まさか受験目前に転校することになるなんて、誰が思うだろう。
「うそだろ!? あと一年で卒業できるのに! ……ていうか気が早いけどこの前皆で卒業旅行行く約束しちゃったよ!」
「本……っ当にごめんね。私もこの家は気に入ってるし、できれば引っ越したくないんだけど。お父さんの転勤が決まっちゃったからね……」
学校が終わって家に帰るなり、母から大事な話があると言われた。しかしその内容はショッキングなもので、八年近く過ごしたこの街を離れ、遠い県外に引越しをする、という。
今の高校だってそれなりに勉強して入ったのに……は~……。
そりゃ高校三年なんて進路のことばかりで青春する暇ないだろうけど。だからこそ、貴重な一年なんじゃないか。気の置けない友人と悩みを共有するから、不安な未来に向かっていけるんじゃないか。
それが突然知らない人、知らない学校の中に放り投げられるなんて……担任が冷たかったら即死パターンだ。
だが「来月の頭には引っ越す予定だから」と言われたら、どうすることもできない。在学中で経済力ゼロの子どもに権限などない。深いため息をついてソファにスライディング転倒すると、見兼ねた母が眉を下げて言った。
「元気出して。きっと向こうでも友達できるわよ。それにね、引越し先は御香山町よ。覚えてるでしょ? アンタが小学……ええと、四年生までいたところよ」
「え、ほんと?」
「そう。前に住んでたところとはちょっと離れてるけど、最寄り駅は一緒だし懐かしくなるんじゃないかしら」
なるほど。未知の街へ行くよりは、都会の田舎と呼ぶべきあの故郷の方が親しみやすい。
ただ、仲の良い友人達と別れることは本当に悲しかった。
けどそんな悲しみも色褪せるほど引越し作業は大変で、あっという間に一ヶ月が経ち、幼い頃に過ごした都会の田舎へ移った。
長く過ごした街を離れる時は夕焼けが眩しくて、少し目が痛かった。
転校先の学年主任から説明を聞いてみると授業の進み具合も偏差値も違った。一応編入試験は受かったけど、不安しかない。マジで不安。
「マジで不安って顔してるわね。大丈夫よ、アンタ誰とでもすぐ仲良くなれることだけが取り柄じゃない」
転校初日の朝、ソワソワして天井のシミを数えていると見兼ねた母が牛乳を持ってやってきた。
「昔友達だった子が入学してると良いわねぇ」
「居たとしてもお互い覚えてないよ。俺、昔の記憶が端っこから消えてってるもん」
まだ違和感のある制服を着て家を出た。燦々と大地を照りつける太陽。坂の上にある家の為、遠くに山の稜線が見える。
行きは良いけど、坂を登らなきゃいけないから帰りが地獄だなぁ。
フラフラしながら電車に乗り、二つ隣の駅に下りた。そこから徒歩七分がこれから通う共学の高校。
運動部系が強いらしいんだけど、元写真部の僕には何の関係もございません。
担任は定年間近そうな、優しいおじいちゃん先生だった。こんな時期に転校で不安だろう、分からないことがあれば何でも訊いてきなさい、と肩を叩いてくれた。そこはマジでホッとして有難かった。
……でも俺は決めたんだ。この学校では、今までとは違う仮面を被る。
「……望佑昴です。……宜しくお願いします……」
わざとぼそぼそ喋って、根暗そうな奴を演出した。良いんだ。俺はここでは誰とも関わらない。誰にも心を開かない。ナイフのような心を持って一匹狼を演じよう。
と思ったのには実は訳がある。編入前に軽く学校を案内された時、俺がいる教室で何か良くないものを見てしまったんだ。
───それは思い出すだけで腹が立つ。
「オイ、このゴミ片付けとけよー。あ、お前もゴミ箱入っていいけど」
「あっはっは! ウケる!」
数人の男子生徒が、ある少年の机に自分が食べたパンの袋やペットボトルを投げつけたのだ。
なんてこった。この教室ではイジメが起きている……(寝惚けて父の歯ブラシを使ってしまった時以来の衝撃だった)。
高三にもなってイジメとか精神年齢いくつだよ、と腸が煮えくり返った。
受験が目前なのにイジメする余裕があるなんて立派だな。さぞお勉強できるんでしょうねー……。
そこで突撃して主犯を引っぱたく度胸があればいいが、生憎そこまで強い人間じゃない。なのでここは別の作戦を決行することにした。
転校生が変な奴なら、いじめっ子の関心が俺に向いて彼がいじめられずに済むんじゃないかと。
挨拶も適当にして、暗いのにツンツンしためんどくさい奴を演じよう。名前も知らないけどあの大人しい子がこれ以上矢面に立たないよう……。
