仮縫いの恋をかがる

「琥珀、ここの裾の動きなんだけどさ」
 三村がスマホを傾けて俺の目の前に差し出す。画面に映っているのはサンプルを着用した遼平だ。遼平がくるりとターンしたところを捉えた動画だった。
「落ちる時にちょっとストンと落ち過ぎかなって。もう少しふわっとした方が生田のイメージには合うかなって思うんだけど」
「それ、俺も思った。布と布の間に空気がある方がイメージ合ってるよな」
 放課後の家庭科室はほとんど戦場に近い。コンテストまで五日、俺のグループも花巻部長のグループもラストスパートに入った。
 俺も本縫いはほとんど終わっている。あとは本当に細かい微調整を何度も繰り返し、少しでもいい作品に仕上げていく段階だった。
「サテン……いや、シフォンをワイドパンツの表に少し足そう。太もも側に足せば、動いた時にふわふわ揺れる」
「わたし、準備室でシフォン探してきます」
 俺の言葉を側で聞いていた一年生が動いてくれた。ありがとう、と声をかけてからワイドパンツのウエスト部分をチェックする。俺が作ったのは袴をモチーフにした物だ。プリーツをしっかり効かせて、縦のラインを強調してある。プリーツとシフォンのふんわり感は真逆の特性だけど、遼平にはきっと似合う。絶対似合う。
「遼平、着てくれ」
 ワイドパンツを差し出すと、遼平は家庭科室の端に作った、カーテンで仕切っただけの簡易更衣室へと向かった。
 その背中をじっと見つめた。
 恋人ごっこは延長になったし、優斗には話し合うと約束までしたけれど、遼平とはまだちゃんと向き合えていない。
 家庭科室でのあのキス未満直後よりは、いくらかぎこちなさは取れたけれど、前みたいに話せているか、と言われたら否定せざるを得ない。
 向き合えないのは仕方がない、コンテストの準備でそれどころじゃない。……というのが言い訳であることは、自分が一番わかっている。
 遼平は相変わらず毎日俺を送ってくれているから、電車に乗っている間にまずは一言謝るくらいは出来るはずだ。だから「時間がない」わけじゃない。
 俺にないのは意気地と勇気だった。何せ未だに、コンテストの作品は本当は遼平をイメージしてデザインした物だ、ということさえ言えていない。
 それから、あの写真のことも言えなかった。俺と遼平が家庭科室で抱き合っているところを撮られた写真のことだ。
 幸い、封筒はあれ以来届いていない。嫌がらせであの写真が学校中にバラ撒かれたりしたらどうしよう、という不安もあったけれど、今のところそういうこともなかった。
 怖いという気持ちは微塵も消えてくれなかったけれど、相手の正体も目的もわからないんじゃ対処にも限界がある。
 情けないけれど、どうか早く諦めてくれ、と祈ることしか出来なくなっていた。
 ワイドパンツに着替えた遼平が出てくる。一年生もシフォンをいくつか抱えて戻ってきた。
 同じシフォン生地でも、硬さや手触り、張りには違いがある。それぞれを当てて、慎重に布を選別していく。
 ランウェイは服を魅せる場所だ。だからモデルは自己主張したりしない。あくまで主役は服で、その服をいかに魅力的に見せるか。それがモデルの仕事だと言われている。
 だけど俺は、出来ればモデルが最も美しく見えるようにしたい。服が主役なのはわかった上で、それでもモデルが「この服が好き」「この服を着るとワクワクする」と思ってくれたなら、こんなに嬉しいことはないと思う。
 シフォンを選び終えて、今度は長さの調整に入った。遼平は身動きひとつせず、調整が終わるまで立ちっ放しでいてくれた。
 酷いことを言った俺に怒って、もうモデルなんかやめる、と言われたらどうしようかと思ったこともあった。今ではそれを恥じている。遼平はそんな男じゃない。
 生地選びと長さの調整が終わり、取り付けの段階に入ったところで下校のチャイムが鳴った。
 一年生には帰宅を促したけれど、三村は「もう少し残る」と言ってくれた。花巻部長のグループも少し居残るようだ。
 もちろん遼平も残ってくれた。俺を送るためなのだろうけれど、「モデル」として残った方がいい、と判断してくれたのかもしれない。
 ワイドパンツにシフォンを縫いつけていると、柳先輩が居残り組全員に飲み物を差し入れてくれた。
「いい出来だな、住吉」
 俺の手元を見て柳先輩が言う。ありがとうございます、と言おうとしたら、先輩の口元がほんの少し嫌味に歪んだ。
「でも俺は去年の方が好きだったな」
 それだけ言うと、先輩は花巻部長のグループに戻って行った。
 俺も遼平も三村も、ちょっと呆気に取られてしまった。三人で目配せし合う。三村が小声で言った。
「琥珀、気にすんなよ。柳先輩、多分ちょっと嫉妬してるんだよ」
「嫉妬?」
 俺も小声で聞き返す。
「去年、自分のデザイン画は一次落ちで、一年生の琥珀が入賞したから」
 遼平はそれを聞いて、なるほどといった具合に首を縦に動かした。
 だけど俺としては、寝耳に水とまでは言わないけれど、ちょっとだけびっくりする話だったのは事実だ。
 モデルを引き受けてくれた時、「住吉なら大丈夫」「住吉の服を着てモデルとして歩けるなんて光栄だ」とまで言ってくれた。あれがもし嘘だったのだとしたら、俺はだいぶ鈍いし、だいぶめでたい。
「今年もさ、自分がモデルやれると思ってたんじゃないかな」
 三村の言葉に、息が止まりそうになった。案の定、遼平は「え?」と目を丸くしている。
(やばい、バレる!)
