「はぁっ……」
嘘だ嘘だ嘘だ。期待はしていたけど、あの"美優"は"笠野美優"じゃない。とりあえず、真実を突き止めるためには本人に会うのが一番。
今までで一番速いんじゃないかというくらいの全速力で美優を探す。
今会いたい、今すぐに。
曲がり角を曲がると見慣れた背中がみえる。
「美優ー!」
彼女ははっとしてこちらを向いた。そして、俺のことを見て、驚いている。
「あのさっ…、昔、この辺に、住んでた…?」
はぁはぁなりつつも聞くと、美優は心配そうにこちらを見ている。声が掠れていて、何も聞こえていないようだった。
「まずは、あそこの公園で休もう?」
俺は何も言えない状態だったから、ただ頷くことしかできなかった。
「ちょっと待っててね」
近くの自販機まで歩いていった美優の背中を見つめる。飲み物を2本手にしてこちらへ戻ってくる。
「はい」
「ありがとな」
渇ききっている喉冷たいお茶が流れる。一気に喉が潤っていく感覚が心地よくて、何口も飲む。
「で、さっき言ってきたことって何?」
「えっと、小さい頃、この辺に住んでた?」
美優は、なんでそれをと驚いて、声が出ないようだった。何も言わず、視線を地面に落としていく。
「そう…だよ。もう、思い出したくないから、ごめん、話さないでほしい」
「そっか……」
他にもたくさん質問したいことがあったが、それを心の奥に押し込めて我慢する。だが、今の一言で俺の好きな美優は、笠野美優であることがほとんど証明された。あとは、美優があの思い出のタンポポ畑を覚えているかどうか……。
「あのさ…?」
「なに?」
「ファンシーベアーズランドいかない…?」
ファンシーベアーズランドは最近できたばかりの遊園地。特に、ホラーアトラクションとジェットコースターが人気を誇っているところだ。そんなところに美優から誘ってくるなんて、珍しい。
「なんで?」
「えっと、死ぬ前に行きたいの。涼介くんと」
「わかった。今度の日曜日空いてる?」
うんと頷く美優を確認して、計画を立てる。きっと、美優が死ぬ前の最後の遊びになるだろう。だってもう、あと2週間弱しか生きることができないのだから。
でも、最近、俺は美優の表情や行動に違和感を持っている。もし、本当に死にたくないのなら、『死ぬ前に』なんて自分で言った瞬間に涙が溢れてくるはずだからだ。だが、さっきの美優はおかしかった。何の感情も持たない人形のようだった。
瞳の輝きはなく、何も感じていないかのように一切動かない表情。
これは、病気のせいなのだろうか。
(じゃあ、俺が好きって言っても何も伝わらないんじゃ……)
焦ると同時に嫌な考えが出てくる。背中がすぅっと冷える感覚に襲われる。
今の美優も一切表情が変わらないからだ。美しい蝶が横を飛んでもなにも言わずに見つめているだけだった。
「美優…」
「なに?涼介くん」
「日曜日、楽しみにしてるからな」
そう言った俺に、美優はにこっと貼り付けたような笑みを浮かべて、ばいばいと言って手を振りながら公園出ていった。
☁︎☔︎
「えっと、小さい頃、この辺に住んでた?」
それを聞いた瞬間、私が小さい頃に会っていたりょうすけという男の子は、涼介くんのことなんじゃないかと初めて疑った。もし、そうだったとしても、もうすぐ死ぬ私のことを知ったってすぐに別れが迫ってくるだろうから、もう思い出したくないと適当に理由を付けて話を区切った。
そして、ファンシーベアーズランドに行かないかと誘った。
これには理由があって、開園を聞いて気になっていたことと、涼介くんと二人で行きたい場所ランキングの一位だったからだ。
断られることがなくてよかったとホッとする。
話していて、涼介くんが私のことを怖がっているように見えた。私の顔を見ては考え見ては考えを繰り返している。
(もしかして…、病気の進行で表情が変わらなくなっている…?)
そう考えていると横を美しい蝶が飛んでいった。それを見て私は美しいとしか思わなかった。可愛いとか綺麗、もっと見ていたいなどの感情は一切出てこなかった。
帰るときは無理矢理笑みを作って公園を駆け足で出た。
「あ……」
泣きそう、と思ったが、涙なんて一粒も溢れてこなかった。死ぬんだなぁ思っても、涙は出てこなかった。
本当に感情がどんどん消えてっている私が怖い。自分じゃないみたいな感覚だった。家まで走って帰り、自分の部屋の鍵を閉めて部屋にこもる。
「そうだ…」
今、まだ少しだけでも感情が残っているのなら…と思い、大切な人たちに手紙を書いた。
【涼介くんへ】
【優香ちゃんへ】
【高梨さんへ】
【クラスのみんなへ】
そして……
【母さんへ】
母さんにはここまで育ててもらってとても感謝している。だから手紙を書く。高梨さんは、いじめられていたけれど、うまく行動できなくてごめんなさいと書いた。優香ちゃんは、仲良くしてくれてありがとうという感謝の気持ちを素直に書いた。クラスのみんなは、いろいろな思い出を書いた。
涼介くんは、自分の思いと感謝を長ったらしく書いた。
それらの便箋を全て一つの封筒にまとめて、机に置く。
「さて、もう寝よ」
とても晩御飯を食べれる気分ではなかったので、そのまま布団に潜り込む。
目を瞑ると、今日の涼介くんの顔が瞼の裏に出てくる。
悲しそうな顔、不思議そうな顔、嬉しそうな顔……。
この、好きっていう気持ちもいつか消えるのかと思うと胸がギュッと締め付けられる。もう、考えるのをやめて、ギュッと強く目を閉じた。
☁︎☔︎
今日は涼介くんと一緒にファンシーベアーズランドに行く日。ちょっとだけメイクする。気合いを入れて、可愛らしい服で行く。水族館に続き、二回目に二人で出かける。これはデートに入るのだろうか。
「ごめん。待ったかな…?」
「大丈夫。行こうか」
入場ゲートをくぐるとそこはとても賑やかだった。
「ね!これ買お!お揃いにしよ!」
そう涼介くんに言う。私が手にしているのはファンシーベアーズランドのキャラクターのクララとベルルの耳のカチューシャ。私がクララのカチューシャで涼介くんがベルルのカチューシャ。
「めっちゃいい!写真とろ!」
カチューシャをつけて、二人で写真を撮る。とってもエモい写真が撮れた。
