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その日もおれは、先輩たちとの打ち合わせ当日だからと、個人レッスンをパスした。
夕方から打ち合わせなのは噓じゃない。りょう先輩は大道具制作で昼から来てくれていたけど、予備校があるなぎ先輩は夕方合流だから。
(だからって45分の個人レッスンくらいできないわけじゃないけど……やっぱだめだ……)
麻青と祥太が相談に乗ってくれたのに申し訳ないけど、依然香納の顔を見るとどうしていいかわからなくなる。
むしろ、日に日に重症化していってるかもしれない。
考えれば考えるほど、香納と目が合った時の鼓動の高鳴りが、加速していってるから。
そんな状態のまま、週末の休みに突入。
そして、翌週月曜日。
この日もなんとかぎこちなさを押し隠して練習を終えたおれは、もう個人レッスンに関して、香納に何も言わなかった。
話すまでもなく、打ち合わせが口実なんてことは彼もわかっているはず。
無言で片付けを進め、そのまま逃げてしまおう。
不誠実とは思いつつも、そのつもりで小道具をまとめた箱を視聴覚準備室に運び込んでいると──
「おい」
「!」
背後から声がして、おれはびくっと振り返った。
開けたままのドアに寄り掛かって、香納が立っている。
「……か、香納……」
香納は中に入ってきて、ドアを閉めた。
ガチャッと、ロックをかける音がする。
「えっ、ちょっ──」
うろたえたおれは、落とすように段ボール箱を置いてドアに駆け寄ろうとした。
でも、歩いてきた香納が真正面に立ってそれを阻む。
「飽きた」
「え……」
「泳がせんの飽きた。終わり」
近い位置でまっすぐおれを見下ろして、平板な、でもきっぱりとした声で告げた。
「……泳がせるって……」
「この数日、好きにオタオタさせてやっただろ」
(オタオタ? たしかにしてたけど! ていうか今が一番してるけど!)
「もう充分だろ。終わり。逃げんのここまで」
香納が一歩前に踏み出した。
この距離でそんなことをされたらぶつかるので、おれが後ろに下がる。
それをあと2回繰り返したら、背中が壁に触れた。
──これ以上は、逃げられない。
「あとおまえ、演出家業に支障きたしすぎ。芝居のクオリティ下がるわ」
(ぐっ)
痛い指摘がぐさっと突き刺さる。図星だから余計に痛い。
これを言われたら、素直に頭を下げるしかない。
「す、すみません……」
「謝るなら──」
うつむいた視界に、香納の手がにゅっと入ってきた。
何事かと思う間もなく、長い指であごをつかまれ、上向かされる。
「!」
顔が固定されて、否応なく視線がぶつかった。香納は少し前屈みだ。近い。
前にもこんなふうに囚われたことを思い出す。
だからおれにはわかっていた。こうされると体がしびれたみたいに硬直して、動けないって。
「答えろ。初恋まだでもさすがにわかるよな。キスにどういう意味があるか」
「……っ!」
ひくっと頬が震えた。苦しい。また、あの感覚だ。
キスした時と同じ、あの胸苦しさ。
「……な、何言って……」
「答えろ」
はぐらかそうとしたけど許してもらえなかった。
鋭い眼光がおれをとらえている。この眼差しには力があると、おれが惹かれた瞳。
壁際に追い詰められていなくても、あごを固定されていなくても、これだけで動けない気がした。
「逃がす気ねーから」
わかりきってたことだけど、ダメ押しのように、そう宣告する。
「おまえは俺の」
さらに顔を近づけて、ささやくような声。吐息が唇にかかった。
「俺のにする」
「っ……」
お腹の奥から謎の熱と波動が生まれて、全身に広がっていく。
熱い。なんだか体がまったく別の物質になったみたいだ。もろくて、すぐにでも壊れそうなものに。
(ほんとに、バラバラんなるかも……)
心臓は、お湯でいっぱいに満たされた水風船にでもなったような感じだ。
今にも弾けて、熱いものがあふれ出すんじゃないだろうか。
「あらた」
簡単にまたキスできてしまいそうな距離で、でも香納はそうしないで、おれを呼んだ。
初めて、おれの名前を、唇に乗せた。
自分の目のふちに、涙が溜まるのがわかった。なんの涙か定かじゃないけど、あふれ出してしまいそうな何かの結晶だ。
(ずるいよ、香納……)
名前なんて、今まで1回も呼んだことなかったのに。
いつも「おい」とか「なぁ」で、人におれのことを話す時は「部長」で。
それなのに、初めて呼んだと思ったら「唯木」を通り越して名前とか。ずるすぎる。
(そんな優しい声で、呼ばないでよ……)
「……かわいいやつ」
あごをつかむ指が解かれたと思ったら、その腕でおれは抱きしめられた。
久しぶりの感触だ。正直、個人レッスン前の『ワンコモフりタイム』で、抱きしめられるのは慣れてきていた。
前からも後ろからも、香納はいつも遠慮なく抱きしめてきて、頭をわしゃわしゃする。
でも今日は、わしゃわしゃはなかった。
ただぎゅっと、じっと、おれを腕の中に閉じ込めていた。
おれの存在がここにあることを確かめるような、今までより優しい抱き方に、むずがゆい温かさが体内を走っていく。
「…………おれは、おまえの犬じゃないよ」
今、犬扱いされていないことは百も承知なのに。
なんて言ったらいいかわからなくて、おれはつぶやくようにそんな言葉をもらした。
「知ってる」
抱きしめる腕に、ちょっと力がこもる。
「犬よりこっちがいい。抱きがいあるし」
「香納……」
「じっとしてろ」
「…………」
(……おかしいな。おれ、怖かったはずなのに)
今は、あんまり怖くない。
ただ、名前を呼ばれて、優しく抱きしめられて。
気を失いそうなくらい、ドキドキしてるけど。
「手放す気ねーから。あがいてもムダ」
耳元でささやかれた声に、おれは目を閉じた。

