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翌日。
香納は練習には来たけれど、まったくおれの顔を見てくれなかった。
練習中の指示には無言で従うか、ごく短い返答がある。
でも顔は向けてくれない。
何度か個人的に声をかけたのは、すべて無視してその場を立ち去られた。
「あらた、香納と何かあったのか?」
「ケンカっすか? 今日の香納先輩、いつも以上に怖いっすよ~」
10分間の小休憩を入れた時、香納がトイレに立ったのを見計らって何人かがおれを囲んだ。
「た、大したことじゃないんだ。心配かけてごめん。大丈夫だから」
本当は大したことだし大丈夫でもないけど、みんなには話せない。ぎこちない笑顔で取り繕うことしかできなかった。
(もう1回、ちゃんと話をしないと。でも……)
あんなに冷たい顔をする香納を初めて見た。子役だったという過去に触れられるのは、それほど嫌なことだったんだ。
だとしたら、おれが謝ること自体も、香納にとっては過去を思い出さざるを得ない苦痛の言葉になってしまうかもしれない。ますます、傷をえぐってしまうかもしれない。
そんなことはしたくない。これ以上香納を苦しめたくない。
(どうしよう。おれ、どうしたら……)
全体練習が終わると、香納はさっさと帰ってしまった。
周りからの「あれ、帰るのか?」という声は全スルーだ。もちろん、おれが声をかけに行ったのも綺麗に無視された。
(香納からサボることなんて、今まで一度もなかったのに……)
おれは、それだけのことをしてしまったんだ。
強い自責が、心を真っ黒に埋め尽くす。
香納が出ていったドアを見ながら暗然と立ち尽くしていると、背中にそっと誰かの手のひらが触れた。
「あらた」
「……るー先輩」
「なんかこじらせたようだな。もしかして、昨日の件が関係してる?」
周りには聞こえないよう小声で。
労わるような、控えめな笑みを浮かべたるー先輩は、「移動しよう」とおれを廊下へ誘った。
人の来ない、階段の踊り場まで移動してから振り返る。
「何があったんだ?」
「っ……るー先輩、おれっ……」
包み込むような優しい眼差しに、張りつめていた感情が決壊した。
鼻の奥が痛くなるのを感じながら、熱い息とともに言葉を吐き出す。
「おれ、香納も演劇好きの仲間だってわかったのが、嬉しくて……そんなつもりなかったけど、態度に出てたみたいで……」
問い詰められて、ごまかしきれずに話してしまったのだと打ち明けた。
「そっか。たしかに、あいつはしつこそうだからなぁ」
るー先輩はそう評して苦笑する。
『困ったやつだ』と言わんばかりだけど、それはおれを気遣ってだろう。
(香納は悪くない。全部、おれのせいだ)
「おれが悪いんです。香納にとっては触れられたくない過去だって、わかってたのに。流されて、言っちゃって……あいつを傷つけたんです。すごく、傷つけた……」
ひどいことをした。演出家と役者として築いてきた信頼関係さえ壊してしまうような、裏切りにも近い行為だ。
今ならそうわかるのに。昨日のおれは、勝手なエゴで浮かれていたんだ。そして話してしまった。
「……謝ったんだろう?」
「はい。でも……」
(届いてなかったら、意味ない)
「……もう1回、謝りたい。だけど、あんなに怒らせちゃって……おれの気持ちばっかりぶつけて、もっと傷つけちゃったらどうしようって……」
「…………」
「このままなんて嫌だ……だけど……もっと嫌われるの、怖くてっ……」
拳を握り締めてうつむくと、メガネのレンズに滴が落ちた。
ぽたぽた。どんどんあふれる。
右手で外して、左手の甲でぐいっと涙をぬぐっていると、先輩の手が後頭部に被さった。
「泣くな」
頭を上げる。
ぼやけた視界の中で、先輩はとても困った顔をしているように見えた。
「そんな顔するなよ。……こっちもつらい」
「先輩……」
その声が本当に、どこかがとても痛いのを我慢しているような声だったから、おれは心配で冷静さを取り戻した。
メガネのレンズを、ジャージの裾で乱暴に拭いてかけ直す。
はっきりしたるー先輩の顔は、今は穏やかだった。
優しくて余裕があって頼もしい、いつものるー先輩の表情だ。
……さっきのつらそうな声は、気のせいだったのだろうか。
「あんまり思い詰めないほうがいい。香納も動揺して、まだ落ち着いてないだけかもしれないしな」
そう言った先輩の声は明るかった。おれを元気づけようと、おれの心を浮上させようとしてくれているのが伝わってくる。
「あらたに悪気がなかったことはわかってるはずだよ。でも、向こうにも頭を冷やす時間が必要なんだろう。今はそれを待ってやったほうがいい」
「…………待ってるだけで、いいんでしょうか……?」
「突進しても、余計かたくなになるかもしれないからな。あらたもだよ。お互い熱を冷まして、気持ちを整理する時間が必要だ」
(気持ちの整理……)
「……はい。わかりました」
(るー先輩の言う通りかもしれない。おれも落ち着かないと)
昨日から涙腺が緩みっぱなしだ。こんな調子じゃ、次に香納と話すチャンスがあったとしてもまたぐじぐじ泣いてしまうかもしれない。
そんなんじゃダメだ。今度こそ自分の気持ちを、ちゃんとした言葉にして伝えないと。
「ありがとうございます、るー先輩。先輩のおかげで、少し落ち着きました」
おれは両手を太ももに添えて勢いよく頭を下げた。
(……また助けてもらっちゃったな)
本当に、るー先輩はいつもいつもおれを助けてくれる。安心させてくれる。
おれはこの人に、一生頭が上がらない。
「どういたしまして」
先輩はニコッと笑うと、自由な右手の人差し指でチョンっとおれの鼻をつついた。
「鼻の頭、赤くなってる。部室戻る前に顔洗ってきな」
「はい、そうします!」
もう一度ペコッと礼をして、おれは階段を駆け下りた。
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遠のく足音が響く踊り場で──
「……あーあ。オレには1回も見せたことないような顔してくれちゃって」
ぽつりと、声が落ちる。
「こっちも譲る気はない、つもりだったんだけどなー……」
ぐしゃりと、ゆるく波打つ前髪をかき上げた。
「やれやれ。こんなことなら、オレも最初から直球でいっときゃよかったかな……」