「涼介くんはどれ乗りたい?」
「俺はこのクラベルコースターに乗りたい」
「じゃあ、それから行こう!」
クラベルコースターは車両がとっても可愛くて、映える写真が撮れると有名な乗り物だ。いざ乗ってみると、
「なんか、けっこう高くない…?」
「だよな」
下に入った瞬間、顔の正面からぶわっと風が当たってくる。
「きゃっ…」
声が出ないくらい怖い。見た目はとっても可愛いのに、中身はこんなんだとは……
一方、涼介くんは、
「うぉっすげー!」
めっちゃ楽しんでいる。こんなに速いのに。私は怖すぎて涼介くんの手をギュッと握る。ギュッと目を瞑っていたらいつのまにか終わっていた。
「楽しかったぁー」
「怖かった…」
ぶるぶると震えている私を見てけらけら笑う涼介くんは、本気で楽しかったようだ。
(来てよかった…)
私は怖くて何も感じられなかったけれど、一緒に来ている人の楽しそうな顔をみると、自然と顔がほころぶ。
「次はコーヒーカップでも乗らない?」
「いいよ。美優の好きなところ行こう」
コーヒーカップの場所に行くと、それほど混んでいない。
「そんなに混んでいないね」
「本当だ。良かったな」
ニッと笑ってくる涼介くんに私は、違和感を覚えた。
良かったってなんだろうと、思ってしまった。
(これって……)
私は自分自身に耐えきれず、涼介くんをおいて駆け出した。
「えっ?美優?!」
驚いて追いかけてくる涼介くんの足音が聞こえてくる。
でも、もうそれも聞きたくない。
全速力で走り、近くにあった建物の中に入り込む。
建物は、鏡の王国だった。
正面にも右にも左にも鏡がたくさんある。
四方八方に自分の顔が写っている。
「あぁ…」
(あぁ、こんなにも、こんなにも自分は生きたいという顔をしている…)
涙でぐしゃぐしゃになった顔をぼやけた視界の中見つめる。
本当のあなたは何がしたい?
何をしたかった?
自分自身に問いかける。
私は…
「私は、もし、あの"りょうすけくん"が涼介くんなら…、もう一度たんぽぽ畑に行きたい」
私は私自身にそう告げた。鏡の向こうの私はほんの少しにこりとしていた。
「美優ー!!」
優しい響きの大きな声が聞こえてくる。
私も大きな声を張り上げてここにいるよ!と言おうとした。
しかし、私の口から出て来たのは、掠れた声だけだった。
(あ…れ……?)
体がグラグラして、心臓が早く鳴る。
体の奥底でどくどくと早く波打っているのが伝わる。
「りょ…すけ…くん…」
頑張って出した声は途切れ途切れで何も伝わらない。
薄れゆく意識の中、私は駆け寄ってくる涼介くんをみた。
「美優?!」
「りょう…すけ……くん。私…が…起き…たら…話…を……聞いて…ほしい」
「うん。分かったから、救急車呼ぶね」
ありがとう…と言いたかった。最後にありがとう…と。
でも、薄れゆく意識と熱くなっていく体のせいでうまく伝えることができなかった。
(寿命なのかな……)
意識はないのに、涙が流れている感覚だけした。
涙という感情だけ残っていた。それと同時に意識は消えた。
☁︎☔︎
『ん…ここは…?』
目を開けると正面には怒りの顔で満ちた母の形相。
『あんたなんかいなくなってしまえば…!!』
『いやっ…』
バシッと叩かれそうになり、咄嗟に手で頭を守る。しかし、衝撃は一切来なかった。目を開けるとそこはおばあちゃん家だった。
『美優、泣けないのはね、悪いことではないんだよ。泣けないならその気持ちを伝えるようになりなさい。泣けない分、たくさん笑う子になりなさい』
『おばあちゃん…』
おばあちゃんに抱きしめられ、温もりのなか、目を瞑る。
私、たくさん笑えてないよ…。気持ちも言えないよ…。
次に目を開けると、たんぽぽ畑に立っていた。
『ばいばい』
『またね』
りょうすけくんと挨拶を交わす。手にはもらったばっかりの手袋がはめられている。
温かい…。
温かさが心地よくてまた目を瞑る。
目を開けると、そこは、水族館だった。
綺麗なブレスレットをもらった水族館。
その後にはたくさんの思い出が鏡に映るようにして出てきた。
涼介くんとのお出かけ、優香ちゃんに出会ったこと、高梨さんとの日々…。
『私はこんなにも…』
たくさんの人と過ごしてきたんだ。
反吐が出るとか言ってごめんなさい。
誰に謝るでもなく、つぶやいた。
そして、鏡の世界の中、立っている人がいた。私の前に立っているのは、小2の頃の私。
『りょうすけくんといたいよー。どこにいるか知ってる?』
私は、話しかけてきた私に驚きつつも、
『これから私が会うよ。私は未来のあなただから、心配しないで』
自然と頬が笑みを浮かべる。それは無意識だった。
『ほんと?!じゃあ、りょうすけくんにたんぽぽ畑行こうって言っておいて!』
『分かった。じゃあね』
『うん!ばいばい』
もう最後の方は涙で視界が見えなかった。曇った視界の中、私に手を振った。
(涙することがこんなにも…嬉しいなんて…)
感情が消えるとはどういうことなんだろうか。
感情は薄まっていくのかもしれないけれど、体の奥底に眠っている。だって今、こうやって涙することができたのだから。
『私は、最期まで生きる希望を持たなきゃ』
次に目を開けると、そこは一面の花畑だった。その真ん中に誰かが立っている。
それは、大好きなおばあちゃんだった。
『おばちゃん…?』
『美優、あなたは涼介くんが好きなのね。ずっと見てたわよ?』
にこにこの笑顔と優しい眼差しで私を見つめるおばあちゃん。だから私はおばあちゃんが好きなのだ。
『そう…なの。でも、私、無我死病っていう病気だから…』
『好きに病気は関係ないでしょう?あと、最後にお母さんとも向き合ってみなさい』
『そうだよね。向き合ってみるね』
手を振って、おばあちゃんに別れを告げる。すると、周囲が目が開けていられないくらい眩しくなる。
「ん…あ?」
「美優!良かった…」
「お母さん…?」
なんで心配してくれたの…?聞こうと口を開くと、
「このバカっ」
バシッと頬を叩かれる。夢と同じ出来事が起き、驚く。
「私が美優に干渉しなかったのが原因でもあるんだろうけどね…。なんで重病だって言わなかったの!今日、先生に初めて言われて、しかももうすぐだって言われて…」
