(とんでもないことになったな……)
家に帰ってからベッドに突っ伏した。まさかあの封筒がバレたことから、こんな展開になるなんて夢にも思わなかった。
(優斗のヤツ、絶対面白がってる)
心配三割、野次馬根性七割といったところか。
対して遼平の気持ちはいまいち掴めないままだ。
ストーカーを撃退したいという気持ちも本音だろうし、気乗りしないというのも正直な気持ちなんだと思う。
どちらに比重が傾いているのかはわからないけれど、俺の予想では「優斗の提案だから」という理由が最も大きいと思う。お人好しな遼平らしい。
(やっぱ断ろ)
いろいろありがとな、やっぱり大丈夫だから、と伝えれば角も立たないだろう。
ポケットに突っ込んだスマホをうつ伏せのまま取り出し、ごろんと身体を反転させる。
画面を表示させようとしたら、メッセージの受信を知らせる音が鳴った。バナー通知に遼平の名前が表示される。
『琥珀、もう帰った?』とあった。『家ついた』と送ったらすぐに既読がつく。すると少しの間の後、遼平から電話がかかってきた。
「なに? どうかしたか?」
俺の問いかけに遼平は「ううん、別に何もないよ」と言う。何もないのに電話なんて、今まで滅多にない。大抵のことは文字のやり取りで済む。
「何にもないけど、電話するのが恋人っぽいなと思ってかけてみた」
そんなことを言う遼平の声がスマホから聞こえてきて、思わずドキリとしてしまう。
なんて返したらいいのかわからなくて、きゅっと唇を噛んだ。返事には困ったくせに、遼平の声を寝転んだまま聞くのは間違っていることだけはわかってしまって、思わず身体を起こし、ベッドの上で正座した。
「琥珀?」
俺が何も言わないからか、遼平が俺の様子を窺うような声で呼んだ。
「ごめん。ちゃんと聞いてる」
そう返すと遼平は安心したように息を吐き、それからちょっと照れたみたいに笑って言う。
「彼氏として電話してるんだって思ったらちょっと緊張するよな」
「……まぁ、……うん、するよな」
つい遼平に同意した。電話がかかってくる直前まで、「やっぱり断ろう」と思っていたのに、何で同意なんかしてるんだ、俺は。
「それでさ、琥珀」
「ん?」
「明日から俺、琥珀の送り迎えしようと思ってるんだけど」
ギョッとして首を左右に振る。正座していた足を崩し、胡坐をかいた。
「ばか、いーよ、そんなことしなくて」
「でも、相手がいつどこで見てるかわからないし」
「……それは、そうかもしれねーけど……」
「俺なら大丈夫だよ、……と言いたいところだけど、俺、早起きすんの苦手なんだよなぁ……」
申し訳なさそうな声で遼平が言った。
遼平と優斗は、今でも同じマンションに住んでいる。俺が小学六年まで住んでいたあのマンションだ。
俺たちは通学路線は同じだけど、高校の最寄駅を中心に方向が真反対なのだ。俺は学校の最寄りから東に八駅、そこから更に地下鉄に乗る。一方、優斗と遼平は最寄りから西にたった二駅だ。
遼平が俺と一緒に登校するために迎えにくるとなったら、往復三時間以上かかってしまう。現実的じゃない。
「本当にいいから。それに朝の通学中に撮られた写真は今までなかったと思うし」
記憶を辿った。封筒はこれまでで十数通届いている。休みの日や下校途中のものが多い。あの忌まわしい更衣室の盗撮も含め、朝の通学路で撮られた写真はなかった。
「他にはどんな写真だった?」
心配そうな遼平の声が聞こえてきた。
「被服部の三村と一緒に生地屋行った時とか、部活終わって帰りの電車の中で撮られたっぽいのはあった」
「……本当に気持ち悪いな」
嫌悪を滲ませた声で遼平が言うから、俺も気分が沈んだ。
「じゃあ俺、放課後、琥珀のこと待ってていい?」
「え?」
「部活終わるの、待ってる。朝は難しいから帰りは送らせてよ」
「いや、マジでいいって。本当に大丈夫。大体ストーカーって決まったわけじゃねーだろ?」
「でも琥珀に執着してる誰かの仕業だよ」
執着という単語にギクッとした。怖がらせたいわけじゃないんだけど、と前置きしてから遼平が続ける。
「執着が好意ならまだいいんだ。でも優斗が言ってたように好意ってひっくり返ることあるだろ? 打てる手は先に打っておいた方がいいって俺は思う」
「打てる手って……」
「うん、だから俺に送らせて。俺は琥珀の彼氏だから」
カッと顔が熱くなったのがわかった。心臓がきゅうっとなる。人はこれをときめくというのかもしれない。
このときめきを悟られたくなかった。遼平は「気乗りしない」と思いながらもこんな茶番に付き合ってくれている。俺だけがときめくなんて、事の重大さをわかっていないにもほどがある。茶番の原因は俺のストーカー騒ぎにあるのだ。
「……じゃあ、地下鉄乗るとこまで、送って」
小さな声で呟くように言った。八駅先まできてもらうだけで充分だ。それなら遼平の負担を少しは減らせる。
俺の提案を妥協と受け取ったんだろう。遼平は「うん、わかった」と素直に受け入れた。
「琥珀、部活って月、水、金だよな?」
「そう。コンテスト近くになったら遅くなることもあるけど、基本は十七時半まで」
「わかった。じゃあそれまで教室で待ってる」
授業が終わって二時間近くも待たせることになる。どんどん罪悪感が頭を擡げてきた。するとそれを見越していたのか、遼平が「琥珀」と呼んだ。
「琥珀、自分のせいでって思ってるだろ」
「……そりゃ思うだろ」
「琥珀のせいじゃないから。琥珀、一ミリも悪くないだろ? 悪いのは封筒の差出人だけだよ」
はっきり言われてちょっと驚いてしまった。遼平がこんなにきっぱりと物事の白黒を判断するとは思わなかったからだ。
(でも、やっぱり優しいよな、コイツ)
俺が必要以上に気にしなくて済むように、意を決してはっきり否定してくれたのかもしれない。悪いのは琥珀じゃない、って。
「とにかく、琥珀は悪くないんだから謝ったりするのはナシ。俺に遠慮するのもナシ」
「遠慮なんてしてねーし」
「そう? ならいいけど。本当に遠慮なく甘えて、頼ってよ。それをしてもらえるのは、彼氏の特権だと思うから」
うん、と返事をした。それしか言えなかった。それ以上、何かを口にしたらドキドキする気持ちを知られてしまいそうだった。
(……遼平って、恋人にはこんな風に接するんだな)
俺は『恋人(仮)』なわけだけど、仮の俺でさえキュンとするのだから、これがもし相思相愛の恋人同士なら気恥ずかしさと嬉しさでじたばた暴れてしまうかもしれない。
「じゃあ、明後日の水曜日、部活終わるの待ってる」
「ん、わかった。ごめ」
ん、と言おうとしたら遼平が「琥珀、ごめんじゃなくて」と俺の言葉を遮る。
深呼吸をひとつしてから口にした。
「遼平、ありがとな」
すると遼平は、ふっと吐息を漏らすように笑って「どういたしまして」と言った。
翌日から遼平の怒涛の「恋人ムーブ」が始まった。まずは朝、学校最寄りの駅のホームに着くと遼平が待っていた。いつも一緒のはずの優斗の姿がない。
「あれ? 優斗は?」
俺の当然の疑問に遼平ははにかんだように笑って、「ふたりきりの方が恋人っぽいかなって思って」と言った。朝からときめきを浴びせられるなんて思ってもみなかった。
だからと言って決して俺たちの会話が弾むわけではない、というところが俺と遼平らしいと思う。
考えてみれば俺たちはずっと優斗を挟んで会話してきた。言わば優斗は緩衝材なのだ。優斗が居るから途切れることなく円滑に回っていた会話が、俺たちふたりで回るはずがない。
案の定、ぎくしゃくしながら登校する羽目になった。ふたりとも何を話していいのかわからないせいだ。
たまに「琥珀」「遼平」とお互いを呼ぶタイミングが丸被りしてしまい、「琥珀、先に言ってよ」「遼平、先言えよ」と譲り合いまでしてしまう。
(意識しないでおこうって思ってんのに)
そう思えば思うほど、昨日の「琥珀の彼氏だから」が頭の中でエンドレスリピートされるのだから始末が悪い。
