俺の同居人は普通じゃない


 家の中が、ちゃんと静かになる時間が好き。

 居間の時計が、コチコチと律儀にリズムを刻んでいる。テレビはもう消してあって、ちゃぶ台の上には使い込まれた湯呑みがひとつ。
 南祥子(わたし)は、両手で湯呑みを包み込みながら、小さく息をついた。

「……ふう。今日も、よく動いたわねぇ」

 年を取ると、ため息も感心も、すべて同じ「ふう」に混ざってしまう。
 膝は少し痛むし、腰も重い。
 けれど、それも悪くないと思える程度には、今の私は満たされている。

 この部屋の壁の向こうには、尚弥の部屋がある。そこには宵のために敷いた布団。廊下の電気は落としてあるけれど、あの子たちの気配はちゃんとそこにある。

「尚弥、ちゃんと寝られてるかしらねぇ」

 口から出た独り言に、自分でくすりと笑ってしまう。

 あの様子じゃ、落ち着いて眠れるわけがないだろう。朝から尻尾だの耳だの大騒ぎだった。
 狐原宵(こはらよい)――名前からして狐のようだが、まさか本当にあんな姿を見せるとは。

 けれど私は、まったく驚かなかった。

 本当は驚いてやったほうが、尚弥の精神衛生上には、いいのかもしれない。けれど、出てきた姿を初めて見たときはごく普通の感想だった。

「あら、やっと出てきたのねぇ。――そんな感じだったわね」

 ひとりごとが増えるのは年寄りの得意技だ。
 誰もいない居間で独り笑っても、苦情を言う人間はいない。

 湯呑みの緑茶をひと口含む。
 温度がちょうどいい。
 目を閉じれば、暗闇の中にいろいろなものが浮かんでくる。

 狐のこと。
 宵のこと。
 尚弥のこと。

 そして――自分に課せられた、役目のこと。

 **

 この街は、昔から狐に縁がある場所だった。

 山の上の小さな社。
 田んぼの端っこにある、苔のついた石の狐。
 商店街のゆるキャラまで、尻尾がついている始末だ。

 子どもの頃、私はよく祖父に手を引かれて、山のほうへ歩いた。

『祥子。この山にはな、“神さまの狐”がいるんやぞ』

 少し背中の曲がった祖父が、そう言って笑った顔を、今でもはっきりと思い出せる。
 古い草履が砂利を踏む音と、むせかえるような夏の匂い。夏の風に揺れる稲穂の音がさわさわと聞こえる。

『ただの狐じゃない。神獣なんや。空を駆ける尾、宵の色をした銀色の美しい毛並み。名前を、綾空(あやそら)というてな』
「あやそら……」

 小さかった自分は、その名前が綺麗で何度も口の中で転がした。

『その綾空には、たった一人の大事な(つがい)がおったんや』

灯火(ともしび)みたいにあったかい魂を持った子でな。名前を灯弥(とうや)と言う』

 祖父の声は、いつも絵本を読むみたいに穏やかで、どこか悲しそうだった。

『二人はな、何度も何度も巡り合う。そやけど出会うたびに、守って、守られて、離ればなれになってしまうんや……』
「かわいそうだねぇ、おじいちゃん」

 あのときの自分は、ただそう言って、祖父の袖を握った。

『かわいそうやけど、きれいな話やろ』

 祖父は笑って、私の頭をぽんぽんと叩いた。

『この街にな、あの子らは何度も来とるんや。
 空の上から見ても、ここは二人の帰る場所に見えるんやろねぇ』

 
 ――そして、ある日のこと。

『祥子。うちはな、代々ずっと“語り部(かたりべ)”の家なんや』

 社の前の石段に座って、祖父はぽつりと言った。蝉の声がうるさいくらいに鳴いていた、暑い夏の日のことだ。

『綾空と灯弥の話は、本にも残っておらん。誰かが口で伝え続けないかん。
 その役目を背負っとるのがうちの家や。わしのじいさんも、そのまたじいさんも、ずっと聞かされてきたんや』

 私は膝の上で手をぎゅっと握った。

「じゃあ、おじいちゃん、綾空さまに会ったことあるの?」
『ある』

 祖父は即答した。

『子どもの頃にな。川べりで泣いとったら、銀の尾が見えた。大きな狐がいてな、「よう泣く子や」って笑いよったんや』

 それは、夢と現実の境目のような話だった。
 でも、祖父の目は本当に見た人の目をしていた。

『わしはな、あの神獣に言われたんや。「もし、今度また灯弥がここに生まれたら、その子のそばにいてやってくれ」とな』

「……」

『語り部はな、ただ昔話をしとるんやないんよ。
 あの子らが迷わんように、“ここにいてええんや”と伝えてやる役目や』

 祖父は大きな手を、祥子の手の上に重ねた。

『たぶん、わしの代で終わるかもしれんと思うてたけどな』

 そう言って、祖父は優しく笑った。

『よかった。祥子、お前が生まれてくれて』

 あのときの言葉の意味を、本当の意味で理解したのは、ずっと後になってからだ。

 今、私は自分の胸に手を当てる。

「……最後の語り部、ねぇ」

 本当に最後になるかどうかは私にも分からない。けれど、祖父の血を引いて、その話をすべて覚えている人間は、もうこの家では私だけになってしまった。

 尚弥は、何も知らない。
 語り部のことも、綾空のことも。
 それでいいと、私は思ってる。

「あの子は、あの子の人生を生きないとね」

 前世だとか、宿命だとか、魂の番だとか。
 大人が勝手に決めたそんな言葉を押しつけるには、尚弥という子は、少し優しすぎるから。

 それなのに。
 運命の歯車はもう、止めることのできない音を立て始めていた。