私に最近、川端くんがくっついてくる。この間も屋上で話そうとか何とか誘われたし。
その度に鋭い視線を感じる。だんだん、学校に行くのが嫌になっていく。でも、いずれはこの感情も消えるのだから、気にすることはないだろう。
朝の空気を思いっきり吸って外へ出る。
「行ってきます」
もちろん、返事は聞こえないが。
今日はやりかけの課題がまだ残っているから、はやく学校に行かなければならなかった。
「はぁ」
眠いなあとか課題終わらなかったら、さらに課題が増えるなあとかのんびりとしたことを考えながら学校に向かう。
もうすでにクラスの人は何人か来ているようだった。
教室へ向かうと部屋の中がざわついていた。なぜかみんな私の机を見ている。
「ね、ねぇ、笠野さん。あれ、見て…」
クラスの女子に話しかけられる。彼女が指差した方を見ると、机の上に画鋲で貼り付けられた画用紙があった。画用紙には
[死ね、消えろ、ブス、最悪、バカ]
などと暴言がたくさん書かれていた。殴り書きされた文字を指でなぞる。
「かわいそう……。誰がやったんだよ……」
「これっていじめかな…」
「私、いじめられるのやだな……」
クラスの空気がかわいそうという同情から私はいじめられたくないというものに変わっていく。
そんな空気の場所にいるのが耐えられなくて、一つ一つ丁寧に画鋲を抜いていく。そして、画用紙をビリビリに破り、ゴミ箱に捨てる。
その光景を誰もが驚いた顔で見ていただろう。私がそんなことをするような人ではないと思っていただろうから。
教室に入るみんなを見わたしていう。
「誰なのこれやったの。私よりはやく来た人たち、つまりあなたたちの誰かしかいないよね?やめてくれないかな?」
冷たい声で言う。それを意識するたびに胸が締め付けられる。だって、自分の感情が薄れていっているのがわかるから。
きっと私じゃないし、僕じゃないし、だから関係ないだろうとみんな思っている。それを口に出さないだけ。
そのまま席につき、平然とした表情で課題を進める。さっき、あの画用紙を見ても恐ろしいとか怖いという類の感情が出てこなかった。おそらく、病気の進行によってだろう。
「ふぅ」
一息ついてクラスを見るとさっきよりも多くの人が登校してきていて、普通に会話していた。
「おはよう、笠野さん」
彼が声をかけてくる。
「おはよ」
それしか言えなかった。鋭い視線を感じたから。
彼からふっと目を逸らすと彼は不思議そうに
「何でそうやって避けるの?」
と聞いてくる。これ以上、彼と話したくないのに。
「別に」
そっけなく答えると、
「じゃあ、放課後屋上ね。来るのをずっと待ってるから」
と言われた。
ずっと待ってるからって何?何となく、彼の性格だから本当にずっと待っていそうだなと思った。
何も言わずにいると彼はすっと離れていって高梨綾乃たちのところにいった。
「ねぇねぇ?朝のいじめ事件のこと知ってる?」
「え、知らないけど?」
川端くんと高梨綾乃が話し始める。
「朝ね、笠野さんの席にいろいろな暴言が書いてある紙が貼られてたんだよ。相当な恨みを持っているっぽかった。怖いね」
彼は目を見開いて、驚いた顔で聞いている。
「そんなことがあったのか……?」
「うん。あ、笠野さんがこっち見てる。話聞こえちゃったかな?」
高梨綾乃がそう言ってこちらを見る。その目はあまりにも鋭く、かつ勝ち誇っていた。
その視線にぞっとしてふいっと目を逸らしてしまう。
それから1日、彼と話すことはなかった。できるだけ関わりたくなかったから、ちょうどいいやという感じで割り切ってしまった。丁寧に掃除を済ませ、昇降口へ向かう。
すると高梨綾乃が立っていた。
「あんた、涼介と仲良いのね」
「別に、仲良くなんかないですよ」
わざと敬語で冷たく答える。
「はぁ。じゃあ、涼介に関わんないでくんない?」
それは違う。私は関わりたくて関わっているわけじゃないのに。
「それは違っ」
「鬱陶しいのよ。近づいてこないでね?」
私の話を遮って彼女が言う。ここまで言われたところで、彼との約束を思い出す。忘れていた。急がないと、待たせているかもしれない。
「わかりました。じゃあ、これで」
と言って踵を返すと
「待ってよ。どこ行くの?まさか涼介のとこじゃないでしょうねぇ?」
そこまで聞かれたとき、私は走り出していた。屋上までの最短ルートではなく、わざと遠回りをして。
待ちなさいっ‼︎という大声が聞こえてくるが、無視して走り去る。階段を急いで登り、屋上へ行くと、もうすでに彼はいた。息を大きく吸って声を出す。
「……ごめん。遅くなった。用事を思い出したんだよね。自分勝手だけど、先に帰っていい……?」
「送る?」
「大丈夫。バイバイ」
去り際の彼の悲しそうな顔を見て胸が痛くなる。でも、笑顔を見せて
「また明日!」
と言ってくれた。
家に帰って、スマホを開く。すると
[笠野さん、明日こそ屋上へきて。]
川端くんとはメッセージアプリで繋がっていないはずなのに、いつのまにか、繋がっていた。
[いいけど…。]
あまり行きたくないという気持ちが伝わるように、わざと点を入れる。
(性格が悪すぎる)
自分に嫌気がさしてくる。そんな私を嫌いになるだろうか。彼は離れていくだろうか。そしたら、友達はいなくなってしまう。
そんなことを考えているうちの新しいメッセージがくる。
[よし!楽しみー!]
