恋のエンギ指導が本気(ガチ)すぎます!




 翌日、木曜日の香納は相変わらずだった。
 目も合わせない。余計な会話は一切しない。
 練習は真面目にやってくれているのがせめてもの救いだ。

 おれはるー先輩の言葉を思い出しながらぐっと耐えて、返事がないのを承知で話しかけたりもした。
 おれのほうからも避けることはしたくなかったんだ。
 もう一度話したい、和解したいっていう気持ちを、声をかけ続けることで伝えているつもりだった。


 異様に長く感じた週末の休みを経て、翌週月曜日。
 バスが遅延していて、おれは予定より10分ほど遅く学校に着いた。
 いつも早めに来ているから遅刻じゃないけど、急ぎ足で視聴覚室に向かうと。

「あ。おはようございまーす!」

「おはようございます。鍵、そこに置きました」

 室内には、コンビニで買った朝食を食べている1年の友達コンビ、剣斗と律。そしてもう一人、るー先輩がいた。

「おはよう、あらた」

「おはようございます。剣斗、律、鍵ありがとう」

 いつもはおれが職員室で鍵を借りているから、グルチャに少し遅れることを報告しておいた。二人は「いえいえ」と首を振って、

「でも珍しいですね、いつも一番乗りのあらた先輩が。寝坊っすか?」

「ううん、事故の交通整理でバスが遅れてて」

「あー、そっか。あらた先輩バスか~」

「遅刻にならなくてよかったよ」

「余裕でしょ、まだ45分ですよ。先輩以外4人しか来てないし」

「4人?」

「あ、くら先輩です。今トイレ行ってて」

 言われてみれば、床にくら先輩のカバンが置いてあった。

「あらた、ちょっといいか」

 るー先輩が歩み寄ってきておれの名を呼ぶ。トーンを抑えた、神妙な感じのする声だった。

「どうしたんですか?」

 さりげなく1年の二人から距離を取る彼についていき、尋ねると。

「うん、香納なんだけど」

 振り返った先輩は、やはり抑えた声で告げる。

「今日は休みたいって、さっき連絡があった」

「え……」

 おれは頬の筋肉が固まるのがわかった。ざあっと、心臓が冷水をかけられたみたいに冷たくなる。
 るー先輩は困ったように眉尻を下げた。

「慎吾にメッセージが来たんだ」

「……り、理由は……?」

「聞いたけど、返事がない」

「…………」

「……ただの体調不良かもしれないけどな」

(体調不良……?)

 胸の内で繰り返したら、余計に全身が冷たくなった。ざらざらした嫌な手に撫で回されているような錯覚を覚える。

(そうなのかもしれない。でも……)

 仮にも彼は主演だ。休まなくてはいけないほどの事態になったのなら、どういう状況なのか、いつ頃復帰できそうなのか、説明があっていいはずだ。

 香納がいい加減なやつじゃないことはもうわかっている。彼なら説明してくれるはずだ。
 おれたちと一緒に舞台を完成させて、本番を迎えるつもりがあるなら。

 ──じゃあ、そのつもりがなかったら?

「っ……」

 息が詰まって、おれは無意識にジャージの裾を強く握った。

 話もできないまま終わった木曜日。そして、会えなかったこの3日間。
 何度も香納のことを考えた。
 このまま、仲直りできないままだったらどうしようという不安は、無視できないほど重く、ずっと片隅にあった。
 それが今、一気に大きさを増して心を埋め尽くしてくる。

(もし、これきりになったら……)

 おれが香納を傷つけたせいで、裏切ったせいで。もう関わりたくないと、彼が思ってしまったのだとしたら。
 もう続けたくない。このまま離れていこう。
 ──そう、思わせてしまったのだとしたら。

「……るー先輩、おれ……」

 おれは伏せていた目を上げ、るー先輩を見た。体より先に、心はもう走り出していた。

「おれ、行ってきますっ……!」

 一拍遅れて、体も動き出す。

(これきりになるなんて、絶対に嫌だ!)

 視聴覚室を飛び出し、さっき来たばかりの廊下を全力疾走で駆け抜けた。

(香納……!)