教室でも自然と遼平を目で追った。何度目かで目が合って、遼平はその度ににこりと笑顔を向けてきた。
昼休みになり、ふたりで優斗が居る一組まで迎えに行ったら姿が見えなくて、その辺のヤツに聞いたら「高槻ならさっき出て行ったよ」と言われる。こんなことは初めてだ。
「……気を利かせてくれたのかな、優斗」
遼平が戸惑った声で呟く。
(あのヤロウ、絶対楽しんでる)
俺と遼平をふたりきりにして、俺たちがぎこちなく会話したりしているのを陰から見ているに違いない。
「琥珀、どうする? 屋上行く?」
「……こっち」
そう告げてから廊下を歩いた。遼平も後ろからついてくる。階段を上がり、三階に辿り着いた。目当ての教室は一番端にある、家庭科室の更に隣、家庭科準備室だ。
ポケットから鍵を取り出す。部員の中で、各学年にひとりずつ、家庭科室と準備室の合鍵を与えられている。二年は俺がその担当だった。
「俺、部外者だよ? 勝手に入っていいのか?」
遼平の言葉に「へーきへーき」と返す。準備室は資材置き場として使われているだけなので、人が来る心配もない。
机の上の資材を隅っこに寄せて、ふたりで飯を食った。遼平は相変わらず弁当で、俺はパンだ。今朝コンビニに寄って買っておいた。
(気まずい……)
確かに校内で盗撮されたものもあったから、学校内でも常に一緒に居るのは理に適っているけれど、優斗という名の潤滑油がないだけでこうも俺たちはぎこちないのか、と思った。
飯を食い終えてから、スケッチブックを開く。常に持ち歩いているものだ。
遼平がそれを見て、「今年のコンテスト用?」と言った。
「そ。一応出来てるけど、……何となくこれじゃないかもって思うんだよな」
「俺、去年の作品、好きだったな。黒のフリルがいっぱいついたシャツ、可愛かった」
遼平が俺の作品を覚えていてくれたことに驚いて、嬉しい気持ちがじわじわと胸に広がる。
去年、俺がコンテストで佳作を受賞した作品は、ブルーのクラッシュデニムに黒のシャツを合わせたものだ。
ジェンダーレスなマキシ丈のシャツには、絹、スケア、ガーゼ、シフォン、サテンなど、様々な異素材を使用し、それらを計算しながら縫い合わせ、チュールレースで動きを出して仕上げた。
遼平が言っているフリルは、多分チュールレースのことだ。
「あれ、琥珀が着たらよかったのに」
サラッと言われて飲んでいた紙パックのコーヒー牛乳を吹き出しそうになる。
「……三村も似たようなこと言ってた」
「やっぱり? あれ、琥珀似合うと思うよ」
自分が着たいと思うものをデザインする、と決めている俺にとっては嬉しい褒め言葉だった。ニヤける口元をスケッチブックで隠す。
「今年はどんな感じ? これじゃないかもって言ってたけど……」
「……ん。何つーか……一皮剥けたいっていうか。俺、自分がいいなと思うものをデザインしてるんだよな。俺が着たいって思えないと、誰にも響かないと思うから」
遼平相手に何を言ってるんだろう。そう思ったけれど、何となく聞いて欲しい気持ちになった。
「けど、……それだけじゃダメなんじゃねーかなって。自分のためだけじゃなくて、……悪い、上手く言えねーや」
机の上に額をくっつける。余計なことを喋ってしまったかも知れない。
その時だ。黙って聞いていた遼平の手がそっと俺の頭を撫でた。ドキッとした。
「琥珀なら大丈夫だよ」
それは多分、何の根拠もないセリフだ。遼平だって、あれこれそれの根拠に基づいて論理的に大丈夫だよ、なんて意味で言っていない。
でも、その気負わなさが俺の心を軽くした。
少し頭をずらして、机に頬をくっつけるようにして横を向く。そんな俺を見て、遼平も同じようにした。机に頬をつけたまま、横向きの遼平と目を合わせる。
「……マジで、そう思う?」
「うん」
「……マジか」
「うん、ほんと」
頭に置かれていた遼平の手が、ゆっくりと離れた。そのまま指先で俺の長めの前髪を払ってくれる。
「琥珀なら、大丈夫」
二度目の遼平の声は、穏やかで柔らかくて。
(俺、遼平の声、好きだな)
そんな的外れかもしれないことを思った。
その翌日は部活だった。終わり次第、連絡を入れようと思っていたのに、十七時半のチャイムが鳴って少しした頃、家庭科室のドアが遠慮がちに開いた。
ドアの隙間から顔を覗かせた遼平は、俺を見つけるなり手を小さく振る。
「え」
まさか家庭科室に来るとは思わなかったので、驚いて駆け寄った。
「なんで? 教室で待ってるって言ってたろ?」
俺の言葉に遼平は、うん、と頷いてから言う。
「でも、早く琥珀に会いたくて」
遼平の声は家庭科室中に響いてしまうような大声ではなかったけれど、近くにいた一年生には聞こえたようだ。
赤い顔で俺と遼平を交互に見つめている。
慌てて帰り支度をして、遼平と共に学校を出た。
迎えにきてくれる、という行為がとても擽ったかった。同時に妙な気恥ずかしさでそわそわ落ち着かない。
(それにしてもコイツ、手慣れてんな)
朝は時間を合わせて恋人を待ち、放課後は恋人の予定が終わるまで待ち、更には迎えにきてそれとなくアピールをする。実にスマートな「恋人っぷり」だ。
(中学の時とか、彼女居たのかもな)
離れていた三年間で、遼平に彼女が居る期間があったとしても何も不思議じゃない。
聞けばいいのに、何となく聞くのが怖かった。
最寄り駅のホームで電車を待っていた時、後ろから「琥珀、遼平」と声を掛けられた。
振り返ると案の定、優斗が口の端を上げて立っていた。
「なかなか様になってるな」
感心したように言う優斗の脇腹を拳で小突く。
「つーか、お前、何でこんなとこに居んだよ」
「学校の最寄り駅だぞ、居て何が悪い」
「そうじゃねーよ、何でこんな時間に居るんだって聞いてんの」
時刻は十八時になろうとしている。帰宅部の優斗が制服姿で駅のホームに居る時間じゃない。
「カラオケに行ってた。最近ハマってる」
「お前……遼平にこんな面倒なことやらせて、自分はカラオケかよ。カラオケなら俺たちも誘えっつーの」
「それは無理だな。俺がハマってるのはヒトカラだから」
悪びれた様子が微塵もない優斗に脱力した。怒鳴る元気もない。遼平は苦笑いしている。お前もちょっとは怒れよ。
「まぁまぁ、琥珀。そう怒るな」
「怒らせてんの、お前なんだけど?」
「付き合いたてほやほやのお似合いカップルに、俺からプレゼントだ」
そう言って優斗は鞄を弄り、二枚の細長い紙を俺たちに突きつけた。
「なんだよ、これ」
「水族館の入場チケットだ。カラオケ屋でアンケートに答えたらくれた」
つまりタダ券じゃねーか。
「ふたりで行ってこい」
「はぁ?」
自然と眉根が寄った。コイツ、マジで絶対俺たちで遊んでるだろ。文句を言おうと口を開きかけた時、遼平がチケットを見て言った。
「あ、ここ、行きたかったとこだ」
純粋なその一言に、振り上げた拳の下ろしどころを完全に見失ってしまった。優斗は勝ち誇ったような顔でニヤリと笑いながら、遼平にチケットを手渡す。
「琥珀。遼平は行きたいらしいぞ」
ぐ、と言葉に詰まった。ちらりと遼平を見ると、遼平も俺を見ていた。
「行こうよ、琥珀。せっかくだし。ダメ?」
小首を傾げて尋ねてくる遼平に、ノーを突きつけるほど俺は恩知らずじゃない。「気乗りはしない」と言った遼平がここまでして「彼氏」を演じてくれているのに、付き合わせている立場の俺がぎゃあぎゃあ喚くなんてみっともなさ過ぎる。
かくして、俺と遼平の初デートが決まった。場所は水族館。日時は週末の土曜日、朝十時。
何度も考えたことを、改めて思う。
(本当に、とんでもないことになったな……)
土曜日。水族館の近くの駅前で遼平と待ち合わせた。腕時計を見る。九時半を指していて、早く着き過ぎてしまった、と思う。
ホームに降りてから、トイレに向かった。服と髪のチェックのためだ。
(……変じゃねーよな?)