「え…?」
「心配してるのよ!…でも、今まで美優をあまり大切にできていなかった。ごめんね」
「いいよ。お母さん、ありがとう」
「なんで美優が感謝するの?」
感謝という気持ちはよくわからないが、口から自然と漏れ出た言葉だった。
「向き合ってくれたのが…」
嬉しくてと言葉を続けようとするが、うまく続かない。
「先生からお話は聞いている。感情に関わる病気なのよね…。無理しなくていいから」
うん…と言って私はお母さんを改めて見る。
お母さんは疲れ切っているようだった。おそらく、私が病院にいる間、夜もあまり寝れなかったのだろう。
迷惑をかけてしまった。
ずーんと気分が沈むが、私はハッとする。
「お母さん!私はいつ退院できるの…?」
「先生によると明日って言っ…」
「じゃあ、明後日出かける!」
「はぁ…?」
私はどうしても出かけたかった。涼介くんとたんぽぽ畑に行きたかった。気持ちを伝えたかった。
消えかけた感情の中、うまく言えるかわからないが…。
お母さんは私の真剣な眼差しを見て決心したのか、
「仕方ないわね…。3時間だけって約束して?」
「分かった。ありがとう」
また、自然とありがとうが出てきた。
☁︎☔︎
[涼介くん、明日、一緒に出かけたい]
メッセージ送るとすぐに既読がついて、
[いいけど、体調は大丈夫なのか?]
[平気。私の家まで来れたりってする…?]
[いいよ]
待ち合わせの時間を伝えて、会う準備はできた。あとは私が、頑張るだけ。
意気込んで、私は自分の部屋で眠りについた。
☁︎☔︎
「お母さん、行ってきます」
「いってらっしゃい」
今日は私が、涼介くんと、たんぽぽ畑に行く日。あの日の約束を涼介くんは覚えているだろうか。
家を出るともうすでに涼介くんが待っていた。
「ごめん。待ったかな…?」
「今着いたばっかりだから大丈夫。じゃあ、美優の行きたいところに行こう」
すると涼介くんが自然と手を繋いできた。私もきゅっと握り返す。
「電車に乗らないといけないからさ、駅行こう。あと…思ったよりも病気が進行しているらしくてさ…、無表情、無感情かもしれないけど、そこはごめん」
「おう。美優も辛くなったら、言えよ?」
「うん!」
私のことを考慮してくれる涼介くんが…好き…だ。自信は持てないけど、こういうところが本当に好き。
電車で15分移動して着いたのは、小2のときに住んでいた町だった。
「ここって…」
私は涼介くんの小さな呟きを聞き逃さなかった。
ここに見覚え…いや、小さい頃の記憶が蘇ってきたのだろう。
私は涼介くんの手を引いて、たんぽぽ畑まで歩く。
「美優…?」
「ちょっと待って…」
無言のまま歩くこと10分、そこには懐かしい河川敷のたんぽぽ畑が広がっていた。
「美優…もしかして…」
「こっちおいでよ」
手を引っ張り、たんぽぽ畑の真ん中に立つ。
「あのさ…」
「好きです」
涼介くんの言葉にかぶせる形になってしまったが、ちゃんと言えた。
「小さい頃、会っていた"りょうすけ"は涼介くんだったんだね」
「やっぱり、美優だったんだ…」
「黙って離れてごめんね。あと、もうすぐいなくなるのに、好きとか…言ってっ…ごめん…っ」
涙が出てきた。
まだ、涙だけ残っていた。
「謝らないで。あの、」
「この手袋…見覚え…ないっ…?」
私が握りしめているのは、使い古された手袋。これは小さい頃、涼介くんにもらったものだ。
「あるよ。これ、俺が渡したやつ。こんなになるまで使ってくれたんだ…」
「そうだよ」
口角が少し上がってしまう。嬉しかった。嬉しいってよくわからないけど、多分、これは嬉しいの気持ちだ。
「じゃあ、俺から」
「何…?」
空気がさっきとは少し変わり、背中に冷や汗が出てくる。まさか、断られるのか。
「俺も好きです」
「っ……」
「美優初めて出会ったときから、俺の心はきっと美優に傾いてたんだよ」
涙が止まらない。嬉しさか、悲しさか、それとも別の感情なのかわからない。
誰か、この涙の止め方を教えて__
「美優、ちょっと来て」
「?」
なんだろうと思いつつも、涼介くんに近づく。すると、彼は何かを私につけてきた。
「ほら、似合ってる」
それは、あの水族館で見た、綺麗なネックレスだった。高くてとても買えるような品ではなかったはずなのに、どうして。
「え…でも、どうして…」
「あのときの美優の目の輝きが忘れられなくて、それで、バイトをして、お金貯めて買った」
私はこのとき実感した。この人はこんなにも私を想ってくれているんだと。
「でも…高いし…受け取れないよ…」
「受け取って。可愛いよ」
優しい眼差しでこちらを見てくる涼介くんを私は見つめ返す。そして、私は手首で輝くブレスレットと胸元で輝くネックレスを見る。いろいろなものが、どっと押し寄せてくる。
「ありがとう」
また、涙が止まらない。感情は無くなるものじゃないんだと私は思う。
「感情って本当に無くなるのかな」
私の心を読み取るかのように、涼介くんがつぶやく。
「だって今、美優はこうして泣いているのに」
そうだね、と言いたかった。でも言えなかった。なぜか、胸の奥が苦しくて。
「死に対する感情…」
「え?」
「死に対する感情は、ほとんどないの。生きたいと思うけど、死に対する…、怖いとかそういうのは全くない…」
絞り出した声は震えていた。だってこれを言ったら涼介くんがショックを受けるかもしれないから。
「そっか…」
それから涼介くんは何も言わなかった。私も何も言わなかった。お互いがお互いを気遣い合ってできた沈黙。
私にはそれがなぜか心地よい。すると、涼介くんの手が伸びてきた。そして、私の手をきゅっと握る。
この手の温もりを私は永遠に忘れたくない。
「もうすぐ、3時間立つじゃん…」
「そうだね…。今日はありがとう」
精一杯の笑みを作って伝える。涼介くんも少し笑って、
「俺からも、ありがとう。じゃあ、帰るか」
駅の中も電車の中も涼介くんはずっと私の手を握ってくれていた。
私の胸元でクラゲのネックレスが光っていた。
☁︎☔︎
[今日はありがとう。楽しかった!]
