仮縫いの恋をかがる

「琥珀、一次審査通過おめでとう!」
 放課後、家庭科室のドアを開けるなり、三村が拍手と共に俺を迎えた。
 他の部員たちも口々に祝ってくれる。照れくさいけれど、ありがとうと言いながら会釈した。
 結果を知らされたのは今日の昼休みだ。遼平と一緒に家庭科準備室に行こうとしていたところを、顧問に呼び止められた。
(遼平、すげー喜んでたな)
 俺より喜んでいたかも知れない。思い出すと自然と顔がニヤけた。
 部活の前に優斗にも報告した。優斗は「何にも心配してなかった」としれっと言った後、「頑張れよ」と言って俺の頭をクシャクシャに撫でた。
 俺の他に一次審査を通過したのは花巻部長だけのようだ。部長が「頑張ろうね、住吉くん」と言ってガッツポーズをした。
 隅の席に三村と座った。三村にはコンテスト応募前に既に見てもらい、コピーを渡している。三村はそのコピーと、俺が持っている原画を横に並べた。
「いいデザインだな、うん」
 三村が腕組みしながら、うんうん、と頷いた。
「パターン、頼めるか?」
「もちろん。完璧に型に起こしてみせる」
 自信たっぷりに胸を張る三村が頼もしかった。
「それで? モデルはやっぱり去年みたいに柳先輩に頼むのか?」
 三村の質問に、そのことなんだけどな、と切り出す。まだ柳先輩は来ていないから聞かれる心配はないけれど、何となく小声になった。
「実は、モデルを頼みたいヤツが居る」
 俺の一言に三村はニヤリと笑って言った。
「だと思った」
「え、なんでわかった?」
 驚いて三村の顔を見返す。三村は人差し指を立てて顔の前で左右に振った。
「住吉琥珀デザイナー専属の優秀パタンナーをナメてもらっちゃ困る」
 デザイン画を手に取り、三村が続ける。
「今までの琥珀のデザインとはちょっとテイストが違うなって思った。最初は、これまでほとんど取り入れてなかった和がモチーフだからかな、と思ったんだけど、このデザインからは琥珀の明確な意志が伝わってくるんだ」
 三村の言葉に、俺も改めてデザイン画を見つめた。
 今回、俺が起こしたデザインは着物をモチーフにしたメンズ服だ。
 着流しをマキシ丈のコートにアレンジした。ボトムスは袴をイメージしたワイドパンツだ。コートの裾を邪魔しないように、短めにしてある。コートのウエストには帯代わりに太めのベルトを使用した。帯留めなんかでアレンジしたら、着る人の個性が出せるはずだ。
(……似合うように描いたんだ)
 この服はきっと、遼平の魅力を最大限に引き出してくれる。
 三村が俺の耳にそっと唇を寄せた。
「で? 生田はオッケーしてくれたか?」
 突然遼平の名前が出て、椅子から転げ落ちそうになった。そんな俺を見て、三村がニヤニヤ笑う。
「図星?」
「……なんでわかったんだよ」
「いやー、そりゃまぁ、な! 最近ずっと一緒に居るなー、みたいな? 甲斐甲斐しく部活が終わるの待ってるし、お迎えには来るし?」
 含みを持たせた笑顔で俺を見た。
(くそ……、だから迎えになんか来なくていいって言ったのに)
 恋人ごっこを始めて、既に三週間が過ぎようとしている。部活がある日、遼平は毎回律儀に待っていてくれて、更には迎えに来るのだ。部内ではすっかり遼平のお迎えは周知の事実になってしまった。
 だけどそれが功を奏したのか、あの気持ちの悪い封書は遼平が俺を迎えに来るようになってから、ピタリと止まった。
「けどさ、琥珀。それだけじゃなくてさ」
 三村がひとつ咳払いをしてから続ける。
「俺、このデザインを見た時、生田に似合いそうだって思ったんだ」
 声のトーンが少し変わった。
「生田の柔い雰囲気とちょっと外国っぽい顔立ちって、もっと柔らかくて優しい色が合うような感じ、するじゃん」
 三村が瞳を細めて、デザイン画と俺を交互に見る。
「でも、黒一色で和がモチーフのデザイン画を見た時、生田のビジュアルとは真逆で、逆にそれが琥珀お得意の異素材の組み合わせにピタッと合うなって思った」
 三村の言葉ひとつひとつを噛み締めるように頷いた。デザイナーの意図を読み取って忠実に再現する、パタンナーに必要な絶対的才能を三村は持っている。