トイレの壁に貼り付けられた、全身が映せる鏡の前に立つ。
マリンブルーの七分袖Vネックに、チャコールグレーのサルエルを合わせた。外はもうすっかり初夏の匂いがするから、これくらいの薄着でも大丈夫だろう、と考えた。伸ばしかけの髪はVネックが綺麗に見えるよう、ひとつに結んだ。
バッグはベージュ色のレザーサコッシュにした。俺が作ったものだ。普段はカジュアル寄りのサコッシュも、レザーだと「ちゃんとしている感」が出るので気に入っている。
(緊張する……)
俺にとっては人生初、正真正銘「初めてのデート」だった。相手が遼平といえど、緊張してしまう。それとも遼平が相手だから緊張してるんだろうか。
ふーっと大きく息を吐いてから、トイレを後にし、改札を潜った。
駅の外に出るとすぐ目の前に、水族館への道順を示した掲示板がある。その隣に立っている人物を目の端に捉えてびっくりした。既に遼平が居たからだ。
(まだ来てないと思ってたのに)
遼平、と声をかけてから小走りで駆け寄る。スマホを見ていた遼平がパッと顔を上げた後、表情を崩した。
「悪い、待ったか?」
「ううん、今さっき着いたとこ」
琥珀おはよ、と続いて、おー、と返す。愛想のない返事をしてしまった、と思ったけれど今の俺はそれどころではなかった。
(すげー似合ってんな……)
ブルーグレーのざっくりしたカーディガンの下に、黒とグレーのカットソーでレイヤードしている。パンツは脚の形が綺麗に出るスキニーで、足首から見えるソックスと同じ黒だ。だから元々長い足が余計に長く見えた。
(……こんなにスタイルよかったっけ?)
普段は制服だから気がつかなかった。……いや、気づいていたけれど見慣れてしまっていた、という方が正しい。
私服の遼平は見慣れた遼平とはちょっと違っていて、柄にもなくドキドキした。
「琥珀、それ可愛いね」
目尻を下げた遼平が指差しているのはサルエルだ。
「緩くて履き心地いいんだ。気に入ってる」
「俺もそういうの欲しいかも」
「ばか、お前は絶対にストレートかスキニーがいいよ。足長くて真っ直ぐなんだから」
思わず力説してしまった。遼平はきょとんとした顔で俺を見て言う。
「スキニーってなに?」
そこからかよ。
ガクッと力が抜けた。
「それだよ、お前が今履いてるやつ。すげー似合ってる。ソックスを黒にしたのも正解でさ、同じ色で揃えると更に足が長く見えるんだよな」
「へぇ……何となく格好いいかもって選んだだけだったから、嬉しい」
へへ、と照れくさそうに笑う遼平を見てつい、可愛いな、なんて思ってしまう。
「琥珀のバッグもいいな。サコッシュ? だよな?」
「そー。これは俺の手作り」
「え、すごい。琥珀、服だけじゃなくて鞄も作れるんだ」
びっくりした顔を向けられて、今度は俺が照れくさくなった。褒められるとやっぱり嬉しい。
「……おんなじやつ、作ってやろうか?」
「本当?」
パァッと表情を明るくした遼平が、やけに眩しく見えた。コイツのこの素直さは、俺にはない長所だなぁ、としみじみ思う。
水族館に到着した。周りはカップルが多いけれど、同じくらい家族連れも多い。逸れたら厄介だなと思うくらいには混雑している。
遼平がカウンターで、優斗からもらったチケットを差し出した。
「行こ、琥珀」
遼平が受付でもらったらしいパンフレットを一冊、手渡してくれる。
「国内で一番深い水槽があるらしいよ」
遼平の言葉を聞き、パンフレットをぱらりと捲りながら、ゆっくりゲートを潜った。
道順に沿ってふたりで歩く。遼平が言っていた日本で一番深いという水槽は、階段でぐるりと囲まれていた。大きな岩が水槽の上部からはみ出ている。水槽の中にはダイバーがいた。ひらひらと手を振ってくれる。
「琥珀、ほら」
遼平がダイバーを指差す。ふたりで軽く手を振ると、ダイバーは優雅に泳いで別の客の前に移動した。
その次はチューブ型の水槽があるゾーンだった。横に長い水槽の中を、アザラシやアシカが気持ちよさそうに泳いでいる。
その先はペンギンの水槽らしく、後ろから走ってきた子供数人が「ペンギンだ!」と叫びながら俺の横をすり抜けていく。ぶつかりそうになって身体をずらしたら、隣の遼平に当たってしまった。
ごめん、と言って咄嗟に離れようとした時、七分袖をくいっと引っ張られる。
「琥珀。混んでるし、手繋ご」
「え?」
「だめ?」
だめ? と聞かれたら、ダメとは言えない。
「ダメ、……では、ないけど」
「けど?」
「……誰かに、見られるかも」
男同士で手を繋いでいるところを見られてしまうかも知れない、と思った。土曜日だし、知り合いが居ないとは限らない。
すると遼平は「だめじゃないなら繋いじゃお」と言って俺の右手を握った。
「……遼平!」
「見られてもいいよ。恋人なんだから、見られたって構わない」
顔に熱が上がったのが、自分でわかった。確かに遼平の言う通りで、どこで盗撮されるかわからないだけに、いつ見られても「恋人」と思われる必要がある。
遼平に他意はない。わかっているのに、遼平の言葉にいちいちドキッとしたり、キュンとしたりしてしまう。
俺があまりにも経験不足過ぎるのか、それとも遼平が手慣れ過ぎているのかわからない。
遼平の手はあったかかった。俺の手より厚みがあって、指は節くれだっている。観察しなくったってちゃんと男の手だ。
ペンギンの水槽をふたりで見上げていた時、遼平がふっと笑った。
「なに笑ってんだよ」
「んー? なんか、琥珀の手だなぁって思っちゃって」
握った手を外れない程度に緩めた遼平は、親指の腹で俺の親指をそっと撫でた。
「指が細くて、繊細な感じ。でもほら、ここ」
遼平の指が今度は俺の中指の側面に触れる。裁縫針で出来たたこがそこにはあった。
「琥珀の指だなって思った」
遼平は多分、何気なく言ったんだと思う。なのに俺は、手を繋いでいるのは「男」じゃなくて遼平なんだ、と唐突に理解した。
理解したら途端に顔が熱くなった。耳まで熱い気がして、俺は改めて遼平という男の厄介さを思い知る。
思いの外、甘ったるい。勘違いしそうな台詞を何でもないことのように言うから、俺だけがドキドキしたり意識したりしているようで悔しい。
「俺さ、白状すると琥珀にちょっと距離取られてるって思ってた」
不意にそんなことを言われて、眉を寄せて遼平を見た。
「琥珀、優斗にばっかり話しかけるし、俺とふたりの時はちょっとぎこちないし」
寝耳に水とはこのことだ。
「それは俺のセリフだろ」
遼平は目を丸くして俺を見つめた。
「優斗にばっか話しかけてんのはお前だろ」
「えぇ? 違うよ、琥珀だろ」
「んなわけあるか、絶対遼平」
「でも琥珀、俺のこと苦手だと思ってない?」
いきなり言われて返事に窮した。う、と言葉に詰まってしまって、遼平が眉尻を下げて「やっぱり」と言う。
「……苦手っていうか」
「うん」
「……三年間、会ってなかったから。ランドセル背負ってたのに、いきなりこんなデカい男になってんだぞ」
