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翌日にも、るー先輩は半日だけという予定で部活に来てくれた。
集まった全員に、おれは印刷してきた台本の差し替えページを配布する。
「トウマの設定を変更したバージョンです。旧版から変わったところはわかりやすいように太字にしてます。目を通して、もし気になるところがあったら指摘してください」
「一晩で仕上げたんですか!? あらた先輩仕事早い!」
「さっそくありがとう、あらた」
大地とるー先輩、変更のかかる当人たちが特に笑顔で受け取ってくれた。
目を通し終わるまでの数分の静寂ののち、口々に声があがる。
「うん、すごくいい!」
「前よりぐっと印象的なシーンになってる!」
「27ページのセリフもいいな。流音が演じたら映えるぞ、これは」
「登場シーンは少ないけど、存在感ありますね!」
みんなの反応は上々だった。少し緊張していたおれは、ほっと肩の力を抜く。
「面白い役になってる。嬉しいよ、あらた。もう演じたくてうずうずしてきた」
そう言って、るー先輩はまた自由な右手でおれの頭を撫でてくれた。
「はい! ありがとうございます」
そのまま1回読み合わせをして、トウマの動きを確認しているうちに昼になった。
「流れは頭に入った。次に来る時までにはセリフを入れておくよ」
そう言って、るー先輩は帰っていく。以降は大道具制作と、まだ完成度の低い後半部分の立ち稽古を進めた。
そして、全体練習終了の直後。
「香納」
おれはスポドリを飲んでいる香納に声をかけた。
「なに」
「うん、あの、個人レッスンのことなんだけど」
「…………」
「もうほとんど遅れなんてないし、そろそろ終了にしてもいいかなって思ってるんだけど……」
「は?」
ぎゅんっと眼光が鋭くなる。あからさまに不快感を示されて、おれはたじろいだ。
(ううっ、なんで……もうわかんないよー!)
昨日、香納は最後まで不機嫌だった。
個人レッスンの時もしっかりおれをぎゅうぎゅうモフモフしていたけど、ずっと無言で何を考えてるのかわからなかったし、淡々と演技指導をして終わった。
だからおれなりに、改めて考えてみたんだ。
香納は何が不満なのか。何が負担なのか。少しでも香納にこの活動を心地よく、楽しんでもらうためにはどうしたらいいのか。
(なんだかんだ、とんでもなく香納の時間を拘束してるし。個人レッスンでこれ以上大変な思いをさせるのはやめたほうがいいと思ったんだけど……)
今目の前で剣呑な顔をしている彼を見る限り、好ましい言葉ではなかったようだ。
「おまえさ」
はぁっと盛大なため息をついて、香納がおれをねめつける。
「は、はい」
「もう何も考えんな。どうせ逆走しかしねーから」
「……? 逆走……?」
(って、どこに……?)
よくわからないけど、正反対……彼にとって、おれはとんでもなく的外れなことを言ってるってことなんだろうか。
「個人レッスン、続けたいってこと……?」
「そうだよ」
「そっか。うん、香納がそう言うなら、もちろんおれは大歓迎だけど」
「じゃあさっさと始めんぞ。やりたいシーンある」
「わかった。どこ?」
尋ねたおれに、香納は台本を開いてにゅっと突き出してきた。
「──じゃあ、おれがミユキで。動きもあったほうがいいよね」
「ん」
他の部員がみんな帰り二人きりになった室内で、おれと香納は向かい合って立った。
香納が練習したいと言ったのは、クライマックス近くの恋人・ミユキとのシーンだった。
本音で想いを伝え合い、キスをするというシーンだ。実際にはしないけど。
「セリフの感じで迷ってるところがあるって言ってたけど、おれはどんなことに気を付けて聞いてたらいい?」
それが、香納がやりたいと言った理由だ。だから確認したんだけれど、
「とりあえず、1回思うようにやってみる」
香納は平坦に告げ、台本を長机に放った。
「……わかった。それじゃ、スタート!」
見えないスイッチを押したように、香納の目つきが変わる。
『……一人で生きて、一人で死んでいこうと思ってた。でも、無理だった』
『馬鹿な人ね。ええ、無理に決まってる。そんなことできるはずないわ』
『ミユキ……後悔はしないか。俺を選んで』
タケルが一歩、距離を詰めてくる。こわごわと右手を伸ばして、ミユキの頬に触れる。
好きで好きで、でも、自分のせいで傷つけるのは怖い。そんな葛藤に揺れる瞳で見つめられる。
(すごい……この目。見てるだけで胸が痛くなる……)
相手役として演技を受けて、いつも以上に圧倒された。
目線。かすかに震える指先。息遣い。
彼の全身から、おれが描きたかったタケルの愛情や苦悩、それに強さと弱さが、脈動のように伝わってくる。
『後悔なんてしない』
気迫に背筋が粟立つのを感じながら、おれはミユキのセリフを紡いでいった。
ここはまっすぐタケルを見上げて。決意を込めて。
『一緒に行きましょう、タケル』
『ミユキ……!』
タケルが左手でミユキの腕をつかみ、ぐっと引き寄せる。二人の距離はぶつかりそうなほどに近くなる。
つかまれた手首が熱い。
(うわ……)
心臓の音が聞こえる。意識した途端、ますます加速していった。
苦しい。流れ込んでくるタケルの想いに胸が詰まる。
ミユキとしてなのか、おれのものなのか……どっちなのか、もうよくわからないけど。
『おまえを愛してる』
タケルの告白。ミユキはつかまれていないほうの手をタケルの胸に添える。
(ここが一番の盛り上がり部分だけど……やっぱり悩んでるのもこのへんかな)
演出家としての自分が、頭の隅っこでそんなことを考えた。
この後、ミユキも愛の言葉を口にする。それに対し、タケルは礼を言い『必ず幸せにする』と誓うのだ。そしてキスをする。
香納のタケルをかけらも逃さないよう、より集中しながらおれは小さく呼吸した。
『私も愛しているわ。あなたが好き。あなたが私のすべてなの。あなたのいる場所が、私の』
(……え?)