 三村とタッグを組める俺は、とてつもなく幸運だ。
 部活を終えたタイミングで、遼平が例の如く迎えにやってきた。後ろで三村がまたニヤついていたけれど、才能に免じて見なかったことにしてやろう。
「琥珀、今日も大丈夫だった?」
 遼平の質問が一体なんのことなのか、一瞬わからなかったけれど、すぐに封筒のことだと気づいた。
「大丈夫。もう三週間、何もナシ」
 俺がそう言うと遼平は心底ホッとしたように息を吐く。
「よかった……、諦めてくれたんならそれが一番いいよ」
「マジでありがとな」
「俺は何にもしてないよ。彼氏のフリしただけ」
 フリ、という言葉に、きゅっと心臓が縮む。期間限定の「恋人ごっこ」は、あと一週間もすれば約束の一ヶ月を迎えるのだ。
 最初はとんでもないことになったと思ったけれど、名残惜しいなんて言ったら遼平はどんな顔をするだろう。
 駅のホームで電車を待つ。俺の家に向かう路線に、電車が入ってきた。遼平は本当は逆方向だけど、今日も八駅先まで送ってくれるらしい。
 電車の中はいつもより空いていた。空いた座席も多かったから、右端の座席に並んで座ることにした。
(……言うぞ)
 深呼吸をしてから、ぐっと口を真一文字に結ぶ。それから開いた。
「遼平。頼みがある」
「頼み?」
「……俺の服のモデル、引き受けてくんねーかな」
 遼平の目が大きく見開かれる。
「俺が? え、でも俺、やったことないし……」
「それはわかってる」
「なんで俺? 去年の……名前、何だっけ。あの人じゃダメなのか?」
「柳先輩な。……ダメって言うか……」
 どうしよう。なんて言えばいいんだろう。
 遼平のためにデザインしたから着て欲しい、なんて、いくら何でも重過ぎるよな?
 遼平の負担にならない言葉を必死に探した。考えれば考えるほど、ぐるぐる悩んでしまう。
 すると、俺のそんな様子を見て遼平が何かを察したらしく、神妙な顔をして言った。
「もしかして、先輩に断られた?」
「え? あー……、その……、まぁ、うん。……そんな、とこ」
 全然違うのに、曖昧に言葉を濁す。遼平の心配そうな顔が心に刺さって、余計に本当の気持ちを言えなくなった。
 俯いて、膝の上で作った拳をじっと見つめる。居心地が悪くて、逃げ出したい気持ちになる。
 遼平は少し間を開けてから、「琥珀、顔上げて」と言った。
 恐る恐る顔を持ち上げると、遼平が俺と目を合わせてきた。柔らかい笑顔を向けてくれる。
「わかった。引き受ける」
「え……、本当か?」
「うん。困ってる琥珀、放っておけないし」
 ただし、ド素人だから大目に見てよ、と遼平が言った。
「遼平、ありがとな。マジでありがと……!」
 心の中で万歳三唱した。作品を着用したモデルがランウェイを歩くのは最終審査だ。つまりあの服を遼平に着てもらうためには、絶対に二次審査を通過しなければならない。
「俺、絶対にいい服、作るから」
 約束する、と遼平の目を見返して力強く告げる。遼平は口元を綻ばせて、「応援してる」と言った。
 家に帰ってから喜びをじわじわと実感して、ベッドにダイブし足をじたばたさせる。
(……うれしい)
 あの服を遼平に着てもらうチャンスが出来た。
(服作りの原点みたいなのを、ちゃんと思い出せたのは遼平のおかげだ)
 遼平と水族館に行ったあの日、遼平が言ってくれた「服のことで楽しそうにしてる琥珀が好きだよ」という言葉を、あれからずっと反芻している。
 昔、同じ言葉を遼平に言われたことがあったからだ。
 あれは確か小学四年生の時だったと思う。高学年になり家庭科の授業が始まって、男子たちは「調理実習は楽しいけど、裁縫はダルい」と文句を言うヤツが大半だった。
 だけど俺は結構楽しかった。真っ直ぐ縫えたら嬉しかったし、縫い方の種類がたくさんあることにも驚いた。
 当時、実習で作った巾着は今でも大事に保管している。
 放課後、みんなで遊んでいた時、木に服を引っ掛けた遼平が突然泣き出した。
 男子たちは「また遼平が泣いた」と囃し立て、それに怒った優斗がそいつらを追っかけ回して、俺は泣いている遼平の側でおろおろしながら泣き止むのを待っていた。