[俺も楽しかった!]
簡単なメッセージのやり取りを済ませて、晩御飯を食べる。
「今日は、カレーよ」
「カレー…」
私は母のカレーが大好きだった。母とあまり話さなくなってからは、味があまり感じられなかった。だから、母のカレーを味わえるのはいつぶりだろう。
椅子に座っていると、母がほかほかのカレーを持ってきた。
「いただきます」
しっかり挨拶をして、一口運ぶ。口の中にぶわっと広がる母のカレーの味。懐かしくて、美味しい。
「おい…しい…」
「ふふ。今日は腕を振るったのよ〜」
母との会話もだいぶ楽になった。前は常に張り詰めた状態だったが、今はやんわりとした空気で話すことができる。
カレーを食べ終わり、私は少しでも母に貢献しようとお皿洗いを始める。
「美優は病気なんだし、そんなことしなくてもいいのよ?」
私は首をふるふると振って、
「私がやりたいの。だから、やらせて?」
「仕方ないわね」
ニコッと笑ったお母さんは私の隣に立って皿洗いを始めた。一緒に何かをするというのもいつぶりだろうか。
「お母さんは私のことが嫌いだったの…?」
唐突に言ってしまった。最近ずっと疑問に思っていたことだったからだ。
「私は美優のこと、嫌いじゃないわよ?」
「え…?」
「でも、私がいろいろひどいことを言っていたのは分かってる。それは本当にごめんね」
お母さんは私のことを嫌っていたわけじゃなかったんだ…。モヤモヤしていた気持ちが一気に晴れる。
「そうだったんだ。私もちゃんと向き合おうとしなくてごめんなさい」
「いいのよ、別に。でも、病気のことはちゃんと言って欲しかったわ」
お母さんの気持ちもわかる。私がお母さんの立場だったら、心配でどうにかなっているかもしれない。
「ごめんね…」
そこから私たちの会話はなかった。お皿洗いを終え、ソファに座っていると、
「これ、飲む?」
お母さんが隣に座ってきて、ホットココアを渡してくれた。
「ありがとう」
温かいココアが身に染みる。ごくんと飲むと体中にその温かさが伝わっていく感覚がする。
「美味しい…」
「お父さんには秘密よ?」
お父さん…その昔、私は父と結婚したがっていたくらい父が大好きだったらしい。今は普通だけど。
「分かった。内緒ね」
ゆっくりと残りのココアを飲み干す。お腹の奥がぽかぽかする。
「お母さん、ありがとう。美味しかった」
お母さんはにこりと笑って、コップを片付ける。私は寝ようと2階に上がる…つもりだった。
「お母さん、来てよ」
お母さんはびっくりした顔をして、私を見る。私は母に小さい頃からずっと好きな絵本を読んでもらおうと思ったのだ。
「どうして?」
「私が一番好きな『光の夜』を読んで欲しかったの…!」
変な顔をされたり、断られたりするかもしれないという考えが頭をよぎる。母は、それを聞いて、ニコッと笑って、
「いいわよ。じゃあ、部屋に向かいましょう」
お母さんと部屋に向かう。私は部屋に入って布団に潜り込む。母は布団の隅に座って『光の夜』を開く。
「昔、心優しい女の子がいました。その子は貧しい生活をしていましたが、どんな人に対しても思いやりの気持ちは絶対に忘れませんでした。ある日、その子が山へきのこ採りに行っていると……」
ここまではいつも通りの序文。私が好きなのはこの先の場面だ。
「いつもとは違う様子の湖が目に入りました。湖が光り輝いているのです。でも、微かに誰かの泣き声も聞こえてきました。女の子はきのこ採りを忘れ、急いでその子のもとへ行きました。その子は、星を見たい、星に帰りたいと泣いていました……」
この出会いが好きなんだよなぁ…と改めて感じる。女の子の優しさに感動するシーンの一つだ。
そこから私は少しうとうとしてしまった。
私がハッとなって起きたのは物語の最後の方。
「女の子は最後までその子のそばを離れませんでした。その優しさを讃えるかのように、夜空では星が瞬き、流れ星がたくさん落ちていきました…。おしまい」
最後のシーンは聞いただけで感動する。女の子の優しさと想いの強さに感動するのだ。
私もこんな子になりたいと小さい頃、夢見ていたが、それは叶えることができなかった。
「ありがとう…」
「…おやすみ、美優」
「おやすみ、お母さん」
短い会話を交わし、母は部屋から出ていった。
一人になった部屋でさっきの物語を思い出す。
すると突然、強い眠気に襲われた。耐えることができず、沈むように眠りについた。
その夜、笠野美優は亡くなった。
幸せそうな顔をしていた。
その夜はちょうど、美しい流れ星が輝いている夜だった。
嘘だ嘘だ嘘だ。期待はしていたけど、あの"美優"は"笠野美優"じゃない。とりあえず、真実を突き止めるためには本人に会うのが一番。
今までで一番速いんじゃないかというくらいの全速力で美優を探す。
今会いたい、今すぐに。
曲がり角を曲がると見慣れた背中がみえる。
「美優ー!」
彼女ははっとしてこちらを向いた。そして、俺のことを見て、驚いている。
「あのさっ…、昔、この辺に、住んでた…?」
はぁはぁなりつつも聞くと、美優は心配そうにこちらを見ている。声が掠れていて、何も聞こえていないようだった。
「まずは、あそこの公園で休もう?」
俺は何も言えない状態だったから、ただ頷くことしかできなかった。
「ちょっと待っててね」
近くの自販機まで歩いていった美優の背中を見つめる。飲み物を2本手にしてこちらへ戻ってくる。
「はい」
「ありがとな」
渇ききっている喉冷たいお茶が流れる。一気に喉が潤っていく感覚が心地よくて、何口も飲む。
「で、さっき言ってきたことって何?」
「えっと、小さい頃、この辺に住んでた?」
美優は、なんでそれをと驚いて、声が出ないようだった。何も言わず、視線を地面に落としていく。
