俺の同居人は普通じゃない


 見上げる一本桜が、やけに遠く感じられた。
 風もなく、音もない。周囲はいつの間にか、古い白黒映画の中に入り込んだように、色彩が失われていた。
 
 さっきまで隣にいた宵の背中も、どこか霞んで見える。
 足元がやたら重い。まるで身体中に重石を仕込まれているかのように、一歩が踏み出せないのだ。
 
 ふと足元に視線を落とした。
 影の表面が揺れている。
 液体のようにじわじわと広がる影の中に、テレビの砂嵐のようなものが映った。ザザッ、とそれが映像に切り替わる。
 そこに見覚えのある顔を見つけて、俺は思わず目を凝らした。

 映し出されていたのは、真っ赤な血に染まった、白銀の毛並みだ。
 崩れ落ち、絶望に泣き叫ぶ、宵の――綾空の歪んだ顔。
 全身を震わせながら、何度も俺の名前を呼ぶあいつの姿だった。
 
 息を呑んだ。冷や汗が出て、全身の鳥肌が止まらない。
 
(これは、()()()()の……俺の最期だ……)
 
 その時、俺の頭の中に直接響く声。
 
『知っているだろう? お前は、(つがい)を守れなかった』
 
 その声には、聞き覚えがある。紛れもない、俺自身の声で響いている。
 
『愛しているなら今度こそ守りなさい。……そのためには、お前が消えるしかない。それがお前たちの、最も美しくて正しい『結末』だったはずだ』
(宵を愛しているなら、俺が消えるのが……正解?)

「……そうだ。俺さえいなければ、綾空は神のままでいられた。俺なんかを追いかけて、あんなにボロボロになることもなかったんだ」

 懺悔のような言葉が、無意識に唇から零れた。
 その瞬間、足元に広がる影が、蛇のような速さで俺の足を掴んだ。
 
 氷のように冷たい。俺を、あの闇の底へ引きずり込もうとしているようだ。
 強く引っ張られ、体勢を崩して倒れそうになった、その時だった――。

 ドン、と胸元に、強い衝撃を感じた。
 宵が、力いっぱい突き飛ばしたのだ。

「……宵!?」

 俺が地面に倒れ込むのと入れ替わりに、宵が自ら、闇の中心へと踏み出していく。
 
「――っ!!」

 倒れたまま見上げたその光景は、俺が最も後悔しているあの夜と……完全に、立場が反転していた。

 今度は、宵が俺を庇っているんだ。

 闇が泥のように宵の身体に纏わりついて、その神々しい輝きを飲み込もうとしていた。眩しかった白銀の神は灰色に汚れて、宵の輪郭が透け始めていた。

「……ゔ、……あ……っ」

 苦しそうに喉を鳴らしながら、宵が俺を振り返る。
 その顔は、今にも壊れてしまいそうなほど痛々しいのに……あの日、死にゆく俺を見送った時よりずっと、穏やかで、安心したような表情をしていた。

「なおや……。なおや、今度こそ、逃げて……」
「な、何を……」
 掠れた声が、空気に紛れる。

「ぼくを忘れて……いつもの『普通』に戻って……」

 その一人で終わらせようとする慈愛に満ちたような顔を見た瞬間に、俺の胸の奥に、自分のものではない絶望が流れ込んできた。

(……そうだ。あの日、残された側のあいつは――こんな凍りつくような気持ちだったんだ)

 名前を呼んでも返事がない世界で。
 目の前で唯一の光が消えて……。

 たった一人で生き残される、生きる意味を失うほどの絶望。
 
 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 間違っている!
 そんなもの、ちっとも美しくなんてない!
 優しさなんかじゃない!
 こんなの、何も『正解』なんかじゃない……!!

『ほらね。これが、お前たちが何度も選んで、愛してきた正しい終わり方だ』

 夜屑の王が、俺の声で満足げに囁く。

 足元に影が絡みつく。けれど、俺は這いつくばったまま顔を上げた。震える膝に力を込めて、泥の影を蹴って立ち上がる。

「嫌だ! ふざけんな……!!」

 叫んだ声が、自分でも驚くほど熱かった。

「勝手にっ……、勝手に一人で終わらせようとしてんじゃねーよ、バカ狐……!!」

 突き飛ばされた俺の手を、今度は俺が伸ばす番だ。
 宵を飲み込もうとしている闇の渦に向かって、俺は自ら飛び込んだ。

「それのどこが『守る』なんだよ! そんなの、そんなのっ、ただの自己満足だよ!!」
 
 叫んだ瞬間、勝手に涙が溢れた。
 止まらない涙を落としながら、宵の身体を背後から、潰れてしまいそうなほど強く抱きしめる。宵の体は驚くほど冷たくて、けれど俺の胸は、爆発しそうなほど熱かった。

「……なおや……どうして、いかないでって、言ったのに……」

 宵の弱々しい声を、俺の体温で温める。

(俺が欲しいのは、救われた未来なんかじゃない……!)

 ポケットの火打ち石が、限界を超えて発光し、俺の全身をオレンジ色の()で包み込んでいく。

(……お前が隣にいる、今日なんだよ!)
 
 視界が黒く染まり、闇に沈みながら、俺は宵の名前を呼んでいた。
 その呼び声に応えるように、ポケットの火打ち石が、再び心臓と同じ速さで熱を帯び始めた。