「痛いとこあるか?」と聞いた俺に、遼平はふるふると首を振る。怪我をしたわけではなさそうだと思ってホッとした時、遼平が小さな声で「やぶれちゃった……」と言った。
「破れた?」
「ここ……」
 遼平が見せてくれたのは、木に引っ掛けた袖口だった。引き裂かれたみたいに破れていた。
「どうしよう……お母さんに怒られる……」
 不安そうな声で悲しげに眉尻を下げる遼平を見て思いついた。
「ちょっと待ってろ!」
 ブランコの近くに置いていたランドセルたちの元へ急ぐ。その日は裁縫の授業があったので、裁縫道具を一式持っていた。
 それを持ち、遼平の元へ戻る。
「……? 琥珀、なにするの」
「縫ってやる。大丈夫、これくらいなら俺でも出来るから。だから泣くな」
 遼平はひくっとしゃっくりをひとつしてから、「わかった、泣かない……」と言って唇をきゅっと噛んだ。
 服を着たままの状態で縫うのは、想像よりも難しかった。慎重に、ひと針ひと針縫っていく。万が一にでも遼平の手を刺してしまわないよう、細心の注意を払った。
 いつの間にか遼平は泣き止んでいて、固唾を呑んで俺の手元を見つめている。
「……出来た!」
 今から思えば、それはかなり下手くそだった。縫い目の大きさはバラバラだし、斜めになった部分もある。
 それでも遼平は目を輝かせて言った。
「……すごい! 琥珀ありがと、すごいね、琥珀、魔法みたい」
 そんな風にたくさん褒めてくれて、俺としては照れくさかったし、誇らしかったし、何よりついさっきまであんなに泣いていた遼平の嬉しそうな顔を見て、俺も嬉しかった。
 応急処置のつもりだったから、てっきり家に帰って母親に縫い直してもらうものだと思っていたのに、遼平は俺の下手くそな繕いのまま、その服を着続けた。俺はそれが擽ったかった。
 服に興味を持ち始めたのはそれからだ。五年生の時に初めてシャツを完成させた。放課後、家庭科室を借りて作った。遼平は何が楽しいのかそれに付き合ってくれて、シャツを完成させた時に思い切って聞いてみた。
「お前、退屈じゃねーの?」
 俺が試行錯誤しながら縫い物をしているところを、ただ見ているだけなんて退屈に違いない。そう思ったのに。
 遼平は首を左右に振って、にこりと笑って言った。
「退屈じゃないよ。俺は服を作れないけど、服のことで楽しそうにしてる琥珀が好きだよ」と。
 俺の原点はここにある。下手くそな縫い目を気にせずに大事に着てくれたこと、俺の好きなことを否定せずに丸ごと認めてくれたことが嬉しかった。
 それを思い出して描いたデザイン画が一次を通過し、遼平に着てもらえるチャンスを与えてもらえた。このチャンスを絶対に掴みたい。
(そうだ、三村に連絡しとかねーと)
 モデル依頼をオッケーしてもらったことを早く伝えたい、と思ってスマホを操作しようとしたら、通知音が鳴った。柳先輩からのラインだった。
『一次通過、おめでとう!』とある。先輩は今日の部活を欠席していたので、俺の通過を部員の誰かから聞いたんだろう。
 ありがとうございます、と入力している途中で、もうひとつメッセージが届く。
『採寸、いつにする? 俺、去年より少し身長が伸びたから、正確に測っておきたい』と書いてあって、首を傾げた。
 だけどすぐに思い当たった。どうやら今年も俺が先輩にモデルを依頼すると思っているらしい。
『すみません、今年のモデルは友人に頼むことにしました』と送信した。遼平のことを「友人」と入力して、何となく、本当にちょっとだけ、寂しいような気持ちになった。
(あと、一週間くらいか)
 あと一週間くらいで、遼平は俺の「彼氏(仮)」じゃなくなる。ストーカー撃退のための恋人ごっこ作戦だったわけだから、封書が届かなくなったことを考えれば、この作戦は大成功だったと言える。
 なのに、「一ヶ月なんてあっという間だったな」「短かったな」と思ってしまう。始める時はあんなに、「早く一ヶ月経たねーかな」なんて思ったのに。
 暫くしてから柳先輩から、『わかった。頑張れよ』と返事がきた。
(今は、服に集中しよう)
 部活の仲間も、三村も、優斗も、それから遼平も、俺を応援してくれている。精一杯全力で取り組むことが、その期待に応えられる唯一の方法だ。