いじめは論外だ。俺はいじめられたことはないけど、バカにされる辛さなら知ってる。また、そういう時に助けてもらえる嬉しさも。
……昔、泣き虫だった頃はいつも傍で守ってくれる奴がいたな。
君の席はあそこね、と言われたので、そこの机の上に鞄を放り投げた。先生が「あれ、あんな子だっけ」みたいな顔をしていたけどスルーした。
隣の男子生徒が宜しく、と言ってくれたのを「あー」、と適当に返事する。態度悪くて申し訳なかったけど、全ては彼の為だ。隣の子は案の定、それ以降話し掛けてくれなくなった。
ぼっちの幕開け也。
関ヶ原の戦いとかを思い出しながら脚を組んで、窓の外を眺めた。さっきから授業の内容が全然分からなくて笑え……笑えない。
さすがに授業態度を悪くしたら内申に関わるので、教師の前では背筋ぴーんを心掛けた。元気な女子が何人も、「望って苗字珍しいねー」と話し掛けてきたが、全て「あー」とか「あ」「アッ」で済ませた。おかげで俺のあだ名はカオナシになった。
ていうかおかしい。近寄り難いレッテルは確実に貼れたと思うのに、肝心のいじめっ子が俺に喧嘩を売りに来ない。それどころか「おはよーカオナシ!」「カオナシ大丈夫? 授業の進み具合分かる?」と笑顔で肩を組んでくる。
何だこいつら。俺にはめちゃくっちゃ優しいじゃねえか。
こんなはずじゃなかった。改めて計画を見直す必要があるな……。
考え事をして歩いていたせいで、誰かの机にぶつかってしまった。衝撃により上に乗っていたペンケースが床に落ち、中身が散乱してしまう。
「あ、ごめ……っ」
と、ペンを一本拾ったところで、そういえばまだこのキャラを続けるべきか微妙だったんだと逡巡する。俺の謎硬直に違和感を覚えたのか、席に座る少年は怪訝な瞳で見てきた。
でも、ただ驚いている様子じゃない。俺の顔をじっと見つめて、話すのを待っているようだ。
そこで初めて気付いた。めっちゃイケメンだ……。
「あっ……」
謝らないと、と思うのに、体は意思に反して教室の外へ向かってしまった。
ひえー! やってしまった!!
さすがにペンケース落としてぶちまけて無視は駄目だろっ!!
一階まで降りた時に頭を抱え、心の中で大絶叫する。その時頭になにか固いものが当たった。
ひええ! やってしまった!!!
焦り過ぎて、彼のペンを握り締めたまま立ち去ってしまった。返さなきゃ!!
しかしちょうど昼休み。腹が減っては戦はできない。売店に行って、飯食いながら良い謝罪を考えよう。
今は五月。でも、ウチの学校は進路の為もうすぐ午前授業に切り替わる。昼が食べられるのもあとちょっとだ。
親の仇みたいにぎゅうぎゅうに握られたおにぎりを頬張りながら、あの少年のことを考えた。
あのコ、名前何て言うんだろう……。
中庭にはベンチがあったので、そこで昼休みを過ごすことにした。ひと息ついたと同時に、足元に影がかかる。
「ひとり?」
反射的に声のする方へ向き直る。そこにはさっきのイケメンがいた。
「うわっ!」
驚き過ぎて仰け反る。その拍子に、膝に乗せてた未開封のおにぎりが転がった。けど地面に落ちる寸前で、彼が素早く受け止めてくれた。
「おっと、危ない」
「……っ!!」
反射神経良い……じゃない。お礼、いや謝らないと……ええと……!(※最近他人とまともなコミュニケーションを取ってないので言葉が出てこない)
口を開いたまま固まる俺の手に、彼はおにぎりを乗せてくれた。
「ペン返して」
「えっ。あ、ポ、ポケットに……」
今返す、という意味で言ったのに、何と彼は俺のポケットに手を突っ込んできた。しかも何故か尻ポケット。
「いやっ……ちょ、くすぐった……」
「ないじゃん」と、彼は俺のもうひとつの尻ポケットにも手を突っ込んできた。そこにペンなんか入れるわけねーだろ! と一喝しそうになった時、とうとう前のポケットに手が伸びる。目的のペンは出てきたが、何故かもう片方の手は腰から離れない。
てかいつまで触ってんだ。不審に思った直後、そっと耳元で囁かれた。
「チャック、少し開いてるよ」
嘘。
恐る恐る視線を下げると、確かにちょっと開いてた。……いや、ちょっとじゃない。オブラートに言ってくれたけど、けっこうな幅だ。
「うわあああっ!」
慌てて彼に背を向け、チャックを閉めた。
「さっき下から見上げた時に見えたんだよね。下着、青でしょ」
半泣きで振り返ると、彼は整った微笑を浮かべていた。
「顔真っ赤。そんな風になるんだ。かわいー」
かわ……っ!?