 遼平は今でも、「先輩が断ったから自分に白羽の矢が立った」と思っているのだ。
「三村、その話はちょっと……!」
 慌てて三村の口を塞ごうとしたけれど、もう遅い。
「え、なんだよ。俺、変なこと言った?」
 三村が気まずそうに俺と遼平を交互に見た。遼平はゆっくり俺の方を見て、視線を合わせてくる。
 目が合ったのは久しぶりだった。もうずっと長い間、それこそ一年も二年も三年も、遼平と目が合わなかった気さえしてくる。
 実際にはせいぜい数日なのに。それなのに遼平と目が合ったことが懐かしく思えて、嬉しさと同時に安心してしまった。
「……もしかして最初から」 
 遼平がそこで言葉を切る。こんな形で話すことになるなんて思っていなかったけれど、事情を知らない三村に助けてもらった、と思った。
 遼平の目を真っ直ぐに見つめて頷く。
「そう。最初から、お前に着て欲しくてデザインした」
 俺の言葉を受けて、遼平より驚いたのは三村だ。
「え、琥珀まだ言ってなかったんだ?」
「……そーだよ」
「てっきり依頼の時に言ってると思ってた。ビビったぁ」
 心底びっくりした、みたいにしみじみ三村が言うから、俺も遼平も何だか可笑しくなって笑った。久々に遼平の笑顔を見れたことが嬉しかった。
 その日の作業を終えて、遼平とふたりで駅に向かった。三村は自転車通学なので帰りは別だ。
 遼平は何も言わなかった。きっと聞きたいことは山ほどあるだろうに、何も言ってこない。
 俺も黙っていた。正確に言えば、言葉を探したけれど見つからなかった。
(でも……気まずさはなくなった、かも)
 喋らなくても苦しくない。罪悪感と自己嫌悪で潰れそうだったのに、今は息をするのがいつもよりずっと楽だ。
(遼平もかな。遼平も、同じ気持ちかな)
 遼平も俺と同じで、「今は琥珀と居るの、苦しくない」って思っていて欲しい。
 そんなことを願った。
 今日も律儀に八駅先まで送ってくれた遼平と別れて、地下鉄に乗り換えて家路に着く。
 夕飯を終えてから自分の部屋で机に向かい、小物のリストと写真をバッグから取り出してチェックしていたら、ラインの通知音が聞こえた。
 画面には遼平の名前があった。ドキッとした。
 あの家庭科室での一件以来、遼平から連絡がきたのはこれが初めてだ。
 両肩を上げて、力を抜くように下ろす。一緒に息も吐いた。そっとメッセージ画面を表示させる。
『電話していい?』とあった。恋人ごっこを初めてすぐ、遼平から突然電話がかかってきた時のことを思い出した。
 普段は文字のやり取りばかりだから、電話がかかってきたことに緊張したっけ。でもそれが、「彼氏」っぽくて擽ったかった。
『うん』と短く返す。少しの間を置いて、電話がかかってきた。
「忙しい時にごめんな」
 遼平が先に謝るから、居た堪れない気持ちになる。謝るのは俺の方なのに。
「……久しぶりに、電話してる気がする」
 遼平がぽつりと零す。俺は立ち上がって、ベッドの縁に腰を下ろした。
「気がする、じゃねーよ。……結構、久しぶり」
 俺がそう返すと、遼平は「うん、だよな」と同意の言葉を返してきた。
「……琥珀、あのさ」
「うん」
「……俺、ずっと、あの服は俺のための服じゃないって思ってた」
 静かな遼平の声が鼓膜の奥に優しく響く。
「断られたからって言ってたし、……俺は代打っていうか、……代わりなんだなって思ってたんだよ」
「……俺が、悪い。ちゃんと言わなかったから」
 俺の言葉に遼平は「俺だって思い込んでた」と言った。
「……彼氏も『フリ』だし、モデルも『代わり』だし、……なんか、本当に卑屈なんだけど、俺って琥珀にとって何なんだろう、琥珀は俺のことどう思ってるんだろ、とか色々考えちゃって。……そしたら、あの日、家庭科室で誰かに見られてることに気づいて」
 俺を怖がらせないためなのか、遼平はいつもよりゆっくりした口調で話を続けた。
 膝の上で作った拳をきゅっと握り、遼平の声に耳を傾ける。
「最初は、うわ、怖い、覗かれてるって思った。……けど、琥珀が真っ青になって震えてるのがわかって、今度はめちゃくちゃ腹が立った」
「腹が、……立つって?」
「琥珀のことを怖がらせて傷つけるヤツが、ドアの向こうに居るんだって思ったらめちゃくちゃ腹が立った。『絶対諦めさせてやる、琥珀の彼氏は俺だ』って思って、……牽制してやるって思って、あんなことした」
 ごめんな、琥珀。そう続いたけれど、俺の耳に残ったのはそれじゃない。
「……遼平」
「なに?」
「今、なんて言った?」
「え? ごめんな、琥珀って」