 ピシャリと頬を叩く。気合いを入れて、布選びのためにパソコンを立ち上げた。


 翌日からコンテストに向けて本格的に動き出した。
 俺は一年生部員三名と三村でグループを作ることになった。コンテストでは通常、布の調達や服以外の服飾品の手配をグループで手分けする。例えば靴はさすがに作れないので、イメージに合う靴を探し、アレンジでデザイン画へと近づけていく必要がある。
 花巻部長は三年生を中心に組んだ。三年生にとってはこれが最後のコンテストなので、花巻部長の気合いは相当なものだった。
 ヘアメイクもグループ内で担当する。俺もメイクの基本は心得ているけれど、一年生のひとりがヘアメイク志望なので任せることにした。
 採寸のために家庭科室に現れた遼平は、グループのみんなにはにかんだように笑って、「一生懸命頑張ります」と言った。
 気負い過ぎない遼平の言葉に、少しだけ気持ちが軽くなる。
 遼平の身体のありとあらゆるところを、一時間かけて採寸した。
「まさかこんなにいろんなところを測るとは思わなかった……」
 採寸を終えた頃には遼平はぐったりしていて、俺は思わず笑った。
「疲れるよな。でも綺麗なシルエットのためには絶対必要なんだよ、お疲れ様」
 用意しておいたペットボトルのお茶を差し出す。遼平は、ありがと、と言って受け取った。
(それにしても……)
 改めて採寸表を見て、唸り声を上げそうになる。手足がびっくりするほど長い。
 三村は遼平のスタイルのよさに顔をデレデレに崩して、「作り甲斐があるなぁ」と言った。
 服作りには手順がある。まずはデザイン。デザインが出来たらモデルの採寸と、生地選びに入る。今はこの段階だ。これと同時に三村がパターンを引く。
 その後はサンプルの作成だ。着心地はどうか、指示通りのサイズか、布の動きは想定通りか、細かいチェックをしてから本番用の作成に取り掛かる。
 特に俺は着心地を重視していた。コンテスト用の作品は流通用の服とは違って、着心地は軽視されがちだ。でも俺は、服は着心地が最も重要だと思っている。
 手触り、肌触り、動いた時に擦れる感触。これがピタリと合わさった時、服は着る人を幸せにしてくれるはずだ。
 本当ならサンプルが上がるまで遼平は待機で構わないのに、布選びの期間も遼平は家庭科室に通ってくれた。
 選んだ布をすぐさま遼平に合わせられるのはありがたかった。
 三村のパターンが出来上がり、サンプルの縫製に入ったのは採寸から三日後だ。コンテストのスケジュールはかなりタイトなので、俺は放課後に残って縫い続けた。
 グループのみんなには、下校時間になったら帰ってもらっている。本番までにまだまだ力を貸してもらいたい場面がある。今ここで無理はさせたくない。
 遼平だけは、俺を八駅先まで送る目的があるので居残りにも付き合ってくれた。悪いなと思う気持ちとは裏腹に、あと数日……この週明けで「恋人ごっこ」の約束の一ヶ月を迎えることを寂しいと思う。
 今朝、遼平と一緒に登校したら、靴箱のところで優斗に会った。
「週明けで一ヶ月だな」と優斗が言う。
「本当にもう届いてないんだな?」
 念を押されるように確認されて、「届いてない」と答えた。
 封筒が届かなくなる=相手は諦めた、と判断すると決めていたから、優斗はホッとしたように息を吐いてから「やってよかったな、この作戦」と言った。
 俺だってそう思う。思うのに、頭の片隅で「月曜日にならなきゃいいのに」と考えていた。
「琥珀、飲み物いる?」
 ハッとして顔を上げた。隣に座り、俺の手元を見ていた遼平が尋ねてくる。
 気がつけば壁の時計は午後六時半になっていた。あと三十分で完全下校の時間だ。
「ん、ちょっと飲みたい」
 お茶のペットボトルにストローを差して、遼平が俺の口元に差し出してくれた。手が塞がっているのでありがたい。
「琥珀は本当、服作るのが好きだよな」
 しみじみした声で言われた。
「琥珀、覚えてるかなぁ……昔、俺が服破っちゃって泣いてた時、縫ってくれたこと」
 懐かしむように瞳を細めた遼平の顔を見て、ドキリとした。まさか遼平があの時のことを覚えているとは思っていなかったので、心臓が早鐘を打つ。
