メランコリックな解読士~虐げられていた元伯爵令嬢は片田舎の港町で穏やかに解読に没頭したかったのに、今日も狙われている~

 悠久の歴史を誇るリルヴァーン王国。
 国王が全ての支配権力を有し、絶対王政の政治体制が編成されている。
 ブルクハルト朝の15代目当主ライアン国王が現在のトップであった。
 そんなセントラルエリアの王都で起きているようなことはサウスエリアの片田舎の港街に住む、私ハニ・オルコットにはどうでもよくって……。

「読みきれたー!!」

 四隅を固める書庫に埋め尽くされた膨大な文献や資料、そして書籍。
 それだけでは収まりきれない床という床を埋め尽くす紙という紙に本という本。
 私が今みたいに思いっきり手足を伸ばして寝っ転がっても、50人は余裕で並べそうな広大な地下室にある書庫。
 カビ臭さも混じったこの独特の紙やインクの匂いが充満しているノーヴァ教授の書庫が私は大好きだった。

「ノーヴァ教授! このノースエリアの氷壁で見つかった古文書、解き終わったの!」

 書庫を飛び出して、地上への階段を駆け上がる。
 1階に到着したところで

「え? ノーヴァ教授?」

 歩行の途中で力が尽きてしまったかのように、うつ伏せ状態のノーヴァ教授と出くわした。

「まさか、死んじゃってないわよね!」

 駆け寄って、ノーヴァ教授の腰まで伸びた真っ白な長い髪を払ってそっと背中に手をあてる。
 ――大丈夫。呼吸してる。
 死ぬとか不謹慎だとは思うけど、ノーヴァ教授の場合、冗談にしきれないのが恐ろしい。
 平均寿命60歳程度のこの国で、ノーヴァ教授はもう御年にして55になったことと……。
 たまに鮮血を吐いていることも知っている。
 1階のダイニング兼キッチンを見渡せば、机の上にはハンマー、拡大鏡、様々な文献が散らばるに散らばって、ひどい有り様だった。

「まーたノーヴァ教授は研究に没頭して、寝るのも食べるのも忘れてたのね」

 って、私も同じだからノーヴァ教授のことをとやかく言えないんだけど。
 自覚するとお腹がとてつもなく減っている気がするし、何となく頭も痒いような気もする。
 あの古文書の解読を初めて何日経っていたのか……。

「……おや、ハニ……?」
「あっ、ノーヴァ教授、起きた?」
「今日、何日だ?」

 ノーヴァ教授は喉が隠れるほどに蓄えられた白髭を撫でながら起き出した。
 ガリガリの骨と皮だけのような細い全身をつぎはぎだらけの布で覆われている。

「私も古文書の解読やり続けてたから今日が何日なのかわからない」
「おっ、ハニはあれが全て読み解けたのか?」
「そうなの! かなり文字が崩されてたから難しかったわ。ノーヴァ教授は?」
「イーストエリアから発掘された人骨の推定年齢がわかったんだ。あれは100を超えている」
「え? だって1500年前の人骨なのよね。あの頃は今より平均寿命が短かったはずなのに、人間が100年生きることなんてあるのかしら」

 ノーヴァ教授と会話を交わしていたら、玄関の扉が開いた。

「こんちわー! ノーヴァ教授と蜂蜜(はちみつ)前髪(まえがみ)、届けにきたよー! ――って、くさっ!!」

 大きな木箱を両手にもって現れたのは10歳の一人の少年。
 この港町に住む漁師の息子のマルセルだ。
 浅黒く日焼けした肌に金色の短髪が似合っている見るからに健康的な男の子。
 マルセルは木箱を部屋の中央のテーブルに置くなり、顔を歪めて鼻をつまんだ。

「二人とも研究に没頭して長いこと湯浴みしてないだろ。部屋の中くっさいぞ」
「これはお前が届けてくれた魚の臭いじゃないのか?」
「当の本人たちは自覚がないものなんだよ!」
「あっ、マルセル! また私のこと蜂蜜前髪って言ったでしょ? ちゃんとハニって名前で呼んでよ」
「だって蜂蜜前髪は蜂蜜前髪じゃん。蜂蜜色の髪だし、前髪長いし」