なんで、そんな明るいのだろうか。明日、屋上で会ったら聞いてみようと心に決める。そのまま、私の意識は闇の中へ消えてしまった。
☁︎☔︎
次の日の朝、昇降口で下駄箱の中から上履きを出そうとすると、中から紙が出てきた。封筒の中に手紙のようなものが入っている。開けてみると書いてあったのは、
[死ね。お前なんかが生きれる世界なんてない。消えろ。お前みたいなのがいれる場所じゃない。]
「なに…これ……」
驚きのあまり、そこに立ち尽くしたまま動けない。すると、高梨綾乃が登校してくる。
「邪魔なんだけど?」
とぶつかってくる。矢伊那あかりがくすくす笑って通り過ぎていく。高梨綾乃と矢伊那あかりは何かをにやにやしながら話している。
(かんじわる。朝から嫌なもの見たな)
でも、学校を休むわけにもいかず、教室へ入る。そして自分の椅子に座って机の中を片付けようとした時に異変に気づく。
(教科書が…ない……)
嫌がらせがどんどんエスカレートしていっている気がする。誰かに知らないかを聞こうと近くの女の子に話しかけようとしたとき、
「やめて。話しかけないで。何よ、頭いいからって裏では悪口をずっと言ってるのにさ」
「え?」
身に覚えなのない罪をかけられている。周りをみるとみんな鋭い視線を向けてきている。すると高梨綾乃が立ち上がってこちらに近づいてくる。
「ほら、このSNSのアカウント。MIYU3uってアカウント、あんたのでしょ?裏垢とかサブ垢かな?」
「え…違うっ……」
書かれていた内容は、
[k.rくん近づいてきててうざい。離れて欲しいんだけど。]
[t.aうるさい。いい加減黙って。]
[t.aに友達なんているんだwwあれのどこが好きなんだかww]
「みんなー!このアカウント見て!笠野さんの裏垢らしいよー!」
矢伊那あかりが叫ぶ。それと同時に高梨綾乃が絶望した顔をしてがくっと床に膝をつく。
「どうしてなの?私、笠野さんに何かした?」
「いや、違うよっ………」
「嘘つかないでよね」
私が無実を証明しようと声を出したが、遮られる。
「もう、そういう人だったんだ」
「えーそれな?まじがっかり」
「やっぱしっかり者にも裏があるんだよな」
「俺、ああいう人と関わるのやめとこ」
みんなの流れに乗っていくような一言一言が胸の奥に突き刺さっていく。
そこに川端くんが歩いてくる。その視線は、少し曇っている。
「ねぇ、笠野さんは、そんなことしないよな……?しないと思うよ、俺は」
でも、言葉の中には、疑いの気持ちが混じっている。
川端くんまで……。
私の居場所がだんだんと削られていっている感覚に、呼吸ができなくなる。今、逃げ出したい。そう思った瞬間、私の体は、足は大きく踏み出していた。
「おいっ!笠野!」
川端くんが引き止めようとする声が聞こえる。でも、止まれない。
気づいたら、屋上の前の階段に立っていた。
扉をゆっくり開ける。すると、そこにはすごく広い空間が広がっていた。下には住宅街が、上には鮮やかな青空が。
「戻りたくない……」
あの狭い教室の中のちっぽけな自分とこの広い空間を比べると私の悩んでいることなんて小さすぎるなと思う。
でも、だったらいいかと言われると、それはない。今が辛い。ここで涙が出るかと思っても、出なかった。
「病気が進行しているのね…………」
あと3ヶ月と言われて、もう1ヶ月半経った。あと、残りの時間で何ができるだろうか。
小さく縮こまってそんなことを考えているうちに、私の意識は溶け込んでしまった。ほんの少しだけ頬が冷たく、何かが流れ落ちる感覚に身を委ねて。
☁︎☔︎
「……野、笠………、笠野、笠野!」
呼ばれて、はっと目を覚ます。するとそこには川端くんが立っていた。心配そうに顔を覗き込んでいる彼が。
「川端くん…」
「はぁぁ。呼んでも起きないから心配したじゃん。また、この間みたいに倒れたのかと」
彼が心配してここにきてくれたことに気づき、目を見開く。
「探すの、大変だったでしょ?」
無意識にそう言っていた。
「全然」
「でも、何で…。私のことなんてもう、誰も信じていないのに」
「俺は信じてる。誰に何と言われようと」
彼の強い意志に視界が滲んでくる。気づいたら、涙がぽたぽたと落ちてきていた。彼の優しい心に、涙のストッパーが緩んでしまった。
彼は無言で私を抱きしめる。その腕の中で私はわんわん泣いた。短い時間だったかもしれないけれど、1時間にも2時間にも感じた。
「美優…」
彼の突然の名前呼びに顔が少し赤くなる。
「美優って呼ぶから、美優も涼介って呼んでよ」
戸惑いがあるけど、嫌だななんて全然思わなかった。
「涼介って呼び捨ては無理だけど、涼介くんなら」
彼ははにかんで、
「うん。それがいい」
と言ってくれた。そこまで話してあることに気づく。今はお昼の時間。涼介くんのお昼の時間を奪ってしまっていた。
「り、涼…介くん、お昼は大丈夫なの?」
名前で呼ぶのに少し緊張してしまった。
「大丈夫。持ってきてるし」
とお弁当の袋を見せてきた。そして私のお弁当の袋と私の本も持ってきてくれていた。
「午後の授業、全部参加しなくて大丈夫。本を読んで待ってて。放課後またくるから」
彼の優しさが体に滲んでくる。一緒にお弁当を食べるこの瞬間がとても幸せだな。
「「いただきます」」
私たちの声が意図せず重なり、笑ってしまう。
「笑ってる顔、久しぶりかな、見たのが」
その愛おしげな目に少しきゅんとしてしまう。きゅんとしていることがバレないように、ぱっと目を逸らしてしまう。でも、彼が何も気にせずお昼を食べているので、私も気にせず食べることにした。
「美味しい…」
気づいたらそう呟いていた。美味しかった。今まで食べたどんなご飯よりも美味しかった。
「俺のお昼も美味しい」
ただただ何気ない会話を交わしているだけなのに、無性に悲しくなってしまう。
それは、きっと私がもうすぐ死ぬからだろう。
「ふふっ。放課後も楽しみ」
「そうだな。俺、笑っている美優が好きだな」
さらりと告げられた一言に顔が赤く染まる。
「あ…、うん、ありがとう」
それを告げるので精一杯だった。
「じゃあな。またくる」
と言って帰っていく彼の背中を引き止める。
「待って!あのさ…。私があのとき、入院していた理由を話すよ。だから、絶対来てね」
彼は、私が心を開き始めたことに驚き、
「もちろん。絶対行くから、待ってろよ?」
「うん。授業頑張って」
最後、にこりと小さく笑って彼の背中を押す。私は静かな屋上にまた一人になってしまった。でも、悲しくなかった。何も思わなかった。
「これも病気のせいなのかな……?」
私の小さい一言は突然の風にかき消されていった。
☁︎☔︎
学校終了のチャイムが鳴る。
(もうすぐ、彼がくる。)
「……ガチャリ」
扉が開く音がして、かけよる。
「涼介くん!」
そこにいたのは、涼介くんではなかった。
「何、涼介くんって。いつのまにかそんな仲良くなってたわけ?」
私を睨みつけながら話す高梨綾乃。ニヤニヤしながらそれを聞いている矢伊那あかり。
全て、いらない。
「だったらなに」
腹の底から響く声で、低く、冷たく言い放っていた。
「別に。今は、調子に乗るなって言いに来ただけ。これみて」
見せつけられたのは、私の裏垢だと騒がれているMIYU3uだ。
「あんたの裏垢。何であんな騒動があったのに、まだ投稿を更新してるわけ?」
最新の投稿を見ると、
[t.aウザすぎwwあいつのせいで教室入れないのにww図々しすぎw]