「違う、その前」
「『めちゃくちゃ腹が立って』」
「それじゃない、そのあと」
「『琥珀の彼氏は俺だって思って』」
 一気に体温が上昇した。顔と耳と首筋に熱が競り上がり、その熱はやがて心臓を包み込む。
 ドキドキして、胸がきゅうっとして、電話でよかったと思った。もし目の前でこんなことを言われていたら、俺の気持ちは全部遼平にバレてしまったに違いないからだ。
(……うん、バレてたな)
 お前のこと、特別に思ってる。優斗とも幼馴染みで、アイツのことも好きだけど、遼平のことは俺、もっと。もっと特別な枠に、お前のことを。
「……琥珀、すごく怒ってたから、……やっぱりギリギリ当たってなくても、キスっぽいことされたの嫌だったんだなって思って反省した」
 遼平の頓珍漢な勘違いにがっくり項垂れた。そんなことで怒ってねーよ、ばか。
「あのな、俺はそのことは怒ってねーよ……びっくりは、したけど……」
「え? じゃあ何で怒ってたんだよ」
「お前があんなタイミングで優斗の名前なんか出すからだろ。優斗にも言われてるし、とか言われたら、そりゃ迷惑かけてんのは俺だけど、頼まれたから渋々、嫌々やってます、って意味だと思ったんだよ。傷つくに決まってんだろうが」
 早口で捲し立てた。気まずさなんてもうとっくに吹き飛んでいる。
「何だよ、それ。もちろん頼まれたのは確かだけどさ。ちゃんと自分の意思で琥珀の彼氏になったんだけど」
「そっ、……そ、ういうのは、ちゃんと口に出して言うべきだろ……」
 恥ずかしさと嬉しさがごちゃ混ぜで、つい口ごもりながら零した。電話の向こうで遼平はふっと笑って、「うん、それもそうだよな」と言う。
「……俺たち、ちゃんと話してなかったよな、ずっと。俺も琥珀も、ちょっと不器用なのかも」
「ちょっとどころじゃねーだろ……」
 片手で頭を抱えるようにして吐き出した。俺たちはきっと、空回りすることだけは得意なんだろう。
「でも、今話せたから」
 遼平の声が真っ直ぐ耳に届く。
「今話せたから、もう迷わない」
「……迷わないって、なんだよ」
 小さな声で尋ねると、遼平も同じくらい小さな声で、「コンテストが終わったら、ちゃんと言う」と言った。
 囁くようなその声が甘ったるくて眩暈がしそうになる。
「……琥珀も、俺に言いたいことあるよな?」
 ある。いっぱいある。たくさんある。
「……コンテストが終わったら、な」
 真似するみたいに返した。
 お互いの気持ちは充分わかったし、自分たちには圧倒的に言葉が足りていないということもわかった。
 だけど今は、目の前に迫ったコンテストに集中したい。それが、俺の服のために力を貸してくれた仲間や、応援してくれた優斗、それから何より遼平への恩返しになるはずだ。
 俺の言葉に遼平は優しい声で、「うん、頑張ろうな」と言った。


 掌に人の字を書いて飲み込む。古典的過ぎると思うけれど、やらずにはいられない。数十人目の人を飲み込もうとした時、目の前の優斗が呆れたみたいに言った。
「緊張し過ぎだ、琥珀」
 コンテスト当日の朝、被服部の部員全員と顧問、それからモデルの遼平と共に会場前で落ち合った。観客として応援に駆けつけてくれた優斗まで、ちゃっかり部員たちに紛れ込んでいる。
「つーか、お前は何でここに居るんだよ……仮に二次審査に通っても、ランウェイは夕方だぞ」
「幼馴染みの晴れ舞台だからな。それに荷物運んだりするのに、人手はいくらあってもいいだろ?」
 確かにそれはその通りなので、遼平も「荷物多いもんなぁ……」と言いながら、部員たちの手元を見た。
 キャリーバッグにはメイク道具や裁縫道具、予備の布などが入っている。
 俺も今日はキャリーバッグ持参だ。中身は去年の受賞作品で、これはコンテスト側から持参するように言われた。
 入賞者の過去の作品を見たい、と言う審査員が居た場合のためらしい。
 今日は午前中から昼過ぎにかけて、二次審査が行われる予定だ。俺と花巻部長もついさきほど、コンテスト運営に作品を提出してきた。
 二次審査の結果は審査後にすぐ発表され、その二時間後、大体十六時頃に最終選考のランウェイが行われる。
 もう作品は提出してしまった。あとはただ、自分の作品を信じて待つだけだ。
「大丈夫だよ、琥珀」
 遼平が俺の背中をトンッと叩く。
「絶対大丈夫」
「……おー、……信じる、うん」
 この作品のために力を貸してくれたグループのみんなに、きちんと向き合って頭を下げた。
「ありがとう。ここまでこられたのは、みんなのおかげです。信じて待ちます。だから、……だから最終に残ったら、ランウェイでも力を貸してください」
