「宵、こっちおいで。……練習だ」
大学へ向かう直前、靴を履き替えた俺は、玄関前で宵を呼び止めた。
不思議そうな顔で近づいてきた宵の身体を、俺は迷わず抱き寄せる。背中に腕を回し、逃がさないようにぎゅうぎゅうと少し強めに力を込めた。
ついでに、と自分に言い訳をしながら、宵の白い額にそっと唇を落とす。
「……ん、なおや?」
宵の身体がふわっと熱を帯び、銀色の尻尾がするんと現れて俺の腰に絡みついた。
「……ほら、これはあれだよ。修行。巫として必要なやつだからね!」
「修行? ぎゅーってすることが?」
「そう! 安定にも必要なんだよ。……その……とにかく重要なやつなの、これは!」
必死で理屈をこねる俺の胸元で、宵がクスクスと、心地よさそうに笑った。
「そっかぁ。巫の義務なら仕方ないね。……じゃあ、もっと必要だね。もっともっと、ぼくを捕まえていて?」
宵はそう言って、確信犯的な笑みを浮かべながら、俺の首筋に鼻先を擦り寄せてきた。
例の甘い香りがぶわりと一気に広がり、俺の理性をじりじりと削っていく。
「……っ、分かったから! ほら、行くぞ」
顔が沸騰しそうなのを隠すように、俺は宵の手を強く握った。
玄関の扉を開けると、そこには眩しいばかりの夏の日差しが降り注いでいた。
庭の緑が目に痛いほど鮮やかで、どこかで鳥の声が聞こえ、空も晴れ渡って青い。
あまりにもありふれた、そして愛おしくてたまらない、俺たちの朝。
――まさか。
この眩しい色彩が、あんなに呆気なく奪われるなんて。
この時の俺は、微塵も思っていなかったんだ。
宵と並んでいつもの通学路を歩いていると、ふと、おかしな違和感に足が止まった。
……さっきまでうるさいほどに響いていたセミの声が、一瞬で止んでいる。
「……ねぇ、宵。急、静かすぎない?」
問いかけても、世界は何の反応も返ってこなかった。
すぐ隣を歩いていたサラリーマンの口は動いているのに、そこにあるはずの「声」が聞こえない。
いや、それだけじゃない。……何かが、違う。
「……来たね」
短く答える宵を見ると、その瞳はすでに綾空のように鋭く研ぎ澄まされ、周囲を威圧するような強烈な神気を放っていた。
次の瞬間、俺の感じていた違和感は「恐怖」へと形を変えた。
行き交う人々が、動いたままの姿勢で『静止』しているのだ。表情はあるのに、瞬き一つしない。
人だけじゃない。路地裏へ駆け込もうとしていた猫も、空を横切ろうとしていた椋鳥でさえも、見えない糸で吊るされたかのように空中で静止している。
そして。
背景の色が、端からじりじりと剥がれ落ちていく。鮮やかだった空が濁った灰色になり、建物が無機質な鉛色へ。
まるでインクが乾いていくように、この世界から『色』が吸い取られていく。
(うわっ……なにこれ! 今までの夜屑と遭遇した時と、規模が違うじゃん……っ!)
あまりの光景に、俺は思わず宵の腕を掴んだ。震える喉から、掠れた声が漏れる。
「……なあ、嘘だよね? みんな、止まってる……。音も消えた……」
音も、色も、他人の体温もない。
この完璧なモノクロームの世界に、動いてるのは俺と宵の二人だけ。
俺たちが「心中」を繰り返してきた、あの暗い記憶の底へ、無理やり引きずり戻されているような錯覚に陥った。
気づかないうちに、俺の身体はガタガタと震えていた。
前世の最期、光の中に溶けていったあの時の「寒さ」が、肌にこびりついて離れない。
その震えに気づいたのだろう。宵が俺の右手をそっと取り、自分の両手で包み込んだ。
指を一本ずつ、大切なものを確かめるように深く絡められる。いつもの甘えるような仕草とは違う、俺という存在をここに繋ぎ止めておこうとする、強くて確かな力。
宵はさらに距離を詰め、俺の逃げ場を塞ぐように、その細い身体をぴったりと密着させてきた。
「なおや、ぼくを見て」
「……宵?」
名を呼んで顔を上げると、そこには不敵に、けれど最高に愛おしそうに目を細める宵がいた。
周囲の景色が色を失っていく中で、宵の琥珀色の瞳と、さらりと流れる銀髪だけが、鮮やかな光を放っている。
「大丈夫だよ。世界が消えても、ぼくが尚弥を繋いでるから」
宵は少し冗談ぽく笑って、とんでもなく甘い言葉を囁いた。
かつての綾空のような余裕と、今の宵のあざとさが混ざり合った、逃げ場のない誘惑。
俺は、暑くなりそうな顔を隠すように、思わず苦笑を漏らした。
「……今それ言う? 怖いからやめて」
突き放すような口調になったが、あれほど激しかった身体の震えが、すとんと収まったのが自分でも分かった。
宵の手から伝わってくる熱が、俺の中に溜まっていたモノクロの恐怖を、じわじわと溶かしていく。
「……本当に、バカだよな。お前も、俺も」
俺は繋いでいない方の手で、宵の銀色の耳をそっと撫でた。
ふわふわとした質感。その奥にある確かな体温。
――負けるわけにはいかない。
こんなに温かくて、こんなに俺を求めてくれる存在を、またあの寂しい色のない場所へ返すなんて。
「行こう、宵。……俺の側から離れちゃダメだよ」
「うん。ぜったい」
宵の尻尾が、俺の腰に吸い付くように巻き付いた。
俺たちは、色彩を失った並木道を、一本桜へ向かって歩き出す。
その足元には、重なり合った二人の影だけが真っ黒に、濃く、ひとつに溶け合っていた。
ふと、足元に違和感を覚えた。
歩いているだけなのに、まるで泥沼の中を進んでいるかのように足が重い。一歩踏み出すたびに、アスファルトに靴の裏が吸い付いて離れないような感覚だ。
「……っ、ねえ、宵! 俺の影、なんかおかしい!」
視線を落として、息を呑んだ。
夕日で伸びている俺の影が、身体の動きとは無関係に、どろどろと形を変えていた。
(うわっ、俺の影がっ!)