 ――見たまますぎるし、マルセルは呼び方を変える気はないみたい。
 私が顔を覆うくらい前髪を長くしてるのは、私の珍しい翡翠色の瞳は生まれつき日光に少し弱いからっていうのも何度も説明してるのに。
 蜂蜜色の髪だってお腹の辺りまで伸びてるけど、長いほうが自分で切っても粗が目立たないからで、それはノーヴァ教授と共通。
 研究以外に余り時間を割きたくない。
 もう数えきれないほどマルセルにしてきた抗議だから無駄だとはわかっているんだけど。

「今日は珍しく海老(えび)が手に入ったんだ」

 マルセルが木箱を開ける。
 覗き込むと私の手のひらを広げてもまだ足りないほど大きい赤黒い海老が生きていて、はさみを振り回し目をぎょろつかせていた。

「活きが良い立派な海老ね。おいしそう」
「って、蜂蜜前髪は海老を調理できるのかよ」
「できるわ。何度かやったことあるもの。さすがに生きているのは初めてだけど」
「やっぱりさ。蜂蜜前髪が貴族出身って嘘なんじゃん。どんな海のものでも捌ける伯爵令嬢なんて聞いたことないよ」
「本当です」

 ――私、ハニ・オルコット19歳の出自はウエストエリアの一部領地を任されているオルコット伯爵家の長女だった。
 だったと過去形なのは、16歳の成人を迎えたタイミングでオルコット家を出てノーヴァ教授の元でお世話になっているから。
 たいていの貴族のご令嬢はこの時期を境に嫁いでいくことが多い。
 伯爵令嬢出身と言えば聞こえはいいものの実態は最悪で。
 産みの母親は私が1歳になる前に亡くなって、父の後妻である義母とその間に産まれた3歳年下の腹違いの妹エイミからは常に邪魔者扱い。
 とある理由で王都から回される税収が年々少なくなっていったから、使用人を減らして解雇していくしかなく。
 一人また一人と屋敷を去るたびにその仕事は全て私に任されるという形で押し付けられてきた。
 廊下の掃除をしていれば、エイミにわざとバケツの水をひっくり返されるし、義母からは雑用を押し付けられ……。

『あらー。ハニお姉さま。仕事を増やしちゃってごめんなさい。でも、お姉さまがモタモタ掃除してるからこうなるのよ』
『エイミ、服が汚れるから早く行きましょう。ハニ、早く掃除を終わらせなさいよ。暖炉の薪がもうすぐ無くなりそうだわ』

 意地悪な2人のおかげで、料理はたいてい作れるし、庭木の剪定も覚えたし、薪割りで斧は振れるし、広すぎる屋敷を一人で掃除してたから筋力だって備わっている。
 伯爵令嬢らしからぬ逞しさは身につけられたかもしれない。
 お父さまもお父さまで悪い人ではないし私に愛情がないわけではないものの、日和見主義者で気弱なタイプで、気の強すぎる義母やエイミに何かを意見するなんて出来ない人だった。
 こんなつまらない日々の中でも私が何とか頑張ってこられたのはノーヴァ教授に出会えたからだと思う。

「今頃は他の貴族の家に嫁いで、悠々自適に過ごせてたんじゃないの? あ、蜂蜜前髪は嫁の貰い手がなかったんだろ」

 マルセルがからかうような口調で指差してくる。
 反論したいところだけど事実だから文句の言いようがない。
 妹のエイミのように、これでもかと自分を美しく飾り立て、令嬢としての素養と(たしな)みを身につけ、少しでも(くらい)の高い殿方に自分を見そめられたいなんて願ったことすらなかった。
 私もそれなりには淑女教育されているけれど、社交の場は苦手だし、義母に「オルコット家の恥」だと言われ、参加させてもらったことはない。
 私への嫌がらせのつもりだったんだろうけど、むしろ私にはラッキーで。
 コルセットで腰を締め付け、煌びやかなドレスを身に着けて紳士の顔色を見ながら豪華なパーティに参加するよりも、つぎはぎだらけのワンピースを着ていたって、過去の文献を読み解いたり、史料を読み漁ったりするほうが楽しくって、時間も忘れられて……最高すぎる。