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「ごめんって謝って拾おうとしたのに、急に逃げ出してさ。意味分からないから追ってきた。このペンここら辺じゃあんま売ってないから持ち逃げされたら困るし」
「ごめっ……いや、そんなの俺には関係ないし! 机が邪魔だったんだからしょうがないだろ! 本当にごめんなさい」
「何そのキャラ……」
彼はますます不審な目付きでこちらを見ていたが、そんなのどうでもよかった。下着を見られたことがとにかく恥ずかしい。
俺は正真正銘童貞だ。だけどそれには理由がある。多分、これまでもこれからも。
いたたまれなくて逃げ出そうとしたら、腕を掴まれて簡単に引き寄せられてしまった。彼は身長が高く、俺よりずっと力が強かった。
「何ですぐ逃げんの? 教室じゃあんな堂々としてるのに」
彼の瞳は興味と、獲物を見つけた猛禽のような鋭さが含まれていた。
「別に、関係ないだろ! 離せよ!」
「望」
え、と目を見張った。
久しぶりに呼ばれた名前。思わず見上げると、彼は目を細めて笑った。
太陽みたいに眩い。それにこの表情、俺はどこかで見た気がする。
呆然と立ち尽くしていると、また腰に手が回った。やっぱりこれセクハラだよな。
「……離せって!」
つい腕を振り上げ、強い力で突き飛ばしてしまう。それが最悪だった。彼の後ろは段差になっていて、数段だが尻もちをついて倒れてしまったのだ。
「ご、ごめん! 大丈夫!?」
怪我だけは絶対にさせたくないと思ったのに、彼の手のひらは擦りむいてしまっていた。
「ほ、保健室!」
コードブルーと叫びそうな勢いで立ち上がると、彼は「これぐらい平気だよ」と答えた。
けど、彼が怪我をしたのは百パーセント俺のせいだ。躊躇いなく腕を掴み、校内へ誘導する。
保険医の先生はすぐに来てくれたから助かった。擦り傷だけで心配ないとのことだ。でも六時間目が体育だから、あまり無理はしないでほしい。
先生は「授業が始まる前に戻りなさい」と部屋を出ていった。
「本当にごめん……」
「大丈夫だって。何で望がそんな泣きそうになってんの」
またさりげなく名前を呼ばれたけど、今はどうでもいい。申し訳なさに倒れそうだった。
ベッドに腰掛ける彼の前へ移動し、小さく屈む。
「怪我させるつもりはなかった。ただ色々パニックんなって……」
「わかってるよ。恥ずかしいよなー、チャック開いてるとか」
わかってんなら大声で言うな。
瞬時に殺意が湧いて睨め付けたが、視線に気付いていない彼はベッドの囲いとなるカーテンを閉めた。
心許ない密室ができる。
何……?
不思議に思ってると引き寄せられ、ベッドの中に連れ込まれた。
「うわうわうわ! 何事!?」
「こういうのしたことない?」
ない。ていうかどういう遊びだ。
「あれ、今さら手のひら痛くなってきた」
「えっ! 大丈夫?」
前へ乗り出して確認しようとすると、その瞬間ベルトを外された。え、と目を見開いた直後、ズボンを下ろされる。
「わああああ! 何すんだよ、変態!」
「良いじゃん、既に見られてるんだし」
そういう問題じゃない。人為的なものは訳が違う!