俺の正直な感想に、遼平は噴き出すように笑った。
「何だよ、それ。それって琥珀にも言えるし、優斗だって同じだろ」
「優斗は、だってアレは何つーか……そのままだろ。背がでかくなっただけで」
俺がそう言うと、遼平も苦笑いを口の端に乗せて、「一理ある」と言う。
「でもさ、じゃあ俺は変わったってこと?」
遼平が俺の顔を覗き込むようにして、目線を合わせてきた。
「変わった。めちゃくちゃ変わった」
「え、うそ。どこが?」
「全部。あんなに小さくて泣き虫だったのに。あの頃の遼平を返せ」
冗談めかして、じとっと睨んだ。遼平はバツが悪そうに口を曲げて、「泣き虫だったことは忘れてよ……」と言う。
「あと、なんかお前、手慣れてる」
この際だ。言いたいことは全部言ってしまおう。
「手慣れてるって?」
「人をたらし込むのが手慣れてる」
「それ、純粋な悪口じゃない?」
声を出して笑ったかと思えば、またしても俺の顔を覗き込んで小首を傾げる。
「琥珀、たらし込まれてるんだ?」
人好きする柔らかな笑顔で、俺の反応を窺うその仕草に、耳の付け根まで赤くなったような気がした。
「……っ、ムカつく!」
空いた左手をグーにして、遼平の脇腹を小突いてやる。遼平はちっとも痛そうじゃない声で「痛い痛い」と言いながら笑った。
一頻り笑ったあと、遼平がぽつりと「俺たち、ちょっと誤解し合ってたのかな」と零す。俺も同じことを思った。
多少遼平とギクシャクしたとしても、三人で居る分には問題がない。そう思ってやり過ごそうとしてきたけれど、今、こうしてふたりきりで話をしていると、いつも感じていた気まずさは随分薄れていると思う。
(お互い遠慮し合ってただけ……だったのかもなぁ……)
ストーカーもどきには心底腹が立つし気味が悪いけれど、恋人ごっこでもしない限り、俺と遼平はずっと誤解して空回りし続けたかもしれない。
水族館の出口の先に、お土産屋があった。遼平が「優斗に何か買って行こうよ」と言う。タダ券とはいえチケットをくれたのは優斗なので、お土産くらいは買って帰るのが筋だ。
「いいけど、どうせアイツのことだから食い物の方が喜ぶぞ」
「わかってる。これなんかどう? ラッコカスタードケーキ」
遼平が箱を手に取った。ラッコの形をした小さめのスポンジケーキが六個入っている。
「いいんじゃね?」
「琥珀もいる?」
「俺は大丈夫」
その時、左の棚にストラップが並んでいるのが目に入った。
365日アニバーサリーストラップという物らしい。クマノミのイラストと日付が入ったアクリルプレートがストラップになっている。誕生日や来場日が刻印されている物を買うのが定番らしい。
「欲しいの?」
手に取って見ていたら、気づいた遼平に声をかけられた。
「あ、いや、可愛いなって思って見てただけ」
「クマノミだ。可愛い」
遼平はそう言うと、今日の日付の物をひょいっとふたつ手に取った。
「買ったげる」
「え? いや、いいって! 欲しいと思って見てたんじゃねーし」
「デートの記念。ほら、俺、琥珀の彼氏だから」
彼氏にいい顔させるのが初デートの醍醐味だよ、とか何とか言いながら、俺が引き止める間もなく遼平はレジへと向かった。
(……彼氏って)
お前が彼氏なら俺だって「彼氏」だろ。何でお前だけいい顔すんだよ。
言いたいことはいっぱいあったのに、にこにこの笑顔で戻ってきた遼平を見て何も言えなくなった。
「はい、琥珀の分」
ストラップを差し出してくる。おずおずと手を出し受け取った。
「……ありがとな、遼平」
ちゃんと言ったつもりだったのに、思ってたより小声になってしまった。それでも遼平は丁寧に拾い上げて「どういたしまして」と言った。
「琥珀、どこにつける? 俺はスマホにつける」
遼平は早速スマホを取り出し、カバーのストラップ穴に取り付けた。
「俺もスマホ、……と思ったけど、俺のカバー、穴なかった。裁縫道具まとめて入れてるバッグがあるから、……そこにつける」
俺が一番大事にしている物たちの、一番近くにつけたい。
「次のコンテスト、いつだっけ?」
遼平の問いに顔を上げた。
「一次審査の締切は五日後。二週間くらいで結果が出て、そこから二週間で服作りだな」
改めると結構タイトなスケジュールだ。文化祭に被らないように、という配慮から毎年五月に行われているらしい。
「楽しみだな、今年の琥珀の服」
遼平が本当にワクワクしているような声で言った。
「俺、スキニーもわからないくらい、服のことは何にもわからないんだけどさ」
「? うん」
「服のことはよくわからないけど、服のことで楽しそうにしてる琥珀が好きだよ」
心臓が、ドッと大きく脈を打った。そこから発せられた甘くて痛い電気が全身に巡って、やがて心の一番奥に熱を帯びて戻ってきた。
耳と、顔と、心の芯が熱くて、遼平の顔を盗み見るのがやっとだ。
そっと目の端っこで見た遼平の横顔は、びっくりするほど綺麗だった。
その日、俺は徹夜で一枚のデザイン画を描き上げた。
この服を、遼平に着て欲しい。そう思った。
家に帰ってからベッドに突っ伏した。まさかあの封筒がバレたことから、こんな展開になるなんて夢にも思わなかった。
(優斗のヤツ、絶対面白がってる)
心配三割、野次馬根性七割といったところか。
対して遼平の気持ちはいまいち掴めないままだ。
ストーカーを撃退したいという気持ちも本音だろうし、気乗りしないというのも正直な気持ちなんだと思う。
どちらに比重が傾いているのかはわからないけれど、俺の予想では「優斗の提案だから」という理由が最も大きいと思う。お人好しな遼平らしい。
(やっぱ断ろ)
いろいろありがとな、やっぱり大丈夫だから、と伝えれば角も立たないだろう。
ポケットに突っ込んだスマホをうつ伏せのまま取り出し、ごろんと身体を反転させる。
画面を表示させようとしたら、メッセージの受信を知らせる音が鳴った。バナー通知に遼平の名前が表示される。
『琥珀、もう帰った?』とあった。『家ついた』と送ったらすぐに既読がつく。すると少しの間の後、遼平から電話がかかってきた。
「なに? どうかしたか?」
俺の問いかけに遼平は「ううん、別に何もないよ」と言う。何もないのに電話なんて、今まで滅多にない。大抵のことは文字のやり取りで済む。
「何にもないけど、電話するのが恋人っぽいなと思ってかけてみた」
そんなことを言う遼平の声がスマホから聞こえてきて、思わずドキリとしてしまう。
なんて返したらいいのかわからなくて、きゅっと唇を噛んだ。返事には困ったくせに、遼平の声を寝転んだまま聞くのは間違っていることだけはわかってしまって、思わず身体を起こし、ベッドの上で正座した。
「琥珀?」
俺が何も言わないからか、遼平が俺の様子を窺うような声で呼んだ。
「ごめん。ちゃんと聞いてる」
そう返すと遼平は安心したように息を吐き、それからちょっと照れたみたいに笑って言う。