 三村が泣きそうな顔をして、「泣くにはまだ早いんだから、今泣かせるなよ……」と言ってみんなを笑わせた。
 隣の遼平をこっそり盗み見る。数日前の電話で、俺たちは絡まっていた糸を解くみたいにしながら話し合いをした。
「コンテストが終わったら」をふたりの合言葉のようにしたけれど、俺は遼平の顔を真正面から見られなくなっている。
 気まずい、とか、罪悪感が、とか、前みたいなそんな理由じゃなくて、遼平が眩しく見えてまともに顔を見ることが出来ない。
 自分の気持ちを自覚してしまうと、こんなにも普通のことが出来なくなるのか、と思った。
 対する遼平は至って「普通」だ。普通に俺の隣に居てくれて、普通に俺の名前を呼ぶ。遼平に名前を呼ばれるだけで、こっちは心臓が破裂しそうなくらいなのに。
(……しれっとしやがって。コンテスト終わったら覚えてろよ)
 絶対にときめかせてやる。俺の普段の苦労を思い知れ。
 そんな理不尽極まりない八つ当たりをされているなんて、遼平自身は夢にも思っていないだろう。
 二次審査の結果が出るまで、会場はピリピリしたムードで心が疲れそうだったけれど、何とか堪えた。この緊張を乗り越えなければ、この先の審査には進めないのだ。
 張り詰めた空気の中、午前が終わり、午後になった。コンテストにエントリーしている学生たちは昼食に入る。俺たちもそれぞれ持参したものを控え室で食べた。
 正直、喉通りはよくない。花巻部長も一口二口食べて手を止めた。気持ちはわかる。
 ふと見ると遼平も同じで、不安そうな顔でお茶を飲んでいた。
「遼平、大丈夫か?」
 俺の質問に遼平は苦笑いを零してから呟く。
「うん……、なんていうか、転んだりしたらどうしようって思っちゃって……」
 まだ二次審査の結果も出ていないのに、と思ったけれど、遼平の不安はとてもよくわかった。
 さっき遼平が俺にしてくれたみたいに、遼平の背中をトン、と叩く。
「大丈夫」
 心の底から、嘘偽りのない本心でそう伝えた。
「遼平なら、大丈夫」
 俺の言葉を受け止めた遼平が、うん、と深く顎を引いた。
 昼休憩が終わって、午後一時半を過ぎた頃、コンテスト運営部のスタッフが控え室に顔を出した。
 ごくりと唾を呑み、その人の次の言葉を待つ。
「二次審査が終了しました。合格者を発表します」
 控え室は酸素が急に薄くなったみたいだ。しんと静まり返っている。
 スタッフがひとりひとり、名前を読み上げていった。名前を呼ばれた人たちが次々に歓声を上げ、中には抱き合って喜ぶ人も居た。
 最終審査に残るのは、明確に人数は決まっていないけれど毎年十名ほどだ。
 六人目として名前を呼ばれたのは、花巻部長だった。
 部員たちが大喜びで花巻部長を祝福する。俺も目一杯拍手を送った。
 次に呼ばれなかったら、落ちた可能性が高い。早鐘を打つ心臓が、耳のすぐ側にあるような気がする。それくらい大きな音が身体の中で響いた。
「住吉琥珀さん」
 名前を呼ばれた瞬間、力が抜けた。遼平も、優斗も三村も、部員たちも、全員が俺に拍手をくれた。
「琥珀!」
 遼平が俺を呼ぶ。優斗と三村も「琥珀」と呼んだ。
「うん。……うん、ありがとう」
 絞り出すように言ってから、自分の頬を両手で叩く。本番はここからだ。
 最終審査に駒を進めた十名には控え室がそれぞれ与えられた。そこに大急ぎで荷物を運び入れる。同時に遼平のヘアメイクが始まった。
 衣装である作品は後ほど、自分たちで取りに行くか、スタッフが各控え室に運んでくれることになっている。俺のグループは人数がギリギリなので、運んでもらうことにした。
 衣装が届くまでの間に俺と三村で小物の最終チェックを進めた。
「靴は二足持ってきてるよな?」
「うん。万が一のこと考えて二足用意してる」
「シフォンの予備、何メートルある?」
「幅1メートル、長さ2メートル」
 俺の質問に三村が滞りなく答えてくれる。これだけでかなり心強かった。
 生地の予備は俺も別で持ってきている。何が起こるかわからないのが本番の怖いところだからだ。
 その時、廊下から怒鳴り声と悲鳴のようなものが聞こえた。全員が一瞬、手を止めた。
 優斗がそっとドアを開ける。隙間から廊下の声がクリアに聞こえてきた。
「レース持ってきてないってどうして!」
「だってもう完成してますし、それにまさかこんな、本番前にほつれるなんて……!」
 どうやら別の学校の生徒らしい。予備の準備が不十分だったようだ。