「俺、あれ嬉しかったんだ。琥珀が一生懸命、俺のために繕ってくれたこと」
 俺のため、と言われて体温が上昇した。
(この服だってお前のための物だよ)
 そう言ったら、遼平はどんな顔を見せてくれるだろう。
 モデルを依頼した時は理由を曖昧に誤魔化してしまったけれど、今はふたりきりだ。今なら言えるかも知れない。
「……あのな、遼平」
 ぐっと顎を引いて、言葉にしようと口を開きかけた時、遼平が立ち上がった。
 机に片手をつき、屈むような形で身体を俺の方へと寄せてくる。
「……遼平?」
 遼平は何も言わない。不安が一気に押し寄せてきた。すると遼平は右手をそっと伸ばし、俺の頬に指先だけで触れた。
 息が詰まりそうになる。ほんのちょっと触られているだけなのに、心臓が破裂しそうなほどに苦しくて、「遼平」と呼ぶことさえ出来なかった。
 椅子に座ったまま、遼平を見上げる。遼平が更に身体を寄せてきた。
(……なんだよ、なんで黙ってんだよ)
 なんか言えよ。言ってくれなきゃ、お前がどうしたいのかわかんねーよ。
 頬に触れていた手がすっと離れた。離れたと思ったら、今度はその手が俺の後頭部を支える。
 抱き寄せられた、とわかった時には、顔の熱をはっきり自覚していた。
 遼平のシャツのボタンが、俺の額に当たる。ちょっと痛くて、でもそれが嫌じゃなくて、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
「……りょうへい」
 掠れた声が喉から漏れる。自分のものじゃないみたいに、辿々しい声音だった。
 遼平が俺の耳に唇を寄せる。赤くなった耳の縁を見られてしまう。そう思ってぎゅっと目を閉じた時、遼平が小さな声で「準備室に誰か居る」と囁いた。
「え……?」
 浮かれていた頭に冷や水をかけられたみたいだ。一気に体温が下がって、情けないことに声も肩も震えた。
「ドアのとこ。窓の向こうに居る」
 準備室と家庭科室は内扉で繋がっている。内扉には小窓がついていて、両方からそれぞれの室内を覗けるようになっていた。遼平が言っているのは恐らくそのドアのことだ。
 遼平は声のボリュームを更に絞って、「気づいてないフリして」と言う。
 怯えを滲ませたまま、首を縦に動かした。「ちゃんと『彼氏』、やるから」と遼平がそっと囁く。
 遼平が両腕で俺を抱き締めた。そろそろと俺も腕を回し、遼平の背中を抱く。
(……封筒、届かなくなったから、……もう終わったんだと思ってた……)
 身体の震えはなかなか止まってくれなかった。
 ひとつ、遼平にも優斗にも言えなかったことがある。俺はあの封書を、多分ふたりが思うよりずっと気にしていたし、怖かった。
 ただ単純に、こっそり隠し撮りをされていた、というだけなら、気分はよくないけれど怖さはなかったかも知れない。隠し撮りの事実を俺に悟らせないのなら、だ。
 だけどあの封筒は違う。わざわざ俺に「隠し撮りしている」と教えるために靴箱に入れられている。その薄気味悪さに気づいた時、背筋がゾッとした。
 怖かったけれど、相手が誰かもわからない以上対処のしようがなくて、諦めるしかなかった俺を遼平が助けてくれた。
 そろそろ一ヶ月、封筒が来なくなってやっとそのことを考えずに済む、と思っていたのに。
 遼平の左手がゆっくり俺の背中を撫でた。大丈夫、という意味だろう。背中から腰にかけて、何度も往復するように撫でてくれる。
 遼平の掌の熱が背骨を伝った。そのおかげで少しだけど落ち着きを取り戻す。
「……まだ、居るか?」
 遼平の耳に口を寄せ、そっと尋ねる。
「居る。結構しつこいな」
 俺の質問に小声で答えた遼平は、「琥珀、ごめん」と続けた。
 言葉の意味が理解出来ず、訝しむように眉根を寄せたところで、遼平が急に俺の肩に手をやってふたりの身体を離す。咄嗟に目線を上げて遼平の顔を見た。
 次の瞬間、瞼を下ろした遼平の顔が近づいて、薄い唇が俺の唇の端から数ミリずれた場所に押し当てられた。
「……っ」
 ぎゅうっと唇を噛んで息を止める。俺たちの唇は辛うじて、重なっていない。これはキスじゃない。キス未満だ。
(キス、じゃないけど……!)