「俺だったら絶対イヤだもんな。こんな研究に熱中しすぎて、風呂も食べるのも寝るのも忘れるような伯爵令嬢」
「私はもう伯爵令嬢じゃないもの。今はただの自称・研究者兼解読士だもん」
「自称……」
「仕方ないでしょ。その職業が今は無くなっちゃったんだから。マルセル笑いすぎ。それよりも今日マルセルに持ってきてもらった海老と魚で夕食を作るから、夕ご飯時にまた来たら? 私たちと一緒に食べましょ」
「え? 俺もいいの?」
「うん。ね、ノーヴァ教授」
「そうだな。とりあえず儂は少し睡眠とりたい。さすがに寝なさすぎた」
「とりあえず私も湯浴みしたいし、ご飯も作るし。仕事終わったら日没後にまたおいで」
「――うん!」

 マルセルは大きく手を振って、家を出ていく。
 詳しい事情はわからないけれど、マルセルにはお母さんが居ない。
 たった一人のご家族の父親は早朝から漁に出てしまうことが多く、時には日をまたいで家を留守にすることもあるそうだ。
 まだ10歳なのにエリアをまたいで魚の配達をしたり、一人で家の留守番をしたり、マルセルは口は悪いけど、真面目に生きている素晴らしい子。

 久しぶりにお湯をはって、湯浴みをすると、髪の毛はもつれきっているし、確かに匂いも漂わせていたかもしれない。
 寝食を忘れて解読に熱中しすぎた……。
 一度、解読のフックがわかると、どんどん読み解けていくのが難しかった分だけ楽しすぎて。
 ――今が幸せ……。
 オルコット家で義母とエイミに虐げられてきた生活と比べたら天と地ほどの差。
 ノーヴァ教授と出会えたことが私の人生の一番の転機で一番の幸せ。
 温かいお湯に浸かりながらノーヴァ教授と出会った日を思い出す。
 あれは私がマルセルと同じ10歳の頃。
 私の役割が屋敷中の掃除から、炊事から洗濯にまで及び始めてきていた。
 要領がうまく掴めず、『遅すぎる』『ぜんぜん綺麗になっていない』『ご飯がまずい』などと義母に叱られ続ける毎日。
 そんな私を横目に妹のエイミは義母から淑女になるための英才教育として、文化的な教養、社交術、食事のマナーから姿勢にいたるまで家庭教師をつけられ、びしばししごかれていた。
 義母は野心の塊。
 自身は男爵の家の出で口癖のように、

『一つでも位の高い紳士に見染められるように』

 と、繰り返しエイミに説いていた。
 リルヴァーン王国には王のご子息が3人もいて、私たちとそう歳も離れていない。
 さすがに妃の座までは狙っていないにしても、今よりも身分の高い紳士の元へと嫁ぐこと。
 それがエイミに課せられた厳命。
 エイミは義母の過度な期待に応えるよう頑張っていたと思うけど、その鬱憤の矛先は私だった。

『ハニお姉さまの喉がお渇きになられたのかと思って』

 などと、全く理不尽な理由でいきなり真冬に屋敷の中で氷水をかけられた。
 もちろん暖炉にあたるなんて許されるはずもなく、震える身体で片づけるのも私で。
 エイミが自分で転んで怪我をしたって『ハニお姉さまに突き飛ばされたの』と私のせいにされ、少しでも強く抗議をすれば『ハニお姉さまに脅されたの』と周りを味方につける。
 ――思い出すだけで腹が立つわ。
 美人で愛らしい淑女へと成長していく妹に嫉妬して意地悪する、みすぼらしい姉。
 そんな図式が出来上がり、私が何を主張したって、誰にも聞いてもらえないのはわかっていたから、それすら諦めて口を噤んで感情を抑え込むようになっていった。

 その日は暖炉にくべる薪木を探しに森へと入っていた。
 ウエストエリアでは夏と冬の寒暖差は少なく、冬でも氷点下になることはない。
 それでも「寒い」と繰り返しながら、鬱蒼と木々が茂る森の中で長い前髪の隙間から探索していた。
 私の指は連日の炊事や洗濯でしもやけが出来ていて、痒いしカサカサでシワシワ。
 誰も貴族の娘の手だとは思わないだろう。
 ――このまま、こんな風に虐げられながら私の人生は終わっていくのかしら。
 暗さと寒さが普段、直視しないようにしていた孤独にスポットライトを当ててしまう。
 終わりがない気がする。
 掃除だって終わったと思った次の瞬間にはガラス窓に濁った汚れを見つけ、小さな埃を見つけ達成感がないままエンドレスで次の仕事が待っていた。
 ――ちゃんと食べられて、夜には温かい布団で寝られる。
 それすらままならない平民と呼ばれる人たちが、この世にはたくさん存在しているってことも知っていた。
 ――だけど、私は今この瞬間がつらくてたまらない。