ところがベッドに押し倒されて、あっという間にズボンを引き抜かれてしまった。
「俺さ、下着フェチなんだ。って言っても、人が履いてた下着限定だけど」
お巡りさん。ここにやばい奴がいます。
イケメンだと思ってたらとんでもない。近付いちゃいけないタイプの変態だった。
「ちょっ…あ、やだ……!」
彼が覆い被さり、下着を引っ張られる。
「かわい」
「やっ、見んな……!」
慌てて手で隠そうとしたけど、それも封じられる。
「何考えてんだよお前……頭おかしいんじゃねえの!?」
「まぁね。それより普通に喋れるじゃん。何でカオナシの真似してんの? 教えてくれたらやめてあげる」
「お前には関係ないだろ!」
通算三回目の台詞。
それは彼を怒らせるには充分だった。
皆さんにお知らせがあります。
俺は生まれて初めて……校内をノーパンで歩いております。
「ああああっ! うわああああっ!!」
その場で頭を抱えて絶叫した。
遡ること五分前。保健室で、クラスメイトの変態に組み伏せられ、下着を強奪されるという目に合ってしまった。
『あと二時間だけだし、頑張って過ごしてね』
そう言い残し、奴は俺の下着をポケットに突っ込んで部屋を出ていったのだ。
数分放心状態(下半身丸出し)で宙を見つめていたが、我に返ってズボンだけ履き、廊下へ飛び出したところだ。
涙が出そう。両親に申し訳ない。まさか高三にもなってノーパンで校内を駆け巡るとか!
殺す!!
あいつを殺す……それしか俺に安寧の時は訪れない。
本当は皆に言いふらしたい。気をつけろ! あいつは(人が履いてる)下着を狙う変態なんだぞ! と。でも。
「俺あいつの名前知らねえええ!」
再びその場で頭を抱える。マジで知らない。転校からもう三日が経つけど、名前覚えてるクラスメイトなんてあのいじめっ子達だけだ。いじめられっ子はまだいびられてるし。
何もかも最悪過ぎる。ていうか悪いけど、今イジメのことは考えられない……。
仕方ないから教室へ戻ったけど、ズボンの中がすごいスースーする。心許ない。歩く度にズボンのへりが擦れるし、あそこにチャックが当たる。
早退しようか、とも一瞬考えた。だが下着を奴の手元に置いて帰りたくない。そんなの耐えられない。
奴の元へ駆け出そうとしたが、直前で授業開始のチャイムが鳴った。「カオナシ、次数学だそー」とクラスメイトに肩を叩かれる。
んぎぎぎぎ……。
三つ前の席に座る野郎の背中。コンパスを突き刺してやりたい。しかし授業が始まってしまった為、断念して心頭滅却した。
待ちに待った六時間目の手前、小走りで彼の元へ向かった。めっちゃスースーする。
「おいっ!!」
「何?」
机を強い力で叩く。クラスメイトの注目がこちらに集まったが、そんなのどうでも良かった。今すぐ下着返せ! とは言えないので、小声で表出ろと呟く。
「言われなくても。この後体育だろ? ここは女子が着替えに使うから、俺らは別室で着替えるんだよ」
一緒に行こうと手を引かれる。でも。
「まっ……ふっざけんな! できるわけないだろ!」
別室で、他の生徒と一緒に着替えるなんて。下着履いてないのに!
ズボン下ろしたらちんちん公開なんて陳謝しかない。体育は具合悪いってことで休むか……。
げんなりしながら宙を見つめていると彼は突然距離を詰めて、あそこを膝で押してきた。
「ひゃっ!」
「どう、下着なしで過ごす感想は」
良いわけない。分かってるくせに、彼は意地悪な笑顔を浮かべる。
皆が好き勝手騒いでることだけが救いだ。
くくっ、と喉から鳴る笑い声。悔しさに涙が滲む。
「とりあえず体育は出よう。大丈夫だから」
俺の体操着まで持って、彼は歩き出した。どこへ向かうのかと思いきや、男子トイレの個室に連れ込まれて。
「さあ、着替えよっか」
……っ!!