 ドンっと遼平の胸を押し返すと、遼平が驚いた顔で俺を見下ろした。
「……何やってんだよ!」
 誰かに覗かれている恐怖、遼平の行動、俺の中にある、自分でも説明のつかない気持ちのあれこれ。それが全部頭の中に一気にぶち撒けられたような気分だった。
「……何って、見せつけただけ」
 俺はてっきり、遼平は謝ってくると思っていた。「琥珀、ごめんな」って、「急でびっくりしたよな」って、そう言って俺を安心させてくれると思い込んでいた。
 でも目の前の遼平は、いつもの遼平とは違う。全然悪びれた様子がない。突然のキス未満に驚いてややパニックになっている俺を見ても、平然としている。
「……ここまでする必要ねェだろ」
 弱々しい言葉が口をついた。もっとはっきり抗議すればいいのに、遼平の態度に戸惑いを覚えてしまって、上手く言葉が出てこない。
「だってしつこいんだし、仕方ないだろ」
 呆れたみたいな遼平の声に、頭が急速に冷えていく。
「……俺は、ここまで頼んでない」
 その一言は、多分引き鉄だったんだと思う。
「あのさぁ、琥珀」
 遼平の声のトーンが変わった、と気づいた時には遅かった。
 遼平のベージュ色の瞳が真正面から俺を捉える。その瞳に、呆れだとか面倒だとか、そんな感情の色が滲んでいた。
「俺は、琥珀のためにやってるんだけど。琥珀が協力してくれなきゃ、俺、どうしたらいい?」
 尤もだった。遼平が言っていることはド正論だ。
 わかっている。遼平は俺に協力してくれている。部活終わりまで待って、八駅も向こうまで俺を送り、更にはこうしてちゃんと「彼氏」のフリをしてくれている。だから俺もこれくらいのことで、キス未満のこんなことくらいで動揺しちゃダメだし、我慢するのが正しい。
(……だって、遼平は)
 だって遼平は、気乗りしないのに俺のためにこんな茶番に付き合ってくれているんだから。
 わかっているのに、何でこんなに腹が立つんだろう。どうしてこんなにイライラして、ズキズキして、胸がしくしく痛むのか。
(……謝んねーと……)
 でも、何に対して謝ればいい?
 押し返したことを? 協力してくれているのに文句を言ったことを? それとも恋人ごっこをさせたことを?
 俺が懸命に言葉を探していると、遼平が口を開いた。
「優斗も心配して、協力してやれって言ってたし。でも琥珀がそんなんじゃ困る」
 その瞬間、俺の中で何かがパンッと弾けた。それは多分、心のどこかで燻っていた火種のような物だったのかもしれない。
 何が「優斗も言ってた」だよ。ふざけんなよ、何で今、優斗の名前なんか出すんだよ。これは、俺とお前の問題なのに。
「……先、帰れ」
 絞り出した声が、家庭科室の床を這うように落ちた。
「琥珀」
「今、お前と一緒に居たくない」
 拒絶の言葉を遼平に投げつけた。暫くしてから、遼平は太い息を吐いて「わかった」と言った。
 家庭科室のドアを開けて、遼平が出ていく。その背中を見送る気にもなれない。
(……彼氏のフリなんて、頼まなきゃよかった)
 そうすればこんなに苦しい思いをしなくて済んだ。
 何より、遼平を傷つけずに済んだのに。
(最低だ、俺)
 自己嫌悪に押し潰されるように、机に突っ伏した。じわりと視界が滲む。滲んだ視界の先に、裁縫道具をまとめているバッグが見えた。
 持ち手のファスナーに取り付けたストラップが揺れる。水族館に行った時、遼平がお揃いで買ってくれたものだ。
(……もう、あの日には戻れないんだな)
 泣き虫なのは、俺の方だったのかもしれない。


 ごめん、というたった三文字が言えないまま、月曜日を迎えた。
 恋人ごっこを始めてからは、土日は遼平と他愛のないラインを送り合ったり、たまに電話をしたりしていたけれど、この土日に遼平からの連絡はなかった。当たり前だ。俺からもしなかった。
 もう修復出来ないかもしれない。そんなことを思いながら、朝、学校の最寄駅に着くと改札を潜ったところにはこれまで通り遼平が立っていた。
 俺の姿を見つけると、頬に力が入ったぎこちない笑顔を作り、「おはよう」と言った。俺も同じくらい下手くそな笑顔で「おはよ」と返す。
 一定の距離を保ったまま、遼平と学校に向かった。俺はいつかと同じように、遼平の少し後ろを歩いた。並んで歩いてはいけない気がした。
 学校に着くと、靴箱のところで優斗が待っていた。
「今日で一ヶ月だな。琥珀、あれから一度も届いてないんだな?」
 優斗の確認に「届いてねーよ」と返す。すると遼平が「え」と声を上げた。それを優斗が聞き逃すはずがない。
「何だ? 何かあったのか」
「あ、えっと……」
 遼平は言いづらそうに俯いた。優斗の視線が俺に向く。
