俺の同居人は普通じゃない


 カーテンの隙間から差し込む、初夏の眩しすぎるほどの光に焼かれて、俺は重い瞼を持ち上げた。
「んー、……朝か」
 
 隣に目をやると、銀色の毛並みが視界をよぎる。宵の太い尻尾が、俺の足の上にどっしりと横たわっていた。重い。けれど、その重みこそが、宵が実体を持ってここにいるという何よりの証拠だ。
 宵はまだ夢の中らしく、俺のパジャマの裾をぎゅっと握ったまま、幸せそうに寝息を立てている。

(今日も……ちゃんと、いつもの朝が来た)

 かつての俺なら「普通」なんて当たり前すぎて意識もしなかった。けれど、一度全てを失いかけた今なら分かる。この退屈で平和な朝は、何百年もの祈りと犠牲の果てにようやく手に入れた、奇跡みたいなものなのだ。
 
 なかなか起きない宵をどうにか起こし、背中に半分背負うような形で張り付かせたまま、のろのろと台所へ向かった。
 
「おばあちゃん、おはよ。今日休日なのに、朝ごはん……悪いな、寝坊した」
「あら、おはよう。いいのよ。今日は私が作りたい気分だったから」

 本来、休日の朝食は俺の担当だった。けれど、ここ数日の激動で、疲れが出たのだろう。おばあちゃんはすべてを見越したような顔で、ちゃぶ台に湯気の立つ朝食を並べていた。
 俺が食事を運ぶ間も、宵はまだ半分目が閉じたまま、背後霊のように俺の背中にぴったりとくっついて離れない。

「宵、そろそろちゃんと起きてよ。めちゃくちゃ動きにくい」
 
 抗議してみるが、返事はない。俺の意見は完全に無視だ。
(狐って、意外と寝起き悪いんだな……)
 俺の頭の中に、また一つ、動物の生態の知識が増えた。

 なんとか朝食を食べ終え、俺はなかなか箸が進まない宵の口元に、一口を差し出した。
「ほら、冷めちゃうから」
 
 宵は待ってましたと言わんばかりに、あざとく口を開ける。
「……あーん」
「……。お前そこは本当に変わらないな。恥ずかしいから言うなって」
 
 文句を言いながらも、そのまま口元へ運んでやる。宵はそれを美味しそうに咀嚼して、満足げに喉を鳴らした。そのやりとりをおばあちゃんが温かな目で見守っている。

「尚弥。今日、もし予定がないなら、この街の散策でもして宵くんに案内してあげなさいな。この街にはね、綾空さまにまつわる物語がいたるところに残っていてきっと楽しいわよ」
「……確かに、俺も住んでるくせに知らないことばかりだな。宵、どうする? 疲れてるならやめておくけど――」
「ぼく行きたい!」
 
 俺が言い切る前に、食い気味に返事をした。その勢いに驚きつつも、俺はおばあちゃんの次の言葉を待った。

「この街の古い地図ではね、この辺りは『宵ノ原(よいのはら)』と呼ばれていたのよ」
 
 その言葉に、俺と宵は同時にハッとして顔を見合わせた。

「宵ノ原……。俺たちのいた場所は、ずっと、この足元だったんだな」

「そうよ。南家(うち)は、『狐火を迎える家』。数百年、数千年の巡りの中で、ここに灯弥の魂が帰ってくる。だから、綾空さまも迷わずここに帰ってくるの。……そういう風にできているのよ」

「……。だから、俺の家だったのか……」
 
「それにね、綾空さまがこの地に降りる時は、いつも『狐原 宵(こはらよい)』という名を名乗ることになっているの。語り部には、そう伝わっていたのよ」
「あ……だから『狐原』。……最初から、決まってたんだ」

 おばあちゃんは頷くと、少しだけ真面目な、けれど優しい顔で宵を見つめた。

「あの時、私が見つけていなかったら……宵くん、あなたは実態を保てず消えていたかもしれないわねぇ」
「……おばあちゃん」

 宵が、ふっと姿勢を正した。今のあどけない宵ではなく、数千年の時を生きた神獣・綾空としての、凛とした空気が居間に満ちる。
 宵はおばあちゃんに向かって、深く、静かに頭を下げた。

「おばあさま、その節は本当にありがとうございました。貴女が繋いでくれたおかげで、ぼくは尚弥と再会できました。心より……感謝する」

 その丁寧すぎる、古風な礼の仕方に、俺は思わず毒気を抜かれた。

「お前、そういう時だけ神様に戻るなよ! 調子狂うって!」
「えへへ、お礼は大事だよ? なおや」

 そう言って舌をぺろっと出す宵。――やっぱりこいつは宵だな。
 俺は照れ隠しにお茶を飲み干すと、「よし、行くか」と立ち上がった。

 **

 玄関に向かおうとした俺は、ふと思いついて足を止めた。
「宵、ちょっとこっちに来て」
「どこに行くの?」
「家出る前に、会わせておきたい人たちがいるんだ」
 
 俺は宵の手を引いて、廊下の突き当たりにある静かな和室へと向かった。
 そこには、南家の先祖代々の位牌が並び、その傍らには小さな写真立てが置かれている。飾られているのは、穏やかに微笑む若い男女の写真。

「宵。これが俺のお父さんと、お母さんだよ。……中学の時、交通事故で亡くなったんだ」

 宵は写真の中の二人を、琥珀色の瞳でじっと見つめた。
「尚弥のお父さんと、お母さん……」

「この世界ではね、亡くなった大切な人に対して、こうやって手を合わせて拝むんだよ。今日まで見守ってくれてありがとうって」
 
 俺は仏壇の前で正座し、静かに目を閉じて手を合わせた。
 宵もしばらく俺の動作を観察していたが、やがて真似るように隣へ膝をつき、ぎこちなく、けれど丁寧に両手を合わせた。
 線香の香りがかすかに漂う静けさの中、宵が小さいけれど、透き通るような声で呟いた。
 
「尚弥のお父さん、お母さん。……尚弥を産んでくれてありがとうございます。あの日、尚弥を独りにしちゃってごめんなさい」
 
 俺はハッとして目を開けた。宵は真っ直ぐに写真を見つめたまま、言葉を紡ぎ続ける。

「これからは、ぼくがずっと隣にいます。ぼくが死ぬまで、尚弥を幸せにします。……だから、安心してください」

 ――幸せにする。
 あの日、誰も返事をくれない病室で独り泣いていた俺が、誰よりも欲しかった言葉。
 それを、数千年の時を超えて俺を追いかけてきてくれた神様が、今、俺の両親に誓ってくれている。
 視界が、一瞬で熱く滲んだ。
 目の奥がジーンと痺れ、抑えていた感情が鼻の奥をツンと突き抜ける。
 
「……ありがと、宵」
 
 俺は宵の肩にそっと頭を預けた。宵は当然のように片手を離し、俺の頭を優しく、包み込むように撫でてくれた。

「行こう、今度こそ。……俺たちの街を案内してやるから」
「うん。楽しみ」

 俺は涙を袖で拭い、今度こそ宵の手を強く握りしめて立ち上がった。
 背中で、写真の二人が少しだけ笑ったような、そんな気がした。