俺の同居人は普通じゃない


 ――けれど、あの日。
 私のささやかな願いを打ち砕くような形で、運命はあまりにも残酷な形でやってきた。
 
 息子夫婦の事故の知らせが入った夜のことは、今でも鮮明に思い出せる。

 鼻をつく消毒液の匂いのする、病院の白い廊下。
 そこに、泣きすぎて声が枯れてしまった尚弥がいた。
 中学に上がったばかりの尚弥は、まだ子供の体で小さかった。

 駆け寄って抱きしめたその小さな体は、震えていて、驚くほどに熱かったのを覚えている。

「大丈夫、大丈夫だからね……」

 どれだけ繰り返しても、その言葉が何の慰めにもなっていないことは分かっていた。
 それでも言い続けるしかなかった。
 そうしてあの子を繋ぎ止めることしか、その時の私にはできなかった。

 尚弥を家に連れて帰った夜。
 簡単な夕食もほとんど手をつけず、あの子は布団の中で、ようやく力尽きたように眠りについた。

 私は、電気を落とした静かな居間で、ひとり座っていた。
 あまりにも静かな家。
 聞こえるのは、古びた時計の刻む音と、自分の鼓動だけ。

 ふと、外の方で風が鳴った。
 窓の外の木々が揺れて、ガラスに何かの影が走った気がした。
 窓の方へ寄って、夜空を仰いだ私の目に()()が映った。
 宵の闇を美しく切り裂く、銀の尾。
 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、夜空の端をその銀色が横切ったのだ。

 気のせいだ、と言うにはあまりに、祖父の話に出てきた『神獣』そのものだった。
 その瞬間、私の胸の中で、何かがはっきりと動いた。

 ――ああ。
 私はそのとき、全てを悟った。

 灯弥が、戻ってきたのだ。

 名前も顔も違う。
 中身だって、まったく別の人生を生きる一人の少年。

 けれど、あの子の泣き声の奥には、あの灯りの残り火が揺れていた。
 この子は『灯弥』だったのね……。
 深い悲しみを経験したことで、内から顔を出したのかもしれない。
 そして、それに応えるように『綾空』さまが反応したのだ。

「……尚弥」

 布団の中で眠る孫の頭を、そっと撫でた。
 まだ小さく、頼りないその手が、夢の中で服の裾をぎゅっと掴む。

「おばあちゃんが、ちゃんと守ってあげるからね」

 祖父の遺した言葉が、胸の中に蘇る。

 ――灯弥が生まれたら、その子のそばにいてやってくれ。

「よく、帰ってきてくれたわねぇ……」

 暗い居間で、涙がこぼれた。
 息子夫婦を失った癒えない悲しみと、何十、何百年の時を経て帰ってきた魂への安堵とが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って私の頬を伝っていった。

 **

 そして先日。
 川べりで倒れていた銀髪の青年を見つけたとき――。
 私は、あの夜と同じ『気配』を感じた。

 冷たい水の気配と、夜の始まりを告げる宵の空気。
 そして、ふわりと揺れる銀の髪。

 泥を払い、肩にそっと手を添えると、青年はゆっくり目を開けた。

 琥珀色の、瞳。

 おじいちゃんの話に出てきた、あの色だ。

「……とうや」

 青年は、掠れた声でそう呟いた。
 この世界ではまだ誰の名前とも知らない、かつての(つがい)の名を。

 私にとっては、その一言だけで十分だった。

「よしよし。大丈夫よ、大丈夫だからねぇ」

 そのとき、私はすでに決めていた。
 この子を家に連れて帰り、尚弥のそばに置くことを。

 あの子に尻尾が出ても、耳が出ても。
 驚く必要なんて、どこにもないのだ。

「やっと帰ってきたんだもんねぇ」

 思い出に浸っている間に、湯呑みの緑茶は、すっかりぬるくなっていた。
 最後の一口飲み干し、そっと湯呑みを置いた。

 **

 語り部の役目とは、古い昔話をたくさん知っていることでも、神さまの秘密をべらべら話すことでもない。
 綾空と灯弥が、安心して「ここ」で息をしていられるように――ただ見守り続けることだ。

 だから、尚弥には何も言わない。
 今はまだ、その時ではない。
 あの子の中で、自分で何かに気付き始めるまでは。

「尚弥」

 名を呼ぶと、壁の向こうで布団を蹴るような音がした。寝返りを打ったのだろう。

「あなたはあなたとして、ちゃんと今を生きなさい」

 前世がどうとか、宿命がどうとか。
 そんなものは、私がいなくなった後に分かってもいい。

 今、この家で笑って、怒って、迷って。
 誰かを好きになって、その誰かにまっすぐ好きだと言ってもらう。
 そうやって人間として幸せに生きていく尚弥を、どこまでも見届けたいのだ。

「……でも、ちょっとぐらいは、幸せになってもらっていいわよ。ふふ」

 洗面所で見た、二人の姿を思い出す。
 耳と尻尾を出して、尚弥にぴったりくっついて離れなかった宵。

「宵くん、本当に、いい顔してたわぁ」

 ああいう顔をされると、多少の騒ぎくらい、なんてことはない。

 ゆっくりと立ち上がる。膝が少し痛んだけど、耐えられないほどではない。
 居間の隅、古い箪笥の引き出しを一つ開ける。そこにしまってある小さな木箱を取り出す。

 中には、祖父から譲り受けた古い狐のお守り。
 欠けた白い狐が、丸い目がじっとこちらを見ていた。

「……綾空さま」

 誰にも聞こえないほどの小さな声で呟く。

「今度こそ、あの子を離さないでやってね」

 灯弥と、尚弥。
 綾空と、宵。

 二つの名前が重なり合う。

 涙が頬を伝って落ちる。悲しい涙ではない。

「最後の語り部も、そろそろ役目を終えてもいいかしらねぇ」

 私がいなくなっても、あの二人が、手を取り合って笑っていられるのなら。

「……もうちょっとだけ、見ておきたいけどねぇ」

 自分で自分にそうツッコミを入れて、私は笑った。

 木箱をそっと閉めて、箪笥の引き出しを戻す。
 居間の電気を消すと、暗い闇が覆った。

 それでも、怖くはなかった。

 壁の向こうには、二つの気配がある。
 一人は、今の時代を生きる優しい孫。
 一人は、幾千の夜を超えて『帰ってきた』子。

「おやすみなさい、尚弥。おやすみなさい、宵くん」
 そう呟いて、自分の部屋へ向かう。

 この家はずっと静かだ。けれどもう、寂しい静けさには戻ることは二度とない。

 最後の語り部は、そのことに、心から感謝していた。