「え……」

 ぽっかりと森が開けた先には立派だけれど蔦が全体を覆っているような建造物が(そび)え立っていた。
 今は薄汚れているけれど、きっと立派な洋館だったはずだ。
 私は拾った薪木を木の根に沿うように置いて、その建物に近づいた。
 すると、アンティークの玄関扉の前にうつ伏せで倒れている人を見つける。

「どうされましたか?」

 慌てて駆け寄る。
 最初は白髪の老齢の貴婦人なのかと思ったけど、揺さぶらないように身体を反転させたら立派な顎髭が蓄えられていた。
 行き倒れてしまったのかしら?
 私の家まで運ぶ?
 でも、この人はガリガリに痩せていても、私一人で意識のない男性を運ぶなんて不可能で。

「……っ」

 男性の皺だらけの顔が歪んで目が開いていく。

「大丈夫ですか?」
「おっと、寝てしまったようじゃ」

 え? 寝る?
 この寒空の屋外で?
 私が前髪の奥で目を開け閉めしていると、

「な、何でハニがここに居るんじゃ!?」

 老齢男性は私の腕から抜け出して、文字通りに飛び上がった。

「私の名前を知っているの?」
「――ゴホン。まあ、それはいいじゃないか。こんな薄気味悪い森で何をしている? 伯爵令嬢が一人で居ていい場所ではないぞ」
「薪木を探していたの。それに私は確かにオルコット伯爵家の娘だけれど、使用人みたいなものだわ。おじいさまこそ何をしていたの?」
「相変わらずだな、あの家は。罰当たりめ。ノーヴァで良い。儂はここに住んでおる。冷えるから中に入ろう」
「ここに?」

 人が住める場所なのね。
 と、いささか失礼な発言は淑女の嗜みとして引っ込めておいた。
 ノーヴァさんは玄関扉を開いて、私を中に招き入れる。
 壁沿いには天井に届くほどの本棚に本という本がぎっしり詰め込まれていて、数えきれないほどの書架が並び圧巻の光景だった。

「たくさん本や資料があるのね」
「さよう。ここは元々国立図書館だったんじゃが、閉館して永らく放置されていた」
「ノーヴァさんは司書なの?」
「いや、儂は研究するほう専門じゃ」
「っていうことは教授ね! 素敵だわ。ノーヴァ教授って呼んでもいい?」

 ノーヴァ教授の皺だらけの顔が赤く染まる。

「一度でいいから呼ばれてみたかった。その響き……」
「ノーヴァ教授、瞳が潤んでいるわ」
「年をとると涙もろくなっていかん」

 ノーヴァ教授はゴシゴシと袖の布で目もとを擦った。

「この国で200年前に発生したあれのために真っ先に税収が回されなくなって食い扶持を失ったのが、歴史学や考古学の研究者や学芸員たちじゃ。今やこの国でそれらを探究しているのは儂くらいのものだろう」
「イーストエリアの熱帯雨林に発現した洞窟ダンジョンね」
「さよう。洞窟から発生する霧から無限に生み出される霧獣(むじゅう)の討伐やダンジョンの攻略が国家の最優先事項となった」
「――ノーヴァ教授は貴族出身?」
「なぜわかる」
「勘だけど、腰は曲がっていても歩き方が優雅だし、指先にまで神経を配っていて気品があるわ」
「よく見抜くのう。さよう。儂はベリサリオの家の出身だ」
「ベリサリオって、あのベリサリオ公爵家!?」

 ベリサリオ家といえば、この国でそれより上の位に居るのは王家のブルクハルト家くらいではないだろうか?
 私の家とは格が一段も二段も違う。

「当の昔にベリサリオのファミリーネームは捨ててやったわい。今はアトウッドと名乗っているよ」

 ――アトウッド……森に住む人という意味か。
 生家を捨てるなんて実際に出来るのね。

「考古学や歴史学に没頭した儂は昔から変わり者扱いじゃ。大切なのは現代で歴史なんて何の役にも立たないと。先人たちが築き上げてきた歴史ほど学ぶべき教材は他にないというのに……」 