と書かれていた。こんなこと思ったこともないし、教室に入れないのは私自身に勇気がないからだ。こんなの、知らない。
「おかげで気分最悪。明日からの学校生活、うまくいくと思わないでよね」
その言葉はどこまでも私に響く。彼女たちはそう言い残し、帰っていく。
扉の横の壁にずるずるともたれかかる。こんなとき、涙が一滴も出てこない。でも…
「美優!大丈夫?ごめん、遅くなって」
彼の手には私の鞄が握られている。
(おかしいなぁ。感情がなくなっていっているはずなのに。どうして…涼介くんといると……)
「……っうん。だい、じょ、うぶだよ」
涙がほんの少し出てくる。彼は私を抱きしめて、怖い思いしたの?とか何があったの?とかたくさん聞いてくる。
でも、聞かれるたびに首を振って、感情に蓋をかける。
「……美優、今週末、会えない?」
突然の誘いに戸惑いつつも、こくんと頷いて、いいよと口にする。
でも、今週末まであと1日ある。1日を乗り越えたい。
「大丈夫。俺は美優を信じてる」
その一言が、その声が、その顔が私の全身にしみてきて、守ってくれる。
「ありがとう」
やんわりと笑って返事をすると、
「もっと笑って。俺が見たい」
と言ってくる。顔がぽっとほんのり赤くなる。私の顔を見ていた彼がくすくすと笑う。
「笑える日、私も欲しい」
ぼそっと言った一言は彼には届かなかったようだ。でも、私は確信している。
彼がいるなら、たかが1日くらいどんなに辛い環境でも乗り越えられる気がする。彼と一緒なら、絶対に。
次の日、震える手を、怯える体を引きずりながら、学校まできた。教室に入ると、みんなの視線が一斉にこちらへ向く。
とある女の子がスマホを開きながら言う。
「あ、笠野さん。あんだけやばい目にあったのに、投稿はやめないんだね」
その一言に別の子が、
「それなー。完全に調子乗ってんじゃん」
私が何も言わず通り過ぎようとしたとき、
「ねえ、何シカトしてんの?聞こえてるよね?」
突然、肩を掴まれ、中庭まで連れて行かれる。急に離され、地面に叩きつけられる。そして、その子が
「おーけー。やっちゃって」
と言った瞬間、頭の上に水が降ってきた。髪の毛と制服がびしょびしょになる。それを見て二人はニヤニヤしている。
「わぁ、ぶざまぁ。びしょ濡れやん」
「じゃーね。もうすぐチャイム鳴るしねー」
と言って去っていった。何もできず、動けずにいる自分を恥ずかしく思う。
もう少し、勇気があれば……。
丁度上着を持っていたので、着て教室まで戻る。ホームルームはもう始まっている。入ると、
「おぉ、笠野。何で濡れてるんだ?」
先生に聞かれる。返答に困りながらも、かろうじて声を絞り出す。
「えっと……、花壇で水をあげていたらかかっちゃって」
「そうか」
と短く答えられる。怒られなくて済むとわかり、スタスタと席へ戻る。周りでは本当の原因を知っている人たちがくすくす笑っている。
「出席をとるぞ」
先生がそう言い、出席確認が始まる。私の番になったとき、
バラバラバラッという音がする。全員の視線がそちらへ向く。
「あーー!?」
高梨綾乃の大きな声が響く。私の出席確認だけ邪魔をしようとしているのだ。
「すみません。机の端に置いていた教材を間違って腕で押しちゃって、落としちゃいましたー」
クラスにどっと笑いが起こる。
「置いたの忘れちゃったの?」
「おっちょこちょいなのかわよ!」
みんなの軽口に高梨綾乃はえへへと答えている。
「みんな静かにしろー。出欠の続きをやるぞ」
次に私の名前が呼ばれると思っていたら、私の次の人だった。
今日、この名前が呼ばれなかった瞬間に、私の存在はクラスで認められなかった。いてはいけない人になってしまった。
「呼ばれてない人いるか」
と言われたときに、はいと言いたい気持ちがあったが、
「先生、大丈夫。みんな呼んでたよ」
と高梨綾乃が言ったから、何も言えなかった。すると、川端くんが大きな声で言う。
「先生!み…笠野さんだけ呼んでないよ!!」
一瞬美優と呼びそうになっている彼に笑いを堪える。
「あぁ、すまん。笠野はいるな?」
突然話を振られて、慌てる。
「あっ……、はい」
フリーズしてしまった私を彼がニコニコの顔で見ている。それと同時に高梨綾乃の鋭い視線が刺さる。体がぶるっと震える感覚に襲われて、ふいっと下を向いてしまう。
その間に先生の話も終わっていた。
「これで、ホームルームを終わりにする。今日も1日楽しく過ごし、学校生活を頑張れよ」
お決まりの一言を告げて、先生は去っていく。
すると、ブーブーとスマホが鳴る。誰からかなと見てみると、涼介くんからだった。
[今日は、図書室集合で。]
わ、今日も会ってくれるんだと言う気持ちが込み上げてきて、笑みがこぼれそうになる。
でも、今日は診察の日であることを思い出して、気分が一気に下がる。
[ごめん。今日、診察あるの。また今度でもいい?]
と送ると、すぐに返事が来て、
[いいよ。俺も行っていい?週末の予定も立てたいし。]
どうしよう……。私の余命を知ったら彼は悲しむだろうか。どうしよう……。
[いいよ。]
無意識に書いていた。何も考えずに。あとあと、自分が一番後悔することを知らずに。
☁︎☔︎
「おっいたいた」
そんな声と共に彼が駆け寄ってくる。
「あ…、涼介くん」
今日一日、嫌がらせは朝だけだった。陰口はちょこちょこ聞こえてきたが。疲れたなーと思ったらあくびが出てきて、ぼんやりしていると、
「美優、今週末どこ行きたい?」
突然聞かれた。私は一生懸命考える。
「うーん、水族館とか?」
「いいね、そこにしよう」
すぐに決めてしまうもんだから、驚いて、
「ええ!?いいの…?」
と大きな声で聞いてしまう。彼はぷはっと噴き出して笑っている。
「美優の行きたいところならどこでも。水族館は、遠足の時のところでもいい?」
「もちろん」
にこっと笑って見せる。そんな話をしている間に、病院についてしまった。もっと話したいと言う気持ちが湧き出てくる。それを無理矢理押し込めて、我慢する。
『笠野美優さん。第3診察室にお越しください。』
放送で名前を呼ばれたので、待合室から診察室に移動する。
「ここで待ってる」
彼が空気を察して待っててくれると言ってくれたのでホッとする。診察室に入ると、前と同じ先生が座っていた。
「笠野さん、倒れたりすることはないですか?」
「あ…、そこは全然」
「そうですか」
医師はパソコンに打ち込んでいる。
「では、感情が薄くなっていることに実感はありますか?」
「ったまにあります。でも、ある人といると逆に感情が生き生きとしていますが。」
一気に声を出していた。医師はほんの少し驚いた顔をしていた。
「なるほど。無我死病患者はなかなかいませんからね。治療方法もないのです。申し訳ございません」
突然の謝罪に困惑しつつも、
「……いえ。大丈夫です」
医師は私の瞳をしっかりと見て告げる。
「私からのアドバイスです。残り、1ヶ月ほどの時間を精一杯、楽しんでください。薬はいつものを出しときますね」
私は、しばらく何も言えずにいたが、
「ありがとうございます」
と一言告げて診察室を出る。
待合室に戻ると、涼介くんがいる。静かに本を読んでいる彼が。意外すぎて声をかけられずにいると、
「美優、診察終わった?」
と聞いてくる。いつもの彼だとわかり、ほっとする。
「終わったよ。あとは薬を受け取るだけ」
「そっか」
彼が何か言いたげな顔をしていたが、名前を呼ばれたので、気づかないふりをする。