「琥珀」
「……なんだよ」
「話せ」
 言葉は強いけれど、優斗の眉が心配そうに歪んだのを見逃せなかった。
 金曜日の放課後、家庭科室でふたりで作業していたら、準備室から誰かに覗かれていたことを説明した。
「誰かはわからなかったのか?」
 優斗が遼平に尋ねる。遼平は力なく首を左右に振り、「そこまではわからなかった」と言った。
「封筒が届かなくなったって聞いてたから、ちょっと安心してたのにな……相手はまだストーカーを続けるつもりらしいな」
 優斗が忌々しそうに呟く。遼平も「諦めてないと思う」と同意した。
「何にせよ、もう一ヶ月やってみよう。封筒攻撃はやめたみたいだし、もう一息かもしれないしな」
 優斗の提案にギョッとしてしまった。冗談じゃない。いくら何でももうこれ以上の負担を遼平にかけられなかった。
 ただでさえ喧嘩みたいになって気まずいのに、延長してくれ、なんて口が裂けても言えない。
 遼平の肩が僅かにギクリと跳ねたのもわかってしまった。
(そうだよな、もう絶対やめたいよな)
 ここは俺がはっきり言わなくては。
「大丈夫だって。最初の約束は封筒が届かなくなったら成功ってことだっただろ。充分成功だよ、遼平には感謝してる」
 出来るだけ明るい声で言った。もしここでほんの少しでも、「琥珀、延長して欲しそう」なんて遼平に思わせてしまったら目も当てられない。
「覗きは犯罪だぞ、琥珀」
 優斗の一言に、すぐ反応出来なかった。鋭い視線で俺と遼平を交互に見た優斗が続ける。
「確かに封筒は届かなくなったかもしれないけど、覗かれたって知って俺たちが琥珀のことを放っておけるとでも思ってるのか、お前は」
 返す言葉が見つからなくて俯いた。ふたりが俺を心底心配してくれていることは、嫌というほどわかっている。
「琥珀が嫌じゃないなら、あと一ヶ月、やってみようよ」
 遼平の言葉に顔を上げた。「俺は大丈夫だから」と続いて、何とも言えない気持ちになる。
「わかった」と返した。そう言うしかなかった。
 授業中もずっと、遼平の意に沿わない延長のことを考えた。
(アイツ、どんな気持ちで延長オッケーしたんだろ……)
 嫌々? 渋々? どちらにしても負の感情しか想像出来なくて気分が沈む。
 遼平に嫌われたくない、という明確な思いが、自分の中にあることをはっきり自覚した。
(そりゃ嫌われたくないに決まってんだろ、友達なんだから)
 そう、遼平とは友達だ。幼馴染みだ。彼氏なのは今だけ。今だけなんだ。
(……何で、今だけなんだっけ)
 だからそれは、ストーカーを撃退するため、だろ。
(そうなんだよ、そのためだけの「彼氏」なんだよ)
 わかっているのに、何度もそうやって自問自答を繰り返した。それが終わると、今度はやるせなさや虚しさが胸に広がる。授業は少しも頭に入ってこなかった。
 放課後、遼平が俺のところにやってきて、「俺、今日も家庭科室行った方がいい?」と尋ねてきた。
 今までならこんな質問なんかせずに、「琥珀行こう」と言ってくれたのに。
「いや、大丈夫。でも明日は来てくれるか? サンプルが上がるから」
 声に感情が乗らないように気をつけた。遼平はホッと息を吐いて「わかった」と返してくる。
 遼平の安堵の吐息は俺の胸に痛みを与えた。やっぱり形式上の延長はしたけれど、必要最低限の接触で済ませたいと思っているらしい。
 当然だ。気乗りせずとも最大限で彼氏を演じたのに、「一緒に居たくない」なんて酷い言葉を投げられたのだ。怒って当然、最低限で済ませたくて当然。そう思うのに、悲しかった。俺はなんて自分勝手なんだろう。
 心の落ち込みとは裏腹に、服作りは順調に進んだ。それだけが救いだった。
 遼平に伝えた通り、サンプルは明日仕上がる予定だ。細かいチェックを終えたらすぐに本縫いに取りかからなくてはならない。
 靴を始めとしたその他の小物類は、グループみんなの協力のおかげで既に万全の状態で準備してある。あとは俺の腕次第だ。
 部活動時間の終わりを告げるチャイムが鳴った時、家庭科室のドアがガラリと開いた。一瞬ドキッとした。そんなわけないのに、遼平かもしれない、と思ってしまった。
「琥珀、帰るぞ」
 姿を見せたのは優斗で、びっくりして駆け寄った。
「は? 何でお前が居るんだよ」
「たまにはいいだろ」
 全く答えになっていないけれど、優斗相手にこれ以上押し問答しても無意味だ。
 急いで帰り支度をして、家庭科室を後にした。
「順調か?」
 不意に聞かれてヒヤリと心臓が縮む。恋人ごっこのことを聞かれている、と思った。遼平との微妙な空気に優斗が気づかないはずがない。平静を装い、「何が」と返した。