 校舎、前庭。個人レッスン後、いつも香納と歩いた道。

 そして、バスの経路でもある大通り。途中で逸れて、住宅街へ。
 ここも、前に一度二人で歩いた。『恥ずかしい話』をさせられながら、香納の家まで。
 そう、あれも意地悪な罰ゲームだった。だけど。

(あいつは意地悪なとこもあるけど、冷たくなんかない。本当はあったかい、いいやつなんだ。言葉も態度もそっけなくて、わかりにくいけど……)

 そっけなさの奥にある真摯な姿を、おれは知ってる。静かな努力を、知ってる。
 優しさも、屈託のない笑顔も。照れ屋なところも。
 そういう、今まで知らなかった本当の香納に触れて、おれは。

(おれは──嬉しかった。楽しかった。楽しかったんだ、すごく)

 香納と過ごすこの夏。これまでのどんな時よりワクワクして、ドキドキした。
 終わってほしくない。いつまでも続いてほしい。そう思うほどに。

(それなのに……傷つけたままで、終わるなんて……)

 もっといろんな話をしたい。たくさん話して、笑い合ったりしたい。
 まだまだ知らないことがいっぱいある。知りたい。わかりたい。
 たまに意地悪なことをされたりするけど、それでもいい。
 恥ずかしいけど……香納が満足してるのを見ると、おれもちょっと嬉しいから。

(おれは、これからも香納と一緒にいたいんだ。こんな形でおしまいなんて──)


「絶対に……絶対に、やだっ……!!」


 荒い呼吸の合間に叫んで、道路を走り続ける。
 もうだいぶ香納の家の近くまで来ているはずだ。

(どこだっけ。たしかあの辺の、青い屋根の家……)

 偶然会った妹の明日美ちゃんが教えてくれていた。あの時はちらっとそれらしい屋根が見えただけで、もしかしたら間違ってるかもしれないけど。

「こっちか……!?」

 そのあたりに行けると思しき角を適当に曲がる。青い屋根の家を探して、きょろきょろしながら走った。

「……あった!」

 見覚えのある青い瓦の光沢。表札は──『香納』。

(ここだ!)

 おれは息を整えることもなく、すぐさまインターホンを押した。
 ピンポンピンポンと、家の中で鳴っているのが小さく聞こえる。
 ……応答はない。もう1回ボタンを押した。

『はい?』

 5秒ほど待った時返事があった。香納の声だ。

「香納!? おれっ……!」

『は……』

 スピーカー越しにあ然としたような声が聞こえ、その後沈黙した。

「あっ、あのっ、いきなり来てごめんっ。でも、おれっ──」

『でけー声出すな。待ってろ』

 早口に告げてプツッと回線が切られる。
 固唾をのんで待っていると、玄関ドアが開いた。Tシャツにデニムという、ラフな格好の香納がサンダル履きで出てくる。

「香納っ!」

「わめくなっての」

 眉間を寄せて言いながら香納は門の鍵を解き、一歩下がって内側へと開いた。

「入れ」

「え……いいの?」

 あっさり招き入れられて驚いてしまう。正直、門前払いも覚悟していた。

「押しかけといてなに言ってんだ。いいから早くしろ」

 呆れたような香納は、渋々どころかおれを急かした。ちらちらと家のほうを気にしていて、早く中に戻りたい様子だ。

「じゃ、じゃあ……お邪魔します」

 門を抜け、家の中へ。

 香納家は建売っぽい、一般的なデザインだけど生活しやすそうな家だった。玄関の右側に階段があって、廊下の左側に水回りと思しきドア、正面にLDKへと続くドアがある。

 香納はおれをリビングに通すと、麦茶を淹れて、洗面所から取ってきたフェイスタオルを渡してくれた。それでおれは今さら、自分が汗だくなこととめちゃくちゃのどが渇いていることに気づく。

「……ありがとう」

 おれはありがたくタオルを使わせてもらい、麦茶を半分以上一気飲みした。
 香納も開けたままのドア近くに立って、しかめ面でこちらを見ている。
 やがて、おれがふぅと一息ついたところで、