「そう…だよ。もう、思い出したくないから、ごめん、話さないでほしい」
「そっか……」
他にもたくさん質問したいことがあったが、それを心の奥に押し込めて我慢する。だが、今の一言で俺の好きな美優は、笠野美優であることがほとんど証明された。あとは、美優があの思い出のタンポポ畑を覚えているかどうか……。
「あのさ…?」
「なに?」
「ファンシーベアーズランドいかない…?」
ファンシーベアーズランドは最近できたばかりの遊園地。特に、ホラーアトラクションとジェットコースターが人気を誇っているところだ。そんなところに美優から誘ってくるなんて、珍しい。
「なんで?」
「えっと、死ぬ前に行きたいの。涼介くんと」
「わかった。今度の日曜日空いてる?」
うんと頷く美優を確認して、計画を立てる。きっと、美優が死ぬ前の最後の遊びになるだろう。だってもう、あと2週間弱しか生きることができないのだから。
でも、最近、俺は美優の表情や行動に違和感を持っている。もし、本当に死にたくないのなら、『死ぬ前に』なんて自分で言った瞬間に涙が溢れてくるはずだからだ。だが、さっきの美優はおかしかった。何の感情も持たない人形のようだった。
瞳の輝きはなく、何も感じていないかのように一切動かない表情。
これは、病気のせいなのだろうか。
(じゃあ、俺が好きって言っても何も伝わらないんじゃ……)
焦ると同時に嫌な考えが出てくる。背中がすぅっと冷える感覚に襲われる。
今の美優も一切表情が変わらないからだ。美しい蝶が横を飛んでもなにも言わずに見つめているだけだった。
「美優…」
「なに?涼介くん」
「日曜日、楽しみにしてるからな」
そう言った俺に、美優はにこっと貼り付けたような笑みを浮かべて、ばいばいと言って手を振りながら公園出ていった。
☁︎☔︎
「えっと、小さい頃、この辺に住んでた?」
それを聞いた瞬間、私が小さい頃に会っていたりょうすけという男の子は、涼介くんのことなんじゃないかと初めて疑った。もし、そうだったとしても、もうすぐ死ぬ私のことを知ったってすぐに別れが迫ってくるだろうから、もう思い出したくないと適当に理由を付けて話を区切った。
そして、ファンシーベアーズランドに行かないかと誘った。
これには理由があって、開園を聞いて気になっていたことと、涼介くんと二人で行きたい場所ランキングの一位だったからだ。
断られることがなくてよかったとホッとする。
話していて、涼介くんが私のことを怖がっているように見えた。私の顔を見ては考え見ては考えを繰り返している。
(もしかして…、病気の進行で表情が変わらなくなっている…?)
そう考えていると横を美しい蝶が飛んでいった。それを見て私は美しいとしか思わなかった。可愛いとか綺麗、もっと見ていたいなどの感情は一切出てこなかった。
帰るときは無理矢理笑みを作って公園を駆け足で出た。
「あ……」
泣きそう、と思ったが、涙なんて一粒も溢れてこなかった。死ぬんだなぁ思っても、涙は出てこなかった。
本当に感情がどんどん消えてっている私が怖い。自分じゃないみたいな感覚だった。家まで走って帰り、自分の部屋の鍵を閉めて部屋にこもる。
「そうだ…」
今、まだ少しだけでも感情が残っているのなら…と思い、大切な人たちに手紙を書いた。
【涼介くんへ】
【優香ちゃんへ】
【高梨さんへ】
【クラスのみんなへ】
そして……
【母さんへ】
母さんにはここまで育ててもらってとても感謝している。だから手紙を書く。高梨さんは、いじめられていたけれど、うまく行動できなくてごめんなさいと書いた。優香ちゃんは、仲良くしてくれてありがとうという感謝の気持ちを素直に書いた。クラスのみんなは、いろいろな思い出を書いた。
涼介くんは、自分の思いと感謝を長ったらしく書いた。
それらの便箋を全て一つの封筒にまとめて、机に置く。
「さて、もう寝よ」
とても晩御飯を食べれる気分ではなかったので、そのまま布団に潜り込む。
目を瞑ると、今日の涼介くんの顔が瞼の裏に出てくる。
悲しそうな顔、不思議そうな顔、嬉しそうな顔……。
この、好きっていう気持ちもいつか消えるのかと思うと胸がギュッと締め付けられる。もう、考えるのをやめて、ギュッと強く目を閉じた。
☁︎☔︎
今日は涼介くんと一緒にファンシーベアーズランドに行く日。ちょっとだけメイクする。気合いを入れて、可愛らしい服で行く。水族館に続き、二回目に二人で出かける。これはデートに入るのだろうか。
「ごめん。待ったかな…?」
「大丈夫。行こうか」
入場ゲートをくぐるとそこはとても賑やかだった。
「ね!これ買お!お揃いにしよ!」
そう涼介くんに言う。私が手にしているのはファンシーベアーズランドのキャラクターのクララとベルルの耳のカチューシャ。私がクララのカチューシャで涼介くんがベルルのカチューシャ。
「めっちゃいい!写真とろ!」
カチューシャをつけて、二人で写真を撮る。とってもエモい写真が撮れた。
「涼介くんはどれ乗りたい?」
「俺はこのクラベルコースターに乗りたい」
「じゃあ、それから行こう!」
クラベルコースターは車両がとっても可愛くて、映える写真が撮れると有名な乗り物だ。いざ乗ってみると、
「なんか、けっこう高くない…?」
「だよな」
下に入った瞬間、顔の正面からぶわっと風が当たってくる。
「きゃっ…」
声が出ないくらい怖い。見た目はとっても可愛いのに、中身はこんなんだとは……
一方、涼介くんは、
「うぉっすげー!」
めっちゃ楽しんでいる。こんなに速いのに。私は怖すぎて涼介くんの手をギュッと握る。ギュッと目を瞑っていたらいつのまにか終わっていた。
「楽しかったぁー」
「怖かった…」
ぶるぶると震えている私を見てけらけら笑う涼介くんは、本気で楽しかったようだ。