インクをこぼしたような影の端から、無数の細かい指が這い出し、俺自身の影を内から破るようにして、黒く染め上げていく。
(……あ、これ、俺……?)
そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
(これは……俺の中から溢れてるものなんだ)
それは、俺がずっと見ないふりをしてきた『灯弥』の死の恐怖。そして、宵を独りにしたことへの後悔そのものだった。
「……見るな、尚弥」
宵の声が、いつもより低く響いた。
次の瞬間、視界が銀色の髪で覆われる。宵が正面から俺を強く抱き寄せて、俺の視線を自分の胸元へと閉じ込めた。
「見なくていい、尚弥。……ぼくが先に触るから。尚弥には、触らせたくない」
宵が俺の背中に腕を回し、身体ごと影を押しつぶすように抱きしめた。
不思議なことに、あんなに重苦しかった足元の感覚が、宵の体温が重なった瞬間に軽くなった。
影と影が混ざり合って、宵の白銀の気配が、俺の闇のような影を落ち着かせていく。
「……。お前、本当に過保護だね」
「当たり前だよ。ぼくの『錨』をあんなものに汚されたくない!」
宵はそう言って不敵に笑うと、絡めた指にさらに力を込めた。
顔を上げると、色のない景色の向こうに、一本の巨大な樹が立っていた。
すべての色彩が奪われたモノクロームの世界で、そこだけが、光を放っているかのように白く浮かび上がっている。
――あの日、全てが始まって、終わった白い一本桜だ。
風もないのに、折れそうな枝がゆらゆらと揺れている。
いよいよ、逃げ場がどこにもなくなった。けれど、宵の手を離す理由も、俺の中にはもう残っていなかった。
「……なおや」
桜の根元に、広がる闇を前にして、宵がふいに足を止めた。
彼は繋いでいた手を一度離すと、俺と向き合うようにして立ち、琥珀色の瞳でじっと俺を見つめてきた。
「なに? 宵……怖いの?」
「ううん。……予約しておきたくて」
宵がクスクスと、悪戯っぽく笑う。
記憶が戻り、少しだけ大人びたその笑みが、モノクロの世界で残酷なほど綺麗に見えた。
「よやく……?」
「これが終わったら……」
宵が一歩、俺との距離を詰める。
鼻先が触れそうなほどの距離まで近づいて、宵の銀髪が、俺の頬を優しく撫でた。
「この戦いが終わったら……口にキスして」
「――っ!?」
「尚弥の大事な『はじめて』、ぼくがもらう」
俺の心臓が、大きな音を立てた。
こんな時に、こんな場所で――!! ……なんてタチの悪い神様なの!?
一瞬で顔に熱が集まったのがわかった。
けれど、不安そうに揺れる宵の指先が、俺の服の裾をぎゅっと掴んでいるのを見て、俺の覚悟は決まった。
「……っ、そんなの! 勝っても勝たなくてもしてやるから!!」
俺は宵の頬を両手で挟み込んで、まっすぐにその瞳を捉えた。
「予約なんて……。終わったら何度でもしてやるから。……だから、絶対俺の隣に戻ってくること!! わかった?」
宵は一瞬驚いたように目を見開いたあと――。
今まで見たこともないほど不敵に、そして幸せそうに、綺麗な顔で笑った。
「……うん。やくそく、なおや」
宵が翻って、俺の影を喰らおうとする夜屑の渦中へと、迷いなく飛び込んだ。
その後ろ姿は、俺を置いていったあの日の『神獣』ではなく、俺とのキスと帰還の約束を守るために戦う、俺だけの『番』の背中だった。
俺たちは、終わりでも始まりでもない、その先へ行く。
俺の手の中では、火打ち石が今日一番の熱を持って、激しく拍動していた。