「何しに来たんだよ」

 つっけんどんに、低い声で聞かれた。
 おれは何から話すか迷って、「えっと……」と言い淀んでしまう。

 走っている最中はあんなに感情が高ぶっていたのに、今も言いたいことは山のようにあるのに、いざとなるとうまく言葉が出てこない。

「練習、休むって聞いたから……」

 『書く』能力と『話す』能力はつくづく別だなと、自虐的に思いながら切り出すと。

「は?」

 香納はますます表情を険しくした。

「え? な、なんかおかしなこと言った、おれ?」

「休む?」

「そ、そう……休むって、くら先輩に連絡したんだろ?」

「してねー」

「へっ?」

「休むとは言ってねー。遅刻」

「え……えぇっ!?」

 おれは泡を食ってまた大声を出してしまい、秒速で「うるせー!」と怒られる。

「ごめんっ……で、でも、遅刻って……」

(どういうこと? だってるー先輩は休みだって……)

「3年の3人に連絡した。今、妹が微熱続いてて幼稚園あずけらんねーんだよ。母親が在宅勤務で面倒見てたんだけど、今日は急なトラブルで、午前中どうしても出社しないといけなくなって。だから俺が家にいることにした」

 狼狽するおれを『なんなんだこいつ』といぶかしむ目で見つつ、香納はそう話した。

「3人に……?」

(ということは、るー先輩もメッセージを受け取ってた? なのに……嘘、言った……?)

「1時くらいには母親が帰ってくる。その後行くって、ちゃんと書いたぞ」

「…………」

「……はめられたのかよ」

「……そう、みたい……」

 事情を知っていたなら、そうとしか考えられない。……どうしてかは、聞かない限り正確にはわからないけど。

(もしかしたら、おれがこんなふうに駆けつけるの予想して、話をできるように……?)

 おれは見事に、その策略にはまっていたらしい。

「……ごめん。誤解して、押しかけて……」

「ほんとにな。病人宅で騒ぎやがって」

「し、静かにするよ。……えっと、明日美ちゃんは?」

「上の寝室で寝てる」

 くいっと、あごを上げて天井を示す。
 そうか、門前で家の中を気にしていたのも、何度も大声を注意されたのも、明日美ちゃんが寝てるからだったんだ。
 あと今、ドアが開けっぱなしなのも。もし明日美ちゃんが起きて香納を呼んだ時に、聞き逃さないようにだ。

(……やっぱり香納、優しいお兄ちゃんだな)

「早くそれ飲んじまえ。俺らも上行くから」

 香納がおれの持つグラスを指さす。

「あっ、はい」

 おれは残りのお茶を飲み干した。
 香納はカラになったグラスをシンクに置いて、「行くぞ」と促す。
 階段を上ると、左右に分かれて部屋が3つあった。ひとつが明日美ちゃんの眠る寝室だろう。
 香納は足音をたてないように歩いて、右奥のドアを開けた。そこは──

(香納の部屋だ……!)

 背後で静かにドアが閉まる音を聞きながら、おれは状況も忘れて感動してしまった。
 だって、進んで自分のことを語らない香納のプライベートスペースを見られるなんて、とても特別なことの気がするから。

「あんまジロジロ見んな」

 どこか気恥ずかしそうにたしなめられたけど、さりげなく視線を走らせるのをやめられない。
 ブラックアイアンの家具が中心の、シンプルな、いかにも男子高校生の部屋だ。
 でも、隅の方にやや異質なものがあった。

(あれ、ヨガマット?)

 丸めたブルーのゴムマットが壁に立てかけられている。その横の収納ボックスには、筋トレグッズらしきものも覗いていた。
 ぱっと見ただけだけど、どれも比較的新しそうだ。

(最近買った、とか……?)

 胸にじんわりと温かさが広がっていく。
 
(きっとそうだ。やっぱり香納は見えないところで、すごく努力してくれてたんだ)

「ソファとかねーから」

 香納は目線でベッドに座るよう促してきた。
 お言葉に甘え、端のほうにそっと腰を下ろす。雑に直した感じの掛布団は、黒地に白のストライプ柄だ。香納も少し間隔をあけて隣に座った。

(……ちゃんと話さなきゃ)

 おれは膝の上で拳を作って、ゆっくりと深呼吸した。
 香納がもう演劇部に来ないのではと焦ったのは、誤解だったとわかった。
 それなら、この場でおれが言うべきことはひとつだ。

