夜。やることはいつもと同じはずなのに、家の中の空気は、昼間までとは決定的に違っていた。
歯を磨き、風呂に入り、布団を敷く。
すべていつも通りのルーティンをこなしているはずなのに、心の中はぜんっぜん平和じゃない。
廊下の電気が消え、家全体が静かになる。
本来なら一日が終わる安堵に浸る時間だが、今の俺には、この静けさが少しだけ怖かった。
「なおや」
振り返る前に声で分かった。
「……」
「ねよ」
短い言葉なのに、その響きは甘すぎる声だ。
耳の奥から背中にかけてゾワっと熱くなる。
「宵、今日こそ自分の布団で寝ろよ」
「いや」
食い気味な返事を聞いて、俺はもう諦めた。
振り向いたら最後だと思い、あえて顔を向けず、横になったまま背を向ける。
「くっつくなよ」
そう釘を刺す前に、体温がぴたっと背中に貼り付いた。腰に腕が回され、指先が俺の服をぎゅっと掴む。
「……なおや、あったかいね」
耳元で囁かれた吐息が首にかかって、鳥肌が走る。
「ちょ、ちょっと……くっつきすぎ……!」
「なおや、いっしょにがいい。ここ」
当たり前みたいに言うなよ、息がおかしくなる。
「あんしんするから」
まっすぐな、あまりにも素直なその声に、顔が熱くなって動けなくなった。
「……なんでそんなこと言うんだよ」
「なおや、すき」
一瞬、思考が飛んだ。
言葉の意味を理解する余裕もないのに、花火みたいに気持ちが跳ねた。
そういう意味じゃないって分かっているのに、どうしてこう、刺さるんだ。
「す、好きとか、そんなに軽々しく言っちゃダメ!」
「かるがるしく? ちがう」
耳元で、宵の声が少し震えた。
演技でも嘘でもない、本気の声だと、俺はなぜわかるのか。
「なおや。ぼくは、ここがいい」
気づいたら背中に宵の額が押し当てられて、ぬくもりが直接伝わってきた。
「なおやがいると、ねむれる。ひとりじゃないから」
胸がだんだん痛んでくる。
怖い、けれど怖くない。どちらでもない何かだ。
「もう……仕方ないな」
折れるように呟くと、肩越しに宵が笑う気配がした。
くすぐったくて、あったかくて、なぜか泣きたくなるような安堵感。
「なおや」
回された腕に、ぎゅっと力がこもる。
抱き寄せられるままに密着すると、視界がぐらりと揺れた。
「……っう」
声にならない息が漏れる。
どうしてこんなに胸が騒ぐのだろう。
俺の胸の中がこんな風に動く理由が分からない。
けれど、もう息が苦しいほどドキドキしている。それなのに、なぜかしっくり落ち着く。
そして――
ふわ……。
背中に触れた毛布のような柔らかい感触と、ゆったりと揺れる銀色のもふもふ。
「……出てる」
「でちゃう」
宵がふにゃっと幸せそうに笑う。
彼の尻尾が、俺の腰をゆっくり撫でるように巻きつく。呼吸止めても、鼓動のリズムがおかしくなっていく。
「なんで出るの……」
「なおや、さわったから」
その言葉と同時に、頭の方を柔らかな何かが撫でた。
これは耳だ。
ふわふわの耳が俺の首筋に触れている。
「耳までっ……!」
宵は楽しそうに目を細めた。
「なおや、さわる?」
「えっ……」
拒否する言葉が喉で止まった。
身体が言うことを聞かない。
なんで? 俺なんでこんな……。
……触りたい。
恐る恐る手を伸ばして、宵の頭に触れる。
うわぁ、耳、すごく柔らかい。
あったかいな。
生きてる。
「……っ」
触った瞬間、宵が息を吸い込んだ。
声にならない吐息が漏れ、喉で震えた。
「なおや……」
囁き声が低くなって、耳元でとろける。
「もっと、さわって……」
その一言で、理性が崩れそうになる。
腰の尻尾がきゅっと締まり、抱きしめる腕の力が強まった。
「……だめ」
宵が掠れる声で囁く。
「なおや、どこもいかないで」
胸が焼けるように熱くて、苦しい。
なに? 俺にはわからない。
何も理解できない。
でも、この腕の温もりだけは――安心する。
「……行かないよ」
言葉が勝手に口から溢れた。
自分の意思じゃない。まるで決まっていた言葉を口にしたみたいに、もう一度。
「行かないよ。……ここにいるよ、宵」
宵の腕が、さらに強く俺を拘束する。
耳が触れたまま揺れて、尻尾が腰を撫でる。
いつしか俺たちの鼓動は、同じリズムで混ざり合っていった。
「なおや……あったかい……」
「……宵もな」
心地よい疲労感に包まれ、瞼を閉じる。
眠りに落ちる直前、銀色の尾が、優しく俺を包み込んだ。
怖いのに、怖くない。
初めてなのに、初めてじゃない。
俺は大切なものに捕まれたまま、意識を手放した。
◇◇
眠った瞬間、空気が変わった。
身体の重さがなくなって、浮かんでるみたいに感覚が消えた。
また、あの夢?
目を開ける前から分かった。ここはよく見る夢だ。
清らかな水の音がする。静かに揺れている湖の前にいる。
ゆっくりと視界を上げると、そこには銀色が揺れていた。
水面を渡る夜風に、長い髪をなびかせて背を向けて立つ、誰か。その髪は、白銀。
「……宵?」
その背中に声をかけると、男は音もなくゆっくりと振り返った。
顔、髪、瞳。すべてが、宵と同じ。
けれど――宵じゃない。
似ているけれど、雰囲気が違う。
その佇まいはあまりにも神々しく、あまりにも、悲痛だ。
その薄い唇が、静かに動いた。
『……灯弥』
泣き出しそうな、あまりにも切実な響きだ。
その声が聞こえて、胸が抉られるような痛みに襲われた。
なんで俺、こんなに苦しくなるんだ?
「……灯弥?」
自分の口から無意識にその名前が溢れた。
銀色の髪をしたその彼が、儚く美しく微笑んだ。
水面を滑るように近づいてくると、震える指先を俺の肩へ伸ばす。
『――ずっと、探していたんだ』
胸が熱くなって、痛い。それに苦しい。
『会えてよかった……本当に』
彼の手が俺を抱き寄せたとき。
俺の目からは、とめどなく涙が溢れていた。
夢なのに……。夢だとわかっているのに、涙が止まらない。
『灯弥』
甘く低い声で囁きながら、その手で俺を抱きしめる。
知らないはずの感触なのに、懐かしい。
『もう離さない。二度と離しはしない』
誓いのようなその声が、魂の奥深くまで刺さり、俺を拘束する。
次の瞬間、耳元で別の声がした。
「……なおや」
意識が暗転する寸前に、遥か遠くで、誰かが笑った気がした。
『また会うよ……とうや』
◇◇
夢から覚めた。
ぼやけた視界のまま、ゆっくりと目を開けた。
俺の身体には、宵がびったりと密着していた。耳も尻尾も出したまま、静かな寝息を立てている。
俺は震える手をのばし、ゆっくりとその頭を撫でた。
「ん〜……」
気持ちよさそうな寝顔。愛おしい。
かわいいな、子狐みたい。
夢の残像を胸に抱いたまま。
少しの時間、朝のまどろみに浸った。