(来てよかった…)
私は怖くて何も感じられなかったけれど、一緒に来ている人の楽しそうな顔をみると、自然と顔がほころぶ。
「次はコーヒーカップでも乗らない?」
「いいよ。美優の好きなところ行こう」
コーヒーカップの場所に行くと、それほど混んでいない。
「そんなに混んでいないね」
「本当だ。良かったな」
ニッと笑ってくる涼介くんに私は、違和感を覚えた。
良かったってなんだろうと、思ってしまった。
(これって……)
私は自分自身に耐えきれず、涼介くんをおいて駆け出した。
「えっ?美優?!」
驚いて追いかけてくる涼介くんの足音が聞こえてくる。
でも、もうそれも聞きたくない。
全速力で走り、近くにあった建物の中に入り込む。
建物は、鏡の王国だった。
正面にも右にも左にも鏡がたくさんある。
四方八方に自分の顔が写っている。
「あぁ…」
(あぁ、こんなにも、こんなにも自分は生きたいという顔をしている…)
涙でぐしゃぐしゃになった顔をぼやけた視界の中見つめる。
本当のあなたは何がしたい?
何をしたかった?
自分自身に問いかける。
私は…
「私は、もし、あの"りょうすけくん"が涼介くんなら…、もう一度たんぽぽ畑に行きたい」
私は私自身にそう告げた。鏡の向こうの私はほんの少しにこりとしていた。
「美優ー!!」
優しい響きの大きな声が聞こえてくる。
私も大きな声を張り上げてここにいるよ!と言おうとした。
しかし、私の口から出て来たのは、掠れた声だけだった。
(あ…れ……?)
体がグラグラして、心臓が早く鳴る。
体の奥底でどくどくと早く波打っているのが伝わる。
「りょ…すけ…くん…」
頑張って出した声は途切れ途切れで何も伝わらない。
薄れゆく意識の中、私は駆け寄ってくる涼介くんをみた。
「美優?!」
「りょう…すけ……くん。私…が…起き…たら…話…を……聞いて…ほしい」
「うん。分かったから、救急車呼ぶね」
ありがとう…と言いたかった。最後にありがとう…と。
でも、薄れゆく意識と熱くなっていく体のせいでうまく伝えることができなかった。
(寿命なのかな……)
意識はないのに、涙が流れている感覚だけした。
涙という感情だけ残っていた。それと同時に意識は消えた。
☁︎☔︎
『ん…ここは…?』
目を開けると正面には怒りの顔で満ちた母の形相。
『あんたなんかいなくなってしまえば…!!』
『いやっ…』
バシッと叩かれそうになり、咄嗟に手で頭を守る。しかし、衝撃は一切来なかった。目を開けるとそこはおばあちゃん家だった。
『美優、泣けないのはね、悪いことではないんだよ。泣けないならその気持ちを伝えるようになりなさい。泣けない分、たくさん笑う子になりなさい』
『おばあちゃん…』
おばあちゃんに抱きしめられ、温もりのなか、目を瞑る。
私、たくさん笑えてないよ…。気持ちも言えないよ…。
次に目を開けると、たんぽぽ畑に立っていた。
『ばいばい』
『またね』
りょうすけくんと挨拶を交わす。手にはもらったばっかりの手袋がはめられている。
温かい…。
温かさが心地よくてまた目を瞑る。
目を開けると、そこは、水族館だった。
綺麗なブレスレットをもらった水族館。
その後にはたくさんの思い出が鏡に映るようにして出てきた。
涼介くんとのお出かけ、優香ちゃんに出会ったこと、高梨さんとの日々…。
『私はこんなにも…』
たくさんの人と過ごしてきたんだ。
反吐が出るとか言ってごめんなさい。
誰に謝るでもなく、つぶやいた。
そして、鏡の世界の中、立っている人がいた。私の前に立っているのは、小2の頃の私。
『りょうすけくんといたいよー。どこにいるか知ってる?』
私は、話しかけてきた私に驚きつつも、
『これから私が会うよ。私は未来のあなただから、心配しないで』
自然と頬が笑みを浮かべる。それは無意識だった。
『ほんと?!じゃあ、りょうすけくんにたんぽぽ畑行こうって言っておいて!』
『分かった。じゃあね』
『うん!ばいばい』
もう最後の方は涙で視界が見えなかった。曇った視界の中、私に手を振った。
(涙することがこんなにも…嬉しいなんて…)
感情が消えるとはどういうことなんだろうか。
感情は薄まっていくのかもしれないけれど、体の奥底に眠っている。だって今、こうやって涙することができたのだから。
『私は、最期まで生きる希望を持たなきゃ』
次に目を開けると、そこは一面の花畑だった。その真ん中に誰かが立っている。
それは、大好きなおばあちゃんだった。
『おばちゃん…?』
『美優、あなたは涼介くんが好きなのね。ずっと見てたわよ?』
にこにこの笑顔と優しい眼差しで私を見つめるおばあちゃん。だから私はおばあちゃんが好きなのだ。
『そう…なの。でも、私、無我死病っていう病気だから…』
『好きに病気は関係ないでしょう?あと、最後にお母さんとも向き合ってみなさい』
『そうだよね。向き合ってみるね』
手を振って、おばあちゃんに別れを告げる。すると、周囲が目が開けていられないくらい眩しくなる。
「ん…あ?」
「美優!良かった…」
「お母さん…?」
なんで心配してくれたの…?聞こうと口を開くと、
「このバカっ」
バシッと頬を叩かれる。夢と同じ出来事が起き、驚く。
「私が美優に干渉しなかったのが原因でもあるんだろうけどね…。なんで重病だって言わなかったの!今日、先生に初めて言われて、しかももうすぐだって言われて…」
「え…?」
「心配してるのよ!…でも、今まで美優をあまり大切にできていなかった。ごめんね」
「いいよ。お母さん、ありがとう」
「なんで美優が感謝するの?」
感謝という気持ちはよくわからないが、口から自然と漏れ出た言葉だった。
「向き合ってくれたのが…」