「香納、ごめん」

 もう何度も口にした言葉だけど。
 もう一度、顔を上げて、まっすぐ香納を見て。心の全部がこの声に載っていることを願いながら、伝えた。

「おれの勝手な気持ちで、香納が踏み込んでほしくなかったことに踏み込んで、本当にごめん。嫌な思いさせて、傷つけて……本当に本当に、ごめん」

 言い終えてから頭を下げる。ずっと下げたままでいた。
 香納に許してもらえるまで、謝り続けるつもりだ。
 どうしても、どうしても仲直りしたいから。

「…………」

 香納の言葉はない。おれは握りしめた拳を見つめながら、頭を下げ続けていた。
 何秒くらい沈黙が続いただろうか。ふっと香納が息を吐く音が、それを終わらせた。

「頭上げろ」

「…………」

 おれはおそるおそる顔を上げ、再び香納と視線を合わせる。

「……別に怒ってねーし、傷ついてもねー」

 ぼそっと捨て置くように、香納はそう言った。

(……怒ってない?)

「で、でも……」

(気遣って言ってくれてる……?)

 怒っていないわけがない。だって責められたし、あれ以来ずっと避けられていた。
 当惑してじっと見つめるおれの眼差しから逃れるように、香納は目を伏せた。
 そして、斜め下の床を見ながら、

「…………かっこわりーだろ」

「え?」

 さっきよりもさらに小さいつぶやきだったので、おれは聞き間違いかもしれないと思って前屈みに聞き返した。
 香納はじれったそうに舌打ちして、

「だから、かっこわりーだろーが。俺が」

 いら立ちをはらんだ声を、おれにぶつける。

「かっこ悪い……?」

「ダサいだろ。デキる素人ぶってたのに、実は昔挫折してやめてるやつだったとか。肩のこともバレてて、かっこつけてたのお見通しだったんだろ。んで、おまえにまでそれ全部バレたって知ったら……動揺するだろ」

 開き直ったかのように、香納は饒舌になった。
 もどかしげに感情を吐露する彼を、おれはぽかんと眺める。

「見せたくなかったんだよ、そういうの。部員にもだけど、おまえには特に。それに、あの時──」

 香納は言葉を切った。一瞬、何か嫌なことか、嫌な人の顔でも思い出したような苦い表情をしてから再び話し出す。

「あの時、おまえがやけに浮かれてたから、他のやつとなんかあったのかと思ってむきになった」

「……? 他のやつと、なんかって?」

「わかんねーなら黙ってろ」

「う……は、はい」

「それで強引に聞き出したら俺の話で、取り乱して自滅した。かっこ悪すぎて死ねるだろ、こんなん」

 横を向いて、片手でぐしゃぐしゃと自分の髪を乱す。
 頬がうっすら色づいて見えるのは、気のせいじゃなさそうだ。

(じゃあ……それじゃあ、香納は……)

「だから、あの時言ったのは本当に怒ってたわけじゃねー。ハズいのと自己嫌悪で、八つ当たりしただけだ」

「八つ当たり……」

(おれに怒ってたわけじゃ……おれのこと嫌いになったわけじゃ、ない……?)

「…………俺も、悪かった」

(──!)

「ぅ……」

 ぶっきらぼうな謝罪の言葉を耳にした途端、おれはこらえきれなくて唸った。
 ダムが決壊する音が頭の中で響いた。
 ぷつん、と。糸が切れて、熱いものがこみ上げて、あふれ出す。

「……、ふっ……」

 ぽたぽたと、滴が手の甲に落ちた。

「……泣くなよ」

 スプリングがきしんで、背中に回った腕に抱き寄せられた。額が香納の胸に軽く当たる。

「だ、だって……安心してっ……」

 止められない。きつくまぶたを閉じても、涙はどんどんあふれてくる。
 メガネを外して目をぬぐうけど、またあふれてくるので無意味だ。

「うっ……うぅ~っ……」

(よかった……! 嫌われてなくて、よかった……!)

