俺の同居人は普通じゃない


 玄関に向かおうとしたその時、居間からおばあちゃんの「尚弥、まだいる?」と呼ぶ声がした。
 足を止め、居間に立ち寄ると、おばあちゃんから片手サイズのパンフレットのような冊子を差し出された。

「これ、駅前でもらってきたのよ」

 手渡されたのは、この街が発行している『きつねの街・おさんぽガイドマップ』だった。
 以前の俺なら、「どんだけ狐推しなんだよ」と苦笑いしてゴミ箱に放り込んでいただろう。けれど今の俺は、それを居間のちゃぶ台に広げ、宵と一緒に食い入るように見つめていた。

「ねぇ、尚弥。ここにも、ぼくの名前があるよ」
 宵が細い指先でマップの一角を指す。
「……本当だ。宵空橋(よいそらはし)、か」

 俺はなぜ、今まで気づかずにいたのだろう。よく見れば、そこかしこに「答え」は落ちていたのだ。
 この街を流れる川の名前は『灯川(ともしびかわ)』。
 商店街を抜けた先にある古い坂道は『綾ノ坂(あやのさか)』。
 そして、一本桜のある公園の住所は、かつての神域の名を残す『宵原(よいはら)一丁目』。

「狐、灯、宵、綾、空……。なーんだ、全部揃ってるじゃん」

 今まで当たり前に呼んでいた地名。何気なく渡っていた橋。
 そのすべてに、俺と宵の魂の欠片が残されていた。
 俺たちがこの街で、この家で出会ったのは、偶然でもなんでもなかった。何度もここで再会するように運命づけられていたのだ。

「行こう。俺たちのいた場所を、確かめに」
「うん!」

 **

 初夏の風が吹き抜ける街は、眩しいほどの色彩に満ち溢れていた。いつもの通学路を、俺たちはゆっくりと歩いていく。
 ふと、信号待ちで足元に目を落とした。そこにあるマンホールの蓋には、この街のシンボルである『二匹の寄り添う狐』が彫り込まれていた。
 
「……これ。今まで何度も踏んできたはずなのに、全然気づかなかったな」
「尚弥、これぼく似てる?」
「……うーん。まあ、目元が少し?」

 以前の俺なら「ただのマンホールだ」と気にも留めなかっただろう。けれど今は、この鉄の蓋一枚にさえ、この街が俺たちをずっと見守り、待っていた証拠のように感じられて、胸の奥が温かくなる。

 そのまま、いつものスーパーの前を通りかかる。入り口の看板には、前掛けをしたデフォルメの狐キャラが笑顔で立っていた。

「あ! なおや、あれ! ぼくがいる!」
「いや、お前じゃない。それはスーパーの看板な」
「でも、尻尾がぼくより大きいな……。負けたくない」
「それ張り合うの? ……宵の方が百倍かっこいいって」
「……! 今のもう一回言って?」
「言わない。ほら、置いてくよー」

 ふと見上げれば、町名プレートにも『宵原(よいはら)』の文字。
 昔、『宵ノ原』と呼ばれたこの場所で、人々は狐の妖(あやかし)を疎むのではなく、こうしてキャラクターにするほど、大切にされ隣合って生きてきたんだ。

 俺が愛していたはずの『普通』の日常の中には、最初から、ずっとお前がいたんだ。

 **

 しばらく歩くと、パッと視界が開けた。
灯川(ともしびかわ)』の川辺に立つ、あの一本桜。
 花はもう一つも残っていないが、その枝には若々しい緑の葉がぎっしりと茂っていた。

 俺はポケットから、あの『火打ち石』を取り出した。
 あの時あんなに熱かった石は、今はただの、少し温かいだけの石に戻っている。

「……お疲れ様。もう俺たちにはこれはいらないな」

 桜の根元の柔らかい土を少しだけ掘り起こし、俺はそこに置いた。
 隣で宵も一緒に膝をつき、静かに手を合わせている。

「尚弥。……またいつか、僕たちの火が消えそうになったら、ここに来ようね」
「……うん。その時はまた、二人で火をおこそう」

 いつだって俺たちのはじまりは、この一本桜の下だ。
 何百年先になっても、俺がまた、お前を見つけるからね。
 そう心の中で誓って、俺は石に土を被せた。

 立ち上がると、宵は俺の両手をそっと取り、真っ直ぐに俺の瞳を見つめてきた。

「尚弥……。ぼく、灯弥と離れてからずっと探してたんだ」

 宵の琥珀色の瞳が、陽の光を反射してキラキラと輝く。

「星ひとつでない暗い夜でも、同じところをぐるぐる彷徨っても、諦めるなんてこと、一度も考えなかった。だから……もしまた、どこかで離れても。ぼくは必ず尚弥と出会う。絶対に」
 
 本当に……あまりにも重くて、ひたすらに真っ直ぐな執着だ。
 俺は宵に一歩近づき、愛おしさに震える手で、その白い頬を包み込んだ。
 
「……宵。その時は、今度は俺が必ずお前を見つけるから。だから、もう迷わなくていい。安心して、俺の隣にいて?」

 宵は、この世の幸せを独り占めしたような顔で笑うと、俺の顔を両手で包み返し、ゆっくりと顔を近づけてきた。

「尚弥、千年経っても、ぼくには尚弥しかいない。……愛してるよ」

 重なった唇は、驚くほど柔らかく、そして熱かった。
 宵は一度名残惜しそうに唇を離すと、今度はもう二度と逃さないというように。熱い吐息とともに、さらに深く何度も確かめるように重ねてきた。

 ふわりと散る緑の葉。
 優しく流れる川の音。
 そして、俺の腰に愛おしそうに巻きついてくる、銀色のしっぽ。

 俺たちの新しい『普通』は、やはりここから始まっていく。

 もう二度と、この手を離さないために。
 俺は、俺だけの神様を、これ以上ないほど強く抱きしめ返した。


 ―― 完