血管が切れそう。目眩がした。
「ふふ、悲愴な顔してんね。何か妄想してた? いきなり誰かにズボン下ろされたらどうしよう、とか」
「しない……! てかお前、ゲイなのかよ……っ」
「そーだね」
か……軽い。
思わず嗚咽すると、優しく頭を撫でられた。まるで子どもにするみたいに、頬にキスをされる。
「こんなことしておいてなんだけど、俺は味方だよ。大丈夫」
彼はそう言い、わざわざ体操着に着替えさせてくれた。でも下着は返してくれなかった…………。
「あれ、カオナシと光義って仲良かったっけ」
一緒に体育館へ行くと、クラスメイトに声を掛けられた。
光義?
何か、どっかで聞いたことある……ような。
彼を見上げて、恐る恐る尋ねる。
「ちょ。下の名前……」
「ん? 絢斗」
光義絢斗。あれ……待て待て、昔そんな奴がいた。俺の頭の中に。
「光義? 小学校の時に一緒だった……!」
「良かった、覚えてた? 俺は最初から気付いてたけど」
雷に打たれたような衝撃だった。
間違いない。まだこの町にいた時、一番仲が良かった近所の友人の名だ。引越しをすると言った時、一番悲しんでくれた子。
名前が珍しいからすぐに分かった。でもそれは多分向こうも同じで、俺の名前が珍しいと笑ってた……あいつか!
「何で言ってくれないんだよ!」
ていうか、何でそんな変態になってしまったんだ。
「だって、望が全然気付かないから。逆にちょっと虐めてやろーって思って。あ、下着フェチは本当だけど」
光義は腕を組んで壁にもたれかかった。しかし酷い、酷過ぎる。
「最低! 変態!」
「お前だって。ちょっと触られただけで、やだやだ言いながらイッたじゃん」
それは地雷だ。羞恥心で意識が吹っ飛びそうになる。
なにか言い返してやろうと思うと、先生がやってきた。
「光義、体操着に着替えてないのか」
確かに、彼は結局トイレで着替えず、制服のままだ。
「はい。実はさっき転んじゃって、脚も痛くなってきちゃって」
と、彼は絆創膏が貼られた手を翳す。
「じゃあ今日は休むように」
「はーい、ありがとうございます。……ってことだから、望は頑張れよ。あんまり激しい動き出しすんなよ」
「……っ!」
本当にノーパンで体育に出なきゃいけないのか。
よりによって内容は器械体操。マットの上でひっくり返ったり、平行棒に乗らないといけない。
あああ、俺も休みたい!!
皆は知らないけど、光義だけは優雅に、ニヤニヤしながら俺を眺めるだろう。ノーパンであそこをぶらぶらさせ、その羞恥心と格闘してるさまを。くそ、ぶっとばしたい。
個人個人でひとつずつ種目をこなしていく授業の為、生徒は二人一組になり、一方が記録を取り合うことになる。
偶然にも俺のパートナーはあのいじめられっ子だった。名前は東間君。
「ああぁああっ!それ以上はだめえぇっ! おかしくなっちゃう!」
東間君は身体がかたく、背中を押しても全然つま先まで手が届かなかった。
叫び声も何かアレだし、これ以上はまずいと言うので、程々でやめておく。
かく言う俺は前屈はともかく、開脚前転とかは絶対したくない。皆はともかく、光義だけは恐らくスケスケフィルターを瞳孔にかけて俺を見ている。いわば視姦しているんだ。
壁倒立も絶対嫌だ。ズボンが落ちる可能性がゼロではない。
マット運動は全部地獄……と思っていた矢先、件のウェイウェイどもが近付いてきた。
「東間、お前どんだけ運動音痴なんだよ。幼稚園児の方がマシなんじゃね?」
「……」
彼らは東間を嗤笑する為にやってきたようだ。こうも堂々と馬鹿にされてる姿を見ると猛烈に腹が立った。東間はすっかり萎縮し、何も言えず俯いている。
「アンテナぐらいできるだろ? やってみろよ」
アンテナ、いわゆる背支持倒立はマットに仰向けに倒れ、下半身を限界まで天井に向けてぴーんと維持するやつである。普通はすぐにできるが、東間君はできなかった。
「カオナシの方がずっと運動神経良いよなー。カオナシ、ちょっとお手本見せてやれよ」
東間が突き飛ばされ、逆に自分がマットへ引き寄せられた時……頭の中で何かが切れる音がした。
