺の友達として認めてくれたってことだろう。
……嬉しいことなのに、なんだか少しだけモヤッとしてしまう。俺に優しいならみんなにも優しいなんて、当たり前のことなのに。
◇◇◇
それから一ヶ月が経った。ゴールデンウィークに入って、俺は毎日バイトに勤しんでいた。どうせ遊びに行ってもどこも混んでるからと、佐伯君たちも同じようにバイトを入れると言っていた。その代わりにゴールデンウィーク明けにみんなで出かける予定だ。
夕方から日付が変わるまで働いて、帰った頃には疲れすぎてベッドに直行。昼前に起きてシャワーを浴びる生活。それも大学生らしくて、毎日が充実していた。
そんなある日。シャワーを浴びてリビングに入ると、鴫野さんがコーヒーを淹れているところだった。
「おはよう。飲む?」
「はい。ありがとうございます」
俺用のマグカップにコーヒーを注いでくれている間に、冷蔵庫から牛乳を出した。まだ鴫野さんみたいにブラックでは飲めないんだよな。
カップを受け取るとふわっといい香りがして、誘われるようにそのまま口を付ける。香ばしくていい香りだ。美味しい、と一瞬思ったのに、後から苦味に呻いてしまう。
「無理しないで牛乳入れなよ」
「はい……鴫野さんみたいにかっこよくブラックで飲めるようになりたいです」
「ありがと。でも別にそのままでいいんじゃない? こういうのは味の好みの問題だし」
さらっと言って、表情も変えずにブラックコーヒーを飲む。
「ずっと思ってたんですけど、鴫野さんって言動が素でかっこいいですよね」
「普通に照れるんだけど」
「俺が女の子だったら惚れてます」
「男でも惚れていいよ」
またさらっと言って、笑いながらソファに移動した。こういうところが余裕のある大人って感じでかっこいいんだよな。
今日は鴫野さんはパソコンじゃなくて教科書を開いていたから、動画編集中じゃないみたいだ。俺も隣に座って、牛乳たっぷりのコーヒーを飲む。朝ごはん用のコーンフレークをもりもり食べながら、どうして俺は背が伸びないんだろうと疑問に思った。
……いや、一七三センチあるから、そこまで低くはない。高校でも大学でも、周りの友達が大きかっただけだ。佐伯君も三根君も一八〇センチくらいだと思うし、大津君は一九〇センチあると言っていた。
「鴫野さんって、身長何センチですか?」
「ん? 最後に計った時は、一八〇……三くらいだったと思う」
「十センチも差が……」
どうりで隣に並んでても差を感じるはずだ。イケメンで理系で身長も高いとか、鴫野さんって本当に少女漫画のヒーローだよな。
「何食べたらそんなに逞しくなれますか」
「肉かな。後は運動」
「正論!」
結局はそうなんだよ……良質なたんぱく質と運動と睡眠。それが揃ってるはずなのに、背もそこそこで、筋肉も付きにくい。もう体質としか思えないよなぁ……。
「由井君は運動部だったんだし、悲観するほど細くはないんじゃない? 重い筋肉より柔軟性のある筋肉の方が怪我しにくいし、運動向きだと思うけど」
「そういえば、いくら練習しても滅多に怪我しなかったです。あれ? 俺、運動部だったって言いましたっけ?」
「言ってなかった? ……それっぽいと思ってただけかも」
鴫野さんはそう言って、コーヒーに口を付ける。ルームシェアを決める時もだったけど、鴫野さんって時々勘違いするんだよな。ルームシェア以外は些細なことだけど、今後はそこから変な誤解に発展しないように、あれ? って思ったらしっかり話し合うようにしよう。
「大学では何か運動サークル入らないの?」
「はい。運動じゃなくて、英文サークルにしようかなと。在学中に留学するのが夢なんです」
「留学?」
「はい……あっ、その間の家賃とかはちゃんと払いますのでっ」
「それは別にいいんだけど、留学の話は初めて聞いたから驚いた」
珍しく動揺してるみたいで、口元に手を当てて視線を落としていた。家賃の心配じゃなかったら、何がそんなに気になってるんだろう。
「由井君がいる生活に馴染んじゃったから、いなくなると寂しいな」
「っ……」
突然弱みを見せられて、胸が感じたことないくらいにぎゅうっとなった。なんだろ……可愛いというか、愛しいというか……そう、それこそ保護動物を前にしたみたいな感覚だ。
「あの、でも、留学といってもこの大学は一週間からの短期プログラムがあるので……夏休みの間とか、長くても一ヶ月くらいです」
同じ国に数ヶ月じゃなくて、大学生のうちに何ヶ国か行きたいと考えていた。それが出来るのがこの大学だったから、偏差値が高かったけど必死に勉強したんだよな。受験からまだあんまり経ってないのに、もう懐かしい。
「寂しいのもあるけど、由井君が海外で生活するってすごく心配なんだけど」
「それは大丈夫です。佐伯君たちも留学希望なんで、一緒に行こうって話してて」
「そっか。絶対に一緒に行きなよ。部屋も同じとこにして貰うと俺が安心」
「鴫野さん、お兄ちゃんみたいです」
お父さんと言うには、俺は普通のお父さんを知らない。でも、近所に住んでたお兄さんがこんな風に心配してくれた。
「由井君のおばあちゃんにお願いされたから、兄でも間違いじゃないね」
「鴫野さんが本当にお兄ちゃんだったら良かったなぁ」
子供の頃から一緒なら、きっと毎日がもっと楽しかった。両親と住んでいた時も、寂しいなんて感じなかったはず。
「名前で呼んでよ」
「え?」
「一緒に住んでるのに他人行儀だなって思ってた。俺も明良って呼ぶから」
ただ名前を呼ばれただけなのに、鴫野さんに呼ばれると特別感があるな。心臓がドキッとした。
「じゃあ俺は、聖凪さんで」
「聖凪でいいよ」
「呼び捨てはまだ色々とハードルが高いです」
鴫野さ……聖凪さんは、年上だし、命の恩人だし、派手めのイケメンだし、俺がもうちょっと自分に自信が持てた時に呼ばせていただきたい。
ん? 命の恩人?
ふと何かが引っかかる。その理由に辿り着いて、急に気まずくなった。
「あの、ずっと言おうと思ってたんですけど……俺、以前に聖凪さんと会ったことありますか?」
初対面の時に、「あの時の」と言われた。ずっと自力で思い出そうとしていたのに、結局何も思い出せなかった。
緊張と申し訳なさで萎縮しながら訊いたのに、聖凪さんはあまりにもあっさりと俺の疑問を肯定した。
「あるよ。思い出したくないだろうから、今まで言わなかったんだけど」
「俺っ、忘れててすみませんっ!」
思い出したくないこと? それって、悪いことだよな? 何かやらかしたとか? もしかして、ショックで記憶喪失になった?
「無理に思い出す必要はないよ。それでも、聞きたい?」
聖凪さんの深刻な表情におじけづきそうになる。でも聖凪さんとの思い出なら、全部覚えておきたかった。
そう伝えると、聖凪さんは少し困ったように眉を下げて、ゆっくりと口を開いた。