 キャリーバッグを開ける。チュールレースとケミカルレースなら5メートルずつだけど予備を持ってきている。
 それを手にしてドアに向かったら、その前に居た優斗に止められた。
「何する気だ?」
「レース、俺持ってるから。これじゃ足りねーかもしれないけど、ないよりは役に立つかも」
「相手はライバルだぞ」
 優斗の言葉に、ふっと息を吐いて笑った。
「ライバルかもしれないけど、仲間でもある。名前も知らないけど、仲間だから」
 お人好しだな、お前は。そう言って優斗は俺の髪をくしゃっと撫でると、身体を横にずらした。
 後ろで遼平が「琥珀」と俺を呼ぶ。
「琥珀の思うようにするのが一番だよ」
 そう言って瞳を細めた。
 廊下に出て、ほとんどパニックみたいになっている女子生徒に声をかける。
「レースってどれ? チュールとケミカルなら5メートルずつある」
 呆気に取られたように目を見開いた女子生徒が、俺の手元を見て号泣した。俺の意図がわかったらしい。
「どっちもです、どっちも使ってて」
 しゃくり上げながらも答えてくれた。
「ごめん、でも5メートルしかないんだよ。足りる?」
「足ります、足ります、足りますけど、でも困るんじゃないですか」
「大丈夫。本当に念のために持ってきただけ。使って」
 レースを押し付けるみたいにして渡した。女子生徒は更に泣き崩れるみたいに膝から落ちて、「ありがとうございます」と繰り返した。
 自分の控え室に戻り、準備を再開した。アクセサリーのチェックを終えた辺りで、三村が言う。
「衣装、遅くない?」
 そういえば、まだ俺の元に衣装は運ばれていない。
「確認してくる」と言って立ち上がろうとしたら、優斗が「俺が聞いてくる」と言ってくれた。
「お前はここを離れたら駄目だろ」
「ありがとな。運営部は右端の会議室だから」
 優斗が部屋を出ていくのを見送ってから、メイク担当の一年生が俺を呼ぶ。
「シャドウ、この黒でどうですか?」
「うん、いいな。唇の色は出来るだけ消して欲しい」
「わかりました」
 その時、ドアが乱暴に開いた。優斗が青ざめた顔で立っている。
「誰か、衣装の受け取り、行ったか?」
 質問の意味がわからない。全員が眉を寄せた。
「運営に言われた。住吉琥珀のチームのひとりが、少し前に衣装を受け取りにきたって」
 ドッと心臓が大きく跳ねて、顔から血の気が引いていく。グループのみんながざわついて、三村が叫ぶように言った。
「琥珀のグループはここに居るメンバーだけだ。控え室に入った段階で全員揃ってた!」
「つまり、誰かがグループの人間だって嘘を吐いて、衣装を持ち逃げしたってことか」
 優斗の言葉に、膝が震えてその場にしゃがみ込んでしまった。
「琥珀!」
「住吉先輩!」
 みんなが口々に俺の名前を呼ぶけれど、全然頭に入ってこない。
(どうして……)
 一体、どこの誰がそんなことを。
 考えないように敢えて隅に追いやっていた、あの家庭科室の写真を思い出したのはその時だ。
 ぞわりと背中に冷たいものが走る。息を上手く吸えなくて、動悸と共に頭痛がした。
 遼平も優斗も、俺と同じことを思い当たったのかもしれない。遼平が弾かれたように立ち上がって、俺の側まで駆け寄ってくる。
「琥珀」
「遼平……」
「探そう。全員で手分けして、探そう。琥珀の番は七番目だ。ランウェイ本番までまだ時間はあるよ」
「でも、でも、誰が持ってったのか、そもそも無事なのかもわからない……」
 震える声が口から漏れた。遼平は俺の頬を両手で包み、「でもそれは、諦める理由にはならないよ」と力強く言った。
 全員が作業を中断し、手分けして探すことになった。
 三村が「ないと思うけど、他の学校の人のとこに紛れてないか聞いてくる」と言い、一年生たちは「花巻部長のところに行って確認します」と言ってくれた。
 俺と遼平と優斗は、万が一を考えて会場中のゴミ箱やトイレを探すことになった。こんな悪意の塊みたいなことをする人間だ、捨てられている可能性だって充分ある。
(これは、俺の自業自得なんだろうか)
 そんな考えが、むくりと頭を擡げた。
 最初に封筒が届いた時にきちんと対処していれば、ここまで相手が拗らせることはなかったかもしれない。
 だけど、対処って? 差出人の名前すらないのだ。不規則に届く封筒のために、四六時中、靴箱を見張るなんて不可能だ。
 一階の男子トイレの中を覗く。
 ──ない。
 廊下のゴミ箱を端から順に調べる。
 ──ない。
 隠せそうな階段の下、扉の影を見て周る。
 ──ない。
 ない、ない。どこにもない。
(俺の自業自得なわけあるか……!)