嬉しくてと言葉を続けようとするが、うまく続かない。
「先生からお話は聞いている。感情に関わる病気なのよね…。無理しなくていいから」
うん…と言って私はお母さんを改めて見る。
お母さんは疲れ切っているようだった。おそらく、私が病院にいる間、夜もあまり寝れなかったのだろう。
迷惑をかけてしまった。
ずーんと気分が沈むが、私はハッとする。
「お母さん!私はいつ退院できるの…?」
「先生によると明日って言っ…」
「じゃあ、明後日出かける!」
「はぁ…?」
私はどうしても出かけたかった。涼介くんとたんぽぽ畑に行きたかった。気持ちを伝えたかった。
消えかけた感情の中、うまく言えるかわからないが…。
お母さんは私の真剣な眼差しを見て決心したのか、
「仕方ないわね…。3時間だけって約束して?」
「分かった。ありがとう」
また、自然とありがとうが出てきた。
☁︎☔︎
[涼介くん、明日、一緒に出かけたい]
メッセージ送るとすぐに既読がついて、
[いいけど、体調は大丈夫なのか?]
[平気。私の家まで来れたりってする…?]
[いいよ]
待ち合わせの時間を伝えて、会う準備はできた。あとは私が、頑張るだけ。
意気込んで、私は自分の部屋で眠りについた。
☁︎☔︎
「お母さん、行ってきます」
「いってらっしゃい」
今日は私が、涼介くんと、たんぽぽ畑に行く日。あの日の約束を涼介くんは覚えているだろうか。
家を出るともうすでに涼介くんが待っていた。
「ごめん。待ったかな…?」
「今着いたばっかりだから大丈夫。じゃあ、美優の行きたいところに行こう」
すると涼介くんが自然と手を繋いできた。私もきゅっと握り返す。
「電車に乗らないといけないからさ、駅行こう。あと…思ったよりも病気が進行しているらしくてさ…、無表情、無感情かもしれないけど、そこはごめん」
「おう。美優も辛くなったら、言えよ?」
「うん!」
私のことを考慮してくれる涼介くんが…好き…だ。自信は持てないけど、こういうところが本当に好き。
電車で15分移動して着いたのは、小2のときに住んでいた町だった。
「ここって…」
私は涼介くんの小さな呟きを聞き逃さなかった。
ここに見覚え…いや、小さい頃の記憶が蘇ってきたのだろう。
私は涼介くんの手を引いて、たんぽぽ畑まで歩く。
「美優…?」
「ちょっと待って…」
無言のまま歩くこと10分、そこには懐かしい河川敷のたんぽぽ畑が広がっていた。
「美優…もしかして…」
「こっちおいでよ」
手を引っ張り、たんぽぽ畑の真ん中に立つ。
「あのさ…」
「好きです」
涼介くんの言葉にかぶせる形になってしまったが、ちゃんと言えた。
「小さい頃、会っていた"りょうすけ"は涼介くんだったんだね」
「やっぱり、美優だったんだ…」
「黙って離れてごめんね。あと、もうすぐいなくなるのに、好きとか…言ってっ…ごめん…っ」
涙が出てきた。
まだ、涙だけ残っていた。
「謝らないで。あの、」
「この手袋…見覚え…ないっ…?」
私が握りしめているのは、使い古された手袋。これは小さい頃、涼介くんにもらったものだ。
「あるよ。これ、俺が渡したやつ。こんなになるまで使ってくれたんだ…」
「そうだよ」
口角が少し上がってしまう。嬉しかった。嬉しいってよくわからないけど、多分、これは嬉しいの気持ちだ。
「じゃあ、俺から」
「何…?」
空気がさっきとは少し変わり、背中に冷や汗が出てくる。まさか、断られるのか。
「俺も好きです」
「っ……」
「美優初めて出会ったときから、俺の心はきっと美優に傾いてたんだよ」
涙が止まらない。嬉しさか、悲しさか、それとも別の感情なのかわからない。
誰か、この涙の止め方を教えて__
「美優、ちょっと来て」
「?」
なんだろうと思いつつも、涼介くんに近づく。すると、彼は何かを私につけてきた。
「ほら、似合ってる」
それは、あの水族館で見た、綺麗なネックレスだった。高くてとても買えるような品ではなかったはずなのに、どうして。
「え…でも、どうして…」
「あのときの美優の目の輝きが忘れられなくて、それで、バイトをして、お金貯めて買った」
私はこのとき実感した。この人はこんなにも私を想ってくれているんだと。
「でも…高いし…受け取れないよ…」
「受け取って。可愛いよ」
優しい眼差しでこちらを見てくる涼介くんを私は見つめ返す。そして、私は手首で輝くブレスレットと胸元で輝くネックレスを見る。いろいろなものが、どっと押し寄せてくる。
「ありがとう」
また、涙が止まらない。感情は無くなるものじゃないんだと私は思う。
「感情って本当に無くなるのかな」
私の心を読み取るかのように、涼介くんがつぶやく。
「だって今、美優はこうして泣いているのに」
そうだね、と言いたかった。でも言えなかった。なぜか、胸の奥が苦しくて。
「死に対する感情…」
「え?」
「死に対する感情は、ほとんどないの。生きたいと思うけど、死に対する…、怖いとかそういうのは全くない…」
絞り出した声は震えていた。だってこれを言ったら涼介くんがショックを受けるかもしれないから。
「そっか…」
それから涼介くんは何も言わなかった。私も何も言わなかった。お互いがお互いを気遣い合ってできた沈黙。
私にはそれがなぜか心地よい。すると、涼介くんの手が伸びてきた。そして、私の手をきゅっと握る。
この手の温もりを私は永遠に忘れたくない。
「もうすぐ、3時間立つじゃん…」
「そうだね…。今日はありがとう」
精一杯の笑みを作って伝える。涼介くんも少し笑って、
「俺からも、ありがとう。じゃあ、帰るか」
駅の中も電車の中も涼介くんはずっと私の手を握ってくれていた。
私の胸元でクラゲのネックレスが光っていた。
☁︎☔︎
[今日はありがとう。楽しかった!]
