膝の上に乗せられた、宵の白銀の頭。宵は微睡の中にいるのか、俺の膝に顔を埋めたまま、時折思い出したようにシーツを掴む指先に力を込めていた。
その呼吸は少しだけ浅く、不安定だ。
――ジンジン、と何もしていないのに、ズボンのポケットにある火打ち石が、俺の心臓の鼓動に合わせて熱を帯びている。
まるで、俺の焦りを煽っているみたいだ。
(来る気がする。……もう、すぐそこまで)
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居間の柱時計の規則的な音が、今はカウントダウンのように聞こえていた。
「……んん……っ、なおや」
寝言で名を呼ばれ、すぐに宵の耳を指先でなぞる。俺は宵が不安そうに身じろぎをするたび、耳の付け根を、呪いを解くように何度も優しく揉みほぐした。指先から俺の『灯』が流れ込んでいくのが、自分でもわかる。
(……もっと、宵を安定させてやりたいな)
「……尚弥。そろそろ、話しておかないといけないことがあるわ」
背後で、障子の開く音がした。
振り返ると、おばあちゃんが古い包みを抱えて、真っ直ぐに俺たちを見つめていた。
おばあちゃんはちゃぶ台の上に幾つかの古い包みを置き、その中から、煤けた布に包まれたものを取り出した。中から現れたのは、古い絵巻だ。
それを広げると、中央にはあの「白い一本桜」が描かれていた。けれど、その周囲は真っ黒の墨で塗られたように色褪せ、桜だけが異様に白く浮かび上がっている。
「……もう、来るわね。夜屑の王……」
「夜屑の王……?」
「そうよ、人からは『あやかし』なんて呼ばれることもあるけれど……それは神でも怪物でもないのよ」
その言葉がおばあちゃんの口から出た瞬間、宵が何かに反応したかのようにのっそりと起き上がり、俺にぴったりと寄り添った。
「夜屑はね。……あなたたちが、過去に置いてきてしまった『絶望』そのものなのよ」
おばあちゃんは、色褪せた絵巻の真っ黒な部分を指でなぞった。
「二人はこれまで、何度も巡り合っては、お互いを守るために世界を壊して、死んできた。……そのたびに流した涙や、一人にされた後悔。それが積もり積もって形をなしたのが、夜屑の王よ。あの子は、あなたたちを『あの日の悲劇』へ連れ戻そうとしているのよ」
連れ戻す――。
その言葉に、俺の腕の中で宵がぴくりと跳ねた。宵は俺のシャツの裾を、爪が食い込むほどの力でぎゅっと握りしめる。
「……ぼく、やだ。もう、なおやを失くしたくない……っ」
「宵……」
宵の身体が、微かに震え始めている。
力の制御が乱れているのか、部屋の空気がパチパチと静電気を帯びたように震え、宵の影が、畳の上で不気味に形を変えた。
「いい、尚弥。力でねじ伏せようとしちゃだめよ。それではまた、過去と同じ結末を繰り返すだけ」
おばあちゃんが、俺と宵を真っ直ぐに見据える。
「勝ち方は、一つだけ。……『上書き』するのよ。夜屑が作る『色のない絶望』を、今のあなたたちが分け合う『愛の色彩』で、全部塗り替えてしまいなさい」
「塗り替える……?」
「そう。宵くんを一人で戦わせちゃだめ。あなたが隣にいて、夜屑の影を――その絶望を丸ごと抱きしめてやるの。あなたの『灯』で、夜を朝に変えるのよ」
「影を抱きしめる……。俺にできるのかな」
「なおや、ぼくが全部受け止めるから」
抱きしめる……巫の力……。
俺はおばあちゃんの言葉を反芻するように、宵の背中に腕を回した。
「……練習しよう、宵。こっち向いて」
俺は宵の身体を自分の方へ引き寄せ、後ろから包み込むように強く抱きしめた。
逃がさない。絶望なんかに飲み込ませない。
そんな意志を込めて、宵の身体に、火打ち石のように熱くなった手のひらを押し当てる。
「……んっ……なおや……っ」
宵の喉から、甘く、切ない吐息が漏れた。
俺の熱が流れ込むたびに、荒れていた宵の気配がしっとりと穏やかになっていく。形を変えていた宵の影も、俺の影と重なり合って、静かにひとつに溶け合った。
「あったかいな……。なおやが、ぼくの中にいっぱい入ってくる……」
「ちょっと!? 練習なんだから、変な言い方しないでよ!! 集中してんのに……!」
「だって……」
宵は潤んだ瞳で、とろんとした目つきをして俺を見上げた。
「……でも、これならいける気がする。明日、お前がどこに行こうとしても、俺がこうして捕まえてやるから」
耳元で囁くと、宵は嬉しそうに、けれど少しだけ色っぽい吐息を吐きながら、俺の腕に銀色の尻尾をスルスルと絡ませてきた。
「うん……。なおやの錨。ぜったいに、離さないでね」
おばあちゃんは、そんな俺たちの様子を見て、「ふふっ」と満足げに立ち上がった。
「あらあら、教える必要もなかったみたいねぇ。語り部の出番は、これでおしまいよ。……さてと、私は明日の朝ご飯の準備でもしてくるわ。二人はしっかり『予行演習』しておきなさいね」
「ちょっと! 演習とか言わないで、おばあちゃん!」
照れ隠しの俺の言葉を背中で聞き流し、おばあちゃんは鼻歌混じりに居間を出て行った。
静かになった部屋で、俺は腕の中にある温もりを、もう一度、壊れるほど強く抱きしめた。
守るって、立ちはだかることじゃない。
一緒に立ち、混ざり合い、同じ色に染まることなんだ。
ふと窓の外を見ると、月明かりが不自然に暗く沈んでいた。
風が止み、この世界から少しずつ音が失われていくようだ。
――きっと、いよいよだ。
俺たちが「心中」という名の正解を捨て、新しい明日を選び取るための、長い夜が始まろうとしていた。