 言いたいことがあるなら直接こい! そしたらどんなに理不尽な言いがかりでも聞いてやる!
 さすがにこれはナシだろ。あれは、あの作品は、俺だけの物じゃない。
 手伝ってくれた、応援してくれた、みんなの心が詰まった、みんなの作品なのに!
 二階から降りてきた遼平と階段で鉢合った。
「あった!?」
 遼平の声に力なく首を振る。遼平は「三階は今、優斗が見てるから」と言った。
 その時、花巻部長の元へ行っていた一年生が駆け寄ってきた。
「部長のところにもなかったです」
「部長に話した?」
 俺の質問に一年生は「いいえ」と返してくる。
「部長も本番前で大変な時ですから、言えませんでした。部屋の中を見せてもらっただけです」
「よかった。部長に知られたら、部長のことだから自分のことそっちのけで探すって言い出すから」
 ホッと息を吐く。すると一年生がおずおずと口を開いた。
「これは関係ないかも知れないんですけど……」
「? なんか心当たりあるのか?」
「心当たりというか、……柳先輩の姿が見えませんでした。柳先輩は副部長だし、おかしいなと思って聞いたら、体調が優れないから別の部屋で少し休ませてもらうって言って、出て行ったそうです」
 嫌な予感とでも言うべきなのか、ざわざわとした胸騒ぎがあっという間に身体を支配した。
「別の部屋ってどこかわかる?」
 遼平が優しく尋ねる。恐らく遼平も俺と同じ予感を抱いたんだろう。
「あ、三階の控え室Bです」
 遼平と目が合った。一年生には小物のチェックの続きを頼むことにした。
 一年生が俺の控え室に入ったのを確認してから、遼平が「優斗に電話する」と言った。
「優斗、控え室Bって見た? ……いや、二階じゃなくて三階の。優斗、今三階じゃないの?」
 遼平の電話を横で聞きながら、居ても立っても居られない衝動に駆られる。一刻も早く柳先輩を探しに行かないと。そんな焦る気持ちを抑えられなくなって、俺は階段を駆け上がっていた。
「琥珀!」
 遼平の叫ぶ声が背中に飛ぶ。振り返る余裕なんか微塵もなかった。
 三階まで駆け上がる。控え室Bは西の端にあった。
 息を整えながら控え室Bの前に立つ。意を決してドアをノックする。返事の代わりにガタッと音がした。
 ドアを勢いよく押し開き、部屋の中へと踏み込む。
 柳先輩が俺の作品に、鋏を入れようとしていた。
「ッ、何やってんだよ!」
 大声で叫んだら、柳先輩はその声を掻き消すほどの大きな唸り声で「全部お前のせいだ!」と叫ぶ。
「俺の、せいって……」
「……去年の大会で、一年生のお前に負けた時は悔しかった」
 やっぱりそれが原因だったのか。だけどそれだけでは腑に落ちないことがいくつもある。そもそもあの写真とメモは、一体どういうつもりで届けていたのか、全然わからない。
 柳先輩が震えた声で続ける。怒りで震えているのか、それとも泣きそうで震えているのか、俺には判断出来なかった。
「……でも、それでもよかったんだ。悔しかったけど、住吉の服は素晴らしい出来だった。それに、住吉は俺に別の存在意義をくれたじゃないか」
 歪んだ笑みを口端に乗せた柳先輩と目が合う。
「……別の、存在意義ですか……?」
「そう。そうだよ、お前は俺をモデルに起用してくれた。お前の素晴らしい作品を、この世に送り出すための重要な役割を果たすモデルに、俺を選んでくれた」
 ちょうどその時、遅れてやってきた遼平と優斗も部屋へと入ってきた。柳先輩は遼平の姿を見た途端、激しい怒りを露わにして叫ぶ。
「生田が居なかったら、今年もその役割は俺のものだったんだ!」
 突然名指しされた遼平が戸惑いの色を瞳に滲ませた。だけどすぐに険しい目つきに変わる。先輩の手に握られている鋏を見つけたらしい。
「……琥珀、下がって」
 小さな声でそう言われたけれど、俺が引き下がるわけにはいかなかった。遼平を片手でやんわりと制して、先輩を見据える。
「服を作る人間の気持ちは、同じく作る人間にしかわからない。住吉の服の魅力を伝えられるのは、生田じゃなくて俺なんだ。なのにお前は裏切った。俺を選ばなかった。ずっと見てたのに、近くで見てたのに、俺の方を見ようともしなかった!」
 鋏を持つ先輩の手が震えているのがわかった。追い詰められているのが伝わってくる。