「笠野美優さーん、いらっしゃいますか?」
「あ…、はい」
「これ、お薬です。お大事にしてください」
「ありがとうございます」
病院をでると、家まで送ると言ってくれた。週末の予定をきっちり立てるために。
「美優、行くのは日曜日でいいよね?」
「うん」
夕日に照らされた彼の顔が少しだけ愛おしくなる。横顔をじっと見ていると、こちらへ目線が向いてくる。
「なんで、病院行ったの?前も聞いたけど、教えて欲しい」
私は覚悟を決めた。彼に真実を伝える覚悟を。
「私、本当は病気なの。無我死病っていう病気。脳に腫瘍ができてて、だんだんと感情がなくなっていく病気。最後には死に至るんだって。で、私の……余命は残り……一ヶ月」
彼は絶望した目を向けてきた。ごめんともえへへとも何も言えない空気。
「あ……、そうだった………のか」
「………ごめん。さっき、先生に残り一ヶ月を精一杯楽しめって言われたの。だから……、だから、私、涼介くんといろいろ楽しみたい」
私なりの伝えられることを伝えたいことをたくさん詰め込んだ一言。彼は、涼介くんは目を見開いて驚いていた。
「俺も…。俺も…。美優といろいろ楽しみたいよ。水族館も遊園地も、海も、川も山も全部一緒に行こう。美優の初めても、今まで経験したことも全部」
「そうだね……」
彼は涙をぽろぽろ流しながら何度も何度も頷いている。私も、泣きたかった。でも、泣けない。
「あのね、涼介くん」
「な…に…?」
涙で声があまり出ないようだ。私の余命を聞いただけでこんなにも泣いてくれるなんて。
「私ね、余命を告げられた時から、人と関わるのをやめようって思ってた。私が死んだとき、誰か悲しむ人が出るかもしれないから。多分、いないだろうけど。それに、関わるの苦手だし」
彼は何も言わずにただただ頷いたり、首を振ったりして私の話を聞いてくれている。
「でも、優香ちゃんとかと出会って、関わるのもいいかもなって思えてきたの。そして、涼介くんが、たくさん話しかけてくれたから、私の呪いは解けた」
私がにこっと笑うと、彼は虚な目で私を見ている。
「でも、他の人と関わるのはまだ苦手だし、第一関われる状況じゃない」
「そ…うだね…」
「だから、涼介くんには、ずっと友達でいてほしい」
最後はうまく伝えられなかった。私の中で、涼介くんは友達以上の存在に成長していたのに。
「友…達…なのか……?」
彼は、私を見て、答えを求めるような目線を送ってくる。でも、ここでそうだよとは言ってはいけない気がして、何も言わないことにする。
「なぁ、美優、死ぬって…本当なのかよ…?」
「うん」
言った瞬間に彼の涙の第二波がくる。
「どうして俺は俺は俺は………。守れないんだよ…。大事な人を…、いつもなくす………」
ところどころ嗚咽で聞き取れなかった。彼が泣いている理由は、悲しみと自分への恨みだとすぐわかる。そんな彼を私はそっと抱きしめる。
「ごめん…ごめんね……」
「美優は悪くない」
そう言って、彼は抱きつき返してくる。その手からじんわりと熱が伝わってくる。私の心臓も早く波打っている。
(これが好きという気持ち……。)
永遠に失いたくないこの気持ち。死に対する感情は消えてしまっても、涼介くんに対する感情は消えてほしくない。そう、強く願った。
「ありがとう」
私たちの間に短い沈黙が流れる。いつのまにか彼の涙は消えていて、澄んだ瞳がこちらへ向く。
「美優は悪くない。信じてるから」
その一言が私の心を温める。
「うん。明後日楽しみ」
「俺も」
彼の唇が額に迫ってきた。柔らかい感触が残る。
「じゃあね」
私は手を振るだけで、何も言えずにいた。
☁︎☔︎
待ちに待った日曜日、待ち合わせ場所は、水族館の前。
お気に入りのショルダーバックを持って、返事もこない部屋に
「行ってきます」
という。毎回、この瞬間が一番虚しくなる。ネガティブなことが頭をかけ走るが、首を振って、かき消す。
待ち合わせ時間に遅刻しそうだったから、少し走ると、もうすでに涼介くんは立っていた。
「ごめん。遅れた」
というと、彼は目を大きく見開いて、顔を逸らす。
「え、ごめん…。そんなに待ったの…?」
謝罪を口にすると
「そうじゃなくって!可愛すぎるんだよ…美優が…」
最後の方は段々と声が小さくなっていたが、それなりに恥ずかしいことを言われていると気づき、顔がぼっと赤くなる。
「あ…えと、あの…」
返答に困っていると、
「じゃ、じゃあ行こうか」
彼がさりげなく行くことを促してくれたので、
「行こう!」
と笑って返事をする。水族館に足を踏み入れると、もうすでに結構な人数の客が来ていた。親子、友達同士の人、そしてカップル。
若干気まずい空気が流れるが、そんなことは気にせず、各展示場を見る。
まずは、熱帯魚のところ。色鮮やかな魚が泳いでいて、思わず声が漏れ出てしまう。
「わ……あ…ぁ…!綺麗…!」
うまく表現できずにいる私に
「綺麗だよな。ほら、このちっちゃいのとか綺麗じゃね?」
「本当だ!これ、ネオンテトラって言うんだって!本当に綺麗」
じーっと眺めていると、横から彼も顔を出して一緒に眺めている。私は、ぱっと顔を離して、
「次、行く?」
「行こうか」
歩き出してついたのは、サメの水槽。大きなサメがたくさん泳いでいる。口を開いて泳いできたものだから、声が思わず出てしまった。
「わっ?!」
驚いている私を彼がくすくすと笑いながら見ている。
「ビビりすぎ」
本気で楽しんでいる笑顔を見て、自分の心が暖かくなるのを感じる。この感情ももうあと少しなのに。
いろいろ話しながら水族館のメインの場所とも言える大水槽についた。すると、涼介くんが
「前、ここで話したよな。その時は本当に赤の他人だったけど」
「そうだね」
彼が水槽に向けた目が少し曇る。どこか遠くの世界を見つめている目。もう会えなくなってしまうような、そんな目。
「好き」
ほぼ無意識だった。ぽつりと呟いていたその一言は、周りにいた小さな子達のはしゃぎ声で消される。
「なんか言った?」
不思議そうな顔でこちらを見つめている涼介くんに、
「なんでもない」
とはにかんで言った。
そこから歩いて、いよいよ、待ちに待ったクラゲゾーン。私の一番好きな場所。
「やっぱりここが好きだな」
と言うと、
「なんでここが好きなの?遠足の時もすごい見てたよね」
「なんか、クラゲって私に似てるなあって」
本音をゆっくりと吐き出していく。それを彼は静かに見ている。
「クラゲって、存在が儚いって言うか、ちょっと攻撃したらすぐに死んじゃいそうじゃん?これ、私の勝手な想像なんだけど、寿命も短そうじゃん」
彼は頷いて聞いてくれている。
「もうすぐ死ぬ私にそっくりだなあって。まあ、死にますよって宣言されたのは遠足の後だけどね。前々からそんな予感はしてたんだよね」
無理に作り笑いをすると、彼がきっとした目で私を見てくる。
「そんなこと言うなよ!美優は死なないし……」
彼は言いたいことをうまく言えないような、無理をしているような顔で語りかけてくる。
「もう、こんな話やめようぜ…?」
「わかった。ごめんね。話しちゃって」
私たちの間に流れる空気をクラゲも共に泳いでいく。
そこからはずっと無言だった。クラゲゾーンを抜けると売店があるので、寄ることにした。母と父へお土産を買おうと。
クラゲが印刷されたクッキーを選んでふと右側を見ると、綺麗なクラゲのネックレスが売っていた。
「かわいい…」
ほとんど無意識に呟いていた。透明で輝いているそのネックレスはとても魅力的だった。しかし、値札を見た瞬間、そんな気分はどこかへ消える。