突然セリフの続きを言えなくなって、おれは何が起こったのかわからなかった。
(え、あれ……)
ミユキの言葉はまだ終わっていない。『あなたのいる場所が、私の帰る場所なの』だ。
そしてタケルが『ありがとう』と言って……『約束する。必ずおまえを幸せにする』と……。
(なんで……なんで……?)
どうしてセリフが言えなくなったのか。
──唇に何かがぶつかって、動きを封じられたからだ。
温かくて、ふわっとしていて、なんだかとても心地いいものが触れている。
(これ……)
目の前に、長いまつ毛と整った鼻梁があった。あと、頬をくすぐる色素の薄い髪。
──香納の顔が、ゼロ距離で傍にある。
「っ……!」
(え……えええっ……!?)
キスされているのだと理解した瞬間、ぼんっとどこかが爆発した。体が石みたいに動かなくなる。
(なんでっ、どうして!? まだだよキスは!)
いや違う。そもそもこの後のシーンでもしないのだ。体をひねって、観客からはしているように見せかけるだけで。
(なのになんで!?)
固まったままパニックを起こすおれから、ようやく静かに香納が身を引いた。5㎝ほど距離があいて、顔全体が確認できるようになる。
「真っ赤だな」
平然と言って、香納は楽しげにおれの前髪をくしゃっと乱した。
「どっ……どどど、どっ、どういう……!? なっ、なんっ……!?」
「目の前にうまそうな唇があったから」
(はぁっ!?)
「なんで!?!? 昼食べたよね!?」
反射的にツッコむと、香納は白けたように目を細めた。
「食欲満たそうとは思ってねー」
言って、今度は親指の腹で下唇に触れてくる。
さっきまで香納の唇が重なっていたそこを、そっとなぞられた。熱いのか寒いのかわからない波が、足裏から駆け上がってきて震えそうになる。
「じゃっ、じゃあなんの欲だよ!」
「さあ。キスなんだから別の欲じゃね」
「…………っ!!」
(~~~~っ! なんなんだよなんなんだよ、別の欲って!)
顔が燃えるように熱くなってきた。今頭のてっぺんに水を垂らしたら、本気でジュンッと蒸発しそうな気がする。
なんで。どうして。壊れたレコーダーみたいにそればかりが脳内を回っていたけれど、やがてハッと気づいた。
(──待って。今のって、もしかしなくてもおれの……おれの……)
「今の……ファ……ファ……!」
(おれのファーストキスじゃん……!)
ふらっと後ろによろめいて、口元を手で覆った。
真っ白になりかけているおれの目の前で、香納はニヤリとほほ笑む。
「だろうな」
(いやいや! なに笑って……)
「気分いい」
「~~~っ!?!?」
だめだ。何がどうなっているのかもう全然わからないけど、お風呂でのぼせた時みたいにクラクラしてきた。このままじゃどこかがぶっ壊れる気がする。
「おっ……おおおおおれっ、帰るっ!!」
おれはよたよたと動いた。置いてあった自分の荷物を引っつかみ、そのまま扉へ。
「おい」
一言だけ、呼び止める声が背後から聞こえたけど強い語気ではなかった。
おれも振り返らない。そんな余裕はない。
鼓動がとんでもないことになっている。ティンパニをゴリラが全力で叩きつけているんじゃないかというくらい暴れまくっていた。
(おれ、なんで……こんなにドキドキしてるんだよ……!)
息苦しさに呼吸を乱しながら、おれは部屋を飛び出した。