 おれは子供みたいに声を上げて泣きじゃくった。涙が布団にも落ちているだろうけど、香納はもう何も言わず、抱き留めたままでいてくれる。

「そんなに心配だったのか。俺が降板するんじゃないかって」

 少しだけおれが落ち着いた頃、呆れたような、でも柔らかい声でそう尋ねられた。

「……うん」

(心配なんてもんじゃない。怖かった……すごく)

「おれのせいで、舞台も嫌になって……もう、来てくれないんじゃないかって……」

「なってねーけど。ま、本番1カ月前にそれやられたら詰むな」

(……本番?)

 言われて初めて、おれは気づいた。

(おれ……)

「……違う」

 小さく言って、おれはもう一度目尻の涙をぬぐった。さんざん泣いて、ようやく涙は収まりつつあった。

「ん?」

 聞き取れなかったのか、香納が顔を寄せてくる。
 おれは彼の胸に手を添えて、そっと抱擁から離れた。腕を緩めた香納と間近で見つめ合う。
 メガネのない視界はぼやけていたけど、それでも香納がまっすぐおれを見ていることはわかった。

「おれ、本番とか地区大会のことなんて、まったく考えてなかった。完全に、忘れてた」

「え……」

 こんなのは、部長失格かもしれないけど。舞台のことは、みじんもよぎらなかった。地区大会の参加が危ぶまれることなんて、これっぽっちも考えなかった。

(それよりも……おれは……)

「ただ、香納のことで、頭がいっぱいだった」

「……!」

 薄い二重の目が驚きに見開かれる。
 よく見えていないはずなのに、なぜかおれにははっきり見えた気がした。もう脳裏に、その眼差しが焼き付いているからかもしれない。

 香納の目。強さを宿した、おれが惹かれた眼差し。
 あの眼差しにもう触れられないかもしれない。香納と目を見かわして話すことすらできなくなるかもしれない。
 そんな不安と、嫌だという思いでいっぱいだった。

「香納とこれきりになるなんて、絶対に嫌だって思ったんだ。もっともっと、一緒にいたいって。おれ、ただそれだけで。行かなきゃって、夢中で──」

 話しているうちにまた感情が高ぶってきて、じわりと涙がにじむ。
 でもその直後、おれは声も涙も、全部かすめ取られた。

 一度は緩んだ腕が、再びきつくおれの体を抱きしめて。
 唇が、同じ温かさのぬくもりに包まれている。

「っ……」

 触れている、じゃなくて。
 包まれていると形容したほうがふさわしいような、ぶつけるようなキスだった。

(……ああ、どうしよう)

 重ねるだけのキスなのに、まだ人生で2回目なのに。
 身を焼くような熱情が、伝わってくる。
 そしてその熱に、どうしようもなく心が震える。

(どうしよう。おれ、香納のこと……)

 そっと唇が離れていく。
 だけど体勢はそのままで、香納は今度は、こつんと額をぶつけてきた。

「……かわいすぎ。殺す気かよ」

「香納……」

「主導権は俺なのに。(あお)んな」

「……香納、おれ」

(こんなこと言われて……こんなに、嬉しいなんて)

「どうしよ……おれ、おまえのことがすごく好きみたい」

 少し頭を引いて、震える吐息とともに伝えた。香納の顔は、裸眼でもきちんと判別できるほど近くにある。
 その目には、もう驚きはなかった。ただ、わずかに口角を上げて満悦の表情で答えた。

「だろうな」

「え……だろうなって……」

(ずいぶんあっさりじゃない……?)

 一応自分的には、大告白したつもりなんだけど……。

「わかりきってたし」

「……そう、なの?」

「ああ。前にキスした後、まともに顔も見れないくらい意識して、そわそわして。落ちてんのバレバレ」

「……! そ、そりゃあ急にあんなことされたら、意識するよ……」

 恥ずかしくて、ドキドキして、逃げたりもしてしまった。
 香納の意図が読めなかったり、嫌じゃなかった自分に戸惑ったりでもんもん悩んだけど。

(あれが、『落ちてる』ってことだったのかな……?)