「えっ!?」
値札には2万5000円と書かれていた。とても買えるような品ではない。
「何?これほしいの?」
涼介くんが声をかけてきた。クラゲのネックレスを手に取った彼は目を見開いている。やっぱり値段に驚いているようだった。すると、彼が何かを決心した顔で
「じゃあ、これあげる」
と何かを買い物かごに入れた。よく見ると、それはクラゲのブレスレット。それもまたとても可愛い。
「え……。悪いよ、買ってもらうなんて。……もうすぐいなくなるのに」
涙が出そうになる。語尾がだんだん小さくなってしまった。
「いいの」
返事はあまりにも短かったが、買わないことを絶対に許さないと言っているようなそんな声だった。
売店を出ると、近くに噴水のベンチがあったので、そこに座る。すると彼が
「手出して」
と言ってきた。手を差し出すと、彼がそこにクラゲのブレスレットをかけてきた。
「似合う。可愛いよ」
ほんのり顔が赤くなっている彼にそれを言われて、自分も赤くなる。
噴水の音と共にブレスレットのクラゲが静かに揺れる。
「えと、今日はありがとう」
声を頑張って絞り出す。
「俺も。楽しかった」
お互いに言葉がうまく紡げないけれど、言いたいことは同じな気がする。
「美優、家まで送る」
ブレスレットを買ってもらったうえに送ってもらうのは申し訳なさすぎる。
「大丈夫。家近いし」
嫌だ送ると言ってくるかと思っていたが、答えは
「わかった。じゃあ、解散で。今日はありがとう」
だった。あまりにもあっさり終わったことに驚きつつも
「ありがとう。楽しかった」
と言って自分の家に向かった。
家に帰ってお土産を机に置き、メモ書きを添える。
[二人で食べてください。美優より]
そして改めてクラゲのブレスレットを見つめる。
ブレスレットについているクラゲからはいろいろな思い出が出てくる。
大水槽の出来事、サメの水槽に熱帯魚……。
思い出せば止まらないくらい出てくる。
「楽しかったなあ……」
ぽつりと呟いた一言は当てもなく消えてゆく。もうすぐ死ぬ私にとっては、すごく楽しい思い出だった。
「っ……」
ぽろりと一筋の涙が流れた。
その度に鋭い視線を感じる。だんだん、学校に行くのが嫌になっていく。でも、いずれはこの感情も消えるのだから、気にすることはないだろう。
朝の空気を思いっきり吸って外へ出る。
「行ってきます」
もちろん、返事は聞こえないが。
今日はやりかけの課題がまだ残っているから、はやく学校に行かなければならなかった。
「はぁ」
眠いなあとか課題終わらなかったら、さらに課題が増えるなあとかのんびりとしたことを考えながら学校に向かう。
もうすでにクラスの人は何人か来ているようだった。
教室へ向かうと部屋の中がざわついていた。なぜかみんな私の机を見ている。
「ね、ねぇ、笠野さん。あれ、見て…」
クラスの女子に話しかけられる。彼女が指差した方を見ると、机の上に画鋲で貼り付けられた画用紙があった。画用紙には
[死ね、消えろ、ブス、最悪、バカ]
などと暴言がたくさん書かれていた。殴り書きされた文字を指でなぞる。
「かわいそう……。誰がやったんだよ……」
「これっていじめかな…」
「私、いじめられるのやだな……」
クラスの空気がかわいそうという同情から私はいじめられたくないというものに変わっていく。
そんな空気の場所にいるのが耐えられなくて、一つ一つ丁寧に画鋲を抜いていく。そして、画用紙をビリビリに破り、ゴミ箱に捨てる。
その光景を誰もが驚いた顔で見ていただろう。私がそんなことをするような人ではないと思っていただろうから。
教室に入るみんなを見わたしていう。
「誰なのこれやったの。私よりはやく来た人たち、つまりあなたたちの誰かしかいないよね?やめてくれないかな?」
冷たい声で言う。それを意識するたびに胸が締め付けられる。だって、自分の感情が薄れていっているのがわかるから。
きっと私じゃないし、僕じゃないし、だから関係ないだろうとみんな思っている。それを口に出さないだけ。
そのまま席につき、平然とした表情で課題を進める。さっき、あの画用紙を見ても恐ろしいとか怖いという類の感情が出てこなかった。おそらく、病気の進行によってだろう。
「ふぅ」
一息ついてクラスを見るとさっきよりも多くの人が登校してきていて、普通に会話していた。
「おはよう、笠野さん」
彼が声をかけてくる。
「おはよ」
それしか言えなかった。鋭い視線を感じたから。
彼からふっと目を逸らすと彼は不思議そうに
「何でそうやって避けるの?」
と聞いてくる。これ以上、彼と話したくないのに。
「別に」
そっけなく答えると、
「じゃあ、放課後屋上ね。来るのをずっと待ってるから」
と言われた。
ずっと待ってるからって何?何となく、彼の性格だから本当にずっと待っていそうだなと思った。
何も言わずにいると彼はすっと離れていって高梨綾乃たちのところにいった。
「ねぇねぇ?朝のいじめ事件のこと知ってる?」
「え、知らないけど?」
川端くんと高梨綾乃が話し始める。
「朝ね、笠野さんの席にいろいろな暴言が書いてある紙が貼られてたんだよ。相当な恨みを持っているっぽかった。怖いね」
彼は目を見開いて、驚いた顔で聞いている。
「そんなことがあったのか……?」
「うん。あ、笠野さんがこっち見てる。話聞こえちゃったかな?」
高梨綾乃がそう言ってこちらを見る。その目はあまりにも鋭く、かつ勝ち誇っていた。
その視線にぞっとしてふいっと目を逸らしてしまう。
それから1日、彼と話すことはなかった。できるだけ関わりたくなかったから、ちょうどいいやという感じで割り切ってしまった。丁寧に掃除を済ませ、昇降口へ向かう。
すると高梨綾乃が立っていた。
「あんた、涼介と仲良いのね」
「別に、仲良くなんかないですよ」
わざと敬語で冷たく答える。
「はぁ。じゃあ、涼介に関わんないでくんない?」
それは違う。私は関わりたくて関わっているわけじゃないのに。
「それは違っ」
「鬱陶しいのよ。近づいてこないでね?」
私の話を遮って彼女が言う。ここまで言われたところで、彼との約束を思い出す。忘れていた。急がないと、待たせているかもしれない。
「わかりました。じゃあ、これで」
と言って踵を返すと
「待ってよ。どこ行くの?まさか涼介のとこじゃないでしょうねぇ?」
そこまで聞かれたとき、私は走り出していた。屋上までの最短ルートではなく、わざと遠回りをして。
待ちなさいっ‼︎という大声が聞こえてくるが、無視して走り去る。階段を急いで登り、屋上へ行くと、もうすでに彼はいた。息を大きく吸って声を出す。
「……ごめん。遅くなった。用事を思い出したんだよね。自分勝手だけど、先に帰っていい……?」
「送る?」
「大丈夫。バイバイ」
去り際の彼の悲しそうな顔を見て胸が痛くなる。でも、笑顔を見せて
「また明日!」
と言ってくれた。
家に帰って、スマホを開く。すると
[笠野さん、明日こそ屋上へきて。]
川端くんとはメッセージアプリで繋がっていないはずなのに、いつのまにか、繋がっていた。
[いいけど…。]
あまり行きたくないという気持ちが伝わるように、わざと点を入れる。
(性格が悪すぎる)
自分に嫌気がさしてくる。そんな私を嫌いになるだろうか。彼は離れていくだろうか。そしたら、友達はいなくなってしまう。
そんなことを考えているうちの新しいメッセージがくる。
[よし!楽しみー!]
