いよいよ夏休みに入った。
予定通り、立ち稽古が開始している。台本なしで演技し、完成度を高めていく段階だ。
「じゃあ一場、頭から行くよー!」
おれが声を張ると、部員たちが「うぉーい」と返事して、一斉に動き出した。立ち位置に立つ者、上手・下手に控える者。
一場に出番がないのは2年の祥太と1年の律だけだ。二人はおれの隣に椅子を並べ、ここでは同じように見る側になる。
「スタート!」
冒頭はタケル一人がスポットライトを浴びながら、モノローグのセリフ。そして明転。
場面はタケルが無理やり参加させられた、父親が経営する会社のパーティー会場だ。
『タケル! おまえ、どういうつもりなんだ。今日だけはまともな格好をしてこいと言っただろう!』
『ちゃんとしてきたでしょう、父さん。くだらないパーティーには似合いのコーディネートだと思うけど』
『おや、タケルくんじゃないか。久しぶりだね。私のことは覚えているかな?』
『もちろん覚えてますよ、伯父さん』
進行していく場面を、おれは息を詰めて真剣に見つめる。舞台は広く、見なければならないことは多く、目と頭が忙しい。
気になることがあれば、その都度止めて手直しする。
「淳巳、そこはもうワンテンポ早く出ようか。微妙に間延びしちゃうから」
「わかった」
「ながやん先輩。今の動き、香納の右に回り込みながらのパターンもやってみていいですか。目線は正面で。香納はそれをにらみながら、頭を巡らせる感じ」
「ああ、いいかもな。やってみよう、香納」
「はい」
再開。そうすると、さっきより動きが出て役者の表情も映えて、よくなっている。
少しずつ少しずつ、舞台が生きた別世界になっていく。
この過程がパズルを組み立てるような、砂の山を積むような大変な作業だけど、すごく楽しい。
「……すご。香納先輩、ちゃんとセリフ入ってますね。覚えたんだ」
横から、律が小声で話す声が聞こえた。祥太に向けての言葉だ。
「……すごいかはわかんねーだろ。ここだけかもしんねーぞ」
進行する場面から目は離さず、祥太もぼそっとつぶやく。ふてくされたような声だった。
(たしかにここだけかもしれないけど……)
おれは香納を見た。
──いや、違う。タケルだ。
香納はセリフを覚えているだけでなく、もう自分のものにしていた。
他の部員の中には、まだ記憶を探ってセリフを引き出しているのがわかる、『言っているだけ』の者もいるのに。香納はちゃんと、セリフがタケルの言葉になっている。
(ここだけだとしても。やっぱりすごいよ、香納)
勧誘初日に感じた直感は間違いじゃなかった。香納には演技の才能がある。今はもう、そう断言できる。
その日と翌日は、一場と二場を詰めていった。
次の2日間は、三場と四場。さらに次の2日間は五場と、最終場の六場。
香納は時々セリフが飛んでしまうものの、大体は頭に入っていた。他の部員も同じような感じだ。詰まったり、ド忘れしたり。全員が、そういうことは度々あった。
でも、当然ながらセリフ量は主役のタケルが一番多い。
覚えた量が一番多いのは、香納だ。
「香納。15分休憩したら、今日は五場の駅でのシーンをやろう」
「ん」
夏休みに入ってからも、全体練習後の45分間、個人レッスンは続いている。
その前には毎回5分くらい、おれがワンコとしてモフられる時間もあるんだけど。
(なんかもう、慣れてきたなぁ。今日はどんな罰ゲームだろうってビクビクしなくていいし、こっちのほうがありがたいかも。膝だっこはやっぱ恥ずかしいけど)
そんなことを考えながら、移動する香納を何気なく目で追った。
隅に置いた自分の荷物の前で、彼は水を飲み、首にかけたタオルであごやうなじを拭く。
最初は制服で参加していた香納も、夏休みに入ってからはジャージだ。気温は連日高いし、熱のこもった演技の後には、冷房の効いた部屋でもじんわり汗ばむ。
そのまま香納は壁にもたれ、膝を立てて座った。リラックスした彼の口元が、むにゅっとゆがむのに気づく。
「大丈夫?」
おれはそばに寄りながら問いかけた。
「何が?」
「香納……ちょっと、寝不足気味だよね」
さっきの『むにゅっ』は、あくびをかみ殺していたのだ。ここ数日、時々そんなふうに眠そうにしているのを、おれは目に留めていた。
香納は否定しない。ということはきっと、おれの予想は正しい。
「セリフ入れ、頑張ってくれてるんだよな。ありがとう」
「やるだけやるって約束だからな」
いつも通りの平坦な口調で言って、香納は自分の隣の床をぽんぽんとたたいた。来いっていう合図だ。
ワンコタイムかと、おれは素直にご所望の位置へ座る。
隣に並ぶとすぐ、香納はおれの頭に頬を載せてきた。
「毎日遅くまでやってるの?」
「まぁ。つっても元から遅寝だけど。朝早いと午後眠くなる」
「早起きしてるってこと? 何時に起きてるの?」
「6時半」
(うわ、ほんとにはやっ!)
夏休みに入って、おれは毎朝7時半から8時くらいだ。
香納は学校まで徒歩15分だそうだから、なんなら9時起床でも間に合いそうなのに。
「起きてからもセリフ入れしてるの?」
「いや、今は朝筋トレ──」
言いかけて、香納はぷつっと言葉を切った。
「…………」
そのまま沈黙。身動きもせず黙り続けている。
「香納?」
(今、筋トレって言ったよな……?)
「色々やることあんだよ」
すいっと頭に載せられていた顔が離れていき、つっけんどんな声が上から降ってくる。
(ごまかした!)
その横顔を見上げると、威圧的な流し目とぶつかった。ツッコむんじゃねーと表情が語っている。
それを無視してまで確認はしないけれど……
(香納……早起きして、筋トレしてるんだ)
元からそういう習慣なんだろうか。いやでも、『今は』って言った。
ということは、今まではしてなかったってことだ。前にお腹を触らせてもらって、普段からそこそこ鍛えているのはわかっていたけれど。
(もしかして、部のみんなとは一緒にやらないけど、その分家でやってくれてる……?)
今まではしていなかった、早起きをして。
「……ふふっ」
おれは思わず、小さく噴き出してしまった。
「なんだよ」
「ごめん。でも……」
ふにゃっと緩んだ口元は戻らない。
(間違いない。香納って、いいやつだ)
仲良しごっこはごめんだと、基礎トレには参加しない。部員と打ち解けようともしない。相変わらずの一匹狼。
おれのことは犬扱いだ。おちょくられてるなって思う時も、多々あるけど。
(でも──この舞台には、真面目に取り組んでくれてる。すごく、真面目に)
突然舞い込んできた、無理なお願いなのに。
(冷たく見えるけど、実は優しいやつなのかも)
香納に代役を頼んでよかった。おれは改めて、そう思った。
そして同時に……
(もっと、どんなやつなのか知っていけたらいいな。部のみんなみたいに……香納とも、もっと『仲間』になりたい)
そんな気持ちが、なんだかとても、おれの胸を温かくしていた。