 勝手なことぬかすな、とか、だからってやっていいことと悪いこともわかんねーのかよ、とか、本当にいろいろ言いたいことはあった。
 あったけれど、そのどれもを呑み込むことにした。その代わり、絶対に言っておかなければならないことがある。
「先輩、違います」
「琥珀、刺激するな」
 優斗が俺を諌めるように言う。大丈夫、という目配せをふたりに送って続けた。
「服を作る人間の気持ちは、同じように作る側の人間にしかわからないっていうのは、俺は違うと思います。服は、気持ちを引き上げてくれる。奮い立たせてくれるものだから。それが着てくれる人に伝わるのが、作り手にとって一番嬉しいことだって思ってます」
 例えば、何かの勝負の日、特別な日、「この服なら乗り越えられる」という場面が、きっと誰の人生にも一度や二度は訪れる。
 服に袖を通した人の気持ちを上手に、優しく、引き上げてくれますように。少なくとも俺は、そんな気持ちを込めて服を作っている。
 昔、下手くそに繕った袖口を見て、ホッとしたように笑ってから嬉しそうにしてくれた、遼平の笑顔が、俺にその気持ちを教えてくれた。
 先輩は黙っている。唇を噛み、肩を震わせていた。やがて小さな声でぽつりと呟く。
「……こんなことがしたかったんじゃないんだ。でも、どうしても許せない。ごめん」
 先輩が鋏を持つ手を振り上げた。考えるより先に身体が動いた。手を伸ばし、全速力で駆け寄る。
「琥珀!」
 遼平と優斗が叫ぶ。俺の手が作品の裾に触れる寸前、先輩が鋏を振り上げたまま振り返った。
 まずい、当たる──……そう思った次の瞬間、俺の手を誰かが後ろに勢いよく引いた。バランスを崩して床に尻餅をついた俺の視界に飛び込んできたのは、遼平の背中だった。
 先輩が何かを叫んでいる。何が起こったのかわからない。
「遼平!」と優斗が叫んで飛び出した時、顔を斜めに背けた遼平の左頬が見えた。そこから薄っすらと血が伝った。
「……遼平!」
 慌てて立ち上がり、遼平の身体を支える。遼平は「掠っただけだよ」と笑った。
 一気に頭に血が上る。先輩の胸ぐらを掴みに掛かろうと手を伸ばしたところで、その手を遼平が制した。
「俺なら平気。琥珀に当たらなくてよかった」
 視界がみるみるうちに滲んで、見えなくなる。
 泣くな、俺。泣いてる場合か。
 先輩は血を見たせいで正気を取り戻したのか、膝から崩れて床に額を擦りつけるようにしながら、何かを繰り返し呟いていた。
 それが「ごめん」だとわかって、俺も少しだけ力が抜ける。優斗が先輩の手からゆっくり鋏を取り上げた。
 遼平が俺の肩をそっと抱いて、俺を落ち着かせるように背中を撫でてくれた。
「……遼平、ごめん、痛ぇだろ、なぁ、大丈夫か、……遼平、ごめん、ごめんな」
「大丈夫、ちょっと掠っただけ」
 頬には3センチほどの傷が出来ていた。罪悪感と不安と心配が同時にきて苦しい。
「俺はコイツを顧問のとこに連れていく。琥珀と遼平は早く控え室に戻れ、もう時間がない」
 優斗の言葉にハッとした。作品を抱え、遼平と共に部屋を後にする。
 今、先輩に何か言うのは違う気がして、振り向かなかった。


 大急ぎで控え室に戻った。控え室の前では三村と一年生が青い顔で待っていた。
「あった! 見つかった!」
 叫びながら駆け寄る。安堵と喜びの歓声が響いたのも束の間だ。三村が「時間ない! 破損や汚損がないか調べよう!」と言った。
 遼平はメイクとヘアセットの続きに入る。メイク担当に「まずは傷の消毒をしてくれ」と頼んだ。消毒液は控え室に戻る前、運営部に寄って調達しておいた。
 目を皿のようにして、作品の細部に至るまで隈なくチェックした。
(よかった、どこも破れてない……!)
 一年生が「本番始まりました!」と言った。控え室にはモニターがある。司会者の姿が映った。
 ヘアメイクを担当していた一年生が「住吉先輩!」と焦った声で俺を呼ぶ。
「傷がある場所にはメイク出来ません……、そこを避けるとどうしてもムラが出来ます」
 慌てて駆け寄る。傷は幸いにも深いものではなかったけれど、出来たばかりだからか周辺が赤くなっていた。
 三村も遼平の傷を見て、「服のカラーはモノトーンで揃ってる。頬の赤みが目立つのはまずいな」と呟いた。
(どうしよう。どうすればいい?)
