翌日は、るー先輩は通院日とのことで不在だった。
午前中には兼光先生が来て、いつものようにしばらく見学して「いいですねぇ。この調子で頑張って」と言い残し去っていった。
でも実は、ちっともよくない。
……練習の進行度でも誰かの演技でもなく、おれが。
とてもとても、よくない。
(どうしよう……香納の顔、まともに見れないよ……)
昨日、逃げるように先に帰って。今日は、ろくに話をしていなかった。
個人的な会話なんてとても無理。練習中にダメ出しをする時ですら、目線が泳ぎ、声が上滑りしてしまう。
ああ、ほら、今もまた。
「……で、香納は……麻青を抱き寄せる時の、腕なんだけど……もう少し、下のほうがいいかな」
「どんくらい」
「ええっとね……あと拳3個分くらい……」
「わかりづれー」
見学位置から指示だけ出していると、容赦なく抗議された。
(うっ。そんなの言われなくてもわかってるけどぉっ……!)
いつもなら彼らの傍へ行って、手を取って指示したり、代わって実演したりする。
でも今日は香納の近くへ行く度胸がなくて、近づけずにいた。
「う、うーんとぉ……えっと……」
「……? どうかしたの、あらた?」
明らかに挙動不審なおれに、麻青が表情をくもらせる。
「今日、調子悪い?」
「たしかに、朝からなんか変だよな。もしかして具合でも悪いのか、あらた?」
「大丈夫ですか、あらた先輩?」
みんな違和感はあったのだろう、ここぞとばかりに心配そうに尋ねられた。
おれは慌てて、精一杯の明るい笑顔を作った。
「だっ、大丈夫! なんでもないよ!」
(役者に心配かけてどうするんだよ! 仕事はしっかりしなきゃだろ、おれ!)
そう自分に活を入れ、香納と麻青の傍まで行く。内心で「えいっ」と掛け声をかけて、香納の手首をつかんだ。
「この辺。このほうが強引さがなくて、優しく見えると思うんだ。今は慈しみを覚えたタケルだから、こういう感じがいいかなって」
「……なるほどな」
「うん、そうだね。こっちのほうがいいね」
「じゃっ、じゃあこの感じでもう1回!」
二人の賛同を得ると、おれはぴゅーっと元の位置に駆け戻った。香納に背を向けた状態で、バレないように静かに、長い息を吐く。
(うう……ちょっと香納に触っただけで動悸が……。顔、赤くなってないかな……平気だよな……?)
そうであることを願いつつ、なんとか取り繕って練習を続けた。
でも、それ以降もおれは──
「なあ、聞きたいとこあんだけど」
「っ! うわあぁっ!?」
(ひいっ! いつの間にか真後ろにいないでよおっ!)
「……聞きたいとこ」
「あっ、ごっ、ごめん。どこ?」
「ここの──……」
「みんなー、ジュース買ってきたから休憩しよう! 配るから欲しいの言ってねー!」
「やったー! 俺レモンスカッシュ!」
「はいはーい」
「ジンジャーエールください!」
「はいっ」
「コーラ」
「はー……いっ!?」
(って香納じゃん! どひゃあっ、手触っちゃった! わあっ、コーラ落とした!)
「あちゃー! 何やってんすかー、あらた先輩。それ絶対泡ヤバいですよ」
「うっ…………ごめん、香納……」
「……いらね。おまえ飲め」
「おい、今日の個人レッスン──」
「わわわ悪いっ! えっと、今日はちょっと時間なくてっ。明日りょう先輩となぎ先輩と照明・音響プランの打ち合わせがあるから、今日中に考えたいとこあるんだっ」
「は。誰だよ」
「当日照明と音響をやってくれる春に引退した3年の先輩だよ。りょう先輩とは大道具制作でも会ってるだろ」
「知らね。俺よりそいつら取るって?」
「……っ!」
(だ、だって……こんな状態で二人きりなんて、絶対ムリ……!!)
「ゆっ、許してくださぁぁぁーーーいっ!!」
その日、初めて個人レッスンを休んでしまった。
そして次の日も、おれは朝から一人でドギマギしていて、一人で疲労困ぱいだ。
「も……もう死ぬ……」
昼休憩に入った直後。おれは室内でパンを食べ始めた香納から逃げるように、視聴覚室を出た。
(うう……無性に布団が恋しいよぉ……)
廊下を少し進んだところで、マラソン大会を終えた選手のようにへなへなと倒れ込む。疲れ切っていた。
「おいおい、何事だよ」
「しっかりして、あらた」
背後から声がかかる。祥太と麻青が視聴覚室から出てきたところだった。
「ま、麻青ぉ……おれもう、ダメかもしんない……」
ぐずっと鼻をすするおれに、二人は歩み寄ってきて屈み込む。
「よくわかんないけど、重症だね……」
「……よし。あらた、こっち来い」
祥太がおれの腕をつかんで、廊下の先へと引っ張っていく。突き当たりには自販機と椅子の置かれた、狭い休憩スペースがあるのだ。
そこまで着くと、祥太はおれを椅子に座らせた。
「やっぱり何かあったんだな」
「昨日からずっとおかしいもんね、あらた。何があったの? 話してよ」
おれの両サイドに座り、祥太と麻青が覗き込んでくる。
「っ……」
さっきは思わず泣きついてしまったけど、言葉に詰まった。
もうどうしていいかわからなくて、いろいろ限界だ。でも、こんな話……。
(香納にキ……キスされたなんて、言わるわけ……)
「──香納が関係してる、んだよね?」
「!!!」
神妙な顔の麻青に言い当てられて、おれは目をひん剥いた。
「なっ、なんっ、どうっ……!?」
「そうなんだね」
「どっ、どどどっ……」
「落ち着いて。香納に対してぎこちなかったから、そうじゃないかなって」
背中をさすりながら言う麻青に、祥太もうなずく。
(……そりゃそうか。気づくよな。あんなあからさまに狼狽してたんだから……)
きっと、察しつつも触れずにいてくれた部員はたくさんいるんだろう。この二人みたいに。
「なんかひどいことでも言われたのか?」
「! う、ううん、そういうのじゃないんだ」
祥太の言葉には、考えるより前に首を振っていた。
それは違う。ひどいことをされたわけじゃ……ないと、思う。
突然だし、驚いたし、意味不明だし。すごく、すごく困ってるけど……。
(『ひどい』とは……うん……少なくともおれ、そんなふうには感じてない……)
麻青と祥太は、『じゃあどういうのなんだ』と瞳で問いかけていた。
(こんな姿見せておいてごまかせないし……話すことで、少しでも整理ができるかも……?)