「彼氏として電話してるんだって思ったらちょっと緊張するよな」
「……まぁ、……うん、するよな」
つい遼平に同意した。電話がかかってくる直前まで、「やっぱり断ろう」と思っていたのに、何で同意なんかしてるんだ、俺は。
「それでさ、琥珀」
「ん?」
「明日から俺、琥珀の送り迎えしようと思ってるんだけど」
ギョッとして首を左右に振る。正座していた足を崩し、胡坐をかいた。
「ばか、いーよ、そんなことしなくて」
「でも、相手がいつどこで見てるかわからないし」
「……それは、そうかもしれねーけど……」
「俺なら大丈夫だよ、……と言いたいところだけど、俺、早起きすんの苦手なんだよなぁ……」
申し訳なさそうな声で遼平が言った。
遼平と優斗は、今でも同じマンションに住んでいる。俺が小学六年まで住んでいたあのマンションだ。
俺たちは通学路線は同じだけど、高校の最寄駅を中心に方向が真反対なのだ。俺は学校の最寄りから東に八駅、そこから更に地下鉄に乗る。一方、優斗と遼平は最寄りから西にたった二駅だ。
遼平が俺と一緒に登校するために迎えにくるとなったら、往復三時間以上かかってしまう。現実的じゃない。
「本当にいいから。それに朝の通学中に撮られた写真は今までなかったと思うし」
記憶を辿った。封筒はこれまでで十数通届いている。休みの日や下校途中のものが多い。あの忌まわしい更衣室の盗撮も含め、朝の通学路で撮られた写真はなかった。
「他にはどんな写真だった?」
心配そうな遼平の声が聞こえてきた。
「被服部の三村と一緒に生地屋行った時とか、部活終わって帰りの電車の中で撮られたっぽいのはあった」
「……本当に気持ち悪いな」
嫌悪を滲ませた声で遼平が言うから、俺も気分が沈んだ。
「じゃあ俺、放課後、琥珀のこと待ってていい?」
「え?」
「部活終わるの、待ってる。朝は難しいから帰りは送らせてよ」
「いや、マジでいいって。本当に大丈夫。大体ストーカーって決まったわけじゃねーだろ?」
「でも琥珀に執着してる誰かの仕業だよ」
執着という単語にギクッとした。怖がらせたいわけじゃないんだけど、と前置きしてから遼平が続ける。
「執着が好意ならまだいいんだ。でも優斗が言ってたように好意ってひっくり返ることあるだろ? 打てる手は先に打っておいた方がいいって俺は思う」
「打てる手って……」
「うん、だから俺に送らせて。俺は琥珀の彼氏だから」
カッと顔が熱くなったのがわかった。心臓がきゅうっとなる。人はこれをときめくというのかもしれない。
このときめきを悟られたくなかった。遼平は「気乗りしない」と思いながらもこんな茶番に付き合ってくれている。俺だけがときめくなんて、事の重大さをわかっていないにもほどがある。茶番の原因は俺のストーカー騒ぎにあるのだ。
「……じゃあ、地下鉄乗るとこまで、送って」
小さな声で呟くように言った。八駅先まできてもらうだけで充分だ。それなら遼平の負担を少しは減らせる。
俺の提案を妥協と受け取ったんだろう。遼平は「うん、わかった」と素直に受け入れた。
「琥珀、部活って月、水、金だよな?」
「そう。コンテスト近くになったら遅くなることもあるけど、基本は十七時半まで」
「わかった。じゃあそれまで教室で待ってる」
授業が終わって二時間近くも待たせることになる。どんどん罪悪感が頭を擡げてきた。するとそれを見越していたのか、遼平が「琥珀」と呼んだ。
「琥珀、自分のせいでって思ってるだろ」
「……そりゃ思うだろ」
「琥珀のせいじゃないから。琥珀、一ミリも悪くないだろ? 悪いのは封筒の差出人だけだよ」
はっきり言われてちょっと驚いてしまった。遼平がこんなにきっぱりと物事の白黒を判断するとは思わなかったからだ。
(でも、やっぱり優しいよな、コイツ)
俺が必要以上に気にしなくて済むように、意を決してはっきり否定してくれたのかもしれない。悪いのは琥珀じゃない、って。
「とにかく、琥珀は悪くないんだから謝ったりするのはナシ。俺に遠慮するのもナシ」
「遠慮なんてしてねーし」
「そう? ならいいけど。本当に遠慮なく甘えて、頼ってよ。それをしてもらえるのは、彼氏の特権だと思うから」
うん、と返事をした。それしか言えなかった。それ以上、何かを口にしたらドキドキする気持ちを知られてしまいそうだった。
(……遼平って、恋人にはこんな風に接するんだな)
俺は『恋人(仮)』なわけだけど、仮の俺でさえキュンとするのだから、これがもし相思相愛の恋人同士なら気恥ずかしさと嬉しさでじたばた暴れてしまうかもしれない。
「じゃあ、明後日の水曜日、部活終わるの待ってる」
「ん、わかった。ごめ」
ん、と言おうとしたら遼平が「琥珀、ごめんじゃなくて」と俺の言葉を遮る。
深呼吸をひとつしてから口にした。
「遼平、ありがとな」
すると遼平は、ふっと吐息を漏らすように笑って「どういたしまして」と言った。
翌日から遼平の怒涛の「恋人ムーブ」が始まった。まずは朝、学校最寄りの駅のホームに着くと遼平が待っていた。いつも一緒のはずの優斗の姿がない。
「あれ? 優斗は?」
俺の当然の疑問に遼平ははにかんだように笑って、「ふたりきりの方が恋人っぽいかなって思って」と言った。朝からときめきを浴びせられるなんて思ってもみなかった。
だからと言って決して俺たちの会話が弾むわけではない、というところが俺と遼平らしいと思う。
考えてみれば俺たちはずっと優斗を挟んで会話してきた。言わば優斗は緩衝材なのだ。優斗が居るから途切れることなく円滑に回っていた会話が、俺たちふたりで回るはずがない。
案の定、ぎくしゃくしながら登校する羽目になった。ふたりとも何を話していいのかわからないせいだ。
たまに「琥珀」「遼平」とお互いを呼ぶタイミングが丸被りしてしまい、「琥珀、先に言ってよ」「遼平、先言えよ」と譲り合いまでしてしまう。
(意識しないでおこうって思ってんのに)
そう思えば思うほど、昨日の「琥珀の彼氏だから」が頭の中でエンドレスリピートされるのだから始末が悪い。
教室でも自然と遼平を目で追った。何度目かで目が合って、遼平はその度ににこりと笑顔を向けてきた。
昼休みになり、ふたりで優斗が居る一組まで迎えに行ったら姿が見えなくて、その辺のヤツに聞いたら「高槻ならさっき出て行ったよ」と言われる。こんなことは初めてだ。
「……気を利かせてくれたのかな、優斗」
遼平が戸惑った声で呟く。
(あのヤロウ、絶対楽しんでる)
俺と遼平をふたりきりにして、俺たちがぎこちなく会話したりしているのを陰から見ているに違いない。
「琥珀、どうする? 屋上行く?」
「……こっち」
そう告げてから廊下を歩いた。遼平も後ろからついてくる。階段を上がり、三階に辿り着いた。目当ての教室は一番端にある、家庭科室の更に隣、家庭科準備室だ。
ポケットから鍵を取り出す。部員の中で、各学年にひとりずつ、家庭科室と準備室の合鍵を与えられている。二年は俺がその担当だった。