 床の木目に視線を落とすノーヴァ教授の目には何が映しだされているんだろう。

「この図書館だって、本来放置されていいような場所じゃない。どれだけ貴重な史料たちが眠っていることか……」
「……」
「儂だって考古学専門でやっていたかったが、何せ今のこの国には研究者がおらん。歴史学も兼ねているが限界はある」
「――じゃあ、それは私がやるわ。教えてくださらない?」

 ノーヴァ教授が真ん丸に目を見開いて私を見遣る。

「私ね。お母さまの書斎にある本を読むのが大好きだったの。あ、お母さまは私が1歳になる前に亡くなってしまったのだけれど」

 私は立ち上がり、書架の前まで進み出ると、1冊の本を手にとった。

「お母さまの書斎はお父さまの後妻である義母に潰されて、本は全て捨てられてしまったわ。だけど、こうなることを見越して私の部屋に数十冊は移しておいたの。それを繰り返し繰り返し家事の合間に読んでいたから……」

 私は本の中身を読み上げた。

「何と……! それは古文書だ。現代の人間でこの古代文字を読める者はほとんど居ない。それをすらすら読めるのか……」
「この文字は読み方がわかっているってだけ。お母さまが遺してくれた本、限られただけになってしまったから、他に読むものがなくって」
「それにしても独学でここまで読めるとは大したものじゃ。よほど読み込んだのだな……」

 ――私にはそれしかなかったから。
 オルコット家に私の居場所なんてなくて、掃除、炊事、洗濯……永遠に続くように思えるループする日々。
 それだけならまだしも義母やエイミにいびられて。
 楽しいことも面白いことも私にはなかった。

「私ね、16歳で成人を迎えたら、オルコット家を出るつもりなの。義母やエイミの価値観と違って、位の高い紳士に自分を見初められて嫁いでいくことが自分の幸せだと思えない。その前に私を選ぶ紳士が居るとは思えないけど。あと残り6年……、どうにか耐えて自由を掴みとってやるわ。お願いノーヴァ教授、私に歴史学を教えてほしい」

 前髪の隙間から、しっかりとノーヴァ教授の目を見て訴える。
 ――私にとっては切実、だった。
 
「――”血”か……」

 ぽつりと、ノーヴァ教授が呟く。

「儂はここに居る。誰にも見つからないように、またここに来なさい」

 それがノーヴァ教授の了承の意だと受け取れて、

 「――はい!!」

 私は満面の笑みで頷いた。
 
 それからというもの、私は森林の中にあるノーヴァ教授が住む元国立図書館へと通うことになった。
 いかに短時間で家中を磨き上げて掃除を終わらせるか、買い出しを減らすには一日二食の食事のメニューをどう考えるか。
 義母に文句を言われないように完成度と効率をあげて、少しでもノーヴァ教授の元に通う時間を捻出したくて。
 それでも毎日やることが多くて、ゆっくり滞在できる時間なんてとれなかったから、帰宅時にノーヴァ教授に課題を出される。
 寝る前に取り組んでいると、うっかり寝ずに朝を迎える日も多かった。
 ノーヴァ教授は普段は温厚なのに、研究が絡むとスパルタで。

「この文字の規則性くらい一度で頭にインプットせにゃならん」
「自分勝手な解釈は絶対にしない!」
「この線の太さで違う文字を現わしている! それくらい見極めんか!」

 厳しかったけれど、それほど真剣に私に解読を教えてくれているんだとわかって、嬉しかった。
 そんな日々を送っているうちに私は15歳になっていた。

「――ここが取り壊される?」
「ああ。どうやら傭兵の訓練所に建て替える予定があるらしくてな。ここの本の全てはさすがに無理じゃが、重要なものだけでも移さなければならん」

 ――そんな。もう少しでここに住めると思ったのに……。
 ノーヴァ教授は気落ちする私を慰めるように、言葉を続けた。

「――大丈夫。移る先は決めてある。本の移動も……当てがあって、そいつらに手伝ってもらう。ハニも16歳になったら、一緒に暮らそう」
「それってプロポーズ? 私ノーヴァ教授とだったら結婚したいわ」
「ウォッホッホ! さすがに死期の近い老いぼれがハニを嫁にもらうことは出来んわい。結婚はいつか出会う自分を心から愛してくれる人としなさい」
「死期が近いなんて冗談でも言わないで。それに私を心から愛してくれる人なんて……」