[俺も楽しかった!]
簡単なメッセージのやり取りを済ませて、晩御飯を食べる。
「今日は、カレーよ」
「カレー…」
私は母のカレーが大好きだった。母とあまり話さなくなってからは、味があまり感じられなかった。だから、母のカレーを味わえるのはいつぶりだろう。
椅子に座っていると、母がほかほかのカレーを持ってきた。
「いただきます」
しっかり挨拶をして、一口運ぶ。口の中にぶわっと広がる母のカレーの味。懐かしくて、美味しい。
「おい…しい…」
「ふふ。今日は腕を振るったのよ〜」
母との会話もだいぶ楽になった。前は常に張り詰めた状態だったが、今はやんわりとした空気で話すことができる。
カレーを食べ終わり、私は少しでも母に貢献しようとお皿洗いを始める。
「美優は病気なんだし、そんなことしなくてもいいのよ?」
私は首をふるふると振って、
「私がやりたいの。だから、やらせて?」
「仕方ないわね」
ニコッと笑ったお母さんは私の隣に立って皿洗いを始めた。一緒に何かをするというのもいつぶりだろうか。
「お母さんは私のことが嫌いだったの…?」
唐突に言ってしまった。最近ずっと疑問に思っていたことだったからだ。
「私は美優のこと、嫌いじゃないわよ?」
「え…?」
「でも、私がいろいろひどいことを言っていたのは分かってる。それは本当にごめんね」
お母さんは私のことを嫌っていたわけじゃなかったんだ…。モヤモヤしていた気持ちが一気に晴れる。
「そうだったんだ。私もちゃんと向き合おうとしなくてごめんなさい」
「いいのよ、別に。でも、病気のことはちゃんと言って欲しかったわ」
お母さんの気持ちもわかる。私がお母さんの立場だったら、心配でどうにかなっているかもしれない。
「ごめんね…」
そこから私たちの会話はなかった。お皿洗いを終え、ソファに座っていると、
「これ、飲む?」
お母さんが隣に座ってきて、ホットココアを渡してくれた。
「ありがとう」
温かいココアが身に染みる。ごくんと飲むと体中にその温かさが伝わっていく感覚がする。
「美味しい…」
「お父さんには秘密よ?」
お父さん…その昔、私は父と結婚したがっていたくらい父が大好きだったらしい。今は普通だけど。
「分かった。内緒ね」
ゆっくりと残りのココアを飲み干す。お腹の奥がぽかぽかする。
「お母さん、ありがとう。美味しかった」
お母さんはにこりと笑って、コップを片付ける。私は寝ようと2階に上がる…つもりだった。
「お母さん、来てよ」
お母さんはびっくりした顔をして、私を見る。私は母に小さい頃からずっと好きな絵本を読んでもらおうと思ったのだ。
「どうして?」
「私が一番好きな『光の夜』を読んで欲しかったの…!」
変な顔をされたり、断られたりするかもしれないという考えが頭をよぎる。母は、それを聞いて、ニコッと笑って、
「いいわよ。じゃあ、部屋に向かいましょう」
お母さんと部屋に向かう。私は部屋に入って布団に潜り込む。母は布団の隅に座って『光の夜』を開く。
「昔、心優しい女の子がいました。その子は貧しい生活をしていましたが、どんな人に対しても思いやりの気持ちは絶対に忘れませんでした。ある日、その子が山へきのこ採りに行っていると……」
ここまではいつも通りの序文。私が好きなのはこの先の場面だ。
「いつもとは違う様子の湖が目に入りました。湖が光り輝いているのです。でも、微かに誰かの泣き声も聞こえてきました。女の子はきのこ採りを忘れ、急いでその子のもとへ行きました。その子は、星を見たい、星に帰りたいと泣いていました……」
この出会いが好きなんだよなぁ…と改めて感じる。女の子の優しさに感動するシーンの一つだ。
そこから私は少しうとうとしてしまった。
私がハッとなって起きたのは物語の最後の方。
「女の子は最後までその子のそばを離れませんでした。その優しさを讃えるかのように、夜空では星が瞬き、流れ星がたくさん落ちていきました…。おしまい」
最後のシーンは聞いただけで感動する。女の子の優しさと想いの強さに感動するのだ。
私もこんな子になりたいと小さい頃、夢見ていたが、それは叶えることができなかった。
「ありがとう…」
「…おやすみ、美優」
「おやすみ、お母さん」
短い会話を交わし、母は部屋から出ていった。
一人になった部屋でさっきの物語を思い出す。
すると突然、強い眠気に襲われた。耐えることができず、沈むように眠りについた。
その夜、笠野美優は亡くなった。
幸せそうな顔をしていた。
その夜はちょうど、美しい流れ星が輝いている夜だった。

