「うわあっ、るー先輩だ!」
「るー先輩!」
「流音! 待ってたぞ!」
8月最初の月曜日。練習前の視聴覚室は、この夏一番の明るい声に満ちていた。
るー先輩がようやく退院し、顔を出してくれたのだ。
「久しぶりだな、みんな」
制服姿のるー先輩。左手はまだ固定され布で吊っているけれど、それ以外は入院前と変わらない。元気そうな笑顔におれは心底ほっとする。
「腕はどうなんですか?」
「まだ痛いですか?」
「ギプスはまだ取れないんですね?」
みんなに慕われているるー先輩は、後輩たちに取り囲まれて質問攻めだ。おれは少し離れた後ろから香納と並び、それを見ていた。
(なんか、嬉しすぎて泣きそう……)
当たり前だったこの光景。でも失われたことで、どれだけかけがえのないものだったのかを痛感した。
それが戻ってきたんだ。もう胸がいっぱいで、視界がにじんでしまう。
「治りは順調らしい。といってもまだくっついてないし、痛みもあるから無理はできないけど」
先輩は群がるみんなを、優しい目で順番に見ながらそう話した。
「そっか……そうですよね……」
「ははっ、そんな顔するなって。痛みは薬で抑えられるし、体力戻るようできる範囲で体動かせって言われてるし。毎回は無理だろうけど、練習にも顔出すつもりだから」
その一言で、沈んだ空気が瞬時に盛り返す。
「やった!」
「るー先輩のリハビリ、俺らも全力で協力します!」
「サポートもします! なんでも言ってください!」
「やれやれ。大人気だな、流音」
「ホント。愛されてて幸せ者だわ、オレ」
おどけた口調に、わっと笑いが弾けた。おれはいよいよ涙がこぼれそうになって、メガネの下から指を差し入れてぬぐった。
「…………」
ふと視線に気づく。隣の香納が、こちらを見ていた。
「どうしたの?」
「……別に」
ふいっと背を向け香納は離れていく。窓際に置いた私物の傍らに座り、台本を見始めた。
「あらた」
入れ替わりにるー先輩がやってきた。みんなの輪を抜けて、おれの前に立つ。
「よく頑張ってくれたな。これからはオレもいるから」
ぽふんと頭に手のひらが載る。おれはヤバいと思って奥歯に力を入れた。
先輩不在の期間、必死に押し込めていた不安や心細さ、後ろ向きな気持ち。先輩への報告メールにも、そんなことは一言も書かなかった。おれが誰よりも前向きでいなきゃと言い聞かせていた。
でも彼は、全部わかってくれている。そのうえでくれた労いに、もやもやしたマイナスの感情は一瞬で浄化された。
「っ……るー先輩……それ、ほんとに泣くやつですからぁっ……!」
うつむいてぐじぐじと鼻をすすってしまう。この人の存在の偉大さを、改めて思い知る。
「泣いていいよ。おー、よしよし」
子供をあやすみたいにおれの髪をかき混ぜる先輩。また、わははっと周囲から笑いが起こった。
「もうっ、茶化さないでください!」
おれは最後に大きく鼻をすすってから顔を上げた。
(いつまでも情けない姿を見せてられない。気持ちを切り替えなきゃ!)
「っと、そうだ。香納……!」
(まだちゃんと紹介してなかった! ピンチを救ってくれた立役者なのに!)
おれのつぶやきに、近くにいたくら先輩も「あっ」と声をあげる。
「そうだった、香納を紹介しないとな。おーい、香納!」
「…………」
腕を振ってくら先輩に呼ばれ、香納は台本を置きのろりと立ち上がった。
いかにも面倒くさそうに戻ってくる。いつもこんな感じなので、もうみんな慣れてしまっているけど。
「香納、こっち!」
おれは腕をつかんで、香納をるー先輩の真正面まで引っ張った。
「初対面ってわけじゃないが、改めて。タケルの代役を引き受けてくれた香納詩希くんだ」
香納の後ろに立ったくら先輩が、彼の両肩に手を置いて紹介する。
「前部長の浅見流音だ。今回は本当にありがとう、香納」
るー先輩はカラッとした笑顔で言った。ミントとかレモンの香りがしてきそうなさわやかさだ。久しぶりに見たので、今さらながらかっこいいなぁとか思ってしまう。
「話は聞いてるよ。キミのタケルもすごくいいって」
「……はぁ」
対する香納は平常運行の無表情……というか、なんだかいつも以上の渋面だ。眉間にしわが寄っている。
(え、どうしたんだろ……機嫌悪い?)