 どのタイミングから香納のことを『好き』になっていたのかなんて、自分でもよくわからない。

「そもそも俺が目つけた時点で他の選択肢ねーから」

 言うなり、唐突に香納は動いた。
 おれの腰をしっかりホールドして抱き上げると、そろえた自分の脚の上に載せる。
 ──ワンコタイムの時に何度もされた、膝だっこだ。

「毎日こうやって、手懐けただろ」

 梳くように髪を撫でながら、どこか甘い瞳で見上げてくる。
 胸がきゅうっと締めつけられて、おれはたまらず自分からも香納に体を寄せた。

「それって、ワンコごっこ始めた時にはもうおれのこと気に入ってたってこと……?」

「かなりな」

(かなりなんだ。それは……今となっては嬉しいけど……)

 でも、その分気になることもある。

「なんで、おれみたいなの……」

 少し怖かったけれど、思い切って尋ねた。
 香納みたいにかっこよくて、器用でハイスペックな人が、どうしておれみたいな平凡男を気に入ってくれたんだろう。

 香納は短く「んー」と思案したけれど、さして悩むことなくさらりと告げた。

「本能?」

「本能!?」

(って、動物じゃないんだから! いや人間も動物だけど!)

 面食らったおれに、香納はふい打ちで頬キスをお見舞いしてから、

「気に入ったもんは気に入ったんだからうまく言えねー」

 平然とそう言い切った。からかったり、ごまかしているわけではないらしい。

「えぇ……それでも、なんか理由が……」

「細かいこと気にするやつだな」

「気にするよ!」

 食い下がると、香納は『はいはい』となだめるように髪を撫で、再び思案顔になる。

「演劇バカで、真面目で、熱くて。そういうのかわいい」

「!」

(バカって言われてるけど。いい意味に取っていいんだよな……?)

「好きなもん一緒だし、おまえだって俺を気に入ったんだろ。どう考えても相性いい」

 好きなもの? と一瞬思ったけど、すぐに察した。
 演劇のことだ。最初から香納は、心の中でそう思ってくれていたんだ。
 でも、他の部分に疑問が残る。

「気に入ったって……おれ、そんなこと言った?」

「気に入ったからしつこく頼みに来たんだろ」

(あ、そういうことか)

 たしかにおれは、断られてもめげずに二度目の勧誘をした。でもそれは──

「それは気に入ったっていうより、気になったっていうか。役者の素質を感じたっていう理由なんだけど……」

「同じことだ」

 短く告げて香納はおれの腰をよりきつく抱き寄せた。
 『細かいことごちゃごちゃ気にすんな』──そう言わんばかりの強い腕にからめ取られて、鼓動が高鳴る。

「お互い最初から気になってた」

 ドクン、ドクン。心音が速い。

「で、俺が落としにかかったんだから確定ルート」

「香納……」

(そうかもしれない。まんまとはまってたところも、あるかもしれない)

 個人レッスンで二人だけの時間を過ごして。
 ワンコタイムで距離感バグらされて、香納の感触や体温に馴染まされて。文字通り、手懐けられた。

(でも……)

 この甘く切ない高まりは、やっぱりそれだけじゃないと思う。

「香納。おれが香納を好きになったのは、手懐けられたからだけじゃないよ」

 ごちゃごちゃ言うなと言われても、これだけはきちんと伝えておきたい。

「クールぶってるけど実はすごく誠実でいいやつなところとか、優しいところとか、照れ隠しに怒るかわいいところとか……そういうの、ちゃんと自分から好きになったんだよ」

「……!」

 香納がぐっと息を詰めて、恨めし気な眼で見上げてきた。ひどく渋面の頬は、わずかに赤い。

「…………わかってるからいちいち言わなくていい」

(あーほら。やっぱりかわいい)

 香納は、照れると怒る。よくわかった。
 これからはもう、間違えたりしない。

「っ……」

 ふいに後頭部を引き寄せられ、唇が重なる。
 おれは力を抜いて目を閉じた。こうしているだけで、全身があったかいもので満たされていく気がする。
 好きな人との触れ合いがこんなに心地いいなんて、初めて知った。

 長いキスの後、唇を離した香納は満足げにほほ笑んで、『いい子いい子』をするように髪を撫でてくる。
 それも、もちろん嬉しいんだけど。 

「……これからも、ワンコ扱い?」

 ちょっとだけ不安で、おずおずと尋ねると。

「愚問。もう昇格してるだろ」

 そう言って柔らかく笑ってくれたから、つまらない不安は瞬時に消え去った。


「──うん」