握りしめた火打ち石が、俺の心臓とひとつになったかのように激しく拍動した。
宵を飲み込もうとする闇の渦の中で、俺は必死にその背中にしがみついた。
腕の中にある宵の輪郭は、すでに半透明に透け、あちら側の世界へ溶けて落ちようとしている。夜屑の王が、あいつを「正解の犠牲」として取り込もうとしているのが、直感的に分かった。
「……離さない。絶対に、二度と離さないよ……」
宵の身体は、雪の像のように冷たく震えていた。
俺はポケットから取り出した火打ち石を、宵の胸元――その心臓の真上へと、力いっぱい押し当てた。
触れた瞬間、オレンジ色だった『灯』が、パリンと音を立てて砕け散るようにさらに発光して、鮮やかな「赤」へと変色した。
血のような、炎のような、その生命の色が、宵の胸に吸い込まれていく。
血管をなぞるように宵の全身を駆け巡り、灰色になった身体に、生きた人間としての色彩を書き込んだ。
――ドクッ、ドクッ。
重なり合った胸の奥から、ひとつの鼓動が聞こえる。俺と宵の心音が、完全に同期した。
宵の顔から苦しそうな表情が消え、ゆっくりと驚愕へと変わり、目が見開かれた。
「……っ、なおや……!? これ、なおやの……」
「そうだよ。俺の命だよ。……半分じゃない、全部」
俺は宵の顔を覗き込み、涙でぐちゃぐちゃの顔で笑って見せた。
「宵。……お前が忘れたかった痛みも、ひとりぼっちだった寂しさも。……全部、俺の影に混ぜてよ」
宵は瞠目し、言葉を失ったまま、その瞳から大粒の涙がはらはらと溢れ落ちた。
「……いいの? ぼくの……きれいじゃ、ないところも、全部……」
「いいに決まってる。俺はお前の『錨』なんだから。……二人でひとつだ。もう、誰にも渡さない」
影が、ひとつに溶け合った。
俺と宵の境界線が消え、ドロドロの闇は、白銀と橙色の光に包まれて穏やかな熱へと変わっていく。
夜屑は、もう叫ばなかった。
俺たちの影に抱きしめられて、ただ静かに崩れていく。
『……奪いたかったのでは、ない。……ただ、思い出されたかっただけ……』
最後に聞こえたその声は、泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。
王だった影は、色のない、透き通った花びらとなって一本の桜の枝へと吸い込まれていく。
やがて、辺りは静まり返った。
けれど、世界はまだモノクロームのままだ。
止まった人々も、灰色の空も、まるで時間が死んでしまったかのように動かない。
俺は、腕の中で力が抜けた宵を、地面に膝をついて支えた。
「……宵? 大丈夫?」
「……ん……。なおや……」
宵がゆっくりと目を開ける。その琥珀色の瞳には、もう怯えの色はなかった。
宵は震える手で俺の頬に触れ、消えそうなほど甘く、悪戯っぽく微笑んだ。
「……なおや。約束……覚えてる?」
「……。忘れるわけない」
俺は、宵の頬を両手で包み込んだ。指先から宵の生きた体温が伝わる。
ずっと昔から、この熱だけが、俺の生きている全てだった。
追いかけてきてくれて、よかった。
生きていてくれて、よかった。
これからは、二人で生きていきたい。
顔を近づける。
唇が触れる数ミリ手前で、俺は一度動きを止めた。
前世の記憶を。
あの日、守れなかった後悔を。
すべて愛おしい思い出として、ここに置いていくために。
「……綾空」
かつての名前を呼ぶ。
そして、俺は真っ直ぐに目の前の瞳を見つめて言い直した。
「――ううん。宵。……愛してる」
その言葉が零れた瞬間、宵の琥珀色の瞳が大きく揺れた。
静止したモノクロの世界。音のない静寂。
見つめ合うわずか数秒の間に、宵の瞳から大粒の涙が溢れ出し、俺の指先を濡らした。
宵の唇が、震えながら小さく揺らいだ。
「……っ、なお、や……!!」
次の瞬間、宵の身体が弾かれたように動いた。
俺の頬を包んでいた手が、後頭部へと回り、強引に引き寄せられる。
「ん、……っ!?」
重なったのは、驚くほど熱くて、そして狂おしいほどに必死な、宵の唇だった。
それは、予約をしていたような可愛らしい約束のキスじゃない。
数百年の孤独と、絶望的な別れと、気が遠くなるほどの再会への渇望。そのすべてを吐き出すような、ためらいがない、貪るような強い口づけ。
宵は、俺を離さないと誓うように何度も角度を変えて、深く執拗に俺の呼吸を奪った。
その必死な熱に当てられて、俺の脳裏から『前世の悲劇』が完全に消え飛んだ。
(ああ……、なんなんだよ、これ……)
俺の『はじめて』を奪う宵の腕に力がこもる。
俺を現世に繋ぎ止めているのは、この痛いほど求めてくる宵の、重すぎる愛なのだと――その時、魂が理解した。
その瞬間。
俺たちの背後に立つ一本桜が、震えるように大きく鳴った。
パシッ、パチパチッ……!
唇を重ねた場所から、際立つ『赤』が波紋のように一気に広がった。
それを合図に、凍りついていた枝から白銀の花が一斉に、咲き誇った。
桜を起点に、色を帯びた光が、白黒の世界を猛スピードで塗り替えていく。
灰色だった空に、夏の青が戻る。新緑が色付いて、止まっていた街の音が、一気に耳に響いてきた。
けれど。世界がどれほど鮮やかに蘇っても、俺の視界を埋め尽くしているのは、目の前の銀色だけだった。
「……は、……ぁ……」
ようやく唇を離した宵が、俺の首筋に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくる。
腰には、銀色の毛並みが美しいその尻尾が、きつく、きつく、俺を縛り付けていた。
「なおや、なおやぁ……。だい、すき……。絶対に……、もう、離さないから……っ!」
俺は熱くなった自分の唇を指でなぞり、それから観念したように笑って、宵の背中に腕を回した。
「……うん、分かったよ。俺のバカな神様」
俺たちは心中という名の正解を、愛という名の間違いで塗りつぶした。
白銀の花吹雪が舞う中で。
俺は、俺だけの宵を、二度と離さないと誓って抱きしめ返した。