 必死に頭を回転させる。一年生が「そろそろ移動始まります!」と声を張り上げる。
 その時、頭の中に一筋の光が差し込んだ。キャリーバッグの中から去年の受賞作品を引っ張り出す。
 作品の胸元には幅の広い大きなレースが縫い付けてある。手早く鋏でレースを留めていたかがり糸を切った。
「おい、琥珀、いいのか?」
 三村が不安そうな声を上げる。
「いいんだよ。服は、誰かのためにあるんだ」
 レースを剥ぎ取り、端を処理した。予備があればそれを使ったけれど、生憎レースは別の学校の女子生徒に全部渡してしまった。これしか方法はない。
 みんなが固唾を呑んで俺の手元を見ている。端の処理を終えてから、一年生に「一番細い両面テープ出して」と伝えた。
 遼平の左頬にレースを当てがう。三村が「あ!」と声を上げる。
「レースで傷周りを隠すのか!」
「そう。服にもレースは使ってるし、浮かねーと思う。遼平、両面テープで留めるから、後からちょっと痒くなったりするかも知れないけど、傷には絶対触れないようにするから」
「わかった」
 頷いた後、遼平が瞳を閉じた。一年生が両面テープを俺に差し出してくれる。
 レースの裏にテープを貼り、それを遼平の頬にゆっくり、端から貼り付けていく。傷に当たらないように細心の注意を払った。
 貼り終えた遼平を見て、みんなが「わぁ!」「素敵です」と口々に言う。それを聞いて漸く肩の力が抜けた。
 遼平の着替えを終え、最終のチェックが終わった辺りで「住吉さん、移動お願いします」と控え室に入ってきたスタッフが言った。
 みんなは観客席へと急ぐ。俺と遼平だけで舞台袖に移動した。
(やれることは、全部やった)
 俺の仕事はここまでだ。ここから先は、本当に見守ることしか出来ない。
 それでも不安は尽きなかった。あまりにもいろんなことがあり過ぎて、息をつく暇が全くないまま舞台袖に立つことになってしまったせいで、まだ頭が上手く回らない。
 舞台では三番目の作品のランウェイが始まっていた。俺と遼平の前には花巻部長と三年生が居て、俺を振り返るなり部長は「話は後でちゃんと聞かせて」と言った。
 舞台の袖に居ても、観客席の歓声やどよめきはよく聞こえる。三番目のモデルが戻ってくるのと同時に、四番目のモデルが舞台へと歩き出した。
(柳先輩はどうなったんだろう。そうだ、レースを渡した子って何番目だったんだ? 優斗は大丈夫かな)
 いろんなことが頭の中をぐるぐる回る。今考えなくてもいいことなのに、そういうことに限って脳内から追い出せない。
「遼平、傷は? 痛むか?」
 小声で尋ねると遼平は「痛くないよ」と緩く首を左右に振った。
 遼平の顔に傷が残ってしまったらどうしよう。貼り付けたテープは医療用のものじゃない。もし肌がかぶれたりしたら、傷に影響があるかもしれない。
 やがて花巻部長の番がきた。部長は堂々と背筋を伸ばし、ランウェイを歩くために一歩踏み出した。
 いよいよだ。いよいよ次は俺の番、遼平の番だ。祈るように手を握る。ぎゅうっと固く目を閉じて、何とか不安と緊張を宥めようとしていたら、遼平が「琥珀」と俺を呼んだ。
 目を開けて顔を上げる。遼平は真っ直ぐに俺を見つめていた。
「琥珀」
「……わかってんだ、わかってるけど、震えが止まらなくて」
 俺を庇って刃物の前に飛び出した遼平の背中が、何度も頭で再生される。怖くて苦しくて、自分でも情けないくらい手が震えた。
 遼平は、「うん」と頷く。たったそれだけなのに、俺の不安や恐怖をちゃんと受け止めてくれている、とわかった。
「俺を信じて。──堂々と歩いて、琥珀の元に戻ってくるよ」
 真剣な眼差しに、背筋が伸びる思いがした。ふーっと息を吐く。
「ここで、お前を待ってる」
 俺が言うと同時に花巻部長が戻ってきた。
 遼平は足を大きく踏み出し、眩しい光の中へと歩いていく。
(……遼平)
 遼平、遼平。
 心の中で何度も名前を呼んだ。歓声も音楽も何も聞こえない。聞こえるのは自分の心臓の音だけだ。
 ステージの中央で止まり、コートの裾を翻した遼平が真っ直ぐに前を見ながら戻ってくる。
(……綺麗だ)
 遼平のために、俺が作った服。初めて、誰かのために作りたいと思った服が、煌めくステージの上に美しく足跡を残していく。
「琥珀!」
 袖に戻った遼平が俺の元へと走り寄る。その姿がもう、涙で滲んで全然見えない。
 遼平は切らした息を整えてから俺の頬を両手で包み込んで、上を向かせた。
「琥珀の泣き虫」
「……お前に言われたくねーよ」
 声にならない声で言い返す。遼平はくしゃくしゃに表情を崩して、「ただいま」と言った。