「いい加減にしろ! やるかやらないかは俺の自由だろ! 他人のこと気にするより真面目にやれよ!」
今までで一番大きい声で怒鳴ってしまった。体育館は嫌に響く。皆の視線が集まり、東間にまで驚いて見られてしまった。
しかし絶対にやるわけにはいかない。倒立をした時にこのクソどもが俺のズボンを下ろさないとも限らない。うん。ないと思うけど、今の俺は過去最高に疑心暗鬼になってる。
「カオナシが喋った…………」
東間をいじめていた数人の男子は唖然とし、肝心の内容は頭に入っていないようだった。そこがちょっとモヤモヤするけど、彼らのことは無視して東間にアンテナのやり方を教えてやることにした(※立ちながら)。
「……ごめん、もっと早くに追い払えば良かったんだけど」
「ううん、ありがとう。カオ……望君だけだよ、俺なんかに優しく教えてくれるの」
彼は背を丸めて照れ臭そうに笑う。それにはホッとしたけど、こいつ今俺のことカオナシって言おうとしたな。
若干イラッとしつつ、懐かしい記憶を辿る。
いじめではないけど、笑われた経験ならたくさんあったと。無邪気な子どもだからこそできる嘲笑があって、……絶え間なく浴びせられたあの日のことは今でも覚えている。
ガキの時は牛乳が飲めないとか逆上がりができないとか(今もできないけど人生に支障はない)……、親が学校に来た、というだけで笑われたりした。謎社会だ。
苦手な牛乳を頑張って飲んだら案の定お腹が痛くなって、トイレに籠った。教室では皆大爆笑していたらしいけど、唯一心配して様子を見に来てくれたのが……ずっと忘れていたけど、他でもない光義だった。
「望。何か揉めてたみたいだけど大丈夫?」
ちょうど授業終了のチャイムが鳴って、隅で休んでいた光義がやってきた。そして目の前にいる東間に笑いかける。
「また東間がちょっかい出されてた? 東間はドMだからなぁ……」
「へっ?」
ここに来て初めて聞く単語に、素っ頓狂な声が出てしまった。
「ドMって……?」
「彼ちょっと怖い性癖あってさ。皆に虐められると気持ちいいんだって」
何それ。気持ち悪。……じゃなくて!
「いじめじゃねえの!? どう見てもいじめだったろ!」
「あ、ごめんごめん、いじめじゃないよ。俺から頼んでるんだ。皆本当はすごく優しいんだけどさ、何か冷たくされるとゾクゾクしてきて、すごい楽しいんだよね」
「……とかクラス替え当日に皆の前で言ってんだよ。やばい変態だろ、こいつ」
光義は肩を揺らして笑っている。他人事みたいに言ってるけど変態はお前も同じだろうに……。
ていうかちょっと待って。それじゃ俺は彼がいじめを受けてると思って、深刻に悩んでいたのか。カオナシという道化まで演じて、ノーパンであることを必死に隠していたのか……!
現状を頭の中で処理できず、再び放心状態になる。今日の夜ご飯は何かな……と思ったところで、ようやく思考が回って色んな感情が溢れ出した。
「おい、望。聞いてる?」
「……聞いてない! 馬鹿! 人でなし!」
光義の手を強く振り払い、東間のことも忘れてその場から走り去った。
今までの俺の努力を返せ! 自業自得だけど!
体育館の真横にある倉庫へ逃げ込んだ。すると最悪なことに、光義は後を追ってきた。
暗い密室に二人きり。これはこれで気まずい。
「……何だよ」
「望こそどうしたの」
抑揚がないのに、どこか宥めるような声音。ちょっと振り返って見ると、彼は不安そうな表情を浮かべていた。また胸の辺りがチクッとして、息が苦しくなる。光義を安心させてやらないといけない気になる。実際は自分が楽になりたいだけかもしれないけど。
「あっ……東間が、虐められてると思ってたんだよ。でもしょうがないだろ! あんな毎日嫌がらせされてたら勘違いするって! だから俺、あいつだけがクラスで浮かないように陰キャを演じてたのに! 何かもうどうしたらいいのか……何を信じたらいいのか分からない……今すごく混乱してる」
「カオナシは陰キャっていうか、最後に爆発するもんね。忠実に再現できてると思うよ」
「そういうことじゃない!」