 存在するとは思えない。
 悲観論ではなく現実を直視した結果に基づいての結論。

「助手として、私もノーヴァ教授のそばで、もっと学びたいわ」
「ハニは助手じゃない」
「え?」
「――立派な儂の相棒じゃ」

 ノーヴァ教授の言葉は私を研究者として認めてもらえてるって証のようで。
 義母やエイミにいじめられたって滅多に泣かなかった私は久しぶりに大粒の涙を流した。
 16歳になり、使用人扱いの私が居なくなることで義母とひと悶着あったものの、産みの母が遺してくれた本とボロボロの2着の衣服だけを持参してオルコット家を出た。
 自分から家を出たものの、世間でいうところの勘当や追放に分類されるらしい。
 けど、誰に何を思われようとどうでもいい。
 国立図書館が取り壊され、ノーヴァ教授が移り住んだ先は町民が600人にも満たないサウスエリアの素朴な漁港町。
 少し街から外れたところにある石造りの二階建ての家は一見普通に見えるけれど、実は地下室には広大な書庫がある。
 私は19歳になった今までノーヴァ教授と貴重な文献の宝庫であるこの家で研究にのめりこむ充実した日々を過ごしてきた。
 そんな生活に終わりが迫っているとも知らずに……。

「――よっし、出来た」

 ダイニングテーブルに並べられた3人分の食事。
 海老は活きが良かったから刺身にして真ん中に置いてある。
 たっぷりの野菜と魚介類を煮込んだ後に汁気を飛ばした米料理。
 外が暗い。そろそろマルセルが来る頃だわ。
 ノーヴァ教授を起こしにいかないと……。
 2階に上がろうとした時、玄関扉が乱暴に開け放たれて、ぞろぞろと不躾に男たちが何人も何人も家に入ってきた。
 全員帯剣しているし、この制服ってブルクハルト国王直轄騎士団のもの。
 何でそんな人たちがここに?

「ここにノーヴァ・ベリサリオ卿はいるか?」
「いきなり何なんですか?」
「ライアン・ブルクハルト国王からの勅命だ。氏にはグレイルブルク城まで来てもらう」
「どうして王都に?」
「小娘には関係ない。早くノーヴァを出さないとお前も国家反逆罪で(とら)えるぞ」
「お前も?」
「蜂蜜前髪! ノーヴァ教授を連れて逃げろ!」

 玄関からマルセルが飛び込んできた。
 顔が何発も殴られたように変形していて片目にいたっては開いてもいない。

「マルセル!?」
「この小僧、まだ居たのか?」

 騎士の一人がマルセルの髪を乱暴に掴みあげる。
 マルセルの顔が苦しげに歪んだ。

「こんな少年に何しているんですか? やめてください!」
「こいつ、ノーヴァの居所を最後まで吐かなかった。まだ少年だから見逃したものの、次はないと言ったよな」

 マルセルが放り投げられた先はダイニングテーブル。
 けたたましい音をたて、並べていた料理やお皿が次々と落下して床へと無残に散らばった。

「マルセル!」

 ダイニングテーブルの上で苦痛に呻くマルセルに駆け寄った。
 ひどい怪我だし、マルセルが持ってきてくれた魚介類で作った料理だって、さすがにもう食べられたものじゃない。
 怒りなのか何なのか拳が震え出した。

「――我々も手荒な真似はしたくない」

 奥から進み出てきたのは明らかに他の騎士とはオーラの違う綺麗な顔をした青髪の若い男。
 騎士たちの背筋が伸びたのがわかった。
 わざわざ副団長が赴いてくるような重大な任務だというわけで。

「俺の名前はゼン・ルイス。この騎士団の副団長だ。早くノーヴァを出せ。俺たちも女・子どもに危害をくわえたくはない」
「もう危害を加えていると思いますけど」

 その時、マルセルを暴行した騎士からはらりと一枚の紙が落下した。
 反射的にその紙に書かれていた文字を「――」言葉にしてしまった。

「おい、女。お前はこの文字が読めるのか?」

 ゼン副団長の私を見る目が変わる。
 ――まずい……。
 そう思った時には遅かった。

「この女を連れていけ。ノーヴァじゃなくても、要は古代文字を解読できる人材さえ居ればいいわけだからな」