「俺、部外者だよ? 勝手に入っていいのか?」
遼平の言葉に「へーきへーき」と返す。準備室は資材置き場として使われているだけなので、人が来る心配もない。
机の上の資材を隅っこに寄せて、ふたりで飯を食った。遼平は相変わらず弁当で、俺はパンだ。今朝コンビニに寄って買っておいた。
(気まずい……)
確かに校内で盗撮されたものもあったから、学校内でも常に一緒に居るのは理に適っているけれど、優斗という名の潤滑油がないだけでこうも俺たちはぎこちないのか、と思った。
飯を食い終えてから、スケッチブックを開く。常に持ち歩いているものだ。
遼平がそれを見て、「今年のコンテスト用?」と言った。
「そ。一応出来てるけど、……何となくこれじゃないかもって思うんだよな」
「俺、去年の作品、好きだったな。黒のフリルがいっぱいついたシャツ、可愛かった」
遼平が俺の作品を覚えていてくれたことに驚いて、嬉しい気持ちがじわじわと胸に広がる。
去年、俺がコンテストで佳作を受賞した作品は、ブルーのクラッシュデニムに黒のシャツを合わせたものだ。
ジェンダーレスなマキシ丈のシャツには、絹、スケア、ガーゼ、シフォン、サテンなど、様々な異素材を使用し、それらを計算しながら縫い合わせ、チュールレースで動きを出して仕上げた。
遼平が言っているフリルは、多分チュールレースのことだ。
「あれ、琥珀が着たらよかったのに」
サラッと言われて飲んでいた紙パックのコーヒー牛乳を吹き出しそうになる。
「……三村も似たようなこと言ってた」
「やっぱり? あれ、琥珀似合うと思うよ」
自分が着たいと思うものをデザインする、と決めている俺にとっては嬉しい褒め言葉だった。ニヤける口元をスケッチブックで隠す。
「今年はどんな感じ? これじゃないかもって言ってたけど……」
「……ん。何つーか……一皮剥けたいっていうか。俺、自分がいいなと思うものをデザインしてるんだよな。俺が着たいって思えないと、誰にも響かないと思うから」
遼平相手に何を言ってるんだろう。そう思ったけれど、何となく聞いて欲しい気持ちになった。
「けど、……それだけじゃダメなんじゃねーかなって。自分のためだけじゃなくて、……悪い、上手く言えねーや」
机の上に額をくっつける。余計なことを喋ってしまったかも知れない。
その時だ。黙って聞いていた遼平の手がそっと俺の頭を撫でた。ドキッとした。
「琥珀なら大丈夫だよ」
それは多分、何の根拠もないセリフだ。遼平だって、あれこれそれの根拠に基づいて論理的に大丈夫だよ、なんて意味で言っていない。
でも、その気負わなさが俺の心を軽くした。
少し頭をずらして、机に頬をくっつけるようにして横を向く。そんな俺を見て、遼平も同じようにした。机に頬をつけたまま、横向きの遼平と目を合わせる。
「……マジで、そう思う?」
「うん」
「……マジか」
「うん、ほんと」
頭に置かれていた遼平の手が、ゆっくりと離れた。そのまま指先で俺の長めの前髪を払ってくれる。
「琥珀なら、大丈夫」
二度目の遼平の声は、穏やかで柔らかくて。
(俺、遼平の声、好きだな)
そんな的外れかもしれないことを思った。
その翌日は部活だった。終わり次第、連絡を入れようと思っていたのに、十七時半のチャイムが鳴って少しした頃、家庭科室のドアが遠慮がちに開いた。
ドアの隙間から顔を覗かせた遼平は、俺を見つけるなり手を小さく振る。
「え」
まさか家庭科室に来るとは思わなかったので、驚いて駆け寄った。
「なんで? 教室で待ってるって言ってたろ?」
俺の言葉に遼平は、うん、と頷いてから言う。
「でも、早く琥珀に会いたくて」
遼平の声は家庭科室中に響いてしまうような大声ではなかったけれど、近くにいた一年生には聞こえたようだ。
赤い顔で俺と遼平を交互に見つめている。
慌てて帰り支度をして、遼平と共に学校を出た。
迎えにきてくれる、という行為がとても擽ったかった。同時に妙な気恥ずかしさでそわそわ落ち着かない。
(それにしてもコイツ、手慣れてんな)
朝は時間を合わせて恋人を待ち、放課後は恋人の予定が終わるまで待ち、更には迎えにきてそれとなくアピールをする。実にスマートな「恋人っぷり」だ。
(中学の時とか、彼女居たのかもな)
離れていた三年間で、遼平に彼女が居る期間があったとしても何も不思議じゃない。
聞けばいいのに、何となく聞くのが怖かった。
最寄り駅のホームで電車を待っていた時、後ろから「琥珀、遼平」と声を掛けられた。
振り返ると案の定、優斗が口の端を上げて立っていた。
「なかなか様になってるな」
感心したように言う優斗の脇腹を拳で小突く。
「つーか、お前、何でこんなとこに居んだよ」
「学校の最寄り駅だぞ、居て何が悪い」
「そうじゃねーよ、何でこんな時間に居るんだって聞いてんの」
時刻は十八時になろうとしている。帰宅部の優斗が制服姿で駅のホームに居る時間じゃない。
「カラオケに行ってた。最近ハマってる」
「お前……遼平にこんな面倒なことやらせて、自分はカラオケかよ。カラオケなら俺たちも誘えっつーの」
「それは無理だな。俺がハマってるのはヒトカラだから」
悪びれた様子が微塵もない優斗に脱力した。怒鳴る元気もない。遼平は苦笑いしている。お前もちょっとは怒れよ。
「まぁまぁ、琥珀。そう怒るな」
「怒らせてんの、お前なんだけど?」
「付き合いたてほやほやのお似合いカップルに、俺からプレゼントだ」
そう言って優斗は鞄を弄り、二枚の細長い紙を俺たちに突きつけた。
「なんだよ、これ」
「水族館の入場チケットだ。カラオケ屋でアンケートに答えたらくれた」
つまりタダ券じゃねーか。
「ふたりで行ってこい」
「はぁ?」
自然と眉根が寄った。コイツ、マジで絶対俺たちで遊んでるだろ。文句を言おうと口を開きかけた時、遼平がチケットを見て言った。
「あ、ここ、行きたかったとこだ」
純粋なその一言に、振り上げた拳の下ろしどころを完全に見失ってしまった。優斗は勝ち誇ったような顔でニヤリと笑いながら、遼平にチケットを手渡す。
「琥珀。遼平は行きたいらしいぞ」
ぐ、と言葉に詰まった。ちらりと遼平を見ると、遼平も俺を見ていた。
「行こうよ、琥珀。せっかくだし。ダメ?」
小首を傾げて尋ねてくる遼平に、ノーを突きつけるほど俺は恩知らずじゃない。「気乗りはしない」と言った遼平がここまでして「彼氏」を演じてくれているのに、付き合わせている立場の俺がぎゃあぎゃあ喚くなんてみっともなさ過ぎる。
かくして、俺と遼平の初デートが決まった。場所は水族館。日時は週末の土曜日、朝十時。
何度も考えたことを、改めて思う。
(本当に、とんでもないことになったな……)
土曜日。水族館の近くの駅前で遼平と待ち合わせた。腕時計を見る。九時半を指していて、早く着き過ぎてしまった、と思う。
ホームに降りてから、トイレに向かった。服と髪のチェックのためだ。
(……変じゃねーよな?)