「おーい香納、今日くらい愛想よくしろよー!」
祥太が苦笑しながらツッコんだ。香納が「ほっとけ」とぼやく。
香納の様子は結構細かく報告していたので、るー先輩は気にしていないようだ。にこやかに香納を眺めていた。
「とりあえず、練習を始めないか」
ながやん先輩がおれに向けて言う。おれは「そうですね」と大きくうなずいた。
「練習見ていってください、るー先輩」
「もちろんそのつもりだよ。百聞は一見に如かずだ」
そうしておれたちは、るー先輩の前で一場から三場までの通し稽古をした。
おれが「はいっ」と区切りの声を張ると、それまで真剣な顔つきで見ていたるー先輩は、パッと相好を崩す。
「うん、よかった! いいよ、香納! オレにはない鋭さと孤独感がある。このタケルもすごく魅力的だよ」
「……っすか」
「そう、そうなんですよ! 微妙に違うんですけど、でもいいですよね!」
愛想のない香納より、おれのほうが興奮気味に答えた。
おれが感じている香納の良さが、先輩にもちゃんと伝わったのが嬉しい。
「いい舞台になるだろうな。安心して託せるけど、ここに加われないのが残念だ」
先輩の笑みが苦いものに変わった。言葉通り、隠せない悔しさが垣間見える。
「出れない……ですかね。全然?」
おずおずとそう言ったのは剣斗だった。「どういうことだ?」と淳巳が尋ねる。
「や、治りが順調なら、大会の頃にはなんかできることあるんじゃないかなって。タケル役じゃなくても」
「端役でってことか?」
「ですです。やっぱオレ、るー先輩と同じ舞台に立ちたいし……!」
(同じ舞台に……)
見れば、剣斗の隣で律と大地も賛同するように首を振っている。
1年の彼らは、まだ1回しかるー先輩と共演した経験がない。そして、もし地区大会までになってしまったら……もう、次の共演のチャンスはないかもしれないのだ。
他の部員たちの顔を見ても、同じ気持ちなのは伝わってきた。それに、もちろんおれだって。
「出ませんか、るー先輩。おれ、先輩でも演じられる役を用意します」
「え、いやでも……今から調整じゃ、みんなにも負担になるだろ」
「ちっとも負担じゃないですよ!」
「そうですよ、オレらが出てほしいんだから!」
みんなを気遣う先輩の言葉は、当の部員たちで一蹴される。もう話は決まりだった。
(先輩の体に負担をかけず、この世界に組み込むには……)
おれの頭が目まぐるしく動き出す。
「筋が変わらなければ充分いけると思います。そうだな……大地が兼ねてるトウマ役を、車椅子の男性って設定に変えるのはどうでしょう。交通事故の後遺症で歩けないんです。で、大地には車椅子を押す男性看護師になってもらって、セリフを分割すれば……」
「おおっ、いい! いいですよその設定! 俺やります、看護師!」
大地は顔を輝かせて賛成した。
裏方志望の大地は、あくまで勉強のための出演だ。露出が減ることに不満はないだろうし、るー先輩との絡みができるならむしろ喜んでくれるんじゃ……おれも、そう考えての提案だった。
「身上の設定も変えて、恋人と事故に遭って自分だけが生き残ってしまったってことにしよう。そのほうが深みも増す」
「いいな。出演シーンは多くないが、いいスパイスになりそうだ」
「さすがあらた先輩! すごいです!」
「るー先輩、出てください! 車椅子のトウマで!」
期待を込めたいくつもの視線がるー先輩に注がれた。
「……いいのか、本当に?」
ためらいがちに先輩が問う。みんな、首がもげそうな勢いでぶんぶんうなずいた。
「るー先輩と一緒に作りたいです。お願いします」
最後におれが、みんなを代表して頭を下げる。
「──わかった。やらせてもらうよ。ありがとう」
「はいっ!」
破顔したるー先輩に、室内が高揚で沸いた。
その後、まだ体力が万全じゃないし親も心配しているからと、るー先輩は昼休憩に入ったタイミングで帰っていった。
でもるー先輩の出演が決まって、部の空気は依然明るい。みんなの目が、やる気でキラキラしている。
「よーし、さっそく台本調整しなきゃ! 今夜は徹夜だー!」
明太おにぎりにかぶりつきながら、おれはあいている左腕をぐるぐる回す。
朝からずっと興奮が収まらない。徹夜だってきっと余裕だ。……明日はちょっと眠いだろうけど。
「……そんな嬉しいのかよ」
隣で焼きそばパンを食べていた香納がぼそっと問いを投げてきた。
「そりゃ嬉しいよ! もう勇気もやる気も100万倍って感じ!」
「……100万ね」
さらに低い声でつぶやいてから、香納は残りのパンを口に放り込んで袋をぐしゃぐしゃにつぶす。乱暴な動作だった。
(気のせいかな……今日の香納、イラついてる?)
口数が少なく不愛想なのはいつものことだけど、今日は何割増しか拍車がかかっている──ように思えるのは、るー先輩のことで、おれや周りのテンションが高すぎるせいだろうか。
(それとも……もしかして香納は、るー先輩の参加が嫌だとか……?)
考えてみれば、香納は相当な努力をしてセリフを暗記してくれたはずだ。それがここに来てまた変更するとしたら。
──考えるまでもなく大変に決まっている。
(どうしよう。おれ、浮かれて香納のこと考えられてなかった)
すっと頭が冷えて、罪悪感がむくむく心を覆った。
でも……るー先輩に出てほしい気持ちも、やっぱり変わらない。
「あの、香納。セリフを大きく調整するのはトウマ役だけで、他の役にはそんなに変更かけないから。タケルのセリフも、いくつかちょっと変更するだけで済む……ううん、済ませるから。相手が車椅子で、目線は変わることになるけど立ち位置自体は変えないし」
「は? 誰もんなこと聞いてねーけど」
返ってきたのは呆れきったような声だった。
「え、でも……調整入るのが嫌なんじゃ……?」
「大したことじゃねーだろ。相手が変わりゃ動きだって勝手に変わる。2日で慣れる」
言って、香納は立ち上がった。
「ど、どこ行くの?」
「自販」
それだけ答え、大股に出口へ歩いていく。
(調整が嫌なわけじゃない? ええ……じゃあなんで機嫌悪いんだよ……!?)