おれは心を決めて、ゆっくりと話し始めた。
「なんていうか……ちょっと、おれの理解の範ちゅうを超えてることをされ……言われたっていうか……。それで、どうしたらいいかわからなくなっちゃって……顔合わせづらくて……」
「はぁ? なんだよそれ、演出に関してってこと?」
要領を得ない説明に、祥太が眉をひそめる。
「いや……個人的なこと、かな……?」
「部活に対してじゃなくて、あらた個人に対してなんだね?」
「う、うん……多分……」
言いにくそうにするおれに、麻青は心情を察してくれたようで、
「大丈夫。言いたくないことなら無理には聞かないよ」
そう言ってほほ笑んでくれた。
「……ごめん、ありがと」
「ま、何を言われたにしろ──言われたことや、なんでそんなこと言うのかがわかんねーから困ってるってこと?」
「……うん、そんな感じ」
(ほんとに……なんでいきなり、あんなこと……)
「……あらたは、それを言われてどう思ったの? 悲しかったの? 腹が立ったの? 僕は、香納がどんな思いで言ったにしろ、自分の感じたことをそのままぶつければいいと思うけど」
「…………それも、よくわかんないんだ」
おれはうつむく。
もしかしたら一番困っているのはそこかもしれない。
悲しかったか、腹が立ったかと聞かれれば、そうじゃないとは答えられる。
でも、今の自分の気持ちや状態に、名前が付けられないんだ。
だって、今まで感じたどんな感情とも違う。こんなふうになったこと、一度もなかったから。
「……怒るとこ、なのかな……」
「嫌だったなら、怒りゃいいだろ」
無意識に口からこぼれたつぶやきに、祥太が即答した。
そう、怒っていいのかもしれない。なんの前触れもなく、合意もなしに、あんなことされたんだし。
でも……
「嫌だった……わけじゃない……多分……」
少なくとも、嫌だとか、気持ち悪いとか。そんな感情は、あの瞬間、芽生えなかった。
この困惑は、怒りとは違うと思う。
「おれ……びっくりして……香納の気持ち、わからないから……どう接したらいいかって……」
「じゃあ、聞いてみるしかないね。どういう気持ちであんなこと言ったの、って」
「聞く?」
(香納に、直接?)
「俺もそれがいいと思うぜ。聞けば答えてくれるだろ。あいつ、ただの意地悪とか、馬鹿にしてひどいこと言うやつじゃないと思うし。なんかちゃんと理由があるだろ、きっと」
その言葉を、祥太は少し言いにくそうに、気恥ずかしそうに口にした。
香納の抜擢に不満を抱いていた祥太。水飲み場でもトラブルもあった。
でも今はもう、香納のことをちゃんと認めているんだ。
それは自然なことだと思う。ずっと一緒に練習していれば、お互いの姿勢や性格はおのずとわかってくるから。
「うん。香納ってああ見えて、実直な人だよね。この舞台にも、真剣に取り組んでくれてるのわかるし。あらたに対しても、悪ふざけとかじゃないと思うよ」
「……うん」
二人の言葉には、おれも同意しかない。
その通りだ。
いや、正確には悪ふざけとかからかうのも好きなタイプの気がするけど……でも、それだけじゃない。ちゃんと線を引いて、真面目なところはとても真面目な人だ。
おかしな『対価』を求めてくるけど、その倍以上、ちゃんと返してくれて。睡眠時間も削って、筋トレしてセリフを覚えて、居残り練習までこなしてくれて。
それに、妹さんにはあんなに柔らかい顔で笑うんだ。優しいお兄ちゃんの顔で。
だから香納は──悪ふざけで、あんなことはしない。きっと。
(でも……じゃあ、どうして……?)
そこまで考えて、ふっとおれは気づいた。
(そっか……おれ、怖いのかも……)
どうしてあんなことをしたのか。理由や気持ちを、知るのが怖い。
あの、唇が触れ合っていた数秒間を思い出すと、今でもぎゅっと胸が苦しくなる。
苦しくて、痛くて、かゆくて、甘いような、言いようのない感覚に体が包まれる。
(これ以上を知ったら……何が待ってるのかわからなくて……怖いのかも……)