トイレの壁に貼り付けられた、全身が映せる鏡の前に立つ。
マリンブルーの七分袖Vネックに、チャコールグレーのサルエルを合わせた。外はもうすっかり初夏の匂いがするから、これくらいの薄着でも大丈夫だろう、と考えた。伸ばしかけの髪はVネックが綺麗に見えるよう、ひとつに結んだ。
バッグはベージュ色のレザーサコッシュにした。俺が作ったものだ。普段はカジュアル寄りのサコッシュも、レザーだと「ちゃんとしている感」が出るので気に入っている。
(緊張する……)
俺にとっては人生初、正真正銘「初めてのデート」だった。相手が遼平といえど、緊張してしまう。それとも遼平が相手だから緊張してるんだろうか。
ふーっと大きく息を吐いてから、トイレを後にし、改札を潜った。
駅の外に出るとすぐ目の前に、水族館への道順を示した掲示板がある。その隣に立っている人物を目の端に捉えてびっくりした。既に遼平が居たからだ。
(まだ来てないと思ってたのに)
遼平、と声をかけてから小走りで駆け寄る。スマホを見ていた遼平がパッと顔を上げた後、表情を崩した。
「悪い、待ったか?」
「ううん、今さっき着いたとこ」
琥珀おはよ、と続いて、おー、と返す。愛想のない返事をしてしまった、と思ったけれど今の俺はそれどころではなかった。
(すげー似合ってんな……)
ブルーグレーのざっくりしたカーディガンの下に、黒とグレーのカットソーでレイヤードしている。パンツは脚の形が綺麗に出るスキニーで、足首から見えるソックスと同じ黒だ。だから元々長い足が余計に長く見えた。
(……こんなにスタイルよかったっけ?)
普段は制服だから気がつかなかった。……いや、気づいていたけれど見慣れてしまっていた、という方が正しい。
私服の遼平は見慣れた遼平とはちょっと違っていて、柄にもなくドキドキした。
「琥珀、それ可愛いね」
目尻を下げた遼平が指差しているのはサルエルだ。
「緩くて履き心地いいんだ。気に入ってる」
「俺もそういうの欲しいかも」
「ばか、お前は絶対にストレートかスキニーがいいよ。足長くて真っ直ぐなんだから」
思わず力説してしまった。遼平はきょとんとした顔で俺を見て言う。
「スキニーってなに?」
そこからかよ。
ガクッと力が抜けた。
「それだよ、お前が今履いてるやつ。すげー似合ってる。ソックスを黒にしたのも正解でさ、同じ色で揃えると更に足が長く見えるんだよな」
「へぇ……何となく格好いいかもって選んだだけだったから、嬉しい」
へへ、と照れくさそうに笑う遼平を見てつい、可愛いな、なんて思ってしまう。
「琥珀のバッグもいいな。サコッシュ? だよな?」
「そー。これは俺の手作り」
「え、すごい。琥珀、服だけじゃなくて鞄も作れるんだ」
びっくりした顔を向けられて、今度は俺が照れくさくなった。褒められるとやっぱり嬉しい。
「……おんなじやつ、作ってやろうか?」
「本当?」
パァッと表情を明るくした遼平が、やけに眩しく見えた。コイツのこの素直さは、俺にはない長所だなぁ、としみじみ思う。
水族館に到着した。周りはカップルが多いけれど、同じくらい家族連れも多い。逸れたら厄介だなと思うくらいには混雑している。
遼平がカウンターで、優斗からもらったチケットを差し出した。
「行こ、琥珀」
遼平が受付でもらったらしいパンフレットを一冊、手渡してくれる。
「国内で一番深い水槽があるらしいよ」
遼平の言葉を聞き、パンフレットをぱらりと捲りながら、ゆっくりゲートを潜った。
道順に沿ってふたりで歩く。遼平が言っていた日本で一番深いという水槽は、階段でぐるりと囲まれていた。大きな岩が水槽の上部からはみ出ている。水槽の中にはダイバーがいた。ひらひらと手を振ってくれる。
「琥珀、ほら」
遼平がダイバーを指差す。ふたりで軽く手を振ると、ダイバーは優雅に泳いで別の客の前に移動した。
その次はチューブ型の水槽があるゾーンだった。横に長い水槽の中を、アザラシやアシカが気持ちよさそうに泳いでいる。
その先はペンギンの水槽らしく、後ろから走ってきた子供数人が「ペンギンだ!」と叫びながら俺の横をすり抜けていく。ぶつかりそうになって身体をずらしたら、隣の遼平に当たってしまった。
ごめん、と言って咄嗟に離れようとした時、七分袖をくいっと引っ張られる。
「琥珀。混んでるし、手繋ご」
「え?」
「だめ?」
だめ? と聞かれたら、ダメとは言えない。
「ダメ、……では、ないけど」
「けど?」
「……誰かに、見られるかも」
男同士で手を繋いでいるところを見られてしまうかも知れない、と思った。土曜日だし、知り合いが居ないとは限らない。
すると遼平は「だめじゃないなら繋いじゃお」と言って俺の右手を握った。
「……遼平!」
「見られてもいいよ。恋人なんだから、見られたって構わない」
顔に熱が上がったのが、自分でわかった。確かに遼平の言う通りで、どこで盗撮されるかわからないだけに、いつ見られても「恋人」と思われる必要がある。
遼平に他意はない。わかっているのに、遼平の言葉にいちいちドキッとしたり、キュンとしたりしてしまう。
俺があまりにも経験不足過ぎるのか、それとも遼平が手慣れ過ぎているのかわからない。
遼平の手はあったかかった。俺の手より厚みがあって、指は節くれだっている。観察しなくったってちゃんと男の手だ。
ペンギンの水槽をふたりで見上げていた時、遼平がふっと笑った。
「なに笑ってんだよ」
「んー? なんか、琥珀の手だなぁって思っちゃって」
握った手を外れない程度に緩めた遼平は、親指の腹で俺の親指をそっと撫でた。
「指が細くて、繊細な感じ。でもほら、ここ」
遼平の指が今度は俺の中指の側面に触れる。裁縫針で出来たたこがそこにはあった。
「琥珀の指だなって思った」
遼平は多分、何気なく言ったんだと思う。なのに俺は、手を繋いでいるのは「男」じゃなくて遼平なんだ、と唐突に理解した。
理解したら途端に顔が熱くなった。耳まで熱い気がして、俺は改めて遼平という男の厄介さを思い知る。
