満開に咲いた白銀の一本桜を背にして、俺たちはゆっくりと家路についた。
気づけば、辺りはすっかり夜になっていて、俺と宵はどちらからともなく自然に手を繋いで歩いていた。
夜空には数え切れないほどの星が瞬き、風に乗って運ばれてくるのはどこかの家から流れてくる夕飯の温かい匂いだ。
仕事帰りの人の足音、遠くを走る車の走行音。
あの気持ちが悪いほどの音の無い世界が嘘のように、「普通」の音が溢れかえっていた。
(――ああ、本当に、ちゃんと終わったんだ)
歩きながら、俺はその事実を静かに噛み締めた。
さっきまで暴れて熱を持ちすぎたズボンのポケットの火打ち石は、今は俺の心臓の鼓動に合わせて、心地良い熱を持っている。巫としての力が宵と調和して、完全に安定したんだと分かった。
隣を盗み見ると、宵は少し疲れた顔をしていたけれど、機嫌は最高に良さそうだった。繋いだ手を、時折ぎゅっと力をこめる。
家の門が見えてきた頃、ふいに宵の足が突然止まった。
「……? 宵、どうした?」
俺が問いかけるのと同時に、宵はくるりと俺に向き直り、至近距離まで顔を寄せてきた。
驚く俺の肩に細い指をかけて、そのまま俺の首筋に鼻先を擦り付ける。
「ちょ、ちょっと! いきなり何!?」
「戦ったら、ぼくの匂い薄くなっちゃったんだもん」
宵は琥珀色の瞳を満足げに細め、昨日つけられた『しるし』の場所をなぞるように、何度も深く息を吸い込んだ。
「……坂下の前であれだけマウント取ったじゃん。もう十分だろ? 街中でやめて。目立つんだよ」
必死に抗議する俺の言葉を、宵は「はいはい」と余裕の笑みで聞き流す。記憶を取り戻してからの宵は、こういう時の「かわし方」がやたらと大人びていて、余計に癪にさわる。宵は極上の笑顔を浮かべたまま、満足そうに俺の手を引き、再び歩き出した。
玄関の前に着くと、おばあちゃんが門灯の下で俺たちを待っていた。
泥を被ってボロボロになった服と、ぐちゃぐちゃの顔。けれど、そんな俺たちの表情を確認すると、おばあちゃんはすべて悟ったように、慈愛溢れる穏やかな笑みを見せた。
「……おかえりなさい。ちゃんと、二人とも」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた肩の力がようやく抜けて、落ち着いた。
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居間に落ち着き、温かいお茶を啜りながら、俺はおばあちゃんに今日のことを報告した。
「夜屑はもう消えたよ。俺たちは……心中なんていう『正解』は、選ばなかった」
俺の言葉に、おばあちゃんは安心したように、長く、深い息を吐いた。
「よくやったわねぇ、二人とも。怪我はないのね? ……心配したけれど、今の尚弥と宵くんなら、今度こそ間違えないと信じていたわ」
おばあちゃんの目に、涙は溢れていなかった。けれど、その潤んだ瞳は真っ赤に充血している。それを見て、彼女がどれほどの覚悟で俺たちを送り出したかが分かって、目頭が熱くなった。
「……それじゃあ、語り部の役目も、もう必要ないわね」
おばあちゃんは茶柱の立った湯呑みを置いて、一人の『南祥子』として、少女のように朗らかに笑った。
「今日からあなたたちはただの『うるさい孫とその同居人』よ。せいぜい賑やかに、ここの時間を楽しみなさいな」
「……うん。そうするよ」
宵も嬉しそうに頷き、俺の袖をぎゅっと掴む。
「さてと、お茶でも淹れ直すわね。……あら?」
立ちあがろうとしたおばあちゃんが、ふと俺の顔を覗き込んだ。
「尚弥、あなた……唇が少し腫れてるんじゃない?」
「――っ!!」
一瞬、理解が追いつかなかった。
腫れてる? 唇が?
あの一本桜の下での、あの必死で、貪るような狂おしい口づけ。
十九年の南尚弥の人生。その純潔を守り抜いてきた(?)ファーストキスが、あまりにも激しすぎて、今の今まで熱を持ったままだったことを思い出す。
「あ、いや……これは、その! 転んだっていうか、ぶつけたっていうか……っ!」
俺が全身から火が出そうなほど真っ赤になってフリーズしていると、隣で宵が「ふふっ」とこれ以上ないほど意地悪で幸せそうな声を漏らした。
「おばあちゃん、それはね、ぼくが――」
「宵っ!! 黙りなさいっ!!」
宵の口を慌てて塞いだけれど、もう遅い。おばあちゃんはすべてを見通したような顔で、ニヤニヤと俺たちを見つめた。
「ふふ、仲良いのは良いことよ。……お腹空いているでしょ。何か食べるものを用意しましょうか」
おばあちゃんが楽しげに笑いながら隣の台所の方へ消えた後。
俺の背中にべったりと張り付いている銀色の狐に向けて、ふつふつと湧き上がってきた文句をぶちまけた。
「……宵! さっきの。あれ、……激しすぎる!! 俺は『初めて』だったんだよ!?」
「……。ごめんね。でも尚弥が『愛してる』なんて言うから! ぼくだって数百年も我慢してたんだから、加減なんて忘れちゃうもん」
(……くっ、そう言われると何も言い返せない……!)
俺が唇を噛んで黙り込むと、宵は追い打ちをかけるように耳元で囁いた。
「もっと優しく、チュッとするのがよかった? ……じゃあ、練習する? 今度は優しく」
「しないって!!」
そこへ、おばあちゃんがお盆を手に戻ってきた。
「元気そうでなにより。でも尚弥、練習は自分たちのお部屋でやりなさいねぇ」
「お、おばあちゃんまで……っ」
ニコニコと言うおばあちゃんに、宵はしれっと俺の肩に頭を預ける。俺は湯気が出るほど顔を熱くして畳の上に突っ伏した。
……俺の『普通』の日常は、前途多難だ。
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ちゃぶ台に並べられたのは握りたてのおにぎりと、なめこの味噌汁だった。
白く艶のある米が、ふっくらと形を結ばれている。きっちりとした三角形ではいないけれど、その分、握った手の温もりがあるのが分かる。パリッとした海苔の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、食欲をそそられる。
命懸けの戦いのあとに食べる、ただの塩おにぎり。それがどんな高級料理や異世界の果実よりも美味しく感じられた。
「……おいしい。ぼく、この味、ぜったいに忘れない……」
そう言う宵を横目に俺は思う。
世界を救っただなんて、大それたことをしたような実感はない。
ただ、俺は明日も、明後日も、この美味しい食事を、隣にいる宵と一緒に食べる。
――心中だなんて、バカのすることだよ。
俺たちはこれから、何十年かけて、この『普通』を飽きるまで繰り返していくんだから。
それが、俺たちの選んだたったひとつの正解だ。