なんで、そんな明るいのだろうか。明日、屋上で会ったら聞いてみようと心に決める。そのまま、私の意識は闇の中へ消えてしまった。
☁︎☔︎
次の日の朝、昇降口で下駄箱の中から上履きを出そうとすると、中から紙が出てきた。封筒の中に手紙のようなものが入っている。開けてみると書いてあったのは、
[死ね。お前なんかが生きれる世界なんてない。消えろ。お前みたいなのがいれる場所じゃない。]
「なに…これ……」
驚きのあまり、そこに立ち尽くしたまま動けない。すると、高梨綾乃が登校してくる。
「邪魔なんだけど?」
とぶつかってくる。矢伊那あかりがくすくす笑って通り過ぎていく。高梨綾乃と矢伊那あかりは何かをにやにやしながら話している。
(かんじわる。朝から嫌なもの見たな)
でも、学校を休むわけにもいかず、教室へ入る。そして自分の椅子に座って机の中を片付けようとした時に異変に気づく。
(教科書が…ない……)
嫌がらせがどんどんエスカレートしていっている気がする。誰かに知らないかを聞こうと近くの女の子に話しかけようとしたとき、
「やめて。話しかけないで。何よ、頭いいからって裏では悪口をずっと言ってるのにさ」
「え?」
身に覚えなのない罪をかけられている。周りをみるとみんな鋭い視線を向けてきている。すると高梨綾乃が立ち上がってこちらに近づいてくる。
「ほら、このSNSのアカウント。MIYU3uってアカウント、あんたのでしょ?裏垢とかサブ垢かな?」
「え…違うっ……」
書かれていた内容は、
[k.rくん近づいてきててうざい。離れて欲しいんだけど。]
[t.aうるさい。いい加減黙って。]
[t.aに友達なんているんだwwあれのどこが好きなんだかww]
「みんなー!このアカウント見て!笠野さんの裏垢らしいよー!」
矢伊那あかりが叫ぶ。それと同時に高梨綾乃が絶望した顔をしてがくっと床に膝をつく。
「どうしてなの?私、笠野さんに何かした?」
「いや、違うよっ………」
「嘘つかないでよね」
私が無実を証明しようと声を出したが、遮られる。
「もう、そういう人だったんだ」
「えーそれな?まじがっかり」
「やっぱしっかり者にも裏があるんだよな」
「俺、ああいう人と関わるのやめとこ」
みんなの流れに乗っていくような一言一言が胸の奥に突き刺さっていく。
そこに川端くんが歩いてくる。その視線は、少し曇っている。
「ねぇ、笠野さんは、そんなことしないよな……?しないと思うよ、俺は」
でも、言葉の中には、疑いの気持ちが混じっている。
川端くんまで……。
私の居場所がだんだんと削られていっている感覚に、呼吸ができなくなる。今、逃げ出したい。そう思った瞬間、私の体は、足は大きく踏み出していた。
「おいっ!笠野!」
川端くんが引き止めようとする声が聞こえる。でも、止まれない。
気づいたら、屋上の前の階段に立っていた。
扉をゆっくり開ける。すると、そこにはすごく広い空間が広がっていた。下には住宅街が、上には鮮やかな青空が。
「戻りたくない……」
あの狭い教室の中のちっぽけな自分とこの広い空間を比べると私の悩んでいることなんて小さすぎるなと思う。
でも、だったらいいかと言われると、それはない。今が辛い。ここで涙が出るかと思っても、出なかった。
「病気が進行しているのね…………」
あと3ヶ月と言われて、もう1ヶ月半経った。あと、残りの時間で何ができるだろうか。
小さく縮こまってそんなことを考えているうちに、私の意識は溶け込んでしまった。ほんの少しだけ頬が冷たく、何かが流れ落ちる感覚に身を委ねて。
☁︎☔︎
「……野、笠………、笠野、笠野!」
呼ばれて、はっと目を覚ます。するとそこには川端くんが立っていた。心配そうに顔を覗き込んでいる彼が。
「川端くん…」
「はぁぁ。呼んでも起きないから心配したじゃん。また、この間みたいに倒れたのかと」
彼が心配してここにきてくれたことに気づき、目を見開く。
「探すの、大変だったでしょ?」
無意識にそう言っていた。
「全然」
「でも、何で…。私のことなんてもう、誰も信じていないのに」
「俺は信じてる。誰に何と言われようと」
彼の強い意志に視界が滲んでくる。気づいたら、涙がぽたぽたと落ちてきていた。彼の優しい心に、涙のストッパーが緩んでしまった。
彼は無言で私を抱きしめる。その腕の中で私はわんわん泣いた。短い時間だったかもしれないけれど、1時間にも2時間にも感じた。
「美優…」
彼の突然の名前呼びに顔が少し赤くなる。
「美優って呼ぶから、美優も涼介って呼んでよ」
戸惑いがあるけど、嫌だななんて全然思わなかった。
「涼介って呼び捨ては無理だけど、涼介くんなら」
彼ははにかんで、
「うん。それがいい」
と言ってくれた。そこまで話してあることに気づく。今はお昼の時間。涼介くんのお昼の時間を奪ってしまっていた。
「り、涼…介くん、お昼は大丈夫なの?」
名前で呼ぶのに少し緊張してしまった。
「大丈夫。持ってきてるし」
とお弁当の袋を見せてきた。そして私のお弁当の袋と私の本も持ってきてくれていた。
「午後の授業、全部参加しなくて大丈夫。本を読んで待ってて。放課後またくるから」
彼の優しさが体に滲んでくる。一緒にお弁当を食べるこの瞬間がとても幸せだな。
「「いただきます」」
私たちの声が意図せず重なり、笑ってしまう。
「笑ってる顔、久しぶりかな、見たのが」
その愛おしげな目に少しきゅんとしてしまう。きゅんとしていることがバレないように、ぱっと目を逸らしてしまう。でも、彼が何も気にせずお昼を食べているので、私も気にせず食べることにした。
「美味しい…」
気づいたらそう呟いていた。美味しかった。今まで食べたどんなご飯よりも美味しかった。
「俺のお昼も美味しい」
ただただ何気ない会話を交わしているだけなのに、無性に悲しくなってしまう。
それは、きっと私がもうすぐ死ぬからだろう。
「ふふっ。放課後も楽しみ」
「そうだな。俺、笑っている美優が好きだな」
さらりと告げられた一言に顔が赤く染まる。
「あ…、うん、ありがとう」
それを告げるので精一杯だった。
「じゃあな。またくる」
と言って帰っていく彼の背中を引き止める。
「待って!あのさ…。私があのとき、入院していた理由を話すよ。だから、絶対来てね」
彼は、私が心を開き始めたことに驚き、
「もちろん。絶対行くから、待ってろよ?」
「うん。授業頑張って」
最後、にこりと小さく笑って彼の背中を押す。私は静かな屋上にまた一人になってしまった。でも、悲しくなかった。何も思わなかった。
「これも病気のせいなのかな……?」
私の小さい一言は突然の風にかき消されていった。
☁︎☔︎
学校終了のチャイムが鳴る。
(もうすぐ、彼がくる。)
「……ガチャリ」
扉が開く音がして、かけよる。
「涼介くん!」
そこにいたのは、涼介くんではなかった。
「何、涼介くんって。いつのまにかそんな仲良くなってたわけ?」
私を睨みつけながら話す高梨綾乃。ニヤニヤしながらそれを聞いている矢伊那あかり。
全て、いらない。
「だったらなに」
腹の底から響く声で、低く、冷たく言い放っていた。
「別に。今は、調子に乗るなって言いに来ただけ。これみて」
見せつけられたのは、私の裏垢だと騒がれているMIYU3uだ。
「あんたの裏垢。何であんな騒動があったのに、まだ投稿を更新してるわけ?」
最新の投稿を見ると、
[t.aウザすぎwwあいつのせいで教室入れないのにww図々しすぎw]
と書かれていた。こんなこと思ったこともないし、教室に入れないのは私自身に勇気がないからだ。こんなの、知らない。
「おかげで気分最悪。明日からの学校生活、うまくいくと思わないでよね」
その言葉はどこまでも私に響く。彼女たちはそう言い残し、帰っていく。
扉の横の壁にずるずるともたれかかる。こんなとき、涙が一滴も出てこない。でも…
「美優!大丈夫?ごめん、遅くなって」
彼の手には私の鞄が握られている。
(おかしいなぁ。感情がなくなっていっているはずなのに。どうして…涼介くんといると……)
「……っうん。だい、じょ、うぶだよ」
涙がほんの少し出てくる。彼は私を抱きしめて、怖い思いしたの?とか何があったの?とかたくさん聞いてくる。