思いの外、甘ったるい。勘違いしそうな台詞を何でもないことのように言うから、俺だけがドキドキしたり意識したりしているようで悔しい。
「俺さ、白状すると琥珀にちょっと距離取られてるって思ってた」
不意にそんなことを言われて、眉を寄せて遼平を見た。
「琥珀、優斗にばっかり話しかけるし、俺とふたりの時はちょっとぎこちないし」
寝耳に水とはこのことだ。
「それは俺のセリフだろ」
遼平は目を丸くして俺を見つめた。
「優斗にばっか話しかけてんのはお前だろ」
「えぇ? 違うよ、琥珀だろ」
「んなわけあるか、絶対遼平」
「でも琥珀、俺のこと苦手だと思ってない?」
いきなり言われて返事に窮した。う、と言葉に詰まってしまって、遼平が眉尻を下げて「やっぱり」と言う。
「……苦手っていうか」
「うん」
「……三年間、会ってなかったから。ランドセル背負ってたのに、いきなりこんなデカい男になってんだぞ」
俺の正直な感想に、遼平は噴き出すように笑った。
「何だよ、それ。それって琥珀にも言えるし、優斗だって同じだろ」
「優斗は、だってアレは何つーか……そのままだろ。背がでかくなっただけで」
俺がそう言うと、遼平も苦笑いを口の端に乗せて、「一理ある」と言う。
「でもさ、じゃあ俺は変わったってこと?」
遼平が俺の顔を覗き込むようにして、目線を合わせてきた。
「変わった。めちゃくちゃ変わった」
「え、うそ。どこが?」
「全部。あんなに小さくて泣き虫だったのに。あの頃の遼平を返せ」
冗談めかして、じとっと睨んだ。遼平はバツが悪そうに口を曲げて、「泣き虫だったことは忘れてよ……」と言う。
「あと、なんかお前、手慣れてる」
この際だ。言いたいことは全部言ってしまおう。
「手慣れてるって?」
「人をたらし込むのが手慣れてる」
「それ、純粋な悪口じゃない?」
声を出して笑ったかと思えば、またしても俺の顔を覗き込んで小首を傾げる。
「琥珀、たらし込まれてるんだ?」
人好きする柔らかな笑顔で、俺の反応を窺うその仕草に、耳の付け根まで赤くなったような気がした。
「……っ、ムカつく!」
空いた左手をグーにして、遼平の脇腹を小突いてやる。遼平はちっとも痛そうじゃない声で「痛い痛い」と言いながら笑った。
一頻り笑ったあと、遼平がぽつりと「俺たち、ちょっと誤解し合ってたのかな」と零す。俺も同じことを思った。
多少遼平とギクシャクしたとしても、三人で居る分には問題がない。そう思ってやり過ごそうとしてきたけれど、今、こうしてふたりきりで話をしていると、いつも感じていた気まずさは随分薄れていると思う。
(お互い遠慮し合ってただけ……だったのかもなぁ……)
ストーカーもどきには心底腹が立つし気味が悪いけれど、恋人ごっこでもしない限り、俺と遼平はずっと誤解して空回りし続けたかもしれない。
水族館の出口の先に、お土産屋があった。遼平が「優斗に何か買って行こうよ」と言う。タダ券とはいえチケットをくれたのは優斗なので、お土産くらいは買って帰るのが筋だ。
「いいけど、どうせアイツのことだから食い物の方が喜ぶぞ」
「わかってる。これなんかどう? ラッコカスタードケーキ」
遼平が箱を手に取った。ラッコの形をした小さめのスポンジケーキが六個入っている。
「いいんじゃね?」
「琥珀もいる?」
「俺は大丈夫」
その時、左の棚にストラップが並んでいるのが目に入った。
365日アニバーサリーストラップという物らしい。クマノミのイラストと日付が入ったアクリルプレートがストラップになっている。誕生日や来場日が刻印されている物を買うのが定番らしい。
「欲しいの?」
手に取って見ていたら、気づいた遼平に声をかけられた。
「あ、いや、可愛いなって思って見てただけ」
「クマノミだ。可愛い」
遼平はそう言うと、今日の日付の物をひょいっとふたつ手に取った。
「買ったげる」
「え? いや、いいって! 欲しいと思って見てたんじゃねーし」
「デートの記念。ほら、俺、琥珀の彼氏だから」
彼氏にいい顔させるのが初デートの醍醐味だよ、とか何とか言いながら、俺が引き止める間もなく遼平はレジへと向かった。
(……彼氏って)
お前が彼氏なら俺だって「彼氏」だろ。何でお前だけいい顔すんだよ。
言いたいことはいっぱいあったのに、にこにこの笑顔で戻ってきた遼平を見て何も言えなくなった。
「はい、琥珀の分」
ストラップを差し出してくる。おずおずと手を出し受け取った。
「……ありがとな、遼平」
ちゃんと言ったつもりだったのに、思ってたより小声になってしまった。それでも遼平は丁寧に拾い上げて「どういたしまして」と言った。
「琥珀、どこにつける? 俺はスマホにつける」
遼平は早速スマホを取り出し、カバーのストラップ穴に取り付けた。
「俺もスマホ、……と思ったけど、俺のカバー、穴なかった。裁縫道具まとめて入れてるバッグがあるから、……そこにつける」
俺が一番大事にしている物たちの、一番近くにつけたい。
「次のコンテスト、いつだっけ?」
遼平の問いに顔を上げた。
「一次審査の締切は五日後。二週間くらいで結果が出て、そこから二週間で服作りだな」
改めると結構タイトなスケジュールだ。文化祭に被らないように、という配慮から毎年五月に行われているらしい。
「楽しみだな、今年の琥珀の服」
遼平が本当にワクワクしているような声で言った。
「俺、スキニーもわからないくらい、服のことは何にもわからないんだけどさ」
「? うん」
「服のことはよくわからないけど、服のことで楽しそうにしてる琥珀が好きだよ」
心臓が、ドッと大きく脈を打った。そこから発せられた甘くて痛い電気が全身に巡って、やがて心の一番奥に熱を帯びて戻ってきた。
耳と、顔と、心の芯が熱くて、遼平の顔を盗み見るのがやっとだ。
そっと目の端っこで見た遼平の横顔は、びっくりするほど綺麗だった。
その日、俺は徹夜で一枚のデザイン画を描き上げた。
この服を、遼平に着て欲しい。そう思った。