 すると優斗は怪訝な顔で俺に視線を寄越す。
「何がって、服の話に決まってるだろ」
 あ、と思わず声が漏れた。その可能性をひとつも考えなかった。バツが悪くて髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜる。
「……服は、順調」
 我ながら含みを持たせた言い方になってしまった。優斗は「服は?」とオウム返しみたいにしてから続けた。
「遼平とは?」
 やっぱりこっちが本題か。
 駅の裏手にある公園に、ふたりで入った。滑り台とベンチがあるだけの簡素な公園だ。この時間じゃ子供の姿もない。
 ベンチに座って、ぼんやり空を見上げた。優斗も同じようにした。
 多分、俺が話し始めるのを待ってくれている。急かすこともせず、ただ黙って待ってくれているのだ。優しさが胸にじわりと沁みた。
「……俺、遼平に酷いこと言った」
 ぽつりと零した。思っていたよりずっと頼りない声だったから、何だか泣きそうになる。
「……遼平は、ちゃんとやってくれてんのに。俺のために、恋人のフリなんて面倒なこと引き受けてくれて、……本当の彼氏みたいに接してくれたのに、俺は自分のことばっか考えて、遼平のこと傷つけた」
 懺悔みたいに、ぽつりぽつりと零していく。優斗はそれをひとつひとつ拾ったりせず、俺の言葉が終わるのを待っている。
「……嫌われたかも、俺。遼平に」
 口に出したら一層寂しさが増した。鼻先がツンと痛い。誤魔化すように顔を背けた。
 するとそれまで黙っていた優斗が「それはないな」とやけにキッパリと言い切った。
「なんでそんなことわかるんだよ……」
「伊達に幼馴染みしてない」
「……どうせ俺とは三年もブランクあるよ……」
 卑屈なことを口にしたら、優斗は呆れたみたいに眉を寄せ、「三年くらい、これから取り戻せばいいだろ」と言った。
「……でも、遼平はもう取り戻す気なんかないかもしれねーし」
「遼平がそう言ったのか? 琥珀のことが嫌いだ、ブランクなんて取り戻すつもりないって」
「言ってねーよ。言ってねーけど……」
「なら、それは琥珀の勝手な妄想だろ」
 にべもなく否定されてしまった。反論しようにも、何も言葉が出てこない。
「俺が思うに、お前も遼平も余計なことは言うのに肝心なことは話し合ってない。違うか?」
 真っ直ぐ見つめられて、返事に窮した。
 図星だと思った。俺たちはどうにも言葉が足りない。俺も、きっと遼平も、肝心なことを唇の裏に隠している。
「話し合え。とことんまで」
「……でも、遼平は嫌かもしれねーし」
「遼平の気持ちをお前が決めるな」
 ピシャリと言われ、目が覚めた気がした。優斗の言葉には容赦がないけれど、その分だけクリアだ。だから余計なことを考えなくていい。
(……そうだよな。遼平の気持ちは遼平にしかわかんねーよな)
 そんな当たり前のことから目を逸らして、自分が傷つかないように立ち回ろうとしていた。ずるくて臆病な自分にがっかりしたけれど、それも俺の一部と思って認めるしかない。
「ちゃんと話し合う。……ちょっと時間はかかるかもしれねーけど、逃げずに向き合うから」
 優斗の目を見つめて、思いを口にした。優斗が真面目な顔で「幼馴染みの一大事に駆けつける俺、幼馴染み界のエキスパートだな」と言ったから、久しぶりに声を出して笑った。
 翌日の朝、これまでと同じように遼平は最寄駅の改札口の先で俺を待っていた。
 学校までの道で優斗との約束を思い出していた。
 まずはちゃんと謝ろう、それから話し合いたい、と伝えよう。
 そう思うのになかなか口を開けない。結局タイミングを逃したまま、学校に到着してしまった。
 靴箱を開けた時、上靴の上に置かれた封筒を見て思わず声が出そうになった。辛うじて堪え、不規則に音を立てる心臓の辺りのシャツをぎゅうっと握る。
「……俺、購買部寄ってから行く」
 悟られないように声のトーンに気をつけた。遼平は「わかった」と言って、教室へと向かう。
 遼平の背中が見えなくなったのを確認してから、封筒を引っ掴みポケットに入れた。そのまま一番近くのトイレに駆け込む。
 個室のドアを乱暴に閉めてから、嫌な音を立て続けている心臓を鎮めるために深呼吸をした。
(なんで……)
 ポケットから恐る恐る取り出した、見慣れた封筒を見て目の前が真っ暗になった。
 封筒の端を破って、中を確認した。一枚の写真が入っていた。メモはない。
 指先でそっと取り出したその写真には、家庭科室で抱き合っている俺と遼平が写っていた。
 強烈な吐き気が胃の中から競り上がってくる。
 足元の砂を、忍び寄る何かに音もなく削り取られた気がした。