でも、聞かれるたびに首を振って、感情に蓋をかける。
「……美優、今週末、会えない?」
突然の誘いに戸惑いつつも、こくんと頷いて、いいよと口にする。
でも、今週末まであと1日ある。1日を乗り越えたい。
「大丈夫。俺は美優を信じてる」
その一言が、その声が、その顔が私の全身にしみてきて、守ってくれる。
「ありがとう」
やんわりと笑って返事をすると、
「もっと笑って。俺が見たい」
と言ってくる。顔がぽっとほんのり赤くなる。私の顔を見ていた彼がくすくすと笑う。
「笑える日、私も欲しい」
ぼそっと言った一言は彼には届かなかったようだ。でも、私は確信している。
彼がいるなら、たかが1日くらいどんなに辛い環境でも乗り越えられる気がする。彼と一緒なら、絶対に。
次の日、震える手を、怯える体を引きずりながら、学校まできた。教室に入ると、みんなの視線が一斉にこちらへ向く。
とある女の子がスマホを開きながら言う。
「あ、笠野さん。あんだけやばい目にあったのに、投稿はやめないんだね」
その一言に別の子が、
「それなー。完全に調子乗ってんじゃん」
私が何も言わず通り過ぎようとしたとき、
「ねえ、何シカトしてんの?聞こえてるよね?」
突然、肩を掴まれ、中庭まで連れて行かれる。急に離され、地面に叩きつけられる。そして、その子が
「おーけー。やっちゃって」
と言った瞬間、頭の上に水が降ってきた。髪の毛と制服がびしょびしょになる。それを見て二人はニヤニヤしている。
「わぁ、ぶざまぁ。びしょ濡れやん」
「じゃーね。もうすぐチャイム鳴るしねー」
と言って去っていった。何もできず、動けずにいる自分を恥ずかしく思う。
もう少し、勇気があれば……。
丁度上着を持っていたので、着て教室まで戻る。ホームルームはもう始まっている。入ると、
「おぉ、笠野。何で濡れてるんだ?」
先生に聞かれる。返答に困りながらも、かろうじて声を絞り出す。
「えっと……、花壇で水をあげていたらかかっちゃって」
「そうか」
と短く答えられる。怒られなくて済むとわかり、スタスタと席へ戻る。周りでは本当の原因を知っている人たちがくすくす笑っている。
「出席をとるぞ」
先生がそう言い、出席確認が始まる。私の番になったとき、
バラバラバラッという音がする。全員の視線がそちらへ向く。
「あーー!?」
高梨綾乃の大きな声が響く。私の出席確認だけ邪魔をしようとしているのだ。
「すみません。机の端に置いていた教材を間違って腕で押しちゃって、落としちゃいましたー」
クラスにどっと笑いが起こる。
「置いたの忘れちゃったの?」
「おっちょこちょいなのかわよ!」
みんなの軽口に高梨綾乃はえへへと答えている。
「みんな静かにしろー。出欠の続きをやるぞ」
次に私の名前が呼ばれると思っていたら、私の次の人だった。
今日、この名前が呼ばれなかった瞬間に、私の存在はクラスで認められなかった。いてはいけない人になってしまった。
「呼ばれてない人いるか」
と言われたときに、はいと言いたい気持ちがあったが、
「先生、大丈夫。みんな呼んでたよ」
と高梨綾乃が言ったから、何も言えなかった。すると、川端くんが大きな声で言う。
「先生!み…笠野さんだけ呼んでないよ!!」
一瞬美優と呼びそうになっている彼に笑いを堪える。
「あぁ、すまん。笠野はいるな?」
突然話を振られて、慌てる。
「あっ……、はい」
フリーズしてしまった私を彼がニコニコの顔で見ている。それと同時に高梨綾乃の鋭い視線が刺さる。体がぶるっと震える感覚に襲われて、ふいっと下を向いてしまう。
その間に先生の話も終わっていた。
「これで、ホームルームを終わりにする。今日も1日楽しく過ごし、学校生活を頑張れよ」
お決まりの一言を告げて、先生は去っていく。
すると、ブーブーとスマホが鳴る。誰からかなと見てみると、涼介くんからだった。
[今日は、図書室集合で。]
わ、今日も会ってくれるんだと言う気持ちが込み上げてきて、笑みがこぼれそうになる。
でも、今日は診察の日であることを思い出して、気分が一気に下がる。
[ごめん。今日、診察あるの。また今度でもいい?]
と送ると、すぐに返事が来て、
[いいよ。俺も行っていい?週末の予定も立てたいし。]
どうしよう……。私の余命を知ったら彼は悲しむだろうか。どうしよう……。
[いいよ。]
無意識に書いていた。何も考えずに。あとあと、自分が一番後悔することを知らずに。
☁︎☔︎
「おっいたいた」
そんな声と共に彼が駆け寄ってくる。
「あ…、涼介くん」
今日一日、嫌がらせは朝だけだった。陰口はちょこちょこ聞こえてきたが。疲れたなーと思ったらあくびが出てきて、ぼんやりしていると、
「美優、今週末どこ行きたい?」
突然聞かれた。私は一生懸命考える。
「うーん、水族館とか?」
「いいね、そこにしよう」
すぐに決めてしまうもんだから、驚いて、
「ええ!?いいの…?」
と大きな声で聞いてしまう。彼はぷはっと噴き出して笑っている。
「美優の行きたいところならどこでも。水族館は、遠足の時のところでもいい?」
「もちろん」
にこっと笑って見せる。そんな話をしている間に、病院についてしまった。もっと話したいと言う気持ちが湧き出てくる。それを無理矢理押し込めて、我慢する。
『笠野美優さん。第3診察室にお越しください。』
放送で名前を呼ばれたので、待合室から診察室に移動する。
「ここで待ってる」
彼が空気を察して待っててくれると言ってくれたのでホッとする。診察室に入ると、前と同じ先生が座っていた。
「笠野さん、倒れたりすることはないですか?」
「あ…、そこは全然」
「そうですか」
医師はパソコンに打ち込んでいる。
「では、感情が薄くなっていることに実感はありますか?」
「ったまにあります。でも、ある人といると逆に感情が生き生きとしていますが。」
一気に声を出していた。医師はほんの少し驚いた顔をしていた。
「なるほど。無我死病患者はなかなかいませんからね。治療方法もないのです。申し訳ございません」
突然の謝罪に困惑しつつも、
「……いえ。大丈夫です」
医師は私の瞳をしっかりと見て告げる。
「私からのアドバイスです。残り、1ヶ月ほどの時間を精一杯、楽しんでください。薬はいつものを出しときますね」
私は、しばらく何も言えずにいたが、
「ありがとうございます」
と一言告げて診察室を出る。
待合室に戻ると、涼介くんがいる。静かに本を読んでいる彼が。意外すぎて声をかけられずにいると、
「美優、診察終わった?」
と聞いてくる。いつもの彼だとわかり、ほっとする。
「終わったよ。あとは薬を受け取るだけ」
「そっか」
彼が何か言いたげな顔をしていたが、名前を呼ばれたので、気づかないふりをする。
「笠野美優さーん、いらっしゃいますか?」
「あ…、はい」
「これ、お薬です。お大事にしてください」
「ありがとうございます」
病院をでると、家まで送ると言ってくれた。週末の予定をきっちり立てるために。
「美優、行くのは日曜日でいいよね?」
「うん」
夕日に照らされた彼の顔が少しだけ愛おしくなる。横顔をじっと見ていると、こちらへ目線が向いてくる。
「なんで、病院行ったの?前も聞いたけど、教えて欲しい」
私は覚悟を決めた。彼に真実を伝える覚悟を。
「私、本当は病気なの。無我死病っていう病気。脳に腫瘍ができてて、だんだんと感情がなくなっていく病気。最後には死に至るんだって。で、私の……余命は残り……一ヶ月」
彼は絶望した目を向けてきた。ごめんともえへへとも何も言えない空気。
「あ……、そうだった………のか」
「………ごめん。さっき、先生に残り一ヶ月を精一杯楽しめって言われたの。だから……、だから、私、涼介くんといろいろ楽しみたい」
私なりの伝えられることを伝えたいことをたくさん詰め込んだ一言。彼は、涼介くんは目を見開いて驚いていた。
「俺も…。俺も…。美優といろいろ楽しみたいよ。水族館も遊園地も、海も、川も山も全部一緒に行こう。美優の初めても、今まで経験したことも全部」
「そうだね……」
彼は涙をぽろぽろ流しながら何度も何度も頷いている。私も、泣きたかった。でも、泣けない。
「あのね、涼介くん」
「な…に…?」
涙で声があまり出ないようだ。私の余命を聞いただけでこんなにも泣いてくれるなんて。
「私ね、余命を告げられた時から、人と関わるのをやめようって思ってた。私が死んだとき、誰か悲しむ人が出るかもしれないから。多分、いないだろうけど。それに、関わるの苦手だし」
彼は何も言わずにただただ頷いたり、首を振ったりして私の話を聞いてくれている。
「でも、優香ちゃんとかと出会って、関わるのもいいかもなって思えてきたの。そして、涼介くんが、たくさん話しかけてくれたから、私の呪いは解けた」
私がにこっと笑うと、彼は虚な目で私を見ている。
「でも、他の人と関わるのはまだ苦手だし、第一関われる状況じゃない」
「そ…うだね…」
「だから、涼介くんには、ずっと友達でいてほしい」
最後はうまく伝えられなかった。私の中で、涼介くんは友達以上の存在に成長していたのに。
「友…達…なのか……?」
彼は、私を見て、答えを求めるような目線を送ってくる。でも、ここでそうだよとは言ってはいけない気がして、何も言わないことにする。
「なぁ、美優、死ぬって…本当なのかよ…?」
「うん」
言った瞬間に彼の涙の第二波がくる。
「どうして俺は俺は俺は………。守れないんだよ…。大事な人を…、いつもなくす………」
ところどころ嗚咽で聞き取れなかった。彼が泣いている理由は、悲しみと自分への恨みだとすぐわかる。そんな彼を私はそっと抱きしめる。
「ごめん…ごめんね……」
「美優は悪くない」
そう言って、彼は抱きつき返してくる。その手からじんわりと熱が伝わってくる。私の心臓も早く波打っている。
(これが好きという気持ち……。)
永遠に失いたくないこの気持ち。死に対する感情は消えてしまっても、涼介くんに対する感情は消えてほしくない。そう、強く願った。
「ありがとう」
私たちの間に短い沈黙が流れる。いつのまにか彼の涙は消えていて、澄んだ瞳がこちらへ向く。
「美優は悪くない。信じてるから」
その一言が私の心を温める。
「うん。明後日楽しみ」
「俺も」
彼の唇が額に迫ってきた。柔らかい感触が残る。
「じゃあね」
私は手を振るだけで、何も言えずにいた。
☁︎☔︎
待ちに待った日曜日、待ち合わせ場所は、水族館の前。
お気に入りのショルダーバックを持って、返事もこない部屋に
「行ってきます」
という。毎回、この瞬間が一番虚しくなる。ネガティブなことが頭をかけ走るが、首を振って、かき消す。
待ち合わせ時間に遅刻しそうだったから、少し走ると、もうすでに涼介くんは立っていた。
「ごめん。遅れた」
というと、彼は目を大きく見開いて、顔を逸らす。
「え、ごめん…。そんなに待ったの…?」
謝罪を口にすると
「そうじゃなくって!可愛すぎるんだよ…美優が…」
最後の方は段々と声が小さくなっていたが、それなりに恥ずかしいことを言われていると気づき、顔がぼっと赤くなる。
「あ…えと、あの…」
返答に困っていると、
「じゃ、じゃあ行こうか」
彼がさりげなく行くことを促してくれたので、
「行こう!」
と笑って返事をする。水族館に足を踏み入れると、もうすでに結構な人数の客が来ていた。親子、友達同士の人、そしてカップル。
若干気まずい空気が流れるが、そんなことは気にせず、各展示場を見る。
まずは、熱帯魚のところ。色鮮やかな魚が泳いでいて、思わず声が漏れ出てしまう。
「わ……あ…ぁ…!綺麗…!」
うまく表現できずにいる私に
「綺麗だよな。ほら、このちっちゃいのとか綺麗じゃね?」
「本当だ!これ、ネオンテトラって言うんだって!本当に綺麗」
じーっと眺めていると、横から彼も顔を出して一緒に眺めている。私は、ぱっと顔を離して、
「次、行く?」
「行こうか」
歩き出してついたのは、サメの水槽。大きなサメがたくさん泳いでいる。口を開いて泳いできたものだから、声が思わず出てしまった。
「わっ?!」
驚いている私を彼がくすくすと笑いながら見ている。
「ビビりすぎ」
本気で楽しんでいる笑顔を見て、自分の心が暖かくなるのを感じる。この感情ももうあと少しなのに。
いろいろ話しながら水族館のメインの場所とも言える大水槽についた。すると、涼介くんが
「前、ここで話したよな。その時は本当に赤の他人だったけど」
「そうだね」
彼が水槽に向けた目が少し曇る。どこか遠くの世界を見つめている目。もう会えなくなってしまうような、そんな目。
「好き」
ほぼ無意識だった。ぽつりと呟いていたその一言は、周りにいた小さな子達のはしゃぎ声で消される。
「なんか言った?」
不思議そうな顔でこちらを見つめている涼介くんに、
「なんでもない」
とはにかんで言った。
そこから歩いて、いよいよ、待ちに待ったクラゲゾーン。私の一番好きな場所。
「やっぱりここが好きだな」
と言うと、
「なんでここが好きなの?遠足の時もすごい見てたよね」
「なんか、クラゲって私に似てるなあって」
本音をゆっくりと吐き出していく。それを彼は静かに見ている。
「クラゲって、存在が儚いって言うか、ちょっと攻撃したらすぐに死んじゃいそうじゃん?これ、私の勝手な想像なんだけど、寿命も短そうじゃん」
彼は頷いて聞いてくれている。
「もうすぐ死ぬ私にそっくりだなあって。まあ、死にますよって宣言されたのは遠足の後だけどね。前々からそんな予感はしてたんだよね」
無理に作り笑いをすると、彼がきっとした目で私を見てくる。
「そんなこと言うなよ!美優は死なないし……」
彼は言いたいことをうまく言えないような、無理をしているような顔で語りかけてくる。
「もう、こんな話やめようぜ…?」
「わかった。ごめんね。話しちゃって」
私たちの間に流れる空気をクラゲも共に泳いでいく。
そこからはずっと無言だった。クラゲゾーンを抜けると売店があるので、寄ることにした。母と父へお土産を買おうと。
クラゲが印刷されたクッキーを選んでふと右側を見ると、綺麗なクラゲのネックレスが売っていた。
「かわいい…」
ほとんど無意識に呟いていた。透明で輝いているそのネックレスはとても魅力的だった。しかし、値札を見た瞬間、そんな気分はどこかへ消える。
「えっ!?」
値札には2万5000円と書かれていた。とても買えるような品ではない。
「何?これほしいの?」
涼介くんが声をかけてきた。クラゲのネックレスを手に取った彼は目を見開いている。やっぱり値段に驚いているようだった。すると、彼が何かを決心した顔で
「じゃあ、これあげる」
と何かを買い物かごに入れた。よく見ると、それはクラゲのブレスレット。それもまたとても可愛い。
「え……。悪いよ、買ってもらうなんて。……もうすぐいなくなるのに」
涙が出そうになる。語尾がだんだん小さくなってしまった。
「いいの」
返事はあまりにも短かったが、買わないことを絶対に許さないと言っているようなそんな声だった。
売店を出ると、近くに噴水のベンチがあったので、そこに座る。すると彼が
「手出して」
と言ってきた。手を差し出すと、彼がそこにクラゲのブレスレットをかけてきた。
「似合う。可愛いよ」
ほんのり顔が赤くなっている彼にそれを言われて、自分も赤くなる。
噴水の音と共にブレスレットのクラゲが静かに揺れる。
「えと、今日はありがとう」
声を頑張って絞り出す。
「俺も。楽しかった」
お互いに言葉がうまく紡げないけれど、言いたいことは同じな気がする。
「美優、家まで送る」
ブレスレットを買ってもらったうえに送ってもらうのは申し訳なさすぎる。
「大丈夫。家近いし」
嫌だ送ると言ってくるかと思っていたが、答えは
「わかった。じゃあ、解散で。今日はありがとう」
だった。あまりにもあっさり終わったことに驚きつつも
「ありがとう。楽しかった」
と言って自分の家に向かった。
家に帰ってお土産を机に置き、メモ書きを添える。
[二人で食べてください。美優より]
そして改めてクラゲのブレスレットを見つめる。
ブレスレットについているクラゲからはいろいろな思い出が出てくる。
大水槽の出来事、サメの水槽に熱帯魚……。
思い出せば止まらないくらい出てくる。
「楽しかったなあ……」
ぽつりと呟いた一言は当てもなく消えてゆく。もうすぐ死ぬ私にとっては、すごく楽しい思い出だった。
「っ……」
ぽろりと一筋の涙